2008年12月30日(火) |
京都に住まう、ということ。 |
NHKハイビジョン特集「京都丸竹夷にない小路」をみました。 「丸竹夷」とは京都の通りの数え歌。 御所の南から「丸・竹・夷・二・押・御池・姉・三・六角・蛸・錦・四・綾・仏・高・松・万・五条・雪駄ちゃらちゃら魚棚・六条・七条とおりすぎとうとう東寺でとどめさす」というもの。
つまり碁盤の目の、東西の大通りを北から南へ順に歌ったもの。 そこにない路地、辻子、突き抜けなどの小路の特集です。 すべて人がやっとすれ違える程度の広さの路です。 それが京都にはたくさん残っています。
江戸末期から明治、という建物はさすがに残り少ないけれど、ほとんど大正年間からの建物がベースです。 表のベンガラの縦格子は絶対壊さない変わりに、中は店子が改装してもかまわないということで、店舗兼住宅として使われています。
カメラワークが抜群で、京都のウェットで底知れない静けさと温かい暗がりの魅力を良く伝えていました。
ただ暗く、住みにくいのは事実。夏はうだるように熱く、冬は部屋の中でコートを着て暮らそうかというぐらい寒い。 よく町家ブームといいますが、京都人のほとんどはその使い勝手の悪さを知っているはず。
まして路地はありていにいえば「賃貸の長屋」ですから、風呂も銭湯に行くしかない。不便です。 住めば判りますが、大きな音も立てられない。表通りはうるさくても、一歩路地にはいるとほんとに静か。 生活そのものが静かになります。
驚いたのはこんなにも多くの若きアーティストが小路に住んでいたこと。 たぶん、それでもいいんですよ。 それでもいい。 東京や大阪に比べて、建物の面積の割には破格に家賃が安いということもあります。
それ以上に、あえて言えば京都の魔的な魅力の虜になった人たちなのでしょう。 インタヴューに答える誰もが、男女とも地味に質素に、こつこつと、かつ鋭く自分を磨いているように感じました。
ぼくが今、住んでいるのは西のはずれだけれど、若い頃は路地から路地へと目的もなく歩く廻っていたものです。 完全に街の魔力にやられていたのでした。 松原とか宮川町あたりの辻子、上七軒の「真盛辻子」が好きです。
京都は狭い街ですけれど「表面積」は広いです。とてつもなく広いです。
年末の読書は長谷川如是閑の「私の常識哲学」を文庫で読んでいます。 哲学の、というよりも思索の源を徹底して「生活」のなかにもとめる、如是閑さんの「常識哲学」をもういちど読み直しておきたかったのです。
長谷川如是閑。 明治8年、東京深川生まれ。明治の男は好漢が多いな、凄いなと改めて想いながら読んでいます。
2008年12月25日(木) |
2008/2009 何を読むのか |
今年読んだ本の中でもっとも興味深かったのは 水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」だった。この本を読み終えてから2005年にでた柳田邦男さんの「壊れていく日本人」を再読した。
さらに新書で何度も読んだ築山節さんの「フリーズする脳」をはじめとする、 脳に関しての一連の著作も読み直した。
通底しているのは日本語の、というよりも日本人に対しての警鐘である。 これに梅田望男さんの「ウェブ進化論」を併せてもいいだろう。
梅田さんの論は一見、楽観的なウェブの未来を語っているようでいて、重要な前提条件がある。 「リテラシーを身につけた上で」の話なのだ。 リテラシー。直訳すれば「基本的能力」ということなのだけれども、その範囲はひろい。
それはネットに関しての知識はもちろん、姿勢も含まれる。言語能力、生活の目的意識も。 もちろんそうである必要はない。面倒なことは放っておいてもいっこうにかまわない。 ネットはいつでもそこにある。 だが、どうやらそれでは「進化」どころが一つ間違うと「人格崩壊」していく気配が濃厚なのだ。
ただそれでもヤバイと思ったらネットから退けばいいだけのことだから、それほど大騒ぎしなくてもいいのかもしれない。 しかし世界に繋がるなら、より有機的にネットを利用するならば「リテラシー」は欠かせない。 それは事実のようだ。
柳田さんの論は明快にノー・ケータイ・デイ、ノー・ネット・デイを主張する。 (だからといって全廃を主張しているのではない。ケータイもネットも存在し、発展していくという前提での話である) 論の裾野は広く、教育論、格差社会論、言語論にまで及ぶ。 言語に関しての追求は鋭く、相手の命を思う言葉以外に日本語は死滅しているかのようだ。
だから高次脳障害治療のスペシャリストである築山先生の「平面を見続けることで疲弊する脳」という論はおそろしいほどの説得力を持ってくる。ケータイとパソコンだ。 (柳田さんはテレビも加える)
そして水村さん。 タイトルだけで水村さんが英語を礼賛していると勘違いしてはいけない。むしろその逆である。冷静に世界の言語分布を語っているのだ。 水村さんは明治から大正、戦前にかけての日本近代小説をこそ日本人は必読しなければならない、と主張する。 世界を見据えた、あるいは背景を意識した日本人としての個人。 そういう立ち位置からの作品をさすのであろう。 あるいは翻訳してもなお強烈に日本を失わない作品であるとか。
