度々旅
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週末、入籍の報告ということで、同居人の実家、青森に行ってきた。こちらにいるときは、だいぶ落ち着いた気持ちでいたのだけれど、向こうで義父、義母に会ったらむちゃくちゃ悲しくなった。そう、義父義母と同席した会った日が私と父が最後にあった日。思わず、ボロボロ泣けてきた。 青森では、日常が続いていて、そして両親ともそろっているのに、どうしてうちはこんな大きな変化が起きてしまったのだろうということと、私の両親と青森の両親、正にこれから親しい関係を築いていくところだったのに、それが叶わないということを現実として感じてしまったからだと思う。 青森へ行ったのは2度目だけれど、前回も今回も義父義母はいろいろなところに連れていってくれた。父が生きていたら、こうやって一緒に行けたのになぁという、生きていれば確実に叶った未来の事柄を思うと、なんだかもう悲しくて悲しくて、同居人の実家近くに川で、号泣してしまった。 川は、泣くのにいい。
父と同じ年齢の私の師からメールがきた。婚姻と父について、そっけないながらも、とても温かい、先生らしい言葉が綴られていた。ありがたい。
父が他界し1ヶ月経った。この1ヶ月、長かったのか短かったのかよくわからない。何をしてたのかもよくわからない。でも、毎日毎日やることが次々とあって、家長がいなくなるって大変だねという知人の言葉のとおりで、何がってわけでもなく、やることがあって大変だ。 何かひとつやる度に母と私は「忙しいのは父のせいだ。ああ、腹が立つ。一人だけさっさとお気楽にいきやがって。オレは誰にも迷惑をかけんなんて口ばかりだ」と文句をたれる。そして、怒りと寂しさと笑いの中、なんであたしたちがこんなことしなきゃなんないのさ!と言葉にする。 父がいなくなり、これほどまでに私の中に父がいたのかと驚いた。葬儀中笑いたくてしょうがない場面があった。今父が何を言いたいかがわかるのだ。何をどうしてほしいのか、何を感じてるいるのか。多くの方が父を語るのを見て、娘というだけで皆さまの前で挨拶をするほど私は父を知っていたのだろうかと不安にもなり、自分を恥じもしたが、やっぱり父は私で私は父なのである。 父がいなくなった現実を自分や母が理解し、受け止めているのかは本当のところわからない。でも声に出して言葉を交わし、視覚的に会えないだけとも思える。それが人がこの世からいなくなるってことだったら、正直それほど悲しいことじゃない。祖父を喪い、納骨のとき、祖父と私の境界が本当に不思議でたまらなかった。どうして、祖父だけあっちにいってしまったのだろう。いや、むしろ、なぜ私はこっちにいるのだろうといった感じだ。今回は、いやにあっさり父がいない場というものを受け入れることはできた。でも、本当に悲しみが生じるのは、これから歩く道にあるんだろうなと思う。私も母もまだ道は続いている。たぶん死んで一番がっかりしているのは父本人なわけで、そう思うと、バカだよなぁ…としか言葉がでなかったりもして。 四七日を過ぎ、父は普賢菩薩さまのところでうろうろしているみたいだ。どんな旅路なのかわからない。近所の人のところには出てきているようなのだが、私と母のところには照れくさいようで出てこない。もう今更言う言葉もないのかもしれん。ああ、わかってるよとこちらも思う。 それにしてもだ。この10年で、母と私ばかりか犬までもが3つも葬式を出した。当分遠慮願いたい。
1月31日仕事をやめました。 2月1日父がこの世から去りました。 2月11日入籍しました。
そんなわけで、父の葬儀が私の披露宴になりました。 人生って本当にわからないものです。でもすべて受け入れてます。受け入れることができる人生を歩んでいる自分と、そうやって育ててくれた父はすばらしい。
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