独白2
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S籐さんがうちに来てくださいました。 おもしろ本を読ませてくださる彼女はうちの親父に捕まってしまいました。 すみません。
なんだか最近何にもかけません。 サイト開設祝いになにかあげようとか、topでないにしても何か描こうとか、色々思っているんですけど何にも描けません。
シャーマンキングを買いました。 ホントに凄いマンガだー…。一気に買ってしまったけど16巻は凄いよ。 何が凄いって…ねえ? 私はこういうときどうすればいいのか解らなくなってしまいますよ。 ホントにどうすればいいのか解らない。
なんでかっていうと、今私はこうやって文を描いて、絵なんか全然描いてないです。 そして、絵は自分の中では誰の絵とも(全くとはいいませんが)似てないと思う。 これは今まで私が影響を受けた方たちの絵を見て、自分なりに、自分のレベルに合わせて描き替えたというか、自分のものにしたっていうか。 でも話はそうはいかない。 っつーか価値観。世界観。 自分なりにがんばって築き上げてきたと思ってたんだけどなあ。 人の影響を受けてきたのかな?人の世界観、価値観を自分のものだと思って生きてきたのかな? 不安を通り越してもう自分の中に何もない感じ。 何にもする気は起きないし、何にも出来ません。 何をやっていても自分でない気がして何にも出来ない。 自分でない気がするなら更に自分でまた新しく築き上げていけばいいのにそれができないから何もしないで逃げている。
こういうとき無責任に思うこと。 なんで私の表現方法はマンガであり、文であり、言葉であるのか。 自分で選んだくせにねぇ。 ホントに参ってます。今。っつーか最近。
私は感想文を書くのがものすごく苦手です。 それは相手に対して私がどう思われるかとか、言葉遣いとか、ネチケットとか。 正直な話そんなことは本当は些細なことなんですよ。 書きたいなあとは思っても実は書くことが出来ない。 感想ってのは自分が思ったこと、感じたことなんですよね。 だったら私の世界観で、価値観で、考えていたことがそのまま(まるっきりで無いにしても)書かれてたらなにを感じて何を思えばいいんですか?
私にはそれが当たり前のように感じます。私もそう感じます。
それが感想?そして感想を送ってなんになるんですかね。 相手の世界観はそのまま。私の価値観もそのまま。 言ったからって私の中で何にもなくなるのは変わらない。 人と同じであることがこんなに虚無感っていうんですか? そんなものを感じることだとは思いもしませんでした。
好きって言うのがこんなにこんなに嫌なことだと思いませんでした。 というか知っていたんでしょうね。ホントは。 たまたまいままでは言葉にする機会がなかっただけであって。 好きと言うより、自分と他人、似たようなことを考えているのに、相手は自分ではないし、自分も相手ではない。 相手はこんなに自分の思い通り。自分は似たことを考えているのにこの通り。 似ているのに全く違う。 嫌なことこの上ない。
私が私であるのは他人がいるからです。 自分との違いを見る。そうすると自分ができる。極端な話。 でも自分と他人が似ている。でも全く違う。 自分だと思っていた物が他人になった。 自分にはなにも残らない。
ホントに今宙に浮いている気分です。 自分と他人の境界線が曖昧な人がいます。 あからさまに違うなら救われる。 似てるのに違うのは本当に救いようが無いですね。 特に私みたいな本当に小さな、ごくありきたりな人間には。
被害者意識が強いのもまたいけない。 …って言う言葉もまた自分の言葉でない気がして嫌な気分になる。 この言葉が使われていたから。 でもこの言葉しか出てこなかったし、普通に自分の価値観で、世界観でこの言葉が出てきたつもりだった。 でもこれも自分で思っているだけで他人のものを自分のものだと思っているだけかもしれない。 考え出したらきりがないところがまたイヤだ。 嫌だといいながら現状をどうにも出来ないのもホントに嫌だ。
こんなところで、こんなに抽象的なことを書きながらもメッセージを含んで他人に何かを無言で期待している媚びた態度が嫌ですね。 本当にすみません。 つーか誰に謝っているのやら。謝るくらいなら最初からしなければ良いんですよね。それが出来ない低レベルな人間です。 誰かにこの希望的観測をうち切ってもらいたい。 自分勝手に考えている辺りが一番の希望的観測、エゴイストだ。
