2002年03月31日(日)  レーガン大統領と中曽根首相の置き土産

12時より井の頭公園脇の鳥良(とりよし)で留学時代の同窓会。わたしが参加した交換留学プログラムは、当時「ロン」「ヤス」と呼びあっていたレーガン大統領と中曽根首相がはじめた通称「府県交流」と呼ばれる制度で、日本の47都道府県から一人ずつが一年間アメリカで学び、かわりにアメリカの50州から二人ずつが夏休みの一ヶ月半を日本で学ぶというものだった。同期の46人とは全米に散らばる前にワシントンDCで5日間の研修を共にしただけだが、帰国して15年経つ今も交流が続いている。

今回の参加者は10人で、同伴の家族を含めるとプラス8人。高校生だった頃に知り合った仲間が大学生になり、就職し、妻や夫になり、親になっていく。座敷を走り回る子どもたちを見ながら、時が経ったんだなあとしみじみ思った。

井の頭公園で散りかけの桜を楽しみ、ルノワールでお茶をして、夕方解散。このグループの特長は、とにかくみんなよくしゃべること。同時多発的に全員が発言している。見ず知らずの家庭に放りこまれ、言葉の通じない学校に転入し、自分の居場所を確保するのに多かれ少なかれ戦った人たちは、知らず知らず自己主張という武器を身につけてしまったようだ。

2001年03月31日(土)  2001年3月のおきらくレシピ


2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"

大阪から上京し、2泊3日の滞在を楽しんだ父と銀座で会う。娘の家には泊まらずホテルを取り、家に寄ろうともしなかった。気を遣ったというよりは、現実を見るのが怖かったのだろう。父が来るならと片付けかけた手を止めてしまったので、あいかわらずわが家は散らかったままになっている。めったにない父娘デートなので、帝国ホテルの『なだ万』へ。パコダテ人の話やインターネットの話が中心。父のホームページを作ってあげるよと約束する。ネクタイ労働を嫌って教職に就いたのに、なぜか旅先でスーツを着ている父。謎だ。この格好で、昨日は単身ディズニーランドに乗り込み、はしゃいできたらしい。怪しすぎる。

父と別れ、新聞広告を見て気になっていた『シッピング・ニュース』を見る。淡々としたストーリーで強く心を揺さぶられる作品ではなかったが、胸を締め付けられる台詞があった。主人公の新聞記者の妻は、ほとんど家に帰らず、子育ても夫にまかせっきりのひどい母親で、交通事故であっけなく死んでしまう。だが、幼い娘は母親の死を理解できず、「どうして、いなくなっちゃったの?わたしが退屈だから(Because I'm boring)?」と父親に問いかける。自分はつまらない人間だから、置き去りにされるという淋しさと焦りが、痛かった。

boringという言葉に過剰に反応してしまうのには、理由がある。アメリカに留学したばかりの頃、「Masakoと遊んであげなさい」と言うホストマザーに、わたしより8才年下のホストシスターは「ヤダ。だって彼女といてもつまんないんだもん(Because she is boring)」と言った。英語はちんぷんかんぷんだったのに、boringという単語は悲しいほどハッキリと聞き取れて、「ここではわたしはつまらない人間なんだ」と落ち込んだ苦い思い出がある。ちょっとした変化で人間は簡単に傷つくし、傷つくたびに強くなっていくのだと思うが、『シッピング・ニュース』の監督は、そのことをよく知っている人ではないかなという印象を抱いた。「落ちこぼれを優しく包む作品」という劇評があったが、そんな眼差しを持った作品だった。

夜はFMシアター『幸福な部屋』を聴く。30才を過ぎて授かった子を産むまでの夫婦の葛藤と成長の話なので、他人事ではない。ラジオドラマはboringだと集中力が続かなくなるが、ぐいぐい引き込まれる50分だった。


