あたろーの日記
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2004年11月30日(火) 一冊で、二度美味しい・・・かも。

 旧暦10月19日。
 それにしても、今の暦と昔の暦、結構ずれているもんですね。
 現代人の頭の中はもう師走気分でいっぱいだけど、明治より前の日本人は、今時分はまだ10月を過ごしていたなんて。

 古井由吉の近著である随筆集『ひととせの』(日本経済新聞社)を、このところ毎晩寝る前に、一章ずつちびりちびりと文章を味わうように読んでいます。その中に、過去に読んだ本の内容をすっかり忘れてしまうのだけれど、考えてみれば、毎回始めて読むように読めるというのは「徳」なのではないか、というようなことが書かれていました。
 古井氏ほどの人でもそうなのか、と、ちょっと安心しました。実は私もそうなのです。私の場合、読んで1年経つともう忘れてしまう。まったくお目出たいことです。夢中になって読んで、面白いと思っても、そのうち、面白かったということ以外、本の内容についてほどんど思い出せなくなるのです。
 今、『さぶ』(山本周五郎著・新潮文庫)を読んでいます。もう何年も、いや十何年も昔に読んだ本の再読です。初めて読んだとき、私は確か高校生だったような気がします。あのとき読んで、面白くて感銘を受けた、そんな記憶があるのですが、小説の中身をほとんど覚えていませんでした。
 今、再読していて思うのは、果たして10代の頃の自分は、この『さぶ』に描かれていることを、どれだけ理解していたんだろうかということです。
一字一句大切に選ばれた言葉、情景が浮かぶような描写、息の吹き込まれた人物達。面白くて、本を閉じるのが辛いほどです。『さぶ』って、こんなに面白かったんだ。こんなに大切に書かれた小説だったんだ、という感じ。たぶん、昔と今とでは、登場人物それぞれに対する私の想いも違うような気もします。面白い、というのは前回読んだときも今回も同じ感想だけど、その面白い、の中身は大きく違っているような気がします。それだけ、自分も変化した、ということなんでしょうか。。
 一度読んだ本の中身を忘れるというのは案外幸福なことだし、と同時に、読み手も変化するのに合わせて読み方も変わるんですね。
 一粒で二度美味しい、ならぬ、一冊で二度美味しい、ですね。


2004年11月29日(月) 昔の知り合い。

 旧暦10月18日。
 今の居住地に引っ越して来てからもう何度も見かけているのですが、かれこれ10数年前の知り合いである女性を今夜も目撃。当時、個人的に親しく話したことはあまりなかったけれど、今、お互い顔を見合わせて記憶の糸をたぐれば、きっと、ああそういえばあなたとはあの時一緒だったわねえ、と、納得し合える程度には知り合いだったと思う。相手の方は私より何歳も年上で、化粧も全くしない、服装にも全くこだわらない、というのは当時から変わらず。なので私のほうは彼女を一目見て、過去の記憶がよみがえったのだけれど、彼女のほうは私の存在などすっかり忘れてしまっているだろう、私のほうから話しかけない限りは。
 しかし、彼女と私の自宅が近いのか、活動範囲がほぼ一致する。というのも、スーパー、銭湯、コインランドリーで週に最低2〜3回はお見かけするからです。じゃあ思い切って話しかけてみればいいのですが、それが出来ない。何故かって言うと、私が見かけるときの彼女はいつも、その日の仕事を終えて、一人になって、完璧気を抜いて「素」になってしまっているのですね。。夜9時頃スーパーに寄ると、彼女が総菜売り場で割り引きシールのついたお弁当をひとつひとつ手に取ってはじーっと眺め入っていたり、銭湯の脱衣所で素っ裸で背中ボリボリ掻きながら半ば恍惚の表情だったり・・・。ああ、こんな時に「お久しぶりです」なんて声掛けたらかえって悪いだろうなあ、と躊躇してしまう。で、私は気づかない振りをしているのです。うん、この先もその方がいいかも。私も「素」の自分出してアホ面で近所ほっつき歩いている時に、自分の「仕事顔」を知っている人にばったり出くわしたら、はっきり言ってうろたえるもんね。例えばスーパーで長ネギ一生懸命ひっくり返して立派なのを探してる時なんて、会社の人にあんまり見られたくないし。
 というわけで、彼女の穏やかな私生活を脅かすことはしない、ひいてはそれが自分のためでもある、という結論に達したのであります。はい。


2004年11月28日(日) 「死」について

 旧暦10月17日。
 今日は朝から良い天気。少し開けた部屋の窓から見える青空と、入り込んでくるひんやりした空気が気持ちよかった。
 こういう日は家にじっとしているのが辛いけど、しばらく本は買わないと決めたので、我慢して引きこもる。積ん読が凄い状況になっている。読んだ本より読んでない本のほうが多い我が家。狭いのに。どんどん本を買ってどうする?せっかく買ったのに読まずに奥の方に忘れ去っていくのは本に対して失礼だ、と、反省。だいたい、私は遅読なほうです。
 今日はひたすら読み、夕方からは文章を書く。ところが書こうとするも、ちっとも先へ進まずに、分からないこと調べてばかり。・・こんな1日でも、いつか振り返って自分の糧になっているんだろうか。すこぶる疑問と不安。でもこんな日を積み重ねていくしか、自分を満足させる方法はない、と思う。

