あたろーの日記
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| 2004年03月20日(土) |
生まれた家と、もしかすると還って行く家。 |
旧暦2月30日。 春分なのに、東京は朝から雨。昼前にはみぞれに変わった。 3月20日。 地下鉄にサリンが撒かれた日。 イラク戦争が始まった日。
ヒトが地球上に存続していく限り、こうして忌まわしい出来事がカレンダーに刻まれ上書きされ続けるのだろうか、と、いつも乗る地下鉄の車両の片隅でぼんやり思っていたのでした。天体の運行の中に黒い記号を落としていく作業は、ヒト科の宿命として予め仕組まれたものなのか、それとも単なる偶発なんだろうか。占星術が未来にまで行われていたら、今の時代の混沌をどう俯瞰するのだろう。 未来にも国家というものが存在したとして、学校や教科書も(形を変えてにせよ)やっぱりあるとしたら、21世紀はどんな時代として子供達に教えられるのだろう。歴史学者達はテロや戦争に明け暮れた時代をどう記述するのだろう。
けれど、現代のど真ん中に生きている私自身は、占星術師でもないし、歴史学者でもない。限られた場所に立ち、限られた手段でしか情報を得ることができず、また限られた能力でしか思考することができない。肝心なことは省かれ作られたニュース映像、偏った抽出対象の世論調査、おとなしい世論を都合の良いように解釈する政治家、作り出されるブーム。いつの間にか他人の服を着て、他人の靴で歩き、他人の家に帰っていく毎日を送っていることに気がついて、愕然とするのだけれど、その時には誰に服や靴を返して、誰に道を聞くかあるいはどの地図を使えばよいか分からなくなっている。そして、自分の家に帰る道順を完全に見失う。自分だけではなく、路上には帰り道を忘れた人達があふれ、リビングの灯りのついた家々も実は空っぽだったりする。 たぶん、この世の中に、自分の帰る場所をちゃんと知っている人なんて、ほんとは1人もいないんじゃないかという気がする。生まれた時代や場所や性別や周囲の環境など、その人の属性が思考や思想に与える影響は、計り知れない。じゃあ人が帰るべき自分の家というのは存在するのかと言われると私の頭では自信がなくて、でも、たぶん、人は生まれた瞬間にはおそらく知っていたであろう自分の家のありかをいつの間にか忘れてしまうけれど、そこは探してたどり着くにはあまりにも遠く困難な場所なのかも、という気がする。もっと言えば、ヒトは皆、同じ一つの家から生まれてそれぞれ思う方向に飛び出して行ったのではないか、けれど同じ家に生まれたはずの家族の顔すら忘れてしまったのではないだろうかとまで思ってしまう。 同じ一つの屋根の下で生まれた者同士、感情を共有し、痛みを分かち合うことは可能であるような気がする。それとも「家族」であるためには、一定の期間生活を共にしお互いコミュニケーションを取らねばならないのだろうか。また憎しみの感情や深い傷が生じてしまったら修復は困難なほど、家族とは業の深いしがらみだろうか。 ヒトが人であるために、不確かな存在である自分の生まれた家のありかを頭の隅っこにでも刻み込んでおくためにも、同時代にいる他の人々の想い、痛み、感情を、国家や宗教や民族という枠組みを超えて、共有することが必要なのではないかと、ヒトが人として存在していくための基本はすべてその位置に帰結するのではないかと、そんな気がします。 ・・・ただ、ヒトという現象を外から見るだけならば、そんな理屈こねる必要もないわけですが。。
支離滅裂で抽象的なことばかり書いてしまってスミマセン。 自分自身理解してないことが多すぎるのですが、最近こんな風に考えてました。
旧暦2月29日。 今週の東京は気温が20度を超えたり桜が開花したと思ったらそれも束の間、暖房なしではいられない逆戻りの寒さ。
「週刊文春」の販売差し止め問題。「週刊文春」のサイトに「声明文」が掲載されていた。日本のマスコミには個人のプライバシーに対する良識がないんだろうか。自分たちの主張ばかりで、プライバシーを暴かれた私人に対するお詫びの気持ちはまったくないみたい。
以下、「声明文」の一部より。
とくに今回の仮処分決定は、「プライバシーの侵害」という言葉を、その具体的な内容の開示を封じることによって逆に肥大化、独り歩きさせ、もって雑誌ジャーナリズムヘの評価を不当におとしめるものであった。これは異常な事態である。
・・と続くわけですが。。 あの、「雑誌ジャーナリズムへの評価」をおとしめているのはマスコミ側ではないでしょうか。だいたい、言っちゃ悪いけど、レベルが低いですよ、やってることの。確かに今回の販売差し止めは、言論の自由という観点からだと警戒すべき事態かも知れないけれど、公にはなんの落ち度もない一市民を守るという観点からは、やむをえない措置ではなかったかと思います。 今、この国にある「言論の自由」「報道・出版の自由」は、何十年も前から多くの人達が時の権力と命がけで戦ってきた結果だけれど、一市民のプライベートを暴く記事を書けるようにするために、小林多喜二や三木清が命を落としたわけではない。「言論の自由」の重みや大切さを忘れているのは、当のマスコミではないかという気がします。 普通に生活していても、職場や家庭で相手に言っていいことと悪いことがあるのと同様、記事にして良いことと悪いことがあるのは当然だと思います。他人の噂話やあら探しが好きで、おまけに自己チェック機能が働かずに言いたいこと垂れ流し、それを指摘されると逆ギレする週刊誌を読むのはもうやめようと今日誓った私です。 自衛隊のイラクでの活動についての報道規制に対するよりも、真紀子さんの長女のプライベートに関する記事をめぐっての販売差し止めに対して躍起になって抗議しているマスコミって、そもそも「言論の自由」や「知る権利」についての問題意識の置き場所間違えてるんじゃないかって思います。
| 2004年03月18日(木) |
検閲か、言論の自由か。 |
旧暦2月28日。 「週刊文春」、結構面白いので時々買ってたんですが。 別に田中さんの長女の味方ってわけではないけど、公人ではない個人の離婚を記事にするのはまずいですよ。それで司法の判断に対して日本雑誌協会が「事実上の検閲」だなどと反論するばかりなのはかなりのおごりだと思う。確かに言論の自由は尊重されるべきだけど、マスメディアは、公人にしろ私人にしろ、人の情報を勝手に拾い上げてそれを自分たちの商売道具にしているという負の側面を自覚しないと、出版社が雑誌を売らんがためにその陰で一個人のプライバシーや日常生活が犠牲になるという恐ろしい仕組みがまかり通ることになってしまう。極端な話、それって、ソフトバンクが儲けのためにヤフーBBの加入者躍起になって増やして、その裏で個人情報漏洩させてたってのと、結果的には似てない?、と思ったのでした。確信犯だからもっとタチ悪いよね。 でもって、じゃあ「週刊文春」の記者の離婚劇を同じ紙面に掲載できるかというとそうじゃないんだなこれがきっと。他人のプライバシーは簡単に暴露するけど、記事を書いてる自分のプライバシーは表に出したくないでしょう、記者さんだって。ずるいよね。それに自分や自分の家族が平穏な結婚生活を送っているかというと必ずしもそうじゃないと思う。人生いろいろだものね。それを、自分のことは棚に上げて、他人のあれこれを偉そうに記事にするなんざ、おかしな話でござあ。 ペンは武器とよく言われますが、凶器となってしまうことも十分あるわけで。
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