あたろーの日記
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「ゆるしゆるされるとは、恋愛関係のピリオドなのだ」というくだりが、今読んでいる俵万智著「あなたと読む恋の歌 百首」(朝日文庫)にある。
赦せよと請うことなかれ赦すとはひまわりの花の枯れるさびしさ(松実啓子) という短歌についての解説で書かれているのだけれど、読んでいてなるほどなあ、と納得していた。愛するにせよ、憎むにせよ、相手を強く思い続けるという行為に変わりはない、ということが前提にある。
もう何年も前の話になるけれど、「4年経ったら帰ってくるから、それまで待っていて」と言われ、成田で見送った人がいた。何年でも待てる、と思った。会えるのが年に1回か2回でも、彼から来るエアメールの数が減っても、海の向こうできっと頑張ってるんだと思うと、会えない辛さはなんてことはなかった。・・・と、思う。 そろそろ、あと1年、いや、あと数ヶ月で帰国になるかな、という頃に、それは突然終わった。今思えばいろいろ伏線はあったのだけれど、その時の私にとっては突然だった。 「ゆるさなくていいから、ずっと憎んでくれてていいから」と電話口で彼は何度も言ったけど、結局私はゆるすことにした。しばらく、1年間、いやもっともっと長い間、涙も出ず、目にするものすべてが色褪せて見えていた。ほんとうに、ものや景色の色が褪せて見えるということは、ある。でも、その間ずっと、私は心の中で、相手をゆるす作業を一生懸命続けていた。裏切ったとかひどい奴だとか、そんな風に思いたくなかった。昔のように女友達に話して痛みを和らげてもらうことも考えつかなかった。ただひたすら、あちこちの重い扉を、1人で閉めて回っていた。相手が自分と一緒にこの先歩いていくことを選ばなかったのは仕方のないことだ、人は自分の幸せを第一に考えて行動していくのが当たり前なのだから、彼の行動を責めるわけにはいかない、と、そんな風に考えていた。人を悪く思うことに自分の心を費やしたくなかった。 そんなふうに思いながら過ごしていたある夏の日に、街路樹のセミの抜け殻を見て、自分も今こんな感じかも、と、ふと思った。 終わりかけた恋愛において、相手をゆるすということは、相手に対する想いの質や量を、自分から変化させることなのだと気づいた。 愛情と憎しみは紙一重で、質量も同じ、費やすエネルギーも同じだ。ゆるすという想いは、そこから離れたところに存在する。愛情と憎しみにゆるすという心をくっつけるとまた違った意味合いが生まれるけれど、終わった、あるいは終わりかけた関係にゆるすという気持ちをくっつけると、「終わる」ということを自分で納得した、という意味も生まれるんじゃないかって思う。言い方を変えれば、最後の幕引きを自分で行った、ということになるのかも。 俵万智さんの解釈、また松実啓子さんの意図されたことと微妙にニュアンスが異なるかもしれないのですが、私はふと、そんな風にも思ったのでした。
愛するか、憎むしかない、というほどの関係に、私はたぶんまだ足を踏み入れたことがないのですが、もしかしたら目の前に横たわっているかもしれないし、もっと先、あるいはそんなものずっと幻なのかもしれないです。 先のことは分からないけれど、少し楽しみにしながら、歩いていこうと思います。。。
仕事を終えて帰宅する時間にまだ外がそう暗くない日には、会社から自宅に向かって、歩けるところまで歩いて帰る。 途中タカシマヤタイムズスクエアの方から新宿に入り、西新宿の方向、それから超高層ビルの群れの下を、頭上を仰ぎ見ながら歩き続ける。ビルの谷間を抜けて、やがて新宿を出るまで、あのキッチュで猥雑で派手で飾りたてて薄汚れた喧騒の中を、歩き、立ち止まり、歩き、振り返り、歩き続ける。 道行く人、すれ違う人、交差する人、ビルの中に入っていく人、道端に座り込んでいる人、たむろしている人たち、ダンボールハウス、傘を重ねて作った屋根。。。 