あたろーの日記
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| 2004年09月03日(金) |
暴力がものを言う時代 |
旧暦7月19日。 言葉の代わりに暴力がものを言う時代になってしまったような気がする。 対話なんてなんの役にも立たない、そういう哀しく恐ろしい世の中になってしまった。 暴力で解決することをまず第一に選ぶ人間という生き物は、これからも繁栄する価値があるのだろうかと疑問に思ってしまう。
| 2004年09月02日(木) |
お笑い垂れ流しテレビ。。。 |
旧暦7月18日。 ロシアの学校占拠はひどい。大勢の子供達を人質にとってなんになるのか。こういう事件が多発する時代に生きているというのは、自分にとってどういう意味を持つのか。意味なんてないのかもしれないし、あるのかもしれないし。別に自分になにか出来ると思っているからそう考えているのではないけれど、けれど、日本のテレビ番組の脳天気さはいったい何だ?と、呆れる。どこ回してもバラエティ番組だらけ。タレントが叫んで、会場で大笑い。って、そういう番組が悪いっていうわけじゃないけど、テレビ番組って、ほんとにほとんど面白くない。シリアスな番組やお堅い番組を増やせと言っているわけじゃないけど、番組を作る側の熱意がぜんぜん伝わってこない画面ばかり。7月にテレビつき携帯電話買ったけど、これで十分やんけ。 他の国ではこの瞬間にも沢山の人が殺されたり怪我をしたり恐ろしい思いを味わっているのに、日本ではテレビからいつも同じ顔ぶれがギャーギャーわめいてお笑い垂れ流し。じゃあどうすればいいのかと問われるとうまく返答できないんだけど・・・。だけど、今の日本って何かが欠けているような気がして。。世の中そういうもんかな、とも思うんですけどね。。。 今日はちょっと毒舌ですみません。
旧暦7月17日。 日中はまだまだ暑いけれど、朝の涼しさにほっとする。 人間のもつ技術の進化は一体何のためなんだろうと不思議に思う。 どんなに科学が進歩しても医療技術が進んでも世界が狭くなってコミュニケーション手段が増えても、いつもどこかで戦争が行われているんだな。。政治家はテロや戦争の種をまき、せっせと水をやって育ててるんだな、という感じがする。そのくせ、戦争や暴力沙汰の好きな政治家はいつも安全な場所で自分がいかに正しいかをわめくばかりで、一方芽が出て育った土地では弱い立場の人達がいつも犠牲になる。人間ってほんとうに暴力沙汰が好きなんだなあと呆れる。自分も人間だけど。 戦争のない世の中なんて理想論に過ぎないという意見もあるかもしれないけれど、人間は自分の持ち物ばかり進化させて、自分自身はまったく進化させてこなかった。そんなバカな話ってあるんだろうか?実際そうなんだよね、今。こんな安全な日本にいながら悲観的になってたって仕方がないのかもしれないけれど、人間に生まれた自分が恥ずかしい。そう思う時だってある。 宮沢賢治の詩を読みたくなって、さっき本棚をゴソゴソやっていた。昔買った新潮文庫の詩集は、今出ている同じ新潮文庫の詩集と違うようだ。最近思うに、たとえ文庫本でも、作品が書かれた当時の仮名遣いで読みたい。「いた」と「ゐた」では後者のほうが味わい深い。漢字もしかりで、なるべく作家が選んだのと同じ漢字で読みたい。簡略化された漢字よりも、多少読みづらくてもよいから、文字の意味、言葉の意味のひとつひとつにつまずいて、ひっかかって、そうして楽しみながら読んでいきたい。そうは言っても、10代20代の頃の私だったら、読みやすい現代仮名遣いのものを選んでいたので、若い読者がすんなり読みに入るためには今風にするもの必要なことだとは思う。幸いにも、著名な作家の作品はいろんな出版社がそれぞれ文庫として出してもいるので、旧仮名遣いを尊重する出版社のものを選ぶ自由があるので、嬉しいです。 知人に、宮沢賢治の詩の朗読会を続けている詩人がいて、彼らの詩の読み方は、私のもつ宮沢賢治のイメージと異なっていて、初めて聴いた時とても新鮮だった。腹の奥底から絞り出すような叫び声と、宮沢賢治の詩がどうしても結びつかないけれど、きっと、宮沢賢治の詩は、読む人それぞれのものとして、読み手の内部に取り込まれることが可能なのだと思う。 宮沢賢治は何度も何度も転びながら、言葉を噛み砕いて、少し読んで、ぼうっとして、またちょっと読んで、またぼうっとして、を繰り返しながら読むのが好きです。
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