私、体外離脱することがよくある。
こんなことを書くと、またまた変人扱いされるかもしれないけど、本当のことだからどう思われたっていいのだ。私の身に起きることだから、これは決して宗教的、またはカルト的というわけはない。
初めての体験は、二年前、書き物で徹夜をしたとき。 ある日の未明、パソの前で突っ伏して寝てしまった。 そのとき、その姿を左後ろから見ている私(幽体)がいた。 「あれま、祐子ったら寝ちゃダメじゃない……」と思った瞬間、その幽体が私の身体(本体)にすっと戻った。 同時に突っ伏している私の上体が机にのめりこむぐらいに重く感じ、その後、めきめきと全身に神経が戻り、全身が覚醒したかのようにぱきっと目が覚めた。
二回目も、徹夜したとき。 ベッドで推敲をしようと思って横になったら、そのまま寝てしまった。 ベッド脇に立って、寝ている私を見下ろしている私。 「あっちゃー、寝てしまってるわ。朝までもう時間が無いのに……」と思った瞬間、寝ている私に重なるように私が入ってきた。 全身脱力状態の自覚があったけど、直後にぱきっ! と目覚めた。
寝室の中空を、寝た状態でゆ〜らゆ〜らブランコに揺られるように飛んでいたこともあった。肩が引っ張られたり、足が引っ張られたり。 「うわ〜ひっぱられてる〜、何だこの感覚? なんか変!」と思った瞬間、脚のほうから本体に戻っていった。以降、熟睡。
また、主人の魂が体外離脱して帰宅したのに気づいたこともある。 去年の年末、主人が会社のクリスマスパーティで、会場近くのホテルで宿泊した。そこで寝ている主人の魂が体外離脱して、自宅に帰宅した。 寝ている私に「ただいま〜」といって、寝室でスーツからパジャマに着替えて、リビングにビールを飲みに行った。あれは絶対夢でも現実でもない。
体外離脱した自分の霊だけではなく、主人のものまで見えたということは、潜在意識内の夢状態と現実の間の世界が見えるようになったのであろう。
* * * * * * *
他のケース。 だれでも、ときどきボーっとするときがあるでしょう? 何にも考えていない、無意識状態。 そういう時って、霊魂が私の肉体から抜けてどこかに行ってるんじゃないかなと思うことがある。 例えば。 以前から、台所の入り口から、ときどきすっと出て行く「何か」を感じたことがある。この家の霊なのかな? とは思っていたんだけど、不思議と、ぞっとするような怖さは全く感じない。
先日、私はボーっとしながら、洗い物をしていた。なーにも考えずに。 するとまた、台所から「何か」が出て行くのを感じた。 家には私一人しかいない。
私はそのときふと思った。今出て行ったのは、自分の魂なんじゃないかと。「あーあ、台所仕事ヤダ。リビングでテレビでも見ていたーい」という思念が、そのまま魂となって私の身体から出て行ったんじゃないのかな・・・と。
私ったら、起きているときにも体外離脱してるってこと?
今から思えば、「何か」が台所から出て行ったときは、毎回そう思ってた時だったよ。よっぽど私、台所仕事、いやなんだなぁ・・・と思ったら何だか笑えてきた。
日常によくある「心ここにあらず」的、「何だかいっちゃってる」的状況というのも、ごく普通に霊魂がぶっ飛んだ状態なのかもしれない。私、想像力たくましから、思念とか霊魂がどこかに一人歩きしているのだろう。
創作のときは、逆にそういう霊魂が私に宿ってなにがしかを書かせているのだと思う。きっと私は自分の霊魂とうまく付き合っているほうなのだろう。 基本的に、起きているときには、私の意識は本体のほうにある。でも、その私の本体からいとも簡単に出入りする霊魂レベルの「何か」がいる。
左脳的に現実社会でめまぐるしく生きている人は、「理性」の強い磁力で、常に肉体に霊魂を引き寄せている状態なのだろう。 だから、きっと私みたいになることはないのだろうな。
ははは。つまり私は、現実的な「理性」が欠如しているということかもしれないなぁ・・・。
再び、佐世保の小6カッターナイフ殺人事件について。
殺人の動機は、ネット上のトラブル。 殺人のイメージは「バトルロワイアル」。
本人も二次創作で「バトルロワイアル」をモデルにした自作小説を書いていたそうだ。登場人物に被害者の女の子の名前もあったという。
最近、小説家を希望している子供・青少年がたくさんいるらしい。 スポーツ、恋愛など学園青春物小説とか、二次創作といわれる小説、つまり人気のある漫画やアニメの登場人物を借りてきて自分のオリジナル小説を創りあげて書く。ひらたく言うと、「パクリ」のこと。
今回、小説のアイデアの出所はさほど問題にしないことにする。 ただ、創作をしているときの精神状態に注目しないといけない。
私自身、たいした文章量も生み出していないけれど、日頃、地道に創作活動を続けている。日常をからめたフィクションも書く。現実がベースではあるけど、ときどき、どこからどこまでが虚構なのかわからなくなることがある。
ただの記憶というのは漠然としたものであるから、いつのまにか薄れて忘れ去ってしまう。ところが、いったん文章にして書き留めておくと、そのシーンがいつでも鮮やかに蘇るようになる。
それが日記であれ、フィクションであれ。鮮明にイメージが蘇るものだから、フィクションも現実にあったことのように思えてくる。
私の場合、短編であれば、頭の中だけのでっち上げ話としてささっと書いてしまうことが多いけど、長編では、執筆期間も長期にわたるし、そのうち登場人物が自分の分身のように完全に独立してしまう。