2002年03月29日(金)  パコダテ人トーク

■去年の夏に買ったジーンズに足を突っ込んだら、太ももで止まってしまった。GAPキッズのいちばん大きいサイズ。1900円で買って「いい買い物をした」と喜んでいたのに、デブっては意味がない。最近あまりによく食べるので、これで太らないほうがおかしいのだが、子ども服が入るサイズに戻すぞ。■来週木曜にテアトル新宿で行われる前田哲監督×田中要次さんのパコダテ人トークにわたしを呼ぶという話が急浮上。前田監督サイトにリクエストがあったとかで、見てみると、カフェの常連さんたちが盛り上げてくれていた。嘘から出た真実で、松田一沙ちゃんとともにスペシャルゲスト決定。いいのだろうか、わたしなんかが混じっても。なんとも、もったいない話。


2002年03月27日(水)  12歳からのペンフレンドと3倍周年

小学校時代のペンフレンドを経て、今も親しくしているさおりとは誕生日が近く、わたしの5日後に彼女が生まれている。東京で再会するようになってからは、何回か二人だけの誕生会を開いた。しばらく間が空いてしまったが、「今年は、ひさしぶりにやらない?」ということで、今夜、一か月以上遅れの誕生会となった。

二人の職場の間を取って赤坂で落ち合い、ベトナム料理屋で乾杯。出会ったときから、もう3倍近い年齢になってしまった。今の3分の1しか生きてなかった頃、さおりもわたしも、就職しても結婚しても友情が続いていることを想像していただろうか。不思議なことに、年を経ても共通の話題は尽きない。さおりは夕張生まれで、2才のときまで住んでいた。ダンナさんは映画やテレビの制作関係のお仕事をしている。最近、知人から大泉洋さんの面白さを聞き、インターネットで『水曜どうでしょう』を見て、ハマっている。大学の同級生にも会社の同僚にも、夕張と映画と大泉さんの話で盛り上がれる友達なんて、いない。

昔からの友だちは、わたしが忘れていることを覚えていたりする。「わたしが大阪行って雅子がアメリカ村を案内してくれたとき、店先のスピーカーから流れてきた英語の歌を雅子がその場で訳したんだよ」とさおり。その歌は知っているが、歌詞は覚えていないから、当時のわたしは英語の歌詞を同時通訳できたらしい。記憶にも残っていないということは、目に留まった看板の漢字を読むような感覚で、あっさりやってのけたのかもしれない。アメリカ留学から帰って半年後ぐらいのことだ。幼なじみのT君が、小学校の同窓会のあと「僕の少年時代の空白を、みんなの記憶が埋めてくれてうれしい」と言ったことを思い出す。旧友は思い出の出張所でもある。


2002年03月26日(火)  短編『はじめての白さ』(前田哲クラス)

■会社のM先輩が「とある制作会社の社員旅行」の話をしてくれた。毎年、企画委員会が結成され、凝りに凝った社員旅行をプランするのだが、前回は伝説になるほど気合いが入っていたという。目的地の沖縄でロケハンを重ねた企画委員会は、架空の『○×王国』を建て、某旅行情報誌そっくりなガイドブック(書体からレイアウトから挿し絵のタッチまで精巧に真似た芸術品!)まで作ってしまった。さらに王国のパスポートを配り、那覇空港の一画を借りて入国管理まで行う徹底ぶり。目玉企画のラリーがまたすごい。部署も年次もバラバラな4人1組が1台に乗り込み、与えられたヒントをもとに宝を探すのだが、「指示された場所に着くと双眼鏡が置いてあり、そこからぎりぎり見える看板にヒントが書いてある」といった凝りようで、なかなかお宝に辿りつけない。4人の中にプロデューサーがいると仕切りは完璧だが、理屈よりも直感で行動するプランナーがそろったチームは悲惨な目に遭う。各チームは羽田に集合したときからユニフォームを着込み、飛行機の真ん中の4席を1チーム1列ずつ占める。前から見ると万国旗のようだとか。面白い。面白すぎる。なんで社員旅行ごときに、そこまでやってしまうのか。言ってしまえば「ノリ」だろう。楽しませたい、楽しみたいというノリは、ものすごいパワーを生むのだ。■21:20よりテアトル新宿でENBUゼミの作品上映イベント『ドロップシネマ・パーティー』。前田監督と熊切和嘉監督の対談に続いて熊切和嘉クラスの『LOCK』、前田哲クラスの『はじめての白さ』、三枝健起クラスの『ジェラシー』を観る。対談では、前田監督は強引な話術でパコダテ人の売り込みに終始。落ち着かないのか、膝がパカパカ開閉してタンバリン状態。開けるか閉めるかどっちかにしなさい。客席にいる松田一沙ちゃんのことは「会って、みちる役は彼女だと確信した」と持ち上げておいて、わたしのことは「毎日のように無言留守電残してたら、変な人やと思われてたけど、会ってみたら、向こうが変な人でした」と落としてくれた。さて、『はじめての白さ』はコインランドリーを舞台にした11分の短編で、思いのほか楽しめた。ベートーベン『歓喜の歌』に合わせてブラやショーツが飛び交うシーンは最高。こういう絵をキュートに撮れるのはすごい。前田監督は監修とのことだが、とてもテイストが出ていると思った。口は悪いけどノリはいい。


