散歩主義

2005年01月31日(月) 意識の下

この日記で何度か紹介してきた、京都新聞の「創作の流儀」。
今回は詩人の谷川俊太郎さんだった。
本やエッセイ、雑誌などでのインタヴューで、谷川さんの創作活動についての発言を読んできているから、目新しい発言というのはなくて、重ねて詩に対して考えておられることを読ませてもらった。

改めてはっきりと語られていたことは
詩に意味を求めない、ということ。
例えば次のように

…詩を意味だけで追求すると、詩ではないもののに行くという思いだった。
今は、言葉が美しい、言葉の組み合わせが面白いということが、詩の一番の本質だととらえています。…
  
そのために無意識に一番近い状態で出てくる言葉がいちばんだという。

…自分をいかに言葉のない世界、理性が働かない世界に持っていくかが一番の問題。瞑想とか座禅とかに似ているのかと思います。そういう状態で出てくるのが、いい、面白い言葉だと。…

だから谷川さんは散文と詩の違いを明確にしている。

…散文は立場を一つに限定せざるをえない。詩はそれをしないで新しい立場を作る…

世界は曖昧であり、人間もまたそうである。
その世界を肯定する詩とは。
谷川さんは考え続けている。ことは容易ではない。
世界を肯定する詩を人が肯定するとは限らないからだ。

詩と小説。全く違う作品群の中で、ぼくは同時に書いていきたいと思っている。「世界を肯定する」というただ一行の言葉で、ぼくは谷川さんにつながっている。
それはしかし、何よりも重い言葉だ。

詩はメディテーションがなければ生まれないとも思う。
流儀は自由。
いかに意識下に降りていけるか。
詩の生まれる瞬間はつくらなければ訪れないし、つくろうとしたら潰れる。

感覚から入り、思考で出て行く。今、心掛けていることではあるけれど…。

夜、モントリオール・ジャズ・フェスティヴァルでのチック・コリアの演奏をBSハイヴィジョンで聞く。
チック・コリア・トリオがこんなにクリアな音を出すとは。
嬉しい驚き。チック・コリアを最近、聞いていないなあ。

インタヴューでジャズの楽しみ方を教えてくれた。
ジャズにしかないもの。それはメンバー同士の音による会話。
インタープレイを楽しんで、と。
楽譜から音は飛翔していくものね。
ピアノトリオがいちばんわかりやすいかも。

ジョン・パティトゥッチのベースはいいなあ。



2005年01月30日(日) lea lea

「レアレア」と読む。
ハワイの言葉で「一緒に時を楽しむ」という意味だという。
この名前のケーキショップが京都・烏丸二条下ガル にオープンした。
ここの特徴は犬と人間が同じケーキを食べられるようになっていること。

人間にとっても犬にとっても身体によいケーキ、というコンセプトで作られている。
だから材料も白砂糖を使わずに、カナダのメイプルシロップやトレハロース。チョコレートやカカオのかわりにイタリアのキャロブを使ったりという具合。

犬を飼っているものにとっては覗いてみたいお店ですぜ。お店の構えもとてもおしゃれ。
今日は(きょうも?)モノカキに忙しく、買い物はできなくて素通りだったけれど、いつか画像でも紹介したいです。

さて、そんなモノカキのツールとしてATOKはご存じだろうか。
かの「一太郎」の日本語変換システムのことである。たぶん、日本語のワープロソフトとしてはダントツにして追従を許さないのが「一太郎」だと思うけれど
ATOKシステムもそれだけ素晴らしいということである。ATOKシステムが現在開発中なのが「方言変換システム」。

今日アップした「天使形」の続編は全編京都弁なのだけれど、その変換が実にスムーズにできるようになるわけだ。
例えば「みなさんがいうてはったんわべごにあのはのことで」
を普通に変換すると「皆さんが言うてはっ端わベゴニアの葉のことで」となるのが「皆さんが言うてはったんわベゴニアの葉のことで」と一発で変換できるというわけだ。

