薔薇園コアラの秘密日記

2003年02月02日(日) 毛利さん・・・

 スペースシャトル・コロンビアが大変なことになった。

 今朝のおはよう日本(日本同時放送)で、毛利さんとの中継がつながっていた。
 昨日、毛利さんはNHKのテレビ開局50周年の記念特別番組ににこやかにゲスト出演されていたのだ。ついさっきのことである。この事故の悲報を聞いて、きっと徹夜で情報収集にあたっていたに違いない。  

 毛利さんと一緒に訓練をした仲間でもある7人の乗組員全員が亡くなり、コロンビアという4基のうちの1台のスペースシャトルも無くなってしまった。今後の宇宙計画にも影響が出る。
 
 毛利さんが乗組員のことに触れるときに、涙声になりそうになっていた。NASA関係者の喪失感はいかほどかと思う。毛利さんの涙袋がぼんぼんに腫れていた。こういうときになんと書いていいのだろう・・・。

 16年前、大学生のときにチャレンジャーの爆発事故を見た。確かコンパの帰りで、友人宅のテレビで「うわ、すごー」といいながら見た。
 まぁ、あれもショッキングな映像だったけど、今回は、毎日まんてんを楽しみに見ていたり、子供たちがスペースシャトルに興味を持つ年齢だったりと、白いロケットを以前より身近に感じていただけに、この爆発事故は、最近のニュースの中でもとりわけ重大なこととして自分の胸の中に刻み込まれた。
 関連の報道は何度も同じことを繰り返していても、逃さず見るようにしている。事故が起きてまだ数時間だから、情報が少なすぎてじれったい。

 爆発の原因は、今のところはっきりしないようだけど、それにしても何かにつけ、テロと結び付けて考えたがるアメリカ的な発想はどうにかならないだろうか?イラク攻撃へのきっかけを探しているだけじゃない。
 NASAが必死で爆発の原因を解明しようとしているのに、そういうことで国民感情をあおってほしくないものだ。それは別の次元のお話でしょうが・・・。



2003年01月31日(金) 1979年のポーランドの寒波

 
 最近、ポーランド語の授業で新聞記事を読んでいる。すごく難しいけど、興味深いコラムだったので、辞書と首っ丈ながらもまじめに予習をしていっている。
 

   * * * * * * * * 

 1979年1月2日についての新聞記事の要約。
 その冬の年末から年始にかけ、ポーランドは寒波に襲われ、4昼夜ふぶき続け、グダンスクでは−20℃。北ポーランド一帯では、発電所が損害をうけ、極寒の中、町の機能は完全に麻痺した。グダンスク港では、係留した船がしけの波をかぶり、甲板で氷の厚い層ができ、氷の重みで船は転覆寸前。汽車も車も雪に埋もれ立ち往生。ワルシャワも市内麻痺。
 これはポーランドだけではなく、地球規模で寒波が訪れ、英国で死者15名など、世界各国でも被害があった。
 マスコミは突然の寒波到来を国民あげて乗り切ろうと訴えたが、政府は自然災害の混沌の中、有無を言わさず、生産現場に平常通りの操業開始を要請した。
 
   * * * * * * * * 


 この年の1年後、1980年の夏、ポーランド政府の食料品値上げに反発した労働者がストを起こしたのをきっかけに、民主化運動に発展し、ワレサ委員長率いる独立自主労働組合の「連帯」が発足した。
 1990年に社会主義が崩壊してワレサが大統領に就任する、10年ほど前の話である。
 
 当時、ワレサはグダンスクのレーニン造船場の労働者。上の記事でも特にグダンスクは寒波の被害が酷かったと書かれている。しかし、政府は卓上の討議だけで、現場のことは何もわかってはいない。
 こういう小さな事件や出来事が積もり重なって、政府への不満が爆発し、ストへ、更には民主化改革へと発展していったのであろう。

 単細胞な私は辞書を繰りながら、20数年前のポーランドがいかに寒波の被害が大きかったか、という話を延々読んでいるものだと思っていた。が、そうではないらしい。これは、歴史が動くまでの貴重な出来事の一幕について書かれたものに違いない。ぼんやり読んでいる場合ではなかった。
 
 他人が訳した文章を手っ取り早く読み流すより、原文で読んだほうが数倍、胸に響くものがある。それを私の未熟な筆力では、上手にお伝えできないのがつくづく残念。

 歴史や社会情勢は私の知識の死角でもある。今回の記事を読んで、遅ればせながら、少しポーランドについて調べてみようという意欲が起こってきた。
 今現在、自分が暮らしている国なんだからさ。



2003年01月29日(水) おむすび

 机の引出しを整理していたら、新聞の小さな切抜きが出てきた。

2001年1月8日(火)朝日新聞家庭欄
「地元のおむすび全国で」日本ごはん党党首で作家の嵐山光三郎さんの話
新米の時期に全国の駅で、地元の米を使ったおむすびを売ることを提案したい、とのこと。

 ドイツにいたときに切抜きしたのだと思うけど、なぜか今日まで後生大事? にとっておいたらしい。
 ご丁寧にも新聞のコラムの余白には、自分のおむすびにまつわるエピソードのキーワードが書き込んであった。(あぁ、私って、ひまだったのね・・・)
 
 今回はそれらのうちのひとつを紹介しましょう。


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 大学を卒業して、会社で働いていたころ。23、4歳の頃だったと思う。当時、会社の同期の男の子とよくドライブに行った。
 何回目かのドライブのとき、決して家庭的ではないこの私が、何を血迷ったか、おにぎりを作っていこうと思い立った。

 その日の行き先は、赤倉。自宅出発予定時刻、6時。当然、家族全員まだ寝ている。
 今でこそ、三角おにぎりはきゅっきゅっきゅっとお手の物だけど、当時の私にしてみれば、形よく作るのはちょっと難しかった。一人で四苦八苦しているうちに、時間ばかりが過ぎていって、ふと気が付くと出発時間まであとわずか。
 大急ぎで、梅干用のビンもおかかもお皿もアルミホイルもボールもお塩も、ぜーんぶそのまんま台所のテーブルに出しっぱなしにして、とにかく遅れないように家を出た。

 目的地に着いて、ちょっと小腹もすいたし、珍しくも私がおにぎりを作ってきたのだから、さぁ、頂きましょう! ということになった。アルミホイルの包みを友達に渡し、私は傍らで水筒のお茶の用意をしていた。

 彼はアルミホイルを剥いている。視界の端に、おにぎりの白いごはんが見えた。彼は嬉しそうにさらにアルミホイルを剥いていく。

「なぁ、タシロ?・・・(←私の旧姓)」
といったまま、ちょっと長い沈黙があった。私は、
「うん?」
といったまま、熱い湯気のたったお茶をこぼさないよう、二人の間にコップの置き場を確保していた。
「なぁ、タシロ、おにぎりの海苔は?」
などという。
 私が彼の手元を覗き込むと、な、な、なんと・・・。白いご飯の塊。つまり海苔を巻いてない白いおにぎりが・・・。が、が、が、が〜ん・・・。
 慌てて私のおにぎりのアルミホイルをひっ剥がしてみても、どれもこれもぜーんぶまっしろけっけのおにぎり。
「タシロのシロおにぎりか?」
などと、彼はかろうじて下手なだじゃれをひとつかましてくれた。
 
 ぐぁ〜〜、はずかし〜、慌てて家を出たので、海苔を巻くの忘れてた。
でも忘れるか、普通・・・。(いや、私普通でないもん)

 帰宅して、母に報告すると、ひとしきり笑った後、
「お母さんも不思議に思ったのよ、ボールとか梅干とか出ていて、おにぎりを作った形跡はあるんだけど、海苔が出てなかったの。海苔だけちゃんと片付けていったのかな、とも思ったけど、まさか祐子ちゃんがそんなことするわけないしな・・・とも思ってね。あははは、やっぱりそうだったの・・・」
だって。
 
 学生時代はほとんど自炊をすることなく4年間を過ごし、社会人になってからは自宅通勤していた私は、果物をむくとき以外、一人で台所になど立ったことがなかった。あーー、弁解にもなりませんね、こんな言い訳は・・・。

 別の機会に信州にスキーに行ったとき、サンドイッチのからしバターを塗るつもりが、わさびバターを塗ったのを持っていったことがありました。
 がー、これも今まで忘れていたのに思い出してしまったー。

 昔の私を知る人たちへ。
 祐子は10数年後の今もちっとも変わっていないんだよ。おにぎりに海苔を巻き忘れることはないけどさ。
 いやはや、おはずかしい・・・。でもなんともまぁ、祐子らしいというか。
 
 今の私を知る人へ。
 今の私の原点とも言えるエピソードだったでしょ? ふふふ。


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