2002年03月25日(月)  脚本はどこへ行った?

■高山ロケから帰ってきた『風の絨毯』のプロデューサー、益田祐美子さんと山下貴裕さんのコンビと食事。日本部分の撮影は終わったもののイラン部分の再撮があり、それに続いて編集があり、全然気を抜けないそうだ。ひと月先の『パコダテ人』公開でバタバタしているわたしにしてみれば、来年の公開までずいぶん余裕があるように思えてしまうが、日本とイラン、日本語とペルシャ語を行き来しての作業なので、時間が倍かかるのだという。「今井さんの脚本があったから、ここまで来れた」と益田さんは言ってくださるが、最終的な脚本はフィルムの中にあり、決定稿といえるものもあってないようなもので、わたしもその内容をよく知らない。では、わたしが書いた脚本はどこへ消えたのか。■脚本は役者のアドリブや監督の演出、スタッフのセンスや個性を発揮するための手がかり足がかりである。料理で例えればレシピ、建築で例えれば設計図、絨毯で例えればデザイン画にあたるものだろうか。『風の絨毯』の場合、原案はプロデューサーの頭の中にあった。「こんな絨毯を編みたいんだけど、デザインにしてくれない?」と言われたわたしがイメージを画に起こし、見える形にした。プロデューサーはその絵を持って賛同者を募っていき、絨毯プロジェクトは実現へ向けて前進した。そして、実際の絨毯を編むにあたり、「イランでは、こういうデザインは使わない」「われわれなら、こう編む」といった視点でデザインは大きく描き変えられた。それを見た日本側が「最初に入れてたあのモチーフだけは残してくれ」「この部分は日本にはそぐわない」と意見を言い、絵はまた姿を変えていった。編みはじめる直前のデザイン画は、最初にわたしが描いた絵とは似ても似つかないものだったが、不思議なことに、エピソードも台詞もすっかり入れ替わっても伝えたいことは変わらない。魂は受け継がれているのだ。高山ロケで工藤夕貴さん演じる画家・永井絹江が「絨毯に魂が宿る」といったことを話すシーンに立ち合ったが、そういうことなんだろうなあと自分の仕事に置き換えて聞いていた。脚本は消えたのではなく作品の中に溶けこんだのであり、絨毯に編みこまれたのだ。だから、「脚本のない映画で、あなたは何をやったのだ?」と聞かれたら、「あの絨毯を一緒に編みました」と答えようと思う。


