あたろーの日記
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2003年11月20日(木) 同じ誕生日

 同じ誕生日、同じ干支の女性を、お気に入りの本屋へ案内して、それから一緒に食事をした。
 何回か顔を合わせて会話をしていて、ふとしたことからお互いの誕生日が同じで、12歳彼女のほうが上だけど干支まで同じということも知った。
 何から何まで一緒、似ている、というのは怖いしありえないけれど、興味のベクトルがほぼ同じ方向で、マイペースに自分の人生を歩んでいる先輩という感じ。彼女の話を聞いていると、あ、自分もありのままでいいんだな、と思えてくる。常におおらかなところ、興味のあることに対しては向学心がある点は私も見習わなければと思う。
 誕生日が同じなら共通点も多いでしょう、とか、運命だとか、そういうことはあまり興味がないけど、会話をしていて、ふと、お互いに「そういえば私達って誕生日おなじだもんね」と笑えるっていうのは、不思議に楽しくて心温まることだなあ。


2003年11月19日(水) らい病

 友達と食事。
 豆腐や湯葉をふんだんに使った創作料理の店。落ち着いた和風の造りの店でとても好きになった。料理も美味しいし。

 毎日がめまぐるしく過ぎていく。けれど、手元に確実な手ごたえが残るわけではなく。ただただ必死に波を掻き分けて進んで来たはずなのに、振り返るとまだすぐ背後に岸がある。お互いにそんな年齢。 
 自由な海原にいるはずなのに、長く泳ぎ続けるための道具がない。道具を揃えずに泳ぎ出せるほど無防備にはなれない。そんな年齢。
 波間で途方に暮れる者同士だからこそ理解しあえる想いもある。
 話せば心が軽くなることも多い。

 
 九州で元ハンセン病患者の人達の宿泊を拒否したホテルがあったそうで。
 すぐにほうぼうから非難の声が上がり、支配人が謝罪するに到った。それは当然だけど、実際はそのホテルだけでなく、日本全体がそういう病気に対してまだまだ差別意識を捨てられないのでは、と思う。拒否したホテルを非難する声がマスコミに大きく取り上げられていても、ほんとは表に聞こえてはこないけど、自分だったらそういう病気の人と同じホテルに泊まるのはいやだ、という思いを抱えた人は少なくないのでは、と思ってしまう。日本の社会の体質が、数十年でそれほど大きく変化するとは思えない。被差別部落に対する差別がいまだに存在するように、ハンセン病に対しても、差別意識は依然残っているのではと思う。
 「いのちの初夜」(北条民雄・角川文庫クラシックス)。東村山のらい病(ハンセン病)患者が暮らす病院で、24歳の若さで亡くなった北条民雄の小説集。らい病棟で暮らす人達の日常を、生を、死を、ありのままの視線で、リアルに描き出す。発病が分かれば近所にも知らせず、そっと家を出てらい病院に入り、一生を、短い一生を、世間とは完全に隔絶された病院で送ることになる。残された家族が世間から差別を受けないように、元の名前も変えて、家族との繋がりも断ち、外出もできず。菌に侵されて溶けていく顔、溶けて朽ちていく腕や足を眺め、うめき、苦しみ、死がひたひたと自分のベッドに迫り来るのを感じながら、毎日を閉ざされた病院の中で過ごす。まだ症状の軽い患者でも、重病の患者を目の当たりにすれば、やがて自分の行く末を見るようで、それがどんなにつらいことかは想像を絶するほどだったろうと思う。
 北条民雄が自分の持てる限りのエネルギーを創作活動につぎ込んで作品を残してくれたおかげで、今それを読むことができるのを感謝する。その中で、凄まじいほどの生命力をらい病棟の登場人物達に感じる。自分の体と、感情と、生と死を、これほどまでに身近に感じざるを得なかった人達の、病院の内側から見た真の姿。差別される側の想い。
 なにより、この小さな文庫本にぎっしりつまった生命力に圧倒されて、私はこの本を手放すことができない。大げさではなく、私の人生観に強い影響を与えた本だ。
 


2003年11月18日(火) 「本物」と「成功」

 「本物」と「成功」という言葉の意味がよく分からない。
 最近このふたつの言葉がやけに流行っているようなんだけれど。
 「本物」は主に商品とか、モノに対して。「成功」は・・・先日とある店の店主のおばちゃんが「あたしはこの目で成功する男を見分けられる。くだらない男連れてる客にはあんな男と早く別れちまいなって言ってやるんだ」と豪語してた、そんなような使い方でよく登場(その店にはもう行きません)。
 お店で本物志向、という言葉を耳にすると、押しつけがましさを感じてしまう。なんでだろ。
 なんでかなあとずっと考えていた。本物があるからには偽物、本物でない物もあるわけで、ある集団の中から本物を選び取ったらあとは本物でない物達が残るわけで、そういう1点至上主義的なところがなんとなく好きになれない。生産に従事しない人間が、生産された物に対して本物とかそうでないといった評価を下してレッテルを貼ることに対しても不快感がある。
 最近は雑誌でも、ショッピングのカタログでも、デパートでも、「本物」という言葉があふれていて、「本物の・・・」とつけば安心して買ってしまう消費者の心理をよくついているような気が。。。
 誰にとっても同じ価値基準があるわけではないのに、「本物」とか「逸品」といった類の言葉で半ば強制的に共通する価値を決められてしまうのは、その物にとっても、他人にとっても迷惑。でも、今は何故か「本物」流行りで、「本物」とさえつけば、皆安心してしまう。
 「本物」しか買わない、使わない、「本物」だけに囲まれて暮らしたい、という人もいる。それが、その人にとっての「本物」ならばそれでいいと思う。でも、その「本物」はその人が決めた「本物」ではなく、他人が貼り付けた「本物」札のついた品物だったら、滑稽だ、と思う。
 無農薬で作られた野菜が「本物野菜」で、農薬を普通に使った他の野菜と区別されて売られていた。私から見たら野菜はどれも野菜で、本物もなにもあったもんじゃない。私もスーパーでは減農薬や無農薬で作られた野菜を中心に買うけれど、それが「本物」だから買うんじゃなくて、体のことを考えてと、味がいいから買うだけだ。
 本物の器とか、本物の酒、というものも私の部屋にはない。私にとって良いもの、大切にしたいもの、作った人の顔が見えるもの、手の技が感じられるもの。そういうものを大事に使っていきたいと思う。でも、「本物の」と世間で評価されたものが果たして自分にとってよいもの、魅力的なものかは分からない。
 
 「成功」という言葉もしかり、で、何が「成功」で何が成功じゃないのかなんて、当人でなければ分からないもんなんだから、他人を評価してあの人は成功した、しないとか、成功する奴だなんて言うのはまったくのナンセンスだと思う。成功の人生か失敗の人生かじゃなくて、その人が自分の人生について、毎日の暮らしについて、ほかのいろんなことについて、どんな思いを重ねて生きてきたか、ただそれだけが人生であるし、本人が最後に満足しながらあの世に往生していくのであれば、他人から見てどんなに貧しくどんなに孤独に見える暮らしでも、それで十分いとおしむべき人生だと思う。

 「本物」も「成功」も、本来なら個人個人がどう思うかをそれぞれの内面に照らし合わせて判断すべき対象を、いとも簡単に、半ば暴力的に、絶対的な基準の下に置いてしまうという、いわば手抜き用の用語で、枕詞にそれさえくっついていれば安心してしまう側の安易さが怖い。
 「本物」や「成功」からのあぶれものの中にも、光を放つものは沢山あるはず。
 自分にしか分からない、それで十分だとも思う。


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