またしても私が日記を書こうって時になって親父が現れました。 もーナイスタイミング!!(死)タイミング良すぎて笑っちゃう。
で、今日は朝から友達(私を嫌っていると思われる)子が私の席に座ってました。 私の顔を見たその子は「ゴメン邪魔?」といいました。 正直な話私は朝ご飯食べて無くてさっさとカバンおいてご飯が座って食いたかったので、本当に正直に「うん、邪魔」といいました。 そしたら彼女は「ハッキリ言うね〜」と私の机の上に置いてあった化粧道具をがちゃがちゃしまいだしました。それの遅いこと。いかにもかったるそう。 めんどくさがりな私は「あー…いいよ。座ってても」といって別の友達の所に行きました。彼女は「そう?悪いね」といいました。私にはそれがはじめから用意されていた言葉のように感じました。 ハッキリ言う私もあれだけどやる気のない言葉を吐く彼女もどうでしょう。
つーことで本日のお題は『言葉にすること』ですよ。
実はこれは昨日の(日付の上では一昨日)の話。昨日書こうと思って前置きまで考えていたくせに寝た。しかも某サイトさんの裏を唐突に見たくなって、それを見てたら時間が過ぎていました。バカですね。
言葉にすることは私には安心するためにすることです。 ここをこうして書いていることは私には自分のことをより明確にきちんとしたものにしたいからということもあります。 でも最近思うことは、私はここを書くことによって制限されている、というのと、ウソといわないまでも騙しているということ。
制限されているというのは、言葉という物は自分に対しても他人に対しても『言葉という形』にした時点で形が決まってしまうと思うからです。 例えば私は昔かなり嫌なヤツで、人の「自分からは言いたくないし、あんまり知られたくないけど気づいて欲しい」という矛盾した人の心?考え?そんな物を口に出して相手に言うのが好きでした。 言われた本人はたとえ本当にきちんとは合っていなくても、自分が実はそういう風に他人に理解されたいという欲求がある(と私は思う)ので「なんでわかったの?実はね…」となるわけです。もちろん必ずしもそうなるわけではない。 その時に、本当は当たってなんかいなくてもそんなことを言われるのはほとんどないことだから『言葉にされた』その事柄を自分に当てはめる。 それが制限されることです。 私がこうして言葉にしている時点で、私は私の限界を自分できめ、自分で枠に当てはめているということ。
騙しているというのは、自分、そしてここを読んでくださっている方を私は騙している。 どんなに私が客観的に書こうとしても、私の言葉で、私が感じたことを一方的に書いているのだから正しい事実が書かれていない。 なのにあたかも正確な事実が書かれているかのように振る舞う。 これは誰が書いても同じように、まったくの客観的意見は書けないと思う。 他人のことを自分から見て、は客観的になるだろうが、自分のことを自分から見て、は客観的にはならない。 だから自分はどんなにがんばってもここで書いていることには自分に対する甘さがにじみ出ている。 どんなにがんばっても私が私のことに書くことについては甘さとともに自分の理想が必ず少しは入っている。
今私たちがかなり頼っているこの『言葉』というのは、明確な表現をすればするほど真実から遠くなる不完全な物だと思う。 感覚の中での曖昧さは、曖昧なところがむしろ正しいのかもしれない。 言葉にすることで伝えるのは、一番簡単で、一番わかりやすいけれども一番伝えられる物が少ないと思った。
なんだか『伝えること』でも似たようなこと書いた気がする。 ホント毎度毎度進歩が無いですね。
日記です。日記というのは毎日かいてこそ日記のような気がしないでもないのですが、なんだか最近ぐーたらしすぎですかね。 いや、topがんばっていたのですよ。私は。無駄に。(無駄なことが好きです。) 夜中に太るだろうプリングルス食いながらね。 いやいや太るとわかっていても不思議な物で食べてしまいます。 それは私が「こんなのちょっとくらい食べても太らないよね。大丈夫だよね。」 と、勝手な思いこみをしているからです。 思い込みって怖いですね!!