バラバラに見える本たちだけれど、ぼくには同じことを示唆しているように思えてならない。 それらを繋ぎ合わせる言葉として、詩人・荒川洋治が「黙読の山」で紹介した詩人の言葉を思うのだ。
『個人主義ではだめだ。私人でなければ』 日本では知る人ぞ知る20世紀の重要な詩人のひとりであるヨシフ・ブロツキイの言葉である。 彼の詩はロシア語で書かれているけれど、多くは英訳されている。 エッセイは英語でもロシア語でも書かれている。 邦訳も数点ある。
来年はブロツキイをよく読もうと思うのだ。今こそ読まねばならないとさえ思う。 彼の生涯そのものが姿勢をたださずにはおかないからである。 『読むことで人は生きていける』という言葉も。
2008年12月22日(月) |
hohoemiてがみ |
「にゅあん」の「hohoemiてがみ」を聴きながら、です。 今年も残り僅かになって、とてもいいプレゼントをもらった気分です。 とても温かな気持ちになれる歌です。
Amazonで購入しました。画像で気持ちよく寝ているハナなんですが、とても目が離せる身体的な状況ではないので、いろいろな用事をネットで済ませることが増えています。 本屋さんやCDショップにいく時間も愛犬のために振り分けたいし、そうせねばならない状況なのです。
一年中こういう生活を続け、これからさらに自分の時間を工夫しないとやりくりできなくなるであろう状況を考えると 介護に忙しい人、動物の世話を見なければならない人など、自分の時間のとれない人たちにこそネットとパソコンは必需だとつくづく思います。
独りで現実に向きあわねばならないときこそ必要なツールだと。
ところで、 今年の最後には今年であった音楽と小説のことを書こうとおもっていたんですが、 「CD部門」のトップはまちがいなくこれ。一年の最後に出会いました。 「hohoemiてがみ」にゅあん。優しい気持ちになりたい人にお勧め。
年の瀬といえば、大掃除。 今日はウィークデイなので本棚の整理をした。実は本が余りにも増えすぎたので、その整理のために無印良品の37センチの正方形が五つ繋がった箱を五つ積み上げる作業を日曜日に済ませていて、(つまり25マスの箱が壁を覆っている状態)毎日そこへ本を詰め込んでいるのである。
整理ができてなくて奧にに引っ込んでいた本もずらりと横並びになった。そうやって部屋の整理をしていて、実は本よりもCDのほうが整理がついていないことに気がついた。
これも余りの多さに、プラスチックケースを片っ端から捨てていって、やはり無印のクリアケース(ブックタイプのもの)に盤とカバーだけを差し込んでスペースをつくっていたんだけれど、それでも平積み状態が増えていた。 本が壁の箱に収まり、それまで占拠していたスペースにCDを入れていき、なんとか整理が出来そうである。
土日に大きな掃除は出来たのでほっとしていたのだけれど、自分の部屋がいちばんの大仕事になってしまった。
それと並行して、金曜日の小説を書く。 今年最後の作品になる。
2008年12月12日(金) |
キョースマ/にゅあん/ISBN/スウィング |
今日は何かと物いりの日。それもネットを通じて知ることのできた方たちの「新作」が出たからです。
まず淡交社の「なごみ」の別冊としてスタートした「キョースマ」(「京に住まわば」の略であるとのこと)の冬号が発売されました。 表紙には大きく「錦市場 まるごと 一冊」。
錦市場は言わずと知れた京の「台所」。 ヴォリュームたっぷりの特集です。よみごたえあります。 このなかに「すぎもとさん」の記事があるのです。どれかな♪と想像しながら読んでます。
続いてミュージシャン。 「にゅあん」さん。 新しいCDが発売されました。 タイトルは「home」 バンド時代から「追っかけ」ております。AMAZONに発注したところです。 楽しみ♪
AMAZONがらみでは、ぼく個人でISBNを取得することにしました。 ISBNとは日本図書コードのこと。これがあるとAMAZONでの販売が可能になります。 ただいま準備中。
画像の端っこに写っている文庫本は村上春樹さんの今月の文庫の新刊「意味がなければスイングはない」。文庫化を待っていました。
なんやかやと忙しくなり始めました。年の瀬です。
プリンターを大判に対応できる新しいものにしてからホームメイドの本の表紙を印刷できるようになりました。 「街函」のこれまでの表紙は専用のスタンプを職人さんに彫ってもらい、それをぼくが一冊ずつ捺していたのです。実のところ。 ハンドメイドのゴム印スタンプとしてはいちばん大きいサイズです。ある意味貴重かも知れません。
画像は位置と大きさを探っての試し刷り。これからの街函は全部PIXUSで印刷したモノになります。
2008年12月08日(月) |
新潮1月号で水村x梅田対談を読みながら |
なにはともあれ水村早苗さんと梅田望男さんの対談がいきなり目に飛び込んできた。 ネットについて、水村さんの発言が刺激的だ。 そして水村さんの「日本語が亡びるとき」の提案を考えるとぼくは「バイリンガル」を選択する。
