独白2
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2001年12月12日(水) 昔日記

やっとパソコも返ってきました。良かったです。
ホントにパソコ無い間はヒマでヒマで…。ヒマに付き合ってくださった方ありがとう。
つーか住葉さんとS籐さん。ごめんなさい。

とにかくなんか更新できたら良いんですがなんにも絵が更新出来ません。
なんと不甲斐ない…つーかホントに昼飯をカップラーメンで済ませずわざわざ作るほどヒマだったのにも関わらず。(後に味噌味なのに妹によってカレー味に変わる雑煮)
heisiさんの小説はアップしました。
彼女はヒマをこいてた私に救いの手を差し伸べてくださったのですよ。
しかしケータイの調子も最近おかしい私は彼女のメールがしばらく受信出来ずに生殺し。酷い話だ。

で、久し振りの裏日記ですよ。
表もあんまりまともに書いていないのですがこっちは何を書きましょうかね。

今日は学校に行ったのですが(サボりがちなのが丸わかりな書き方だ)ナチュラルに雪が降ってて困りました。しかも懲りずにコートも着ずに。
新潟の女子高生はどういう神経をしてらっしゃるのでしょうかね。といいつつ私もおかしい。コート出すのが面倒くさいだけなんですが。
しかし教室はストーブついてて暖かいです。
ストーブの前というのは団らんの場とも言うのでしょうか。
クラスメイトが集まって普段話さない人とも話します。
浮ついた本当にくだらない表面だけの世間話。

つーことでなかなか無理がある前置きですが本日のお題は『気泡のような人間関係』です。

しっかし笑っちゃいます。
普段散々自分を下に持っていきたがる私なのに人を馬鹿にするのだけはやめないンですよねー。
自分がイライラしているから他人にあたる訳ですが、その対象は自分が彼女と合わないだけではなく、周りも彼女に少なからず不快感を感じているから対象に選ばれるわけです。
しかも自分では手を汚さないっつーか下さないってゆーか。
他人に誉め言葉を言わせて思った通りに素直に喜ぶ彼女を見て「バッカじゃねーの?」とほくそ笑む訳です。
自分がされたら一番嫌なことを苛立ち混じりに人にやらせてそんな隙を作る方が悪いと自分を正当化。

そんなことをついするのも私の中で彼女は水の上に浮いてる「その他」と名の付いた大きな泡と同じで、大した興味もなくただたんに私とは合わない人なんです。
私の中の公式に当てはめた表面だけわかった振りをしているどうでもいい人。
大抵のクラスメイトは名前の付かないその泡の中にいて、そうでないクラスメイトもその大きな泡の周りにくっついているかろうじて大きな泡に取り込まれていない小さな泡だ。
結局の所水の上に浮いている表面だけの世界の人間な訳です。
世の中人間がいっぱいいるのだからどうしてもそう言う人が出てきてもしかたないんですかね。
ただ私は人に合わせるのをとても面倒くさがる人間なので、そんないてもいなくても変わらないとか親しくなれもしないのに表面だけは知り合いでいたいとかいうようなミーハーな心構えとか、そんな人間とははじめから付き合いがない方が幾分か楽です。
そんなことは絶対無理ですけど。そして私はそんな偉そうに人に言える立場ではないのです。

でもまあ水に浮かぶ泡があるように底にくっついている気泡もあったりするわけです。
それは私にとってかけがえのないものとでも言うのでしょうか。
大切にしたいと思うし私に飽きないで欲しい人たちです。
しかし不思議なことにそう言う人たちこそ私は自分の公式に当てはめている気がする。
というかきっと実際そうだ。
期待しすぎるのは良くないと思うのは逆を言えば意識しなければ期待をしすぎてしまうということで、私が好きだと言うことはきっと私と似た感情を持っていると思い込んでいる。
底の方にへばりついていた私の大切な人たちも、その人を知っていくたびに気泡がだんだん大きくなって、ついには自分の公式に当てはめた目でしか見れなくなってわかったつもりになっている表面だけの人になり、近しいと思い込んでいるだけの水の上に浮いている泡になってしまっているかもしれない。