話の中でイメージが自由奔放に動き始めたら、そこで現実離れした新しい世界が確立する。人間の想像力というのは無限大であるから、例えばそこで誰かと激しい恋愛関係に陥ることも可能だし、想像を絶する残虐な殺人も可能である。
たまに根を詰めて読んだり書いたりすると、そのイメージの虚構の世界から現実の世界へすぐに戻ってこられないことがある。 創作活動の怖さでもある。
実際、私はごく普通の主婦であるから、ごはんの催促コールや洗濯物の山、空っぽの冷蔵庫を前に、いつも現実社会のほうで途方に暮れてしまうのだ。 小学生ならばどうか。子供のイメージ力はあなどれない。 大人よりはるかに発想力、想像力がある。 「バトルロワイアル」のように、同世代がモデルの殺戮小説に熱中したら、どうなることだろう。ましてやいまの子供たちはゲーム世代で、バーチャルな想像の世界で生きている。
現実との境目を見失うことなどいとも簡単であろう。
加害者の女の子は初めから殺意を持って、後ろから首を切ったという。 傷の深さは10cmにも及ぶといい、おふざけの真似事で怜美ちゃんを死に至らしめてしまったわけではない。 そのとき、女の子は現実とは異次元の、虚構の世界の中で息づいて、完全に自分を見失っていたのだろうな・・・と思い知らされ、私は改めて胸を痛めた。
若いうちから創作に携わるのならば、若い柔軟な頭で、想像力だけの世界と現実との切り替えをうまくコントロールできるようにしないといけない。
それ以前に、子供たちには、残虐な映画やゲーム、猥褻画像など、幼いうちから有害な情報を決して目に触れることのないよう、今後大人は社会を挙げて十二分に配慮しなければならないだろう。
長崎の小学校内でおぞましい殺人事件がおきてしまった。
<うぜークラス つーか私のいるクラスうざってー>。 <下品な愚民や> <喧嘩(けんか)売ってきて買ったら「ごめん」とか言って謝るヘタレ(根性なし)や> <高慢でジコマン(自己満足)なデブス(デブでブス)や> (HPで書いている二次創作)<私は……殺し合い、なんて、人を奪うことは許されないので殺し合いなんてしません(何きれいごと吐いてるんだ)>
上記は小6の加害者の女の子がHP上で書いていた言葉の一部。 毎日新聞のニュースで紹介されていたので、引用した。
世の中の人間全てにいらついているようなセリフ、今時の小学校6年生はこのように日常的に表現してしまうのだろうか。・・・いや普通はしないだろう。
この子はストレスを抱えている。 そのストレスが極限にきたときに、何かが狂ってしまった。
この事件では、「命の大切さ」云々よりも、小学生が親友に対して殺意を抱くまでの動機というか子供たちの背景が注目を浴びそうだ。
事件を起こすような子は、親の目、先生の目からみて、全く問題の無い子のように見えるという。この事件でも「普通の家庭で育ったごく普通の女の子」という報道があった。
大人目に見ていい子に振舞うことができる子供というのは、幼少期の反抗期に十分な反抗をして、感情の発散をしてこなかった子達なのではないかと思う。
そういうケースは、大概、親が異常に厳しすぎて、反抗的な態度をとることすら許されない家庭環境だったことが多い。大概、無理していいこ風に振舞うものだ。
幼児期にまわりの人間関係を通していろんな感情が芽生えはじめ、発育に伴い様々な感情の分化が見られる。2、3歳頃の反抗期を通して、その感情の処理方法、発散方法をひとりで学ぶものなのだ。
その反抗期の芽を親が摘んでしまったら、地震のエネルギーが極限まで蓄積するかのように、やがて大きくなってから取り返しのつかない形で心の歪みが爆発する。今回は殺傷という形でカミングアウトした。
自分たちのHPの内容も興味深い。 人前でいいこ風に振舞っていても、HPではついつい本音、本性が出てしまう。大人なら分別を持って、書き控えたりはするけど、小学生は明らかに子供なのだ。感情の赴くまま、なんでもかんでもストレートに吐露していたに違いない。潜在的に抱えていたストレスを全て文字にしたりするのだろう。
小学校の高学年にもなると、かなり的確に自分の内面を表現できるものだ。できるゆえ、冒頭の書き込みを目にして、私はひどく胸が傷む思いをした。あれは、心の上っ面を書いた言葉遊びなどではない。 (引用だけでわかりにくいかもしれないけど)
今後、いろんな情報が飛び交うだろう。ここで書いたことはほんの側面的な内容で、正しくないかもしれない。
私は少なからずも、デリケートな年齢の女の子がチャット上で何の良心の呵責を感じることもなく感情の分水嶺を越えほどまでの発言を書いてしまうような日本の世の中を憂いている。どうなってしまったのだ、ニッポン。
海外でわが子供たちはのびのび成長している。
小さい社会ながらも、それでも友達間でいやなことがあったり、けんかのひとつもして、悩んだりすることもあるようだ。これも成長に必要な試練なのである。
私は子供たちの心の窓口となって、時には耳を傾けて学校の様子や友達のことをきくよう心がけている。大概は自分で処理できるようなことではあるけれど、ケースによっては、微力ながらも大人が介入したほうがよいこともある。
この長崎の事件をきっかけに、もっともっと子供とコミュニケーションをとって、子供の心の中をすぐにでも見られる関係を作っておきたいと思った。
なんといったって、この事件は子供たちの年齢にとても近いのだ。 他人事では済まされないと思う。 子供と一緒にこの事件についてはしっかり話し合いたいなと思っている。
|