水村さんの同書を読んだ後、在ロンドンの妹にも聞いてみた。彼女曰く、「日本語は一億人以上に流通しているんだからそんなに悲観的にならなくていいよ」とのことだったけれど、それは妹の「やさしさ」からきた言葉だったのだな、と思う。 今回の対談を読んでいると、まさにそのことが日本の足を引っ張っているように感じたからだ。
そこそこの規模の人口、優秀な国民、優れた産業、美しい国土…それぞれがあるレベルで綺麗に整合している。まるで美しい卵の殻のようなイメージ。それが日本なのだと思える。 だからこそ住みやすい。温かい、あるいは「ぬるい」。それはそれでいい側面もあるけれど、あまりに世界に遠い。
そしてその良さをかつての日本語で理解しなくなりつつある日本人がいて、日本語で理解しつつあるバイリンガルの外国人が増えていくという構図を直観する。
そしてなにより痛切に感じたのは日本人のパブリック意識の低さだ。 おそらく江戸期日本画の傑作の一つである「源氏物語絵巻」が海外に散逸している様や運慶の傑作が海外に流出している様を想像した 文化的遺産に限らない。公園や自然に対する態度。あるいは人に対する意識。 「ゴッホの絵を柩に入れてくれ」と語った、某財界人の話など典型だ。
個人的に、義弟が英国人である関係からどうしても英語をマスターしなければ文字通り話にならない。 京都に来るたびに、街の雰囲気や寺社仏閣に感心する彼が、日本をどう見ているのか、そして英語で世界はどう把握されているのかもっと語りたいとも思っているから。
あるいはニューヨークから京都にきた友人が「日本の美は安土桃山にある」といつも語るのだけれど、それに対して自分がどれだけの引き出しをもっているだろう、と自問することがある。 日本の美について、英語でどう説明できるのか。彼は日本語もしゃべれるから、ついそこに甘えてしまうけれど、一度は英語で語りあいたい。 彼は英語で安土桃山を世界に伝えているのだ。 (英語なら「世界に伝えている」といえる。日本語では「いえない」。)
かつて渡したぼくの詩集の評価もききたいところだ。 ”Thank you for your note”以外に。
外国人の彼らが、京都に感じているよさ、素晴らしさを日本人はわかる必要がある。おそらく世界のパブリック・ファニチャとしての側面があるのだろうから、それを日本人自ら潰してはいけないだろう。
そして日本文学。 先ず漱石。そして近代文学。 昨日読んだ荒川洋治さんの「黙読の山」にも漱石が出てきた。 「個を確立せよ」という漱石の言葉が何重もの意味を持って今現在も迫ってくる。
ともあれ英語はぼくにとってはますます必須になっていく。それは間違いない。
冷え込みました。 早朝よりも、昼過ぎからの気温急降下のほうに寒さを感じました。
荒川洋治・著「黙読の山」を読みながら、本の制作を開始。 「街函」にまとまったオファーがあって、最低でも五冊は常備しておかないと慌てる状況になりそうなので動き始めたわけです。 「音函」にも注文がありました。
新しいピクサスが快調に動いてくれて助かります。うちのは複合機ではなくてA3対応のビジネスモデル。すでに三人の知りあいの年賀状も作り上げて調子は上々です。 カラリオにしてもピクサスにしても、ヘッドが新しいとほんとに綺麗に出ます。
朝の「週刊ブックレヴュー」は川上弘美さんがゲスト。 新刊の話をしてらした。街のモデルはまたしても真鶴なんですね。
来年の中頃に出す予定で作品を準備中だとか。主人公は小学生の女の子らしいです。 朝から文学をめぐる話を聞くと「文学脳」になれるので嬉しいです。 実生活ではへまばかりすることになりますが。
2008年12月05日(金) |
「おとなのコラム」掲載されました。 |
「月曜日の朝食会」です。 こちらです。
昨日の夕方五時過ぎ頃、南の空に浮かんだ三日月があまりに綺麗なのでちょっと見とれていました。 隣には宵の明星、金星が明るく輝いていて、その近くにもう一つ星が輝いている。とても珍しい配置なのでデジカメで撮影しました。 「夜景モード」なのでどうしてもぶれてしまうのだけれど、なんとか撮れました。
すると今日、ヤフーのニュースにその星のことが写っていたからビックリ。 さっそくPCに取り込んで見てみると、写っていました、「夜空に笑顔」。
この配置はこの日だけだったみたいです。。 今日は月が金星の上にきてしまい「笑顔」がひっくり返っていました。
紅葉も桜と同様に散り際がいちばん綺麗なように思います。 京都の紅葉は今が盛り。散る寸前のいちばん濃厚な紅色になりつつあります。 路面にはもはや散り始めた葉が吹きだまりを作り始めています。
今年は紅葉の名所にはどこにもいけませんでした。 清水寺や嵐山はすごい人出だそうです。 ぼくがオススメするのは叡山電車の車窓からみる紅葉かな。 すぐに終わってしまうけれど綺麗ですよ。
きょうは小説がすすみました。 あすもすすめましょう。
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