永遠なんてことはないのだから(この言葉をナチュラルにここに使った自分に大笑いをしましたが、あんまり笑えるのでそのままにしてみました)いずれその泡も大きな泡に取り込まれてしまって大きな泡はふくれすぎて割れる。
きっとそれは節目節目で起きるんですね。だから私は小学校とか、そのもっと前とか、そこらに関わった人たちをほとんど覚えていない。

私に近いと思い込んでいるだけで本当は自分の中でその他大勢に今、私の好きな人を入れるのは嫌です。自分が。
いつまでも底にへばりつけておきたかったら常に私が新鮮な目で相手を見なくてはならないし、相手にも飽きられないように成長しなくてはならないんですね。
呆れられるのは良いです。
いつもそう言う行いをしていますから。私は。
でも飽きられるのは切ない。
自分の価値がハッキリわかるから。
私は曖昧なことを言葉によってハッキリとさせたいくせにこういうところは笑っちゃうほど自分に甘く、そのためにものすごく曖昧です。
わかっているけれども行動に起こせない私はきっと救いようが無いですね。

この自虐的思考で不幸ぶるのもわかっているのにやめられない。


2001年11月25日(日) 昔日記

今日はカニ鍋でした。うれしいですね。カニ!!
蟹座な私はカニが大好きです。(蟹座は関係ない)
一人ボケツッコミほどさみしいものはないですね。
しかしまああれですよ、昨日夜中にS籐さんから「害虫占いして!」って言われてしたんですけどね、私はムカデでした。
落ち着きなくて経験豊富で皮肉屋だけどサッパリ自覚がないんですと。
結構当たってると言われました。皮肉屋の辺りとか。
そんなものなんですかねえ。
私的にはあんまり当たってない気がしますが、他人から言わせると当たってるそうです。

つーことで本日のお題は『他人の中の自分』です。

私はこれほど怖いものはなかなか無いと思います。
他人の中の私というのは私ではないんですよね。
他人の公式で変換されたのが『他人の中の私』なんです。
私から言わせて貰うと、私はいつでも皮肉を言っているつもりはないですし、人生経験なんか全然ない青二才です。
世の中にはもっともっといっぱいいろんなことをしている人間はたくさんいますしね。
言葉にするとあっている気がするだけです。
誰にだっていろんな要素があってその人を構成するんですからね。

でも他人はそうは感じないわけです。
それはもちろん私もそうですが、自分以外の他人をそのまま見ることが出来ないからです。
相手の出す信号(行動)を自分の中の暗号解読の仕方で解読するんですよね。
だから重なっていることはあってもその人そのままではない。
その人の虚勢も、自分が気付かなければ虚勢は虚勢ではなくなり、自信になるんです。

それが怖い。
他人をだませるところが怖い。
それによって相手が私に無条件に期待するのも怖い。
いや、たいして期待するようなことはないでしょうが。私には。
些細にしても私は全然誉められた人間ではないし、誰かより勝っているわけではないんです。
こうやって逃げることで責任逃れをしている人間なんです。
私がいつもここで書いていることに共感を持ってもらえてることがあったのならば、それはその人が自分の暗号解読法で見ていて、私を見ているわけではないんです。そしてそれは私が私のために作ったニセの信号から出来ている。
ここ事態が私のための作った場だから。
どんなにがんばって自分を書こうとしても。

私が存在することだけで与えられるものはあります。
些細ですが。
でもそれ以上のものは期待されても返せないんです。
私はいつでも自分のペースでしか物事を運べないし、能力だって低い。
言い訳と逃げ道を自分のために作るのはかなり得意ですけどね。
私は逃げ道を作りすぎだ。

でも私は卑怯な人間だから(そう言って卑下することから全てが始まっている)他人に期待するなと言っておきながら他人が『他人の中の私』に憐れみと優しさを掛けてくれることを期待しているわけです。

あげているから期待する。
貰っているのに返せない。

だから私は他人の期待が怖いんですね。
見捨てられると憐れみと優しさが貰えないから。
ここの言葉はほとんどが策略だ。
言わせる言葉が嫌だと言っても私は言わせた言葉でしか満足できない。
期待するなと言ってもその言葉を貰うために相手を騙す。(期待をさせる)
他人の中の私は私ではないときちんとわかっているから怖いんですね。
どうしたらこの矛盾した行動をなんとか出来るのか。

人は一人ではやっぱり安定出来ないものなんですかね。

もう何を言っているのか自分でもよくわかりません。
はじめ言っていたことと全然論点がずれてきているのに直すことが出来ません。
つーかもともと訳解らないのに、今日はさらに頭が考えることを放棄しています。
本当に!全然考えが纏まりません。あー…2時間も座ってるよ。
いつもの倍以上のくせに何も出てこない。
ここは懺悔の場かよ!クソッ!


