度々旅
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3月11日より昨日まで、暑いところに行ってきました。 あれですよ。旅から帰ってきて、なんつうか、旅行の整理って皆さんどうしてるのですかね。 長い旅行じゃないと、思ったことを書き留める時間もなくて、でもやっぱり書きとどめたくて。 次回に役立てたいなんて思うと、移動の時間や、金額や、手法も書いておきたくて。その上、いろんなチケットとかもとっておきたくて。 毎回、毎回、手法を変えつつ、だんだん手抜きになってきているわけで。 で、旅が終わると、クリアファイルに、その時の旅でたまった、レシートやら、チケットやら、パンフやら地図やらを、ひとまとめにしておしまいって感じになりつつあり・・・。 今までで一番よい出来が、旅行に糊も持っていって、毎日、毎日セコセコ日記をつけ、チケットを貼り、レシートを貼り、お金の精算をしたやつで、でもこれは、無理だ。負担が大きい。 振り返るために旅行をしているわけではないので、そんな丁寧に旅行記録をつけなくてもよいのだけれど、長い時間とれない、慌しい旅だからこそ、一回、一回を大切にしたいから、やっぱり記録したいなあぁ。その上、だんだん、思い出せなくなっているのですよね。あのホテルはどこだったけかなぁ。あの出来事はどこでのことだったかなぁ。あれ、あの電車はどこの国だったかなぁなんて。まして、急いでいろいろ周ると、地名や観光した場所も忘れちゃうし。ま、それだけ旅の仕方も雑になってるんだろうなと反省。
明日、納骨する。彼岸になってしまうため、お寺の都合から本来の七七日より早い。2月は、とっても長かったのに、3月になった途端、ものすごいスピードで日が経っている。
父は、都内の大きな駅に停車した電車で倒れた。いや、実際のところは走っている車内で心臓が止まった。乗り換えて倒れた次の駅まで2分くらいだと思う。ぎゅうぎゅうの電車の中、自分の力で立たずとも倒れない、カバンから手を離しても落ちない、そういう状況の中、心臓が止まった。たぶん、駅に停車して人がどっと降りるその瞬間に、くずれ落ちる形になったのだと思う。 駅に停車した車内で倒れ、その場に人だかりができ、一人の医師がやってきた。そして、すぐに電車から降ろし、心臓マッサージをはじめた。急病のお客さまがいるというアナウンスが車内に流れ、それを聞いた別の医師が、電車から降り、心臓マッサージに加わった。また、ある医学生も電車を降りて、その場にやってきた。ポケットに入っていた救命道具を差し出し、補助をした。父の心臓は既に止まっており、瞳孔も開いていた。一度だけ息を吐き出した。医師が父のカバンに入っている手帳を開いて、その日の予定を見ると、ある病院に行く途中であることがわかった。最初に処置を始めた医師の病院だった。すぐにその病院の救急に連絡をし受け入れ態勢をとってもらう。医師達は、駅員、救急隊に指示を出し、誰もが力を尽くした。駅にある器具も使い、やれることはすべてやった。幾分時間がかかってやってきた救急車に二人の医師と一人の医学生は父と共に乗った。本来は皮膚科に行く予定だったのに、違う形で目的地に父は辿り着いた。ERへ父を見送ったとき、医学生はどうにか助かってほしいと願いながら、この人のご家族は何を思うかと思いをめぐらせ、涙した。 なんて恵まれた最期だったのだろうと思う。私がすべてを受け入れることができたのは、彼らのおかげであり、彼らと共に力を尽くしてくださった多くの方々のおかげだ。父が最期、これほどまでに人の温かい気持ちを浴び、力を尽くしてもらえたにも関わらず、留まることができなかったのは、これは天命というより他ない。 父は本当に人を愛した男だった。その父が、最期にこれほど多くの人に力を尽くしてもらえた。やっぱり、人は素晴らしい。温かい。