それぞれに、さまざまな人生を抱えて、小さな秘密を抱きしめながら、誰にも話すことのできない痛みに耐えながら、ときどきふと、空を仰いで、雨雲がいつ冷たいしずくを落とし始めるだろうかと不安にかられ。。 ためしにその中の誰かと路上でぶつかってみれば、きっと、落とした袋の中からぎゅうぎゅうに詰まった人生のかけらがぽろぽろとこぼれて、いちいち拾い上げるのに苦労する。拾っているうちに交差点の信号は赤になり、とりかえしがつかなくなりそうで、だから、都会では誰もがかたくなに自分の荷物をぎゅっと胸に抱きしめて、守りながら歩いていく。 もし、腕の中の荷物が何かにぶつかって、はじけて、かけらが路上に飛び散ってしまったら、その、行方不明になったかけらをずっとずっと探し続けながら、いつしかその場所から離れることが出来なくなる。 かけら、探して、ずっと、さがして、いつしか空から落ちてきたつめたい水を、すきまのできた心の中に、ちょっとずつ、ためこんでいく。 つめたいみずを、ためこんでいく。。。
今日も暑かったですね。。 ほとんど家の中にいました。 外を歩くのも好きなのですが、それ以上に家の中でじっとしているのが好きかも。ベランダの草いじったり、文章書いたり絵を描いたり、音楽聴いたり本読んだりできるのが一番嬉しいです。 今日は出かけるのをやめて1日そんなことやってました。 文章書くほうは遅々として進みません(笑)。考えて書き、線を引いては書き直し、で、話の構想の段階から引っかかるものがあるのだから、途中で行き詰るのも無理ないですよね。自分の頭の中で話のイメージがある程度熟すまでもうちょっと練ったほうがいいかもしれないです。あーがんばんないと。才能があるわけではないので、地道にこつこつ続けていくしかないのです。 絵のほうはまだ気楽にやってます。文章書くほうに力んでるから、絵を描くときはふと肩の力がぬけていくようで、ほっとします。 ただ、最近使い始めた水彩絵の具にまだ馴れてなくて、思うような画にならないので、まだ四苦八苦してます。他の画材のものと違って、水彩画は一度色を塗ってしまうと修正が難しい、一発勝負みたいなところがあるので、画材と仲良くなって性質を知らなければいけないみたいです。水彩画は小学生の時にさんざんやったからと、高校時代はもっぱら油絵やアクリル画だったのですが、最近、この歳になってようやく水彩画の良さを知りました。自分の描きたい画のイメージは、どうも水彩画のほうがしっくりくるようです。 それにしても、水彩画を甘く考えていました。小学生の時にさんざんやったからちょろいもんよ、なんて思っていたのが大間違い。調子に乗って絵の具を塗りたくっていたら、遠近感もなく、ぎゅうぎゅう詰めの窮屈な絵になってしまったり。絵の具だけでなく、水をどう操り、紙の白をどう利用するかというのも重要なのですね。 幸い、ネット上にプロアマ問わず沢山の方がご自分の作品をサイト上で紹介してくださってます。それを見て回ってます。一昔前だったら考えられないですよね。今は、絵画のギャラリーがインターネット上に無数にあります。ありがたや。
小説も、画も、作り上げた作品の数だけ進歩するのだとよく耳にします。 やりたいことはあれこれ多いけれど、どれも人より秀でているわけじゃなし、総じてあれもこれも中途半端のままのような気がして落ち着かないのですが、たぶんこのままこんな風に書いたり描いたりを繰り返しながら、歳を重ねていくように思います。勿論、小さな目標をこの先あちこちに配置しているけれど、一番大切なことは、今、毎日、ちょっとずつでも書いたり描いたりを続けていくことだと肝に銘じています。要領が悪い人間なので、とにかく沢山数を重ねていくに越したことはないと考えています。 好きなことに没頭できるのは、この上なく幸せで、ありがたいことです。。。
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