2001年11月21日(水) 昔日記

と言いながら本日は『プライベートライアン』を見てました。
しかし家族にことごとく妨害され(特に妹)一気に見れませんでした。
なんたること!!魅力半減ですよ。また見よう。(懲りませんよ。)

今日はクラスの人たち数人が合格発表だったんですよね。
いやー…昼休みは凄かったですよ。
なんつーかもう、私もイライラしちゃいます。
ドキドキでなくイライラね。
本来短気な癇癪持ちのお子さまな私ですから。
自分の感覚に忠実なんですよね。
でもって通じないと癇癪起こすと。

つーことで本日のお題は『勘違い』ですか?
もうホントただの愚痴になると思うんでお題も糞もあったもんではないでしょうけど。内容とあっていないこと間違いなし。

今日はホントに昼休みは静かーになっちゃったんですよ。
いろんな人が無口になっちゃって、関係ない私とその他数人の人は「受験生の教室だよねー」といってました。
それでもケータイとかにかかってきて廊下に出る人とか出てくると「私もドキドキしてきた!!」とかいって心配してました。
私のいつも仲良くしている子はホントにここ2,3日は顔色も悪くてこっちも心配しました。
でも正直なところ、他の特に仲のよくないクラスメイトなんかどうでも良かったんですよ。私は。
それでも受かったら「おめでとう」位いうつもりだったんですけどね。
教室に入るなり奇声を大声で発せられたりしたらこっちだって困りますよ。
嬉しいのは解るんですけどね。
でもまだまだ受かっていない人も受験校下げろとか言われてる人もいるんですよ?
アンタは受験前に相当周りに励ましてもらっててそれくらいも控えられないんですかね。
そう思いました。

私の感覚は他の人たちと掛け違いなんですかね。
彼女たちの態度に対して私が「結構迷惑だよね」といえば優しい言葉で「仕方ないよ」と言ってあげるんですよね。
でも私がその彼女たちの八つ当たりの態度にイライラして暴言を吐くと「そういうこというなよ!」とか言ってくれちゃうの。
彼女たちがくれるストレスは「受験だから仕方ない」扱いなのに、私の言う耳障りな暴言は「そういうこというのやめなよ!」なんですと。
別に怒ってるつもりは無いのですが。言った人に対して。
私は私で本当のことを言っていたつもりだったし、彼女たちも彼女たちで間違ったことはしてないつもりなんでしょう。
これが掛け違いってやつですか?

現代国語の教科書に載っていたものを思い出しました。
「何をするか解らない善人よりも頭のいい悪人のほうがいい」
善意からしたというものは失敗しても『善意』だから許さなくてはいけない。
最低限の悪事で目的を遂げる悪人は関わらなければ被害は無い。
この文を書いた人は本当は帰謬法でしたっけ?
あれを使って書いてると言うことらしいので全くこの文そのままの普通の意味では無いと思うのですが、要するにこういう意味だと思います。

みんな受験というと気が立っているものだ。
だから多少のことにも当たり前に目をつぶらなくてはならない。
善意からしてくれたことだ。
だから結果迷惑になったとしても感謝しなくてはならない。

世の中それが当たり前なんですか。
私はただそんなやって手放しで喜んでいて、まわりから「おめでとう」といわれても本当は心の底ではみんな何考えて言ってるか解らないと正直に思ったことを言いました。
結局は自分が不安にならないためにはむしろ落ちてくれればいいとも思ってるだろうといいました。
心から思っていなくてもそんなやってたら「おめでとう」という気もなくなるよと言いました。
それは私だけが思っていることで、みんなは違ったんですかね。
だから私の言葉は否定されたんですか。
人が喜んでいたら必ずその人に「おめでとう」と言わなければならないのですか?
私が勘違いをしているならば誰か忠告してください。
固まった頭ではもう軌道修正は出来ないかもしれませんが口を噤むことくらいは出来ます。

