きりんの脱臼
DiaryINDEX|past|will
[きりん脱臼商会BBS][きりんむすび][短詩型のページ μ][キメラ・キマイラ]
ここは、なかはられいこ(川柳作家)と村上きわみ(歌人)の
コラボレーションサイトです。(ゲスト有り)
BBSもあります。ご意見・ご感想など気軽にお寄せくださいね。
メールマガジン「きりんむすび」もどうぞよろしく。
蜂蜜のきんいろ(朝のおわかれの儀式のための)きんいろの蜜 村上きわみ
かりかりに焼いた薄めのトーストと、 大き目のマグカップになみなみと注がれるコーヒー。 それだけあれば朝はなにも要らない。
舌を妬くほど熱いコーヒーをひとくち飲む。 バターナイフとトーストを手にとって、 室温でほどよい柔らかさになったバターを、 焼きたてのトーストの上に薄くひきのばす。
生まれたばかりのきんいろの光が窓から射し込んで、 ガラスの灰皿のふちでくるくる踊りながらとどまっている。
ねえ、 もしも、あのとき。
……いや、よそう。 世界がたったひとつっきりだなんて、 この世界以外の世界が、どこにも存在しないなんて、 ぼくにはどうしても納得できないから、さ。 たとえば、このあとぼくは、 犬を連れて公園に行くか、 犬の散歩はあとまわしにして先に図書館に行くか、 いまだに決めかねている。
こっちの世界で公園を選んだぼくの他に、 図書館を選んだぼくもどこかに存在していたってぜんぜん不思議じゃない。 そして公園を選んだぼくと図書館を選んだぼくとは、 あまり大差ない一日を過ごすか、 あるいは決定的にちがう一日を過ごす。 結果的におおきな差異が生まれようが生まれなかろうが、 おたがいに知るすべはなくて、 「それ」を受け入れながら暮らしてゆくんだ。
結局、この世界のぼくたちはこの世界のぼくたちでしかありえないんだから。 だから、この「さよなら」をとびっきりだいじにするよ。 いまごろどこかで「こんにちは」を言い合ってるかもしれないふたりのためにも。
読み終わった新聞をたたみ、 膝のパンくずをはたき、食器をシンクに運ぶ。 とにかく外はすばらしくいい天気だ。 ぼくは公園に行ってもいいし、図書館に行ってもいい。
あと2ミリ下げれば冬は完璧 なかはられいこ
波の音しているけれどぼくじゃない なかはられいこ
誕生日だからって、みんながみんな、ケーキに刺さったろうそくを笑いながら 吹き消しているとは限らないじゃないか。そう怒るなよ。
残業でへとへとになって帰宅したイシザキ君は、コンビニであたためてもらっ たからあげ弁当の、ぴったりはりついたラップを苦労してはがしながら「ああ、 今日は俺の誕生日だったな」と、なんの感慨もなく思っているかもしれない。 源氏名リリカ(本名高山敏子)は、クレンジング・オイルをコットンに含ませ て念入りにマスカラを落としながら、冷蔵庫をのぞきこみ、木綿豆腐の賞味期 限をたしかめているかもしれない。
つまり、だ。
ぼくらは、たとえばエルビス・プレスリーがマイクスタンドを斜めに傾けなが ら、やけに気持ち良さそうに歌っていた頃のようには、無邪気に泣いたり笑っ たりできなくなっているらしいんだ。 そのこと、君、気がついてた?
それはともかく、今日は君の誕生日だ。 すまないけど、ぼくからあげられるものは何もないよ。いや、比喩でもなんで もなくて、ほんとにないんだ。だって君はもう、とっくにこの世界に見切りを つけて先にいってしまったし、ぼくはぼくで、「ありえたかもしれない人生」 という呪いに年中悩まされている。 エルビスのように踊れたかもしれないぼく。 山奥の小さな村役場に勤めて、戸籍係の女の子と恋をしたかもしれないぼく。 放浪の果てにマチュピチュの頂にたどりついたぼく。 なんてぐあいにさ。
だけどね。
それでも君が生まれてきてくれたこと、一瞬でもこの世界におりたって、この ぼくを、困らせたり笑わせたりしてくれたことに感謝してる。ほんとだよ。あ れはなんというか、あるはずのない五番目の季節のようだった。 そうだな。この次はぼくら双子になるってのどうかな。そうすれば、毎年一緒 に誕生日を祝える。ろうそくに火をつけてケーキを燃やそう。それはそれは完 璧な誕生日になるよ。ぼうぼうと燃えあがるケーキを前にして、君は王妃のよ うに顎をあげ、威厳にみちた声で言うんだ。 「おめでとう、あたしたち!」
蜂蜜のきんいろ(朝のおわかれの儀式のための)きんいろの蜜 村上きわみ
|