ほかにも変換しにくい方言の言い回しは全国にあって、それも鋭意開発中。
それにはユーザーのぼくらも参加できて、登録さえすれば変換の体験ができるようになっている。
そのデータや意見が開発に反映されるというのだ。

ぼくは京都の言葉は積極的に使いたいと思っているので、実は参加しています。使ったことのないHNでね。

と、いうわけで今日書いたのは、「欅の飛行 1」「豊後梅 1」でした。読んでみてください。
書き始めはバッハを聞いていたんだけれど、途中から耳に何も聞こえなくなりました。



2005年01月29日(土) 春の幻

暖かでした。
だけど夜に入って真冬に戻りつつあります。
大阪のある気象予報士の方がテレビで「来週はえげつない寒さになります」といっていました。
「えげつない」、か…。

梅は咲き、木蓮の芽もふくらんだところで、どかんと寒波が来るわけです。
といっても昔のような歯の根があわないぐらいの震える寒さには、ここのところなっていないので、どんなものかなと思っていますけど。

今日は朝からお客様の準備。夕方に帰られて、それからPCに向かって大急ぎで「猫の本領」を最後まで書きました。

つぎは「天使形」の新しいのを書きます。
詩も書かないと。

今日のお客様は二人。ふたりとも「光函」の読者。
ふたりとも詩ではなく「お話」がいい、と。

みんなそうなんですよね。
うむむむ。



2005年01月28日(金) 暖かな日

今日はとても暖か。薔薇の新芽が動き出した気がする。
今日の書いたもの。
ブログにSENTIMENTAL/Yosuke Yamashitaをアップ。
山下洋輔さんのソロ・ピアノ。フリー・ジャズ。美しい。
もうひとつのブログに「猫の本領」の続きを書いた。

音楽のこと。
山下さんの古い作品を聴きなおし、そのあとは大西順子さんの、これも古いデヴューアルバムを聴く。
山下さんのあとの大西さんはとても繊細に聞こえる。この盤のNature Boyは好きだ。

読書。相変わらず庄野さん。庄野潤三と山下洋輔を同一の日に甘受できることは幸せなことだ。読めば読むほど「こう書く」姿勢をよくよく考えるべきだと思う。

大塚英志さんのコラムについて。京都新聞。気になった。
イラク開戦1周年に寄せる記事。

誰もが個を持たずに流され出している、という指摘。「場を読め」という配慮から独断先行を許す構造について。
戦争に向かう昭和初期と現在の文化状況が似ているという指摘。太宰批判。
戦時下の状況をやり過ごした太宰、という指摘。

現在の問題は「『私』という内面の肥大」。

…外から目を背け続けるには一人称を肥大させるしかない。私をわかってというが、自分と違う誰かをわかろうとしない…

イラク戦争に関して発言した文学者は、池澤夏樹さん、片岡義男さんといった「エンターテイメント」に属しているといわれている人たちだけだという指摘。それが文学の危機だと。

大塚さんの記事を読んでいて、確かに文学者は鋭く問われているなと思う。
何を書くのか。

ふと、その横の記事で小田実さんが開高健さんの遺作「珠玉」について語っておられるのを読む。
石の話だ。すぐに読みたい。

今また実存を掲げるときが来ているのだろうか。実存と自由の精神を掲げる時が。
それは村上春樹さん流にいえば、コミットする時、となるけれど。

もういちど山下洋輔さんを聴く。
自由であるということの熾烈さ、そして豊かさを思う。



2005年01月27日(木) 寒波が来るよ

今日も穏やか。明日は春のように暖かいらしい。
そして、月末から大寒波が来るという。
ピークは2月3日。節分である。

大阪の予想最低気温がマイナス3℃だというから、京都だともっと冷えるね。

毎日毎日、こんなに天気に神経質になるのは猫と植物のため。
今日は猫のためにアルミの保温シーツ、植物のために簡易園芸テントを購入。
どちらも発明アイデアグッスの店で。まあまあの性能で安いのが助かる。