2002年03月24日(日)  不動産やさんとご近所めぐり

■電話をうっかり取ったら不動産屋だった。引っ越す予定はないと答えるが、見て欲しい家があるという。「行っても冷やかしにしかなりませんよ」と言うと、「見てくれるだけで仕事になるんです」。ノルマでもあるのかもしれない。家から歩いてすぐの物件だったので、散歩がてら行くことにする。断るのが下手で、顔も知らない相手に同情してしまう。騙されやすく付け入られやすいカモネギ型人間だが、本人は「いろんな人に会うのも芸の肥やし」と思っていたりする。■担当のSさんは高嶋政伸似の爽やかな兄ちゃんだった。「何でも聞いてください」と言ってくれたので、シナリオを書いていることを明かした上で、家のことと並行してお仕事について聞く。どんな風に営業し、契約を取るのか。何がうれしくて何が辛いのか。電柱に貼っているチラシは誰がいつ貼るのか。書き手としてではなく一個人として興味があるのは、人々が何をもって「この家を買おう!」と決めるのかということ。週末にドバッと折り込まれる不動産のチラシを見るにつけ、これだけの物件からひとつを選ぶ難しさを思ってしまう。しかも何千万という単位の買い物だ。「出会いですね」とSさん。「だから、いつか買われる日のために、たくさん見ておいたほうがいいですよ」。というわけで、建築済みの3件を内覧し、建築中の1件を見に行く。部屋を見て、そこで繰り広げられる暮らしを想像するのは楽しい。口八丁ではなく、Sさんは本当に見せるだけで売りつけてこなかった。会社の方針なのか、彼の性格なのか。わたしにとっては有意義な家めぐりだったが、彼はこれでよかったのだろうか。家を探している人がいたら、Sさんを紹介しようと思う。■夕方、ダンナとスポーツクラブへ。黙々とマシントレーニングをしているとブロイラーのような気分になる。ランニングマシーンを発明した人は、どうしても家を離れられない理由でもあったんだろか。走った距離にあわせて恐竜が育つとか、映画の続きが見られるとか、何か変化があれば楽しいのだが。キロ数と消費カロリーが刻々と増えていくだけで、面白みがない。退屈のあまり「このベルトコンベアーの上で転んだらどうなるか」などとバカげたことを考えてしまう。検品ではじかれる不良品みたいに、みじめに飛ばされるのだろうか。試してみる勇気はないけど。■ダンナの実家まで1時間歩く。やっぱり景色が変わるほうが楽しい。


2002年03月23日(土)  インド映画『ミモラ』

■インド映画『ミモラ』の試写会チケットをもらった。2名入場できるというので、気軽に誘える唯一のシナリオライター横山亮子ちゃんに声をかける。会場近くのインド料理屋でバイトしているので、ちょうどいい。チラシには「インド版『タイタニック』あるいは『風とともに去りぬ』」と書いてあったが、夢見心地なロケーションと豪華な衣裳、突然歌い踊るサマは、インド版『ムーランルージュ』。凧上げのシーンは空を舞う凧と地を舞う登場人物の共演が楽しく、印象的だった。ストーリーは「結婚したら心も体も(家同士が決めた)夫のもの」というインドの価値観に反発するヒロインが真実の愛を勝ち取るまでを描いたもの。わたしの幼馴染みのインド人、ポピーちゃんの披露宴に出席したとき、「花婿とは今日はじめて会う」と言っていたことを思い出しながら観る。幸いポピーちゃんは電子メールという文明の利器で事前に彼とコンタクトを取っていたので、メル友と結婚したとも言える。『ミモラ』のヒロインは、好きな人がいるのに無理矢理結婚させられてしまうのだが……。一見遠回りしているような前半部は、ドラマチックな後半部のための助走。途中でintermission(休憩)のテロップが入る3時間7分の大作だったが、ラストに近づくにつれて引き込まれていった。■台詞はヒンズー語と英語のちゃんぽん。何度か出てきた「愛」を意味するヒンズー語「ピャル」のかわいくて甘い響きが気に入ったのだが、「その言葉、厨房でよく聞くんだけど」と横山ちゃん。男性シェフどうしで「ピャル」を使うのはどういうシチュエーションなのか興味がある。店では『横山ジー』と呼ばれてる横山ちゃんは、『ジー』という呼び名に『先生』と字幕がついているのを観て、「わたし、先生だったのか!」と驚いていた。


