あたろーの日記
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2004年02月12日(木) 子猫の気持ち。

 今日は旧暦の1月22日。
 
 新潟に住む妹からメール。幼い子供達に囲まれて、忙しいけれど穏やかで充実した毎日のよう。
 実は昨年12月の中頃に、疲れ切って半泣き状態で夜中に電話をしてきたことがあった。
 
 妹家族が古い借家に住んで2年ほどになる。引っ越してきた当初は長く空き家で、縁の下に母猫と子猫3匹が住み着いていた。猫好きな妹は乳児を抱えていたため猫を家の中にこそ入れなかったけれど、外でご飯や牛乳をあげたりしていた。その頃私との電話では、確かに「猫の鳴き声が賑やかでね、でも、かわいいの」と楽しそうに話していた。
 それが、いつの間にか子猫が1匹消え、2匹めが消え、さらに親猫も消え、最後に1匹だけ子猫が残るだけになった。子猫といってももうニャーニャー一人前に鳴ける位には成長していたけれど。
 1匹残った猫はしばらく母猫や兄弟達を求めて鳴き続ける毎日を縁の下でおくったあと、ある日ぱたりと姿を見せなくなった。そんなに猫にかまうほどの余裕もなく、子育てに夢中だった妹が知るのは、ただ、1匹ずつ猫を見かけなくなり、とうとう最後の猫もいなくなってしまった、という程度で、死んでしまったのかも、単に遠くへ移動したのかも当然分からない。
 
 それから1年以上たち、そういえばこの家の縁の下に前は猫の親子がいたんだよね、位に記憶も薄れた頃、3歳になる長女が、家の中で異様にびくびくするようになった。長女は、おっとりしているというかのんびりしているというか、妹が「この子ほかの子に比べて成長が遅くて心配」と言う位、言葉をしゃべるのも遅かったのだけど、独特の感受性が発達しているらしいと妹が気づき始めたのは昨年の秋の終わり頃だそうだ。
 昼間でも夜でも、1階の居間の一角を見て急に激しく泣き出し、「どうしたの」と聞くと指さしながら「にゃんにゃんが怖い、にゃんにゃんがいる」と言う。その方角にはテレビと壁しかない。また、買い物から帰宅して家の脇の駐車場に車を入れると、目の前にある木を見て堰を切ったように泣き出す。「にゃんにゃんがいる、こっち見てる、怖い、怖い」だそうだ。そのため、彼女は車に乗るときは後ろの座席に行きたがる。ふつう子供は運転席の母親の隣に座りたがるものだけれど、彼女は助手席には座らず、後ろの座席に逃げ込む。車の時はそれで解決するけれど、家の中はそうもいかない。次女が機嫌良く遊んでいる脇で、長女はしょっちゅう部屋の一隅を見て立ちすくみ、震えて泣き出す始末。そのたびに妹は「大丈夫だよ、にゃんにゃんなんていないよ」とあやすけれど、「いる、いる、怖いよう」の一点張りで、片方が泣き出せばもう片方もつられて泣くのが子供、しまいには家中に幼い子供2人の泣き声が響く、という毎日で、妹もさすがに疲れがたまっていった。
 そういう毎日がしばらく続いたある日、いつものように買い物から帰宅し、子供達と一緒に家の中に入ると、狭い玄関からすぐの居間の方から、ぷーんと、獣の匂いがした、という。実家には猫と犬が何匹もいるので、私も妹も猫のいる家の独特の匂いを知っているけれど、その、猫の匂いが確かにしたそうだ。それが、居間のテレビのあたりで強く感じられる。まさか、留守中にどこからか入り込んだかと思い、あたりを確認したけれど、何もない。その時の長女は、やはり、「にゃんにゃん、怖い、いやだ、いやだ」と言いながら居間に入ろうとせず、泣き叫んでいたそうだ。
 旦那さんと二人で「いったいどうしたもんだろうね」と思ったりはしたけれど、長女が怯えて泣くのはたいてい旦那さんが仕事で不在の時なので、彼がその現場を目にすることはない。現実にその場面に毎日直面している妹のほうは、母親と子供達だけの部屋で、長女が神経を尖らせてびくびくし、怯えて泣く、それに連鎖して次女も泣く、という繰り返しに、自分も泣きたいほどくたくたになってしまった。

