あたろーの日記
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2005年09月19日(月) 池袋駅前の交番の建物はフクロウなんだね。


 旧暦8月16日。
 池袋さ行ってきました。久しぶり。FM2にモノクロフィルム入れて(というか、この前入れたのがまだ残っていて)、昭和レトロな商店とか、下の歩道から眺めた高速道路とか、サンシャインシティの高層ビルを見上げて、とか、ふらふら歩いては立ち止まり、カメラ構えて、で、また歩き出して、自宅からテクで(徒歩で)池袋駅までたどり着きました。
 天気が良くて三連休の最後で、池袋は当然ものすごい人出。それだけで疲れてしまって、カメラはバッグにしまって、あとは目的のお店に寄った。
 HMVでこれまた久しぶりにCDを買ったら、なんど『SinCity』のキャラクターが印刷してある袋に入れてくれた。昨日日記にあんなこと書いたから?これももしかして、シンクロニシティ(笑)買ったCDはMaroon5。Journeyを買おうと思ってたのに、若い方を買ってしまった(爆)いえ、決してそういうわけではなくて。Maroon5、何度もじっくり聴きたい曲ばかり。
 で、これまたお久のジュンク堂。先月号は買いもらした『東京かわら版9月号』。最近、落語ブームのせいか、ぼけーっとしてると『かわら版』がすぐ売り切れてしまうような。ジュンク堂の落語本コーナーも、前は棚1つ分だったのが、今日見たら3つ分、3倍のスペースになっていてびっくり。なんかすごく嬉しいなあ!この調子で、東京に寄席をあと3つくらい増やして頂けませんかねY(^O^)Yかく言う私はしばらく寄席に行ってないので、そろそろ行きたくてむずむずし始めています。
 あと買ったのは『尾瀬と鬼怒沼』(武田久吉著/平凡社ライブラリー)と、『癒されて生きる 女性生命科学者の心の旅路』(柳沢桂子著/岩波現代文庫)。
 『癒されて生きる』は、題名があまりにもストレート過ぎて、存在は知っていたけれど、読むのが苦痛になりそうな気がして書店で手にとっても買わないで来たのですが。。。今日、棚の前に立ったら、「読め、読め」と、本のほうから呼びかけてきた、というような感じ。そういうことってたまにありませんか?何故かわけもなく、この本読まなきゃ、って衝動に駆り立てられるような。書棚にある数多の本の中で、特定の本の背表紙だけがばーんと目立って見えるような。

 
夏が終って初秋だというのに、我が家のベランダには朝顔さん達が頑張ってます。夏の間私が水遣りで精一杯で、蔓を誘導し忘れていたので、好き勝手なところに絡まってます。左のはラズベリーの幹に堂々と仲間入りしてます。薄桃色のほうは、バジルとか他の緑に遮られて、しっかり伸びることが出来なかったので、こじんまりと咲いてます。ごめんね。


2005年09月18日(日) シンクロニシティ

 旧暦8月15日。
 中秋の名月。雲ひとつ無い空にぽっかり浮かんだ満月。2〜3日前に友達からのメールで教えられるまで、満月が近づいていることをすっかり忘れていた。せっかくの満月なんだし、なにか風流なことをしたい、と思いはすれど、別段普段と変わりない生活。ただ連休だというのが救い。缶ビール買って、さんまでも焼いて、ネットの落語聴きながら顔も円満の初秋の夜。
 『SinCity』が来月公開される。早く観たいなあ。久々に格好いいミッキー・ロークが観られそう。それからなんと言ってもルトガー・ハウアー(ちょとしか出てこないっぽいけど)。画面がモノクロだというのもいい。
 
 『シンクロニシティ』(フランク・ジョセフ著/宇佐和通訳/KKベストセラーズ発行)を読んだ。
 シンクロニシティ。ユングによって、重要な意味を持つ偶然の一致、と定義づけられた現象。例えばしばらく会っていない友人のことが頭に浮かんだ直後に、まさにその友人から電話がかかってくる、興味を持ち始めた事柄についての情報を持つ人からコンタクトがある、考えても考えても答えが思い浮かばない事柄について逡巡しながら歩いていると、そのヒントになるような台詞を雑踏ですれ違った人達が話していた、とか。
 シンクロニシティは、心霊現象でもないし、超能力でもない、怪しげで心地よい言葉で人を魅了する新興宗教でもない、誰にでも、どんな人にでも、気づく気づかないはあるにせよ、毎日起こっている現象だと思う。自然は、私たち人間のまだまだ考え及びもしないほど、偉大で緻密であると思う。よく考えてみれば、1人1人の人間が、今ここに生まれて生きていて、あの人やこの人に出会うことだって、みんなシンクロニシティの一部なんだと思う。
 と、書きたいことだけ書いておいて、かなり眠くなってしまいました。何を書いているのか自分でも訳判らなくなって、とことん眠いです。明日は早く起きて出掛けたいなあと思うので、ほんとに早く寝てしまいます。すいません、おやすみなさい。
 
 


2005年09月17日(土) 自衛隊が商店街を武器携行で行進?

 旧暦8月14日。
 陸自が商店街を武装行進 長崎・佐世保で240人・・・この感覚に驚いた。自衛隊を否定する者ではないですが、できれば自衛隊もどの国の軍隊もない世の中であって欲しい。今はどの国もある程度防衛力を持たないと、力の均衡を保つことができないという哀しい世界であるからして。。。だけど、武器を持って商店街をパレードする必要があるのか?と思う。激しく驚き、疑問。商店街という、庶民の超日常的な空間に、武器を持って行進する必要性が本当にあるのか、はなはだ疑問だ。日本は戦後60年間の間に、迷彩服と武器が庶民の暮らしの中に入り込むことを異常だと感じるようになるほど、平和国家として変化してきたのではなかったのか?商店街のアーケードを武装した軍隊が行進するのを、当たり前の目で見ることができないのは、戦後日本が平和国家として成長してきたまさに賜物ではないのだろうか?でも、今はその「当たり前」の感覚も否定される世の中になってしまったんだろうか。
 自衛隊の音楽隊が楽器を持ってパレードするならまったく違和感はない。富士山に登ったときも、自衛隊の山行訓練と一緒になったけれど、反発は勿論感じなかったし訓練の厳しさに頭が下がる思いがした。けれど、商店街にしかも武器を携行して、となると、話は全く別だと思う。商店街に当たり前にいる子供達の目には、その光景はどう映るのだろう?人を殺す戦争の道具を持って行進する軍隊が自分の身近に存在を主張する、それが当たり前の日常の光景であると子供達が自然に認識してしまうのは、戦後60年で培ってきた日本人の平和感覚を真っ向から否定し覆すことにならないだろうか?それともそういう感覚は「平和ボケ」で片づけられてしまうような世の中になってしまったのだろうか?
 自衛隊のイラク派遣やインド洋での活動に反対ではあるけれど、日本が自衛隊を持つことの必要性はある程度理解しているし、災害時はやはり頼りになる存在であると思う。だから、わざわざ佐世保でのような形で存在をアピールする必要性は全くない。これが佐世保だけでなく、今後各地で行われるパレードの形となるなら、非常に危惧すべきではないかと感じた。大袈裟ではなく。
 イラクや戦争・紛争・テロ行為の絶えない多くの国々で、子供も大人も、市民達は当たり前のごとく暴力と死の隣り合わせに生きている。軍隊や武器とは生活圏が一緒でもある。しかし、そうではない、軍隊や死が生活の隣にないと主張する国も、世界には必要ではないかと思うのだけれど・・・。それが第二次大戦後の日本の役割だと思っていたし、学校でもそう学んできたのだけれど。しかし、アメリカに追従してテロを呼び込むような国になってしまった今、それは単なる平和ボケ人間のたわごとに過ぎないのだろうか。


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