今朝、父の弟から明日の納骨の儀にはいけるが、仕事の都合で供養の食事には出ずに帰ると連絡があった。また逃げるのかと私は思った。祖父の死後、祖父母の介護を10年した私の父母へ彼がとった行動は、遺産に関する内容証明郵便を送りつけることだった。父の死後、以前弟に送ったと思われる文章がパソコンから出てきた。祖父の1周忌、兄弟で祖父を思い語り合えると信じていた父の思いが溢れる文章だった。だが、それも叶わなかった。弟は、また同じことをしようとしている。祖父の1周忌の後、父は「さようなら」の言葉を弟に送った。どれ程むなしかっただろうか。そして、今度は本当に「さようなら」なのだ。にもかかわらずと思うと、私はむなしさでいっぱいになった。そんな気持ちでいるとき、電話が実家に入った。駅で対応してくれた医師からだった。お線香をあげにいきたいのですがという電話だった。
一人の医師は、知り合いの医師が探し出してくださり、話すことができていた。もう一人の方にもと思い、所属はわかっていたので同じ日病院を訪ねたが不在だった。どうしようかと思い、連絡先を知るべく、警察署をたずねたが、教えてもらえず、消防署を訪ねた。そこでも教えてもらえなかった。けれど、行ったことによって、その日どれ程多くの方が力を尽くしてくださったかがわかった。わかったからこそ、御礼がいえた。そして駅にも行き、御礼を言えた。それから時間がたってしまい、どうしようかと迷ったあげく、納骨後、病院宛に送ろうと昨日手紙を書いた。そんな矢先だった。医学生を連れて、2人で家まできてくれた。今度のことを生かしたいと、駅や消防署との会議にも参加し、語ってくれているとわかった。 医師の方たち、医学生の方、救急隊の方、駅の方、本当にたくさんの人がいてくれたからこそ、私は父の最期をここまで知ることができた。そして、知れば知るほど、温かい心で満たされた。人って素晴らしいと思った。 明日は本当に「さようなら」をしなければならない。その前の日に、私はむなしさでいっぱいになるところだった。それを、また人に救われた。
お父さんも、人って素晴らしいと思って「さようなら」を今度は言えるにちがいない。お父さん、やっぱり人は素晴らしい。
ここのところ、父と食べた場所、というか、父が好んでいた食べ物巡りをしている。父が家にいるうちに、私が変わりに食べるのだってな具合だ。 父が亡くなった次の日に、ちょっと遠い蕎麦屋のおかみさんがかけつけてくれた。葬式の後、母と私と親戚で蕎麦屋に寄ったら、お父さん好きだったからと、てんぷらの盛り合わせを若女将が涙とともに出してくれた。それをかわぎりに、餃子を食べ、小龍包を食べ、うなぎを食べしているけれど、その中でも父にとって、ここさえあればいいという2軒があった。 父の荷物を会社に引き取りに行った日、もう退職している父の先輩でもある私の仲良しのおじさんも会社に付き合ってくれた。帰り道、母と私とおじさんと、父の会社の人2名(二人は早退してたよ)、総勢5名プラス荷物に姿を変えた父で、行きつけのモツ屋に寄った。そこは、2時から並んでいるのだ。若旦那は、赤い目で一言「残念です」と言いながら「お父さんの分」ってことでモツと焼酎をくれた。決して持ち帰りはさせてくれないはずが、最後そっとお土産をくれ、私に「お母さんよろしくね」と言ってくれた。 ちなみに、その後ワレワレは父荷物を店に忘れてきて、若旦那に「お父さん忘れているよ!」と追いかけられた。 今日、食べ物巡りの〆としてもう一軒の行きつけの飲み屋に、母が父の大好きだったナンコツを買いに行ったら、すでに父のことは知られていた。どうやら通夜の帰りに会社の人たちがそこで飲んだらしい。母の顔を見た途端、言葉をかけてくれ、あれも好きだった、これも好きだったと、これまた通常持ち出しさせてくれないものをお土産にくれた。
父がこよなく愛した2件の下町のモツ屋。オレはこれさえあればいいと言ってた食べ物。その食べ物も父を愛してくれていたような気がする。なんて幸せな男だろう。そして、店の人たちの温かさがしみてくる。
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