 それで、12月になって、妹は私に電話で相談してきた。実は、実家の両親、特に母は、幽霊とか、不可思議な出来事について語り合うのを異様に嫌う。たぶん母方の祖父と、父方の祖母が生前それぞれなんやかやと不思議な経験をしていてその手の話を聞かされるのがいい加減嫌だったらしい。私もそのケがあるのだけれど、実家の廊下にこういうのがいた、とか、寝てるときにこういうめにあったとか話すと叱られるので、妹だけに言うようになった。我が実家ではタブーな話題なのである。でも、妹だけは私の話に興味を持って聞いてくれていた。
 話を戻すと、12月に妹から電話があり、長い長い説明を受けた。最後のほうでは彼女も涙声になって、長女が最近どんどん情緒不安定でおかしくなってきているし、家の中もなんとなく陰湿で暗く感じられる、どうしたらいいか、と言う。はあ、ちょっと困った。幼い子供の中には特にアンテナが鋭くて、他の人に見えないものが見えたりする子も多いと思う。それと一緒になって母親までこうも神経質になり始めると、ただでさえストレスも溜まる核家族の子育てでもあることだし、妹の性格からしてともすると危ないなあ、と姉として心配になった。こういう時は、カラッと明るくできれば解決することもあるんだけどなあ、なんて、思いながら、うーん・・・。でも、まさか、テレビ番組みたいに、祈祷師とか霊能者呼んで・・みたいなこと、するわけにはいかない。世の中には理由も分からず悩む人の心につけこんで、お金を払えば何か他の力に頼って解決してくれるよう仕組む人もいるけど、それもちょっと違うし。
 妹は、早く帰省して、新潟に来たらまず彼女の家に泊まって、家の中を見て欲しい、と言う。でも、妹の話を聞いたら、長女が見て怖がっているものがどういうものなのか、疑う余地はないような気がした。
 まず、駐車場の木は、猫たちがよく登って遊んでいた木だそうだ。居間のテレビの下あたりが、縁の下でもちょうど猫たちが休んでいた位置らしい。
最後に1匹残って毎日親と兄弟を求めて鳴いていた子猫。そのあたりにもしかしたら死んでいるのかな、という気がした。寂しいんじゃないかな、と思った。だから、妹に、必要以上に怖がらないで、猫が生きてたときのように、時々お皿に牛乳を注いで縁の下の入り口か、テレビの隣に置いてあげることと、長女には、「にゃんにゃん、確かにいるね、遊んで欲しいからこうして来ているんだよ」「にゃんにゃんにばいばいしようね、にゃんにゃんばいばい」と言ってあげるように、と伝えた。それから、時々、頭の中で、子猫が母猫たちと一緒に仲良く去っていく様子を想像してごらん、と教えてあげた。たぶんそれをしばらく続ければ状況も変わると思うよ、と。
 その時、妹が、「塩も盛っておいた方がいい?」と聞いてきたけれど、それは必要ないんじゃないかと思って「いらないんじゃない」と答えておいた。一人暮らしならまだしも、旦那さんも旦那さんの両親も近所の人の目もあることだし、そこまでしなくても・・・と私は心配したのだけれど、結局妹は部屋の隅に塩も盛っておいたらしい。まあ、塩は浄化の意味もあるというけれど。ただ、一番大事なのは、猫に対する「気持ち」なのかな、という気がした。

 果たして、それから1週間後、妹から電話がかかってきて、私に聞いたとおりのことをやってみたら、長女も泣かなくなったし、匂いもなくなった、部屋の中もなんとなく明るくなってきたような気がする、とのこと。
 結局、年末に帰省した時、私は熱があったせいで妹の家には寄れなかったけれど、その必要もなかった(私が行ったからどうなるってわけでもないだろうけど)。それからも、妹からはかわいい姪っ子達の遊んでいる姿が携帯の写真で送られてくる。ほんと楽しそう。
 
 それにしても、人間も含め、動物の想いって、強いんだね、と、その後妹としみじみ語り合ったのでした。
 


2004年02月11日(水) 梅の花

 旧暦の1月21日。
 昨夜は仕事を終えてから友人と夜遅くまでおしゃべりしていた。
 気兼ねなくメンタルなことや本の話をし合える相手は嬉しい。
 銀座で食べたモンブランのケーキが、すっごく美味しかった!あんなに美味しいのは初めて。。。