 メンタルな部分でぶつかって、夏から病院に通い、病院でカウンセリングも定期的に受けてきたけれど、今月でもう行くのをやめた。薬ももう飲まなくてやっていけるし、先生もそれができるならそのほうがいい、とおっしゃってくれたので。ただ通院もカウンセリングも続いていく予定だったのだけど、自分からやめた。
 カウンセリングが本来どういうものかは私にはよく分からないけれど、私が受けたカウンセリングは、初めのうちは女性カウンセラーと1対1で、そのうち、私のケースは結構厄介な状況だとのことで、さらに経験を積んだカウンセラーも加わり、2対1で行う形になった。病院の先生もこの熟練カウンセラーに全面的な信頼を置いていて、あの先生に任せておけば安心ですよ、みたいなことおっしゃっていた。
 カウンセラーの方おふたりとも、人間的にはとても魅力的な方達なんだろうけれど、カウンセリングを受けるうちに、私のほうで疑問が湧いてきた。
 カウンセリングでは、私の「自殺願望」(と呼ぶべきものかは分からない)が一体どこから来ているのかを探るために、私の抱えている問題、主に家族関係とか、仕事の状況とか、それから過去に身近な人の死をどれだけ経験、見聞きしたか、ということを話した。話すことで私のほうでは心の中で自然と整理がついてきた、けれど、カウンセラーの先生方は、私の周りで亡くなった人が多すぎる(私は普通の範疇じゃないかと思うけど)、と、遠い親戚で自殺した人や不慮の事故や病気で亡くなった知人(そんなに親しくなかった人達も)の死が、私に影響を与え続けているのだという結論に至った。それで、金縛りになったり霊を見たことがあるかと聞かれたので、両方ともある、と正直に答えると、さもありなん、というふうに納得され、私の周りで不本意なまま亡くなっていった人達が私から離れないので、私が「死」というものに惹きつけられ、メンタルな部分で重く沈み込んでいるのだと説明くださった。
 沢山の死んだ人が私にくっついているのでこのままでは私が危ないということで、カウンセリングの内容は、次第に亡くなった人達と私との関係(つきあいの度合いとか血縁あるかとか)や亡くなったときの状況、それを私が見聞きしてどう感じたか、その後その人のことを思い出すことがあるか、などを聞き出し、最後に除霊のようなことをする形になった。カウンセラーの方は別に新興宗教とか、怪しげな商売をしているわけではなく、所謂「エネルギーワーク」と呼ばれることをしているようです。だけど、私には次第にこれらのことが疑問に思えてきた。私のメンタルな問題は、すべて、死んだ人達の霊に起因しているとのこと。それも少しは当てはまるかも知れないけど、なんか違う、もっと違うと思った。それじゃあ私が存在しないみたいじゃないか。私は生まれてからずっと自分自身を見つめてきたのに、経験して、考えて、いろんなことを積み重ねて今の私がいるのに、それが霊の影響下にあるなんて、なんかおかしくないか、という気がした。根本的な問題は、そんな所にあるんじゃない。日々呼吸して、考え、行動している私は私自身であって、この場合、探っていかなければならないのは、私自身の内部であって、亡くなった人達に原因を求めるのは筋違いのような気がした。
 霊の存在は認めるし、心霊現象も体験するし、先祖の霊に手を合わせることもする。霊が人に影響を与えるということだってあり得るとは思う。でも、自分のことを何から何まで霊のせいにされてしまうと、じゃあ私自身はいったいナンなの?という気になる。私だって日々考えて生きてるんだよ、と。
 それに、昔の人達は、今よりもっともっと、死を身近に感じていた。医療が発達していなかったから多くの人が病で亡くなったし、戦争や災害で一度に多くの人が命を落とすことも多かった。現代だって、私よりもっともっと多くの死に囲まれている人達が大勢いる。病院勤務者やレスキューの仕事をしている人達、僧侶や神父をしている人達。葬祭場で働いている人達も。
 カウンセラーの先生は、私に「死」のイメージを喚起させるものから目を逸らすようにおっしゃる。地震などの被災地のニュースや事件なども含めて。けれど、現実には「死」は私たちの隣り合わせだし、読む本だって、私たちが「生」を考えることだって、なにもかも、「死」あればこそだ。人間の「生」は「死」というものが存在するからこそ、光を放つし、深みを増す営みになるのだと思う。「死」について考えるな、人の死から目を逸らせ、と言われても、では私はどうしてこの世に生きているのか、という疑問に結局ぶち当たってしまう。

 病院に通ったこと、カウンセリングを受けたことがまったく役に立たなかったわけではなく、むしろ大変助けて貰ったと思っている。先生方にはとても感謝しています。行かないよりは行った方が断然良かったと思う。これから先も、精神的に辛くて、自分でもやばい、と思ったら、躊躇せず病院に行こうと思う。ただ、カウンセリングというのは、難しいもんだと思った。

 結局私は家族や周囲の人達のサポートのお陰で、精神的にとても楽になれたし、あれほど自分に対して失い掛けていた自信を少しずつ取り戻して、毎日毎日の積み重ねによって、これから先の自分がどう変化するかという楽しみも生まれてきた。人間死ぬか生きるかの二通りしかないんだから、どうせいつかは死ぬのなら、それまで存分に生きて自分の可能性を試してみよう、という気がする。そういう自分にいろいろなことを教えてくれるのは、周囲の人達だし、世の中の出来事だし、本だし、それから亡くなってしまった人達の「死」でもあると思う。

 なんか独りよがりの文を長く書いてしまいました。。。
 


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