言わせる言葉は嫌いです。
といいつつも私はいろんな身近な人に自分の欲しい言葉を『言わせている』。
私は本当は言わせる言葉が好きなのに勘違いをしているんですか。
自分のことなのに解らないものですね。
むしろ自分のことだから余計なプライドとかが邪魔しているのかとも思いました。


今日の日記は一段と訳が分からない。つーかホント愚痴。
あーあ。ホントは私にはこんなこと言う資格は無いんですよね。
早くも逃げ出した戦線離脱女にはさ。
頭が悪いと大変だ。眠いしね…(関係ない)


2001年11月20日(火) 昔日記

昨日は☆が見たかったのに晴れてませんでした。
今日は無駄に晴れてますね。
新潟の澄んだ空気(要するに寒い)の中ではとても綺麗に星が見えますよ。
つーか!私が金を出し惜しみして3巻までしか『昴』を買ってこなかったから見れたんですけどね!!夜空が!
寒い中4巻買ってきましたよ…近所のジャ●コまで。

しかしあのマンガは凄いですよね。ホントに。
久し振りに吸い込まれました。
世界に。

と、いうことで本日のお題は『世界に浸る』です。

私は昔からマンガ読んだり本読んだりするのが好きでした。
子どもの読書量は小さいときどれだけ本を読んでもらってかで決まると聞きました。
私は長女だったせいかよく読んで貰ってたんですかね。
絵本を読んだ記憶はあまりありませんが、マンガから入ってよく読んでいます。今も。
でも今は読んでいるけれどもきっと前よりも世界に浸っていない。

私は少女マンガより少年マンガの方が好きでした。
なぜなら少女マンガは『世界』があまりハッキリしていなかったからだと思います。
世界がハッキリしていなかったというか私には合わなかったというか。
今も昔も私は人間がでてくる話を描くのならば、本当に「人間」を書いたものが好きです。
だからですね。少女マンガが合わなかったのは。
あれは妄想を描いているって感じで中に入れないんですよ。

では人間を描くというのはどうゆうことか。
私はそれを「世界を描く」ことだと思っています。
いろんな人間、悪いところも良いところもあって人間。
それがあって初めて「世界」ができて、『世界に浸る』ことが出来るんだと私は思います。

昔私はマンガを読んで、本を読んで、映画を見て、簡単に世界に浸ることが出来た気がします。
読んだり見たりするのは「世界に浸る」ことで現実から目を背けてると思うくらい。
それがどんどん歳をとるごとに難しくなっていっている。
それは私がマンガを描くようになったからなのか、言葉で自分を作っていっているからなのか。
感想が書けなくなっていったのもそのせいなのかもしれない。
人の作った「世界」を見る。
私にも私なりの「世界」があって、それが明確になるにつれて私は人の世界に入れなくなっている気がする。
自分の世界の価値観で、他人の世界を見る。
どんどん頭が固くなっていって、どうしようもない。

でもやっぱり「才能」って言うのはあるんですね。
自分の「世界」に他人を引きずりこむような。
本当に凄い。
そういうのは努力あっての才能なんですかね。努力も才能と言うか。
どこまでも世界が広がる。
自分の世界の価値観なんかは忘れてしまう。

マンガは一人で世界を作るものです。
だから必然的に世界の広さはその人の広さになると思います。
私の「世界」が狭いのも曖昧なのも、私が小さく曖昧だからなんだと思います。
映画やアニメは人が多く携わって世界ができるものです。
だから世界の広さもやっぱりマンガや本に比べて広い。
世界に浸りやすいと思います。
世間一般的に映画みたいな広い世界に共感するのはそのせいなのかな。
マンガは世界の小さな子どもが読むもんだと思われてるのはそのせいなのかな。

そんなことは無いですよね。
どれも大きさや表現方法が違うだけで現してるのは「自分の世界」だと思います。
自分の価値観をすっとばして「世界に浸る」。
「浸らせる」のは確固とした世界ができあがっているものだと思います。
それがだんだん出来にくくなっている。
それは私の「世界」ができあがっているからなのか。
だとしたら皮肉なものですね。
でもそうなったならばいろんな人が私の「世界」を価値観をすっ飛ばしてしまうようなところまで育てたいものです。