 今日みたいに週の真ん中が休みだとほっとする。・・・でもほっとしすぎてあっという間に終わってしまう1日。
 三味線のお稽古、浅草橋までポタ子(MTB)で行った。途中、湯島天神のそばを通ったら、梅の花の香りがふわ〜っと。。。
 江戸時代に表された『江戸名所花暦』(ちくま学芸文庫に所収)は、四季の花鳥風月を43項目に分類してひとつひとつについて解説をつけたもの。めくるとまず最初が「鶯」で、次は「梅」。梅が咲いてようやく花暦が始まる。次は「椿」「桃」、そして「桜」。これから4月まで、春が少しずつ近づいてくる楽しみを花たちが感じさせてくれるんだなあって思ったら、寒さが急に吹き飛んだ。
 それにしても、不思議、というか、面白いというか・・・街の風景がどんなに変化しても、花の香りは昔からずーっと一途に同じなんだよなぁ。


2004年02月09日(月) 紙の上の文字。

 今日は旧暦の1月19日。
 曇りがちで、痩せていく月を観ることができない。

 今日は残業せず、銭湯に寄って20時半に帰宅。朝から水に浸しておいたお米を文化鍋で炊いている間に冷凍庫からウィンナーを出し、軽くゆでた後、冷蔵庫の獅子唐や舞茸、玉葱と一緒に炒める。オリーブ油、ニンニクで強火でサッと炒め、獅子唐の青さが鮮やかなうちに、酒、醤油をザーッと回し入れ、あまりかき混ぜずに、むしろ味にムラが出るようにして、最後に粗挽き胡椒をパッパと振り、火から下ろして、ご飯を盛ったどんぶりの上に乗せる。
 平日の夜とか、忙しい時とか、もっと時間を節約したい場合のご飯は、たいていワンプレートディッシュか、丼もの、あるいは麺類です。炭水化物のとりすぎにならないように、具は野菜を多めにして見た目で満足感を得られるようにします。ワンプレートの時は、常備菜をちょこんちょこんと盛って、流行のカフェご飯みたいな雰囲気にして気取ってみる。で、机に座ってパソコンの画面見ながら食べちゃう。誰にもとがめられないから、とってもお行儀が悪い。
 忙しくて手抜き料理が多いけど、それでも、外で食べるよりはマシ。平日は圧倒的に外ご飯だけど、ほんとは自炊しない日が数日続くとすぐ体調崩す人間。気がつくと、作っている料理は、しぜんと、自分の体にそのとき足りてない素材を使ったモノになっている。自分の体と一番長くつきあっているのは自分自身だから。・・・もっと自分の手でご飯を作る日を増やさないと。

 「一太郎2004」をあれこれいじってたけど、とても使いやすいなあって思った。使い込んで、自分のワープロに育てていこうと思う。まずはこちらが使われないようにしないと(笑)。
 
 朝起きてまずパソコンの電源を入れ、会社でも一日中パソコンを使い、帰宅してもパソコンを触り、と、一昔前に比べたら数倍もパソコン三昧の自分。今や新聞までパソコンで読み、メールマガジンやデジタル本をザウルスに入れて外にでる。手紙よりメールのやりとりのほうが断然多くなり、携帯電話の画面も日に何度も見る。そんな私だけど。