と、言うことで本日のお題は『思い込むこと』です。
さて、今日は相変わらず世界史の授業を生徒3人教師1人でやっていたわけです。 今日の範囲は第二次世界大戦でした。 で、2週間に一回は1日の半分が社会の日があるのですが、今日がそれで、世界史1時間はビデオを見ていたのです。 「扇情者」。アドルフ・ヒトラーのビデオでした。
ホントにこの人ほど凄い人はいませんね。良い悪いではなく凄いと思います。 この人を見ていると本当に人間の思い込みとは凄い物だと思いました。 イタリアはムッソリーニでしたっけ? あの人は元は共産主義者だったと聞きました。 ですが、反戦論では民衆の注目を浴びることが出来ずに、ファシス党を作ったと言っていた気がします。 彼は自分の欲求に忠実で、他人に認められることをただ望んでいたのですね。 これは思い込みではなく、確固とした欲求であって、ヒトラーとは違うと私は思いました。
ビデオではその当時のドイツは本当に人々は絶望の中にいたのだと言っていました。 そこにヒトラーという人が現れた。 彼がこんなにも人々に支持され、崇められていたのはひとえに人間の思い込みから来ていたのだと私は思います。 彼が「許す」。彼の説く演説には「やっても良いんだよ」と言う救済のような物がありました。 すべてに絶望したような当時のドイツ人は「許されること」と「縛られること」を心の底から望んでいたのだと思います。 「許されること」は誰もが普段から望んでいることです。 「縛られること」を望むのは自分で考えることを放棄することだと思います。そして今の現状は自分にそぐわない。でも自分ではどうすることも出来ない。だから強力な誰かに引っ張られて行けばいい。失敗しても自分はなにも悪くはなく、その強力な誰かが悪いんだ。という逃げ道ができるという意味です。
以前私がここの日記で書いたとおもうのですが、許してくれるのは人間ではダメだと言う話。 まあこれは私的意見なんで、他人はどうかと思うのですが、ヒトラーは人間だった。なのに人は救済を彼に求めた。 それは人々が彼は人間では無いという思い込みをしていたのかと思いました。 「彼は神ではない。しかし、普通なら出来ないすべてを許すということの出来る人間なんだ」ということ。 そこまで人々はせっぱ詰まっていただろうし、すべては思い込みの(あくまで私的意見。)宗教の代わりだったのかもしれません。 ヒトラー自身もきっと自分は「許し、引っ張る力がある」と思い込むことで、更に大衆に罪悪感を抱かせないようにしていたと思います。
本当に人の思い込みの力とは凄い物です。 私たちは日々このような大がかりな思い込みはしないまでも、多少の思い込みをしてると思います。そして自分のために思い込もうとしている。 当時の人々が自分を保つためにおもいこんだように。
私は背景を描くのが好きです。 これも実は思い込みなんですよね。 私は本当は背景を描くのが好きなんではなく、背景には人物ほど個性が出ないんです。 背景は今自分の周りにある物を完結に(そこら辺はその人の力量だからさすがに差が出る)ただ写すだけなんです。 自分の絵には自信がない。でも背景ならば自分独自の物では無いからいい。 そういうところから来ている物を、ただ「純粋に好きだから」と思い込んでいる。 そしてそれは自分のためでしか無い。
人は自分を守るための物をいっぱい持っている。 「忘れること」「思い込むこと」「自己を許すこと」 書いていたらきりがないし、根本に繋がることは一緒だ。
思い込むこともその中の代表的な物だと思う。 ただ、そこには思い込むことで前に進めることがあるのが救いだ。 私は背景を描くことが好きだと思い込む。 そうすると私はそれをがんばるようになる。 結果として得られる物は良い結果だと思う。
「救われる」と思い込むこと自体がもう思い込みかもしれない。 曖昧な私は曖昧なまま自分の常識で、救われることを求めているからだ。 そしてここの文章もまた自分が思い込むための道具でしか無いと思う。 なぜなら私が普段四六時中こんなことを考えているわけでは無いからだ。 ここは絵に描いた餅のように、本物のような偽物だと思う。 そうだと判っているのに書く。 むしろここまで来たら人の自己防衛能力で自分がどこまで逃げることができるのか 見てみたい物だ。
なんでこれから日記書こうって時に帰ってくるのかしら。うちの母は。 実はまだ全然topが終わってないのに日記を書き出す私。 なんなんでしょう。でも今回のはフォトショ塗りにしょうかと思ってたのでそんなに時間かからないかなーと。思ったけど背景が…。
まあそんなことはおいといて、今日は朝から祖父がきました。 外面のいい私は祖父と一緒にお話をしていました。 その時父宛に電話がかかってきました。 全くと言っていいほど愛想のない妹が電話をとり、祖父と話している私に向かって「電話。お父さんに。呼んできてよ。」といい、自分はパソコンに向かってメールを打っていました。
なんなんだそれは。
私は彼女の理不尽な行動はもうどうしようも無いのだろうと諦めてはいましたが、ホントに今日は耳を疑いました。 私今話してるんでしょ。あんたメール打ってるんでしょ。たった少し立って親父呼んで来るだけじゃない。しかもアンタが取った電話でしょ。 お前は常識どこにやってきたんだ??