一応対策はたてたから、大丈夫だとは思うけれど、あとは臨機応変でいきましょう。

本は相変わらず庄野さん。感想文を書きながら読んでます。音楽はジャズピアノ週間。
いろいろと聞いています。このことも書くでしょう。

書くことが中心に「どん」といるので、そのことばかり考えています。




2005年01月26日(水) ある電話

今日はセロニアス・モンクの「セロニアス・ヒムセルフ」の感想をブログのin Paradisumにアップ。

この「アメブロ」、参加者が増え続けている。サーバーの関係で「名物」のランキングが1月はお休みだけれど、参加者のカウントだけは表示され続けていて、ぼくが入っているカテゴリ「本・書評」だけで1300人を超えた。
それだけ書く人がいる。プロの作家のブログも三つある。

もう一つのブログのwalk with jeanのほうには、続けて書いていた「柘榴と犬と柿の木と」をアップした。
とにかく掌編小説を書き続けていこうと思う。合間に書評や音楽評を入れて。

ところでブログのサービスに対して参加者が増え、それぞれのページが増大してくると当然のようにサーバーの力が要求される。技術的な問題も派生する。

上記のブログのどちらもがこれからそのような問題をどうクリアしていくか注目していたい。
現在、無料ブログが続いているけれど、有料化がタイムテーブルにあがってくると思う。
当然といえば当然のことだけど。…。

夜になって「光函」を置いてもらっているお店から電話。
売れたので、とのこと。わざわざ電話してくださった。ありがたい。
とても嬉しい。

ほんの少しずつでも読んでくれる人が増えているのは、本当に嬉しい。
もっと書いていきます。



2005年01月25日(火) 暖かな曇りの日

朝から曇天。気温は高かった。雨は細かな時雨程度。

今日は天神さんの縁日。「初天神」である。
大勢の人で天神さんはにぎわっていた。
有名な梅林はかなり咲いていて、香がほんわりと漂っていた。

今日は自分の足下を見つめた日。
語るべきは少なく、自分を開いていくしかない。
そんな結論。



2005年01月24日(月) XPのこととか

今使用しているOSはウィンドウズXPのsp2である。
確かにマイクロソフトのOSの中では外部からの攻撃にも比較的強いようだ。
ただそれに伴って、これまで平気で使えていた古いハードウェアが使えなくなったり、チェックも厳しくなった。ポップアップに対してはとても厳しい。その都度ブロックを解除しながら使っている。

きょうはキャノンのスキャナーが使えなくなって、随分手まどった。
そもそもが相性が悪いらしく、やることなすことすべて「一手ずれる」。ぜんぶ裏目。
キャノンのサイトには対処方法が事細かに書かれているのだけれど、どれをやっても駄目だった。

ちなみに一太郎のインストールにも問題が起きるときがあるらしい。それはうまくいったんだけど。

98搭載の古いノートがあったのでそちらで作業をした。
そんなこんなで取り込んだ画像の一つが、今日からサイトのトップに置いた画像。
ピピとルル。姉弟ならではの姿です。ピピの「笑い顔」は珍しいなあ。

音楽のこと。ROSSOのシングルが2月2日にでるのもチェック済みだけど、しばらくはピアノとアリアを聴きます。

本のこと。庄野潤三さんの「ピアノの音」「せきれい」を読み継ぐ。庄野さんの本は全部読むつもりでいる。

作品のこと。「柘榴と犬と」を昨日から書き始めている。

和歌山県印南の名産、赤糖房というトマトをいただいた。
「果物」だと思った。それほどおいしい。イチゴのような味も少しする。
ありがたい。



2005年01月23日(日) 背中を伸ばして

背が高いのでどうしても、少し前屈みになってしまう。
猫背まではいかないけれど。

鴨居も低いし、周りの人もほとんどぼくより低