 紙に印刷された文字と、手書きの文字がやっぱり一番大切です。

 デジタルな文字はいつ目の前から消えてしまうか分からない、そんな不安に駆られながら読んでしまう。紙に書かれた文字は、ページをめくる感触を味わうことのできる本は、目の前から逃げていかない、こちらが望めば、いついかなる時でも、何度でも語りかけてくれる、そんな安心感がある。古い本の黄ばんだページ、活版印刷の味のある文字、読みながら共感して引いた傍線。分からなくても背伸びして分かったつもりで検討つけた傍線。。食べながら読んじゃった時にページに挟み込まれた、お菓子のくず。。。
 電子文具をいじっている人もかっこいいけど、ほんとは、携帯電話のキーを指でいじくっている男性達を見ても、あんまり魅力的だと思えない。ビシッとスーツ着こなした男性が必死に小さな携帯の上で親指をもぞもぞさせている姿って。。。滑稽に思えてしまう。私自身も携帯メールしてるから、これは自分勝手な見方だとは分かっているんだけど。
 それよりも、電車の中やホームで、文庫本を読んでる人を見るとハッとする。いいなぁ、って思う。男性も女性も、斜め45度に視線を落として集中している表情って、どんな人でもドキッとするほどかっこいいんだって気づいたのは、もう何年も前。周囲からは見えない、自分の目の前にだけ展開する文字の世界に夢中になっている姿は、実はとても色気のあるものなんだって思う。
 ・・・これも自分勝手な意見ですが、電車の中とか、人前で漫画を読む男性って、かっこわるいと思う。あくまでも私の独断なので気を悪くした人がいたらすみません。でも、漫画は誰も見ていないところで読んで欲しいって思ってしまう。だって、漫画を読んでいる人の表情って、ページに描かれているキャラクターの表情そのまんまなんだもん。読んでる人は気づかないかもしれないけど。昔、ある漫画家のインタビューで、彼女が、漫画を描いている時は描いているキャラクターと同じ表情しながら描いてる自分に気づくんです、というようなことを言っていた。

 人様に読んでいただけるほどの出来にはなかなかならないのですが、小説を書いています。芽が出る出ないに関わらず、人の評価にこだわらず。初めて物語を書いたのは小学生の時、原稿用紙に。高校生の頃は、受験勉強をしている振りをしながら、机の引き出しに忍ばせた横書きノートに。
 20代の半ばを過ぎて、同人誌や物書きをしている先輩達の仲間に入れてもらい、自分の書いた作品を人に読んでもらう形にするために、ワープロで入力することを始めてから、しばらく、「書く」ってどういうことなのかな、と、自分なりに模索しながらやってきた。
 数年前に、「文学界」という文芸雑誌上で、書家の石川九揚氏の論述が契機となり、しばらく、「ワープロか、手書きか」という論争が続いた。何十人もの現役作家に、小説を書く際何を使って書くか、なんてアンケートまで採って掲載された。それを読んで思ったのは、文章を書くスタイルは人それぞれなんだなあ、ってことで、別に、紙に文字を書くという行為に普遍的な意味が込められる(小説に関して言えば)わけじゃないんだってことだった。手書きにこだわるひとはこだわるし、こだわらない人はこだわらない、ワープロだからといって中身の薄い小説になる、というわけではない。
 ただ、拙い文章ばかり書いている私だけど、私は、小説の場合、まず手書きです。原稿用紙に、鉛筆書きです。いきなりワープロだと、言葉が上滑りして脳みそより先に指先が思考してしまう。ストーリーを追ってしぜんと先へ急いでしまう。結果として、話の筋だけに重点が置かれて、行間から湧き上がってくる文章の生命力のようなものが、作品に感じられなくなってしまう。もちろん、ここに書いている日記は画面に向かって思いつくままにキーを叩きますが、小説の場合は、原稿用紙を真っ黒に埋める行為の繰り返し。書いた文字に線を引き、隣に小さく候補の言葉を並べ、こうと決めた表現を楕円で囲み、つぎはぎだらけの文章を、パッチワークよろしく並べ替え、膨らませ。。よく言われることだけれど、ワープロだと、文章を修正して更新してしまうと、修正する前の部分は消えて残らない。原稿用紙だと、あとで読み直して「あ、やっぱりここは最初に書いたのでいいや」と元に戻したり、文章の変化の過程を追うこともできるけれど、ワープロだとそうはいかない。いつも最新の文しか残らない。
自分の書いた作品をしつこく練り回すのが好きなのと、ゆっくり立ち止まりながら書く性格なので、原稿用紙に鉛筆書き、というスタイルが一番私に合っているようです。
 でも、手書きの大切さに気づくまで、あーでもないこーでもない、と、ワープロ書き、手書き、交互にしてみたり、それなりに試行錯誤でした。そのうち、ワープロで書いた文章と、手書きの文章では、自分の場合、呼吸というか、リズムも異なるということが分かり、書くモノの性質によってワープロ、手書きを使い分けるようになりました。今は、小説を書く場合は、まずは手書き、最後の清書だけワープロです。

 とりとめもなく書いてしまいましたが。。。。。
 デジタルなことに興味を示し、手を出しつつも、捨てちゃいけない大切なことも続けていこう、と、思っています。
 


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