つーことで本日のお題は『常識』です。
いや、もうホント身内の恥をさらした前置きですが、最近の若い人っつーかうちの妹くらいの年代ですか。 彼女たちの中の常識ってどうなんでしょう。
常識って言うのは言葉通り『常に持っていなければならない識別能力』だと私は思っています。知識ももちろんですが。 世間一般に向けて言われている常識とは、小学校で習うようなもの、挨拶をするとか、人にやられて嫌なことはしないとか、目上の方には丁寧語、とかだと思います。 確かに大人になるにつれて、こんなことはホントに表面だけの物に感じるようになりますが、(私はなった。)この常識がなっているだけで、相手の人がいい気分になったり、これが出来ていないだけで社会のなかで困ったり迷惑をかけたりするわけです。 うちの妹から言わせると、私の方が常識なっていないそうです。 多分彼女の中での常識と、私の中での常識が違うからだと思います。 それでは正しい常識とはどんな物なんでしょうか。
子供のころの子供同士の小さなグループにはそれなりにルールがあったのを覚えています。 どんなに小さな場でもルールがあり、それがその場での常識になる。 その小さい場が、どんどん大きな場に行くにつれて、みんなに通用するもの、世間一般の常識になるんだと私は思っています。 自分の置かれている立場によって常識は変わってくる、時代によって変わってくる、ただそれがホントに大きな場に合うだけのものになっていくかが子供扱いから大人扱いにかわるポイントかと思います。 実際私の妹と、私の「常識」は合わなかった。 それは私と妹は歳が違う、育った時代が違う、グループの性質が違う。(私と妹は中学校が違います。)
最近の人たちは(もちろん私を含め)小さな場の中で、他の年代とあまり関わることもなく大きくなって、いきなり社会と言う大きな場に出されると思う。 いきなり社会に出される直前に「一般常識」を頭にたたきこまれて、いきなり大きな場に出される。 社会はもう直接死活問題っていうんですか?金銭関係の物事ですから失敗は普通は許されないんですよね。 学校は、行ったら勉強だけでなく人間関係、部活ならば目上の人に対しての接し方、そんなことをやりながら小さな場の常識を、大きな社会に対応できる常識に変化させていく練習の場だと思います。
だけど私たちの時代には、学校はそんな機能を果たしていないと思う。 だいたい学校に入る前に最低限の常識(小さな場でも大きな場でも絶対あるような)は家庭で親がやるもんだ。 私は今学校に行っているけれども常識が育つような所では無いと思う。 部活は参加自由だし、(でも部活やっている子はホントに世渡り上手だと思う。) 校長の話は聞かない、先生たちはなんで校則にこんなことが書かれているかも言わずに「校則違反」とだけいって注意する。 外にふれあう機会が無いと思う。 きちんとなっている人もたくさんいるはずですけどね。
こうやって文句を言っている私ももちろん『今の時代の若い人』で、常識はなっていないと思う。 どこがなっていないのか、それがわからないのが怖いところです。 わからないのは私がいまだに小さなグループの中にいるからだ。 外に出る機会が無いと言いつつも外に出る気もなく、いまだに小さな場の薄っぺらい常識を使っている。 常識は時代によって変わってくるものだとは思います。 ですが、最近の人たちの子供扱いから大人扱いに変わる年代がどんどん高くなっていっている気がする。 それが「常識」になっていったら、ホントに常識のなっている人には迷惑きわまりないなあと思いました。
人のことは全然言えない私ですが。 他人と関わりを全く持たなければ常識なんか持つ必要無いんですよね。 でもそんなことは絶対私は出来ないから本当はきちんと常識を身につけるべきなんです。 今からでも間に合うかなあ…
なんか今日はやけにまじめな話をしてしまいました。 でもここはあくまで私の意見でしかなく、こうやって書いておきながら自分でできていない点もかなりあるだろうかと思われるいい加減な物です。 気分を悪くされた方がいたら申し訳無いなあ…。
