あたろーの日記
DiaryINDEXpastwill


2005年02月16日(水) 揺れたなあ。

 旧暦1月8日。
 今朝の地震にはびっくりしましたなあ。
 前にも書いたことがあるのですが、私は寝ている時、地震が起こ1〜2分前に不思議と目が覚めるのです。今朝も4時40分頃に目が覚めて、枕元の時計を見て、まだこんな時間だから、トイレに行ってからもうひと眠りできるかな、と思っておったのですね。そうしたらいきなりザワザワ・・・と小さな揺れが始まって、ありゃ地震だわさ、と、慌てて起きあがり布団の上に座って行く末を確かめておりました。そうしたらだんだん揺れが大きくなってくる。ザワザワがワサワサになって、ガタガタガタガタガッタンガッタン・・・ひえ〜っ、いよいよ東京にも来たか!と、思ったのですが、結局為す術なく布団の上に正座して揺れがおさまるのを待っていただけ。その時、布団の横にあるテーブルに積み上げておいた文庫本の山が崩れ、私が寝ていた布団の上に、バサバサッと落ちてきました。これってもしかして危機一髪ってやつですか?・・・揺れがおさまり、テレビで震度と震源地を確認して、本の整理して、また寝ました。寝て起きて会社に向かったら通勤電車は地震の影響でだいぶダイヤが乱れていました。地震に冷たい雨に、今朝は通勤の足もみんなしょぼしょぼ。
 やっぱり、地震は人ごとじゃないよなあ・・・と、思ってはいるのですが、いざ揺れがきても、自分がどう動いたらよいのかイメージが湧かない。防災対策も不十分だし。反省。。。

 帰宅途中に神保町の古書モールへ。今日は時間がなくて、30分位しか見ることが出来なかった。久しぶりに行ったので、新しい本が棚に結構入っていた。『包丁余話』(辻嘉一・日本経済新聞社)と『風の文庫談義』(百目鬼恭三郎・文藝春秋)を購入。『包丁余話』は赤坂の料亭「辻留」の主人であった筆者の署名入り。800円は嬉しい値段。最近庖丁人の文章が面白いような気がします。

 ふと歩きながら思ったこと。
 なんで小さい子供って「ばいばい」が大好きなんだろう。すれ違ったり電車に乗ってたりする小さい子供と目が合うと思わず「ばいばい」って手を振ってしまう。そうすると相手はもの凄く喜んで、もう必死に振り返してくる。そういえば、私も小さい頃は、車などから知らない大人に一生懸命手を振っていました。高速道路なんかで後ろの車両の人に手を振る、と、振り返してくれる、それがまた嬉しくて、いつまでも手を振ってたり。
 と、ここで気づいた。「ばいばい」っていうのは英語から来たんでしょうか?グッドバイ?じゃあ、「ばいばい」っていう言葉は昔の日本にはなかったのかなあ。では、手を振るのも昔はなかったのかな?それとも、昔は手を振る時に「ばいばい」以外の言葉を言ったんでしょうか?あ、でも、昔の日本には別れ際に手を振るようなことはなかったのかな?「ようっ」って感じで手を軽く上げるような仕草はしましたよね、きっと・・・。はてさて、昔の日本に、今のように別れ際に手を横に何度も振るような仕草はあったんだろうか・・・。
 わかんないなあ。
 


