あたろーの日記
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旧暦6月20日。 味噌汁の具のごとく浮き沈みが激しい奴。今日はさながらお麩のような気分であった。浮きっぱなし(といっても騒いでたわけじゃないけど)。 昨日まではじゃがいも。 どうやら地球の引力と月の満ち欠けに影響されるのは身体だけではないらしい。メンタルな部分も恐ろしく天体の運行に左右されている・・・らしい。だけどいつも落ち着いて穏やかな精神状態でいたい。
会社で雑誌の蕎麦特集を読ませてもらってたら、断然今夜は蕎麦、という気分になった。幸か不幸か食い意地はかなりあるほうで、食べたいものが頭に浮かぶとそれを口に入れるまで落ち着かず、他は目に入らなくなる。お風呂上がって近所の蕎麦屋の前まで行くも、躊躇する。なんてったって、蕎麦だけじゃなくて頭の中には蕎麦味噌と朝開き(蕎麦に合うという辛口の日本酒・・・まだ飲んだことない)がイメージされてるんだもの。実は蕎麦屋でまだ飲んだことがない私。焼鳥屋や居酒屋ではさんざん飲んでるのに、蕎麦屋ではもりそばをずずーっとやって、出てくるだけ。やはりここでもオヤジという人種が羨ましい。後から来たスーツ姿の男性が1人でガラッと戸を開けて入っていく。私ももりそばだけなら深く考えずに店に入るのだけど、今日はなんといっても蕎麦と日本酒の組み合わせでいきたい。しかも、雑誌で見た「蕎麦味噌」なるものが頭にこびりついている。三角形の蕎麦の実を味噌で香ばしく和えて焼いたものらしい。それとお酒でちびりちびり。。。と、そこまで考えて、店に入るのはやめた。まだ木曜日ではないですか。明日は友達と餃子を食べに行くんです。2日続けて外食とはバチ当たり(?)な。 というわけで、大人しく帰宅。先日買った蕎麦粉でそばがきを作って、白ごま入れた甘味噌も作って、それで日本酒を飲みましょう・・・と、そこまではよかったです。落語聴きながら自宅で飲むのがなんとも贅沢です。 なんだけどね、そばがきって実際、店で食べたことないのに、見よう見まねで作ってみたもんだから、茹で上がったものをお皿に上げて味噌つけて食べてたらすぐ堅くなってしまって。蕎麦粉好きなんですけど、あんま美味しくないや。・・・・後からネットで調べましたら、そばがきの美味しい作り方ちゃんと載ってましたです。 そういや前にも同じ失敗したような。。。ぜんぜん進歩してない。
| 2004年08月04日(水) |
エリック・ホッファー |
旧暦6月19日。 貧血っぽいので夜はレバニラ炒めにしようと定時退社して銭湯に飛び込んでスーパーに駆け込んだら嬉しいことに「レバーフェア」だって。豚レバーともやしをカゴに入れて嫌な予感した。案の定、野菜コーナーのニラは売り切れ。レバーフェアならニラも沢山仕入れておいてください。ということで閉店しかけた向かいの八百屋に行ったら奥から出してきてくれた。無事にレバニラ炒めできた。落語聴きながらレバニラ炒めとビール。なるべく残業しないで早く帰って来ないと。ごくごくオーソドックスな日常の繰り返しに喜びを感じる自分。特別なことはなにもいらない。 それでいいのかもしれない。
生きる意味とか人間の価値とか、そういうことを考えずにただひたすら生きていればいいと思った。人間は皆宇宙の中の小さな塵にすぎない。自分も。
エリック・ホッファーをもっと早くから読んでおけばよかったと悔やみながら、今この稀代の思索者に出会えたことを嬉しく思う。先日買った「エリック・ホッファー自伝」(中本義彦訳・作品社)に続き、「波止場日記」(田中淳訳・みすず書房)を読んでいる。一気に読み終えるのがもったいなくて、何度もフィードバックしながら、文章を噛みしめるように読む。 ドイツ系移民の子として1902年ニューヨークに生まれ、幼くして母を失い、7歳から15歳まで失明し、突然目が見えるようになったときにむさぼるように本を読み(学校には行っていない)、18歳にして父を失い天涯孤独の身となり、ロスに出てその日暮らしをしながら本を読み、自殺未遂をきっかけに季節労働者としてカリフォルニアを渡り歩く生活に入る。やがてサンフランシスコの港で沖仲士として働き始め、暮らしに事足りる分だけ働き、休みには本を読み思索する、という毎日を送る。その間にいくつかの著作が世に出、また大学で週1回、学生に政治学を講じる。テレビのインタビュー番組をきっかけにアメリカでホッファーブームが巻き起こるも、本人は華々しい場所に引っ張り出されるのを好まず、一生質素で慎ましやかな暮らしをし、1983年に亡くなった。 「沖仲士の哲学者」エリック・ホッファーの著作の邦訳はそう多くない。次に読みたいものは決まっているけれど、今は「波止場日記」を大切に読んでいる。 話の順序が逆になったけれど、「エリック・ホッファー自伝」は、自伝ではあるけれど、彼のまなざしを通して、彼と関わりを持った人々の生き様を(ささやかで哀しくてみじめで美しくて愛すべき生き様)描いている。人は宇宙の中の小さな塵にすぎないけれども、星の光に照らされてきっとどこかで一度や二度は輝きながら消えていく存在なんだと思う。 ホッファーの哲学が今の時代に読まれる必要性があるかどうかは、門外漢の私には分からないけれど、少なくとも、この自伝と、「波止場日記」は、今の私にとても重要な本だ。著作を通してホッファーを追いかけながら読むか、それともホッファーを過去の時代の思想家としてその著作を斬るか、それは人の自由だけれど、著者の生き方に共感しながら紡がれた言葉を読んでいくという作業は、この上なく充実したひとときだと思う。 人は必要なときに必要な本に出会えるものなのだと気がついた。
旧暦6月18日。 とうてい世の中の役に立つとは思えない自分。 仕事ができるわけではないし恋愛にも結婚にも興味持てないし服装にも化粧にもお洒落にも流行にも興味持てないし普通の人が普通にしていることができないどこにも居場所がない。興味がないのはそれを否定しているわけではなくてただほんとに自分の気持ちがそこに行かないだけなのに、非難の対象にされる。ただひたすら、本読んで文を書いて食べる分だけ働いて都会の喫茶店の片隅にでも小さく棲息しながら歳を取って死んでいけたら。或いはどこかの田舎で静かに晴耕雨読しながら静かに静かに細々と暮らしていけたら。そういう生き方は我が儘だと思われるだろうか。
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