カルボナーラ食ってきました。学校サボって遊んだ上に同人誌読み漁りですよ! 頭悪いことこの上なしですね!でもおいしかったです。 今日はS籐さんのお買い物につき合っていたのですが、最近の服はホントにカワイイ。つーか肩の出そうなかったるい感じの服とかサスケ服とかめっちゃ欲しいです。金がないけど!かったるい感じをかもしだし、私は大人な女になりたいのです。色気がないんですけどね!私は私の絵にそっくりだそうですが、私の描く女の子が色気のない健康優良児っぽいのはそのせいだと思われます。
で、今日一緒に行ったS籐さん、オタク友達なんですよね。 だから気兼ねなく「これサスケ服!」とか言えちゃう訳です。とっても気が楽ですよ! しかも彼女はおしゃれさんですよ。色々楽しいです。 学校の友達ほっぽってメールも送らずオタク友達と遊んでました。 私の普段の生活がよく分かる行動だと思います。
で、本日のお題は、『オタク友達パンピの友達』です。
学校通ったり、同人やってたり、外に出たら友達が出来るのが普通かと思います。 ただ、オタクの私には「パンピ友達」「オタク友達」と二つに分かれてしまいます。 学校に行ったら学校の友達と遊ぶ訳ですが、大抵遊んでるのはオタク友達です。 大体heisiとは学校も同じなんですよ。帰りも大抵一緒です。 そこに別のオタク友達が入ってきて学校帰り遊んで帰るのがだいたいのパターンです。 それは買い物だったり、オタク店にいったり、ラーメン食べたり様々です。 普通、オタクの友達と言うと、オタク話ばかりするような印象かもしれません。 でも、私のオタク友達はなんでも話すし、遠出の遊びにも一緒にいきます。
だからと言って学校の友達とは全く遊びに行かない訳ではないし(回数は少ないにしても)、学校ではホントに仲良くしています。 今は時期的に学校の友達とは遊びに行けませんけどね、みんな忙しい時期ですから。早くも戦線離脱した私はいい気なもんです。
学校の友達は学校にいる間はとても仲良くしていますが、私がオタクなのを知っている人はとても少ないし、やっぱりオタクだからか少し世の中一般のこの年代の人とは話が合わなかったりするわけです。 その点、オタクの友達はオタクだから話が合わないことも少ない。 つーかオタク常識(なんだそりゃ)がわかってるから話が通じる。 そうなるとやっぱりオタクの友達の中に親しい友達が出来やすい。
でも、要は私とその人との感覚の合い方、重なった部分の多さなのかと思われます。 学校の友達にも私がオタクなのを知っている人はとても気が合うし、学校終わってもなんだかんだ言って繋がりがあると思うし、オタクでも気の合わない人はいっぱいいる。 私はかなりの理屈こきなので、まず理屈ばかりこねるのが好きでない人は表面ではいい顔していても、「この人何考えているんだろう」と思うはず。
人との距離は、お互いの人格がきちんとしていればしているほど運命づけられていると思う。お互いにきっと「この人とはここまでだな」ってわかる。 知れば知るほど、距離の取り方が見えてきて、最適な距離をこえるとうまくいかなかったり、遠すぎると離れていく。 知れば知るほど遠くなる人も出来てくるんですよね。
私は距離の取り方を考えるのが苦手で、でも表面だけの付き合いも苦手という我が儘娘です。 表面だけのつきあいは、テレビもあまりまともに見ないし、映画の感想もちょっとずれてる私には何を話せばいいのか解りません。 オタクでも、パンピでも。 オタクの人の前で話すことは大抵何がどういう風に好きだとかそういう話とかだったりするはずだし、パンピのことも私はこういう風に考えて行動してたりするんだよ。とかだとおもいます。わたしの価値観の話をするんですよね。 だからまったく価値観の合わない人とは話が合わない。 だから必然的に自分に似たタイプばかり周りに増えていくんですよね。パンピもオタクも。 『類は友を呼ぶ』。まさにこの言葉です。 特別何かを努力していなくても、きっとこれからもこうなっていくんだろうなあと思いました。 価値観が合わなくてうまくいかないことほどバカらしいことは無いと思うから。
なんか長々とまたどうでもいいことを書きました。こここそが私の価値観の現れだ。 で、この日記は実は木曜日の話なんですよね。 途中まで書いてどうしようかなって悩んでいるうちに土曜日になっていました。 まいったなあ。
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