2001年11月16日(金) 昔日記

今日はめんどくさくなったんで日記書くのをやめようかと思ったのですが結局書いてます。
つーか眠いと頭働かないかなあと思ってやめようかと思ったのと、今日夕寝してたときに怖い夢見たんですよね。
だからあんまり今日は一人でパソコに向かってたくないなって。
ものすんごい恐がりです。ホントに凄い。
子どもっぽい上にとっても自意識過剰なマゾ女です。
つーか昨日の日記があんまりだ。
本日は大した前置きも思いつかず。

とにかくお題は『自虐的思考』ですかね。

かなりの自虐的な思考の持ち主ですよ。私は。
ホントに救いようがないくらい。
そんなことばっかりやってるから昨日の日記みたいな滑稽な文を書くんですね。
ウザイことこの上なし。

でも自虐的思考というのはホントに私には必要なことなんです。
無いと生きていけない。っていうか。
私が幸せになるにはこれがないとだめなんですよ。
要するに私はとても幸せになりたがりっこってことなんですよね。

といいつつも、私は幸せになりたいから自虐的思考を繰り広げているのか、自虐的思考を繰り広げてるから幸せなのか。
境界が曖昧だ。
最近いろんなことの境界が曖昧すぎてこまる。

私は自虐的思考でもって、本当は誰かに自分の存在を完全否定して貰いたいような人です。
でも我が儘だからその人というのはただの人ではダメで、それなりに基準があるわけです。
幸せになりたいと言っているのに他人に完全否定して貰いたがってる。
これは自虐的だからなのか、私にとってこれが幸せだからなのか。

私はなんだかんだ言って自分の幸せがなんだかよく分かっていません。
自虐的であったり、自分を低くしたりする事は私にとってとても楽になることだけれども、それが私の幸せなのかは実は解らない。
世間で言う幸せは金持ちであったり、好きな人に囲まれていたり、暖かいベッドで永眠してみたり、そんなことなんだと思います。
もちろん私はそれに全く魅力を感じない訳ではないし、楽な生き方をすればとても良いと思う。
でも私は自分でどんどん悪い方向に物事を運んでいくのが大得意だし、どんどん自分で追い込むことで楽になることもある。
辛いと思っていても、「自分は不幸だ」と思うことで自分の境遇に酔っている。
そう考えるのは私は本当に辛い目に遭ったことが無いからかもしれない。
自虐的といいつつも、それは本当に心からのものでは全くなく、むしろ期待を膨らましているだけかもしれない。

自虐的思考によって幸せになるのか、私の幸せが自虐的になることなのか。
認めて貰いたいと言ったその口で、私は他人に完全否定して貰いたいとも言う。
一体どっちが私の本音で、どっちに従っていきればいいのか。
自虐的になることは逃げることだとも言える。
でももしそれが私の幸せならば、私は逃げているんではなくて、私は幸せを求めて前向きに生きていることになる。
前向きに生きることは、自虐的になることではない。

自虐的思考によって行動することはそのときは楽な気分になるけれども現状は悪化
していることになる。
不幸に酔うことは逃げることなのか。私にとって幸せになることなのか。
不幸に酔うことで、私は幸せを願い、前向きに幸せに向かって生きているのか。
その場合の私の求める幸せとは?

本当にどこまで考えれば良いのか解らない。
何を考えて結論づければいいのか解らない。
だからデカルトはすべてを否定して、ただ一つ「我思う、故に我あり」という言葉で表現したのか。
考えることは無駄なことなのかもしれない。
でも私がこれによって自虐的思考になっていることは確かだ。
ただそれが私にとって幸せなのか、幸せになるためにそれをしているかは解らない。
世の中解らないことだらけです。
誰かが私を完全否定してくれたならば、私はすべてをその人のせいにして捨てることがきっとできる。
それは自虐的なのか幸せなのか。
生きているから幸せになりたいのか幸せになりたいから生きているのか。
幸せになりたいから死ぬのか、生きているから死にたいのか。

本当に訳の分からないことがたくさんだ。

そしてここの日記が一番訳が分からないこと間違いなし。
ここの言葉はきっと私にしか解らないで、私自身も結論が出ないでずーっと同じ道をひたすらぐるぐる回ってる。
誰かどうにかして欲しい。
今日の日記はいつも以上に解らないですね。
「☆食べよ」でもやけ食いだ!!


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