2002年03月22日(金)  遺志

■大阪の母からA君のご両親からの挨拶状が転送されてきた。大学は別々だったが応援団仲間のA君は、豪快で美男子で男から見ても女から見てもイイ男だった。北大で行われた大会で仲良くなり、「記念にその履き古した草履をちょうだい」と冗談で言ったら、京都の下宿に宅急便で送りつけてきた。わたしの留守の間に束の間のひとり暮らしをしていた妹は、北海道土産が着いたと喜んで開封し、あまりの臭さに気を失いかけた。応援団と切っても切り離せない三大液体(汗、酒、○○)がしみ込んだ強烈な臭いだった。この話を思い出すたび、涙が出るほど笑ってしまうが、今は別な涙が混じってしまう。A君は去年の暮れ、突然倒れて、あっけなく逝ってしまったのだ。持ち前の潔さが死に様に現れてしまったようだった。葬儀に参列できなかったこともあって、今だに彼がこの世にいないという実感が湧かない。だが、百か日の法要を済ませたご両親からの挨拶状を読むと、あらためて、やはり、彼はいないのだと思い知らされる。寄せられた志は有珠山洞爺湖温泉の復興資金と吉野川の自然保護運動の活動資金に寄付されたとのこと。どちらも報道番組を作っていたA君が取材し、その後も気にかけていたことなのだそうだ。彼の遺志は、たしかにそこに生き続けるだろうし、わたしも有珠山や吉野川に、今後は特別な思いを抱くことになるだろう。死んだ者の居場所は、生きている者の心の中にある。応援団仲間と会うと、「あっちで元気にやってるかなあ」「あの世では、あいつのほうが大先輩だから、俺たちが後から行ったときには飲まされるんやろうなあ」などと話したりする。生きているわたしは、これからもたくさんの人と出会いと別れを繰り返すのだろうが、心のどこかにA君の場所は空けておきたいと思う。


2002年03月21日(木)  「かわいい魔法」をかけられた映画

■『月刊シナリオ』に載せるシナリオは採録(完成フィルムから起こしたもの)ということで話が進んでいるのかと思っていたら、いざフィルム起こしが終わってから「え、決定稿じゃないの?」と言われてしまった。ちゃんと確認しておかなかったのがいけないのだが、最後に刷った台本から撮影ぎりぎりまでにいくつか変更があったものを「決定稿」として載せる、と監督もプロデューサーも考えていたようだ。前田監督はわたしの作業が無駄になってしまうのを気遣い、「採録を載せてもええけどなあ」と言ってくれたが、わたしは「どちらでもいいですよ」と答え、二人で「どっちを載せるのがいいか」と客観的に話し合う。採録は今後世に出る可能性がある(たとえば「前田哲作品シナリオ集」とか)が、決定稿が世に出るとしたら、月刊シナリオに載る今回しかチャンスがない。採録はかなりアドリブや演出が入っており、シナリオに再現すると、あまり面白さが伝わらない。完成版との違いを劇場で確かめてもらうのもいいんじゃないかということで、決定稿のほうを載せることにした。「字幕つくるときに採録は必要になるんで、やってもらったことは助かるんですけど、そういうヒマがあったら次の作品書いてくれたほうが……」と前田監督。でも、初めてやったフィルム起こしは、ずいぶん勉強になった。役者さんの言い回しで台詞が化けること。シーンの順番を入れ替えることによって生まれるテンポ。シナリオではどうってことないシーンをハッとした印象的な場面に変えてしまった監督の演出。シナリオとあわせて掲載されるコメントにも書いたが、オリジナルのシナリオからフィルムになる過程で、監督に「かわいい魔法」をかけられたというしかない。脚本家や映画監督を志す人は、コンクール受賞シナリオ『ぱこだて人』・決定稿『パコダテ人』・劇場公開作品『パコダテ人』を比べてみると、発見することがたくさんあると思う。

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