2005年02月15日(火) 退職残念。。。

 旧暦1月7日。
 ヤンキー先生こと、北海道余市町の北星学園余市高校の義家先生が、この3月で退職すると発表したそうだ。理由は、「全国でしている講演や執筆活動に、一部の生徒の親や教師から批判的な声があり、周囲との連携が不安定になった」(共同通信)とのこと。だけど退職しても、文筆家や教育評論家になるわけではなく、現場にこだわっていきたい、ということだそうです。
 義家先生について詳しくは知らないけれど、以前テレビやラジオ深夜便などでのインタビューで、何度か話しているのを聴いており、教育に対してとても情熱を燃やしている先生であり、一方で、非常に繊細で傷つきやすい人でもあるのだなあ、と感じた。私と同年代でありながら、すでにさまざまな苦労をしてきたそうで(家族のいなかった先生に新たな家族が出来た場面にはじーんときた)、だからといってタフなわけではなく、もろいご自分を懸命に支えながら、教育の場で自分の役割を追い続けてきた、そんな感じがします。
 実際の先生の現場で、どのような批判が起こっているのか、また先生がそういう中でどれほどの苦労をしてきたのか、詳しいことは分からないけれど、きっとまだまだ教育現場にいたいだろうに、気の毒だなあ、と思います。
 思うに、人と違ったこと、新しいことをやったり、自分の信念を貫き通そうと懸命になっている人を見ると、批判したりやっかみたくなる人がいるようです。私の知っている人で、誰もやらないことをやろうと行動し始めたら、とたんにあちこちから横やりが入って苦労している人がいますが、一生懸命になってる人に対して、どうして素直に応援できないのかなあ、といつも思う。他人の批判なんて、いくらでもできる。探せば探すほどどんな人間にだってボロや欠点は出てくるだろうし。でも、だいたい、そうやって、他人のやることにいちいち批判ばかりしている人っていうのは、自分が批判している相手以上の何かをやっているかっていうと、ぜんぜんそうじゃなくて、むしろその逆で、偉そうなことばかり言っていながら実は自分はなにもしていなかったりする。要するに、自分がその人以上の行動が出来ないから、だったら自分が頑張ってみようと行動する代わりに、相手の足を水面下で引っ張って、「おまえ1人ばかり飛び出ないで仲間と同じ高さにいろよ」と、言ってるのと同じわけで、日本人ってこういう傾向が強いよな、と感じたのは、昨年のイラク日本人人質事件の時。あの時、日本国内で人質バッシングが酷かったのは、どういうことなのかな、と考え突き詰めていったら、なんだか嫌になった。人を批判するのってすごく簡単でお気楽だ。でも、しじゅう批判ばっかりしてる人を見ると、じゃああんたはなんなの?と問い返したくなる。
 日記には偉そうなことあんまり書きたくないけど・・・、書いてるうちにカッカしてきちゃった。
 自分は人にこんな風に偉そうに言える人間じゃないけど、だけど、頑張ってる人に対して批判したり足引っ張ったり妬んだりする人間じゃなくて、応援したり、その人をお手本に自分も頑張れる人間になりたいと思うのであります。。。
 ニュース読んでなんだか無性に残念に思えて、一気に書いてしまいました。
 


2005年02月14日(月) 『地球(ガイア)のささやき』

 旧暦1月6日。
 バレンタインデー。4人の方々からチョコ戴きました♪嬉しいなあ!!(私は女)中には男性からのチョコも。いえ、私にだけじゃなくって、他の女性達と共同で戴いたのでございます。こういう場合、やっぱりホワイトデーにお返しするのかな?
 土曜に映画を観て、講演会も聞いた『地球交響曲』の龍村仁監督の著作、『地球(ガイア)のささやき』(角川ソフィア文庫)を読んだ。去年購入してからまだ最初しか読んでないうちに、ほっぽり出してしまっていた。今度は最後まで読みました。で、もっと早くに読んでおけばよかった、と少し反省。しかし、こういう本を読むには、ある程度の受け入れ態勢が読む側に出来ていないと駄目なようで、一時期ガチガチになって柔軟性がなかった私の内面が、今ようやく理解能力を持ち始めているのかも知れない。というか、この本に書かれているようなことは、昔から理解・・・はしていたつもりだけど、いっとき、はっきりしない事柄を拒否したい、という気持ちが働いていたことも確かです。地球に知性があること、オルカとの対話、風を感じること、共時性(シンクロニシティ)・・・
 世の中には不思議なこと、科学ではまだ十分説明のつかないことが沢山起こっているけれど、それをただ不思議なこと、と捉えるのではなくて、これまでの自分たちの思考の枠組みには当てはまらない現象なのだ、と気づくことは、おかしいことでもなんでもない、という気がする。世界がどんどん変化して、地球的な規模でいろんな出来事が起こりつつある今、1人1人の意識がそれにどう対応していくか、ということはとても重要なことなんじゃないだろうか・・・。今の生活の一部分にでも、自分の意識の変化を反映させることができるだろうか、毎日の暮らしのちょっとした場面に、グローバルな視点で動くということを取り入れることが出来るだろうか、と、思ってみたりもする。たとえ都会に住んでいたって、それは可能なんじゃないか。都会にいたって鋭く自然を感じることは、決して不可能じゃないし、狭い日本にいたって、地球的な規模で物事を考えることはできそうだし。
 『地球交響曲』も、龍村監督の本も、頭の中をちょっとシャッフルして、柔軟性を与えてくれるような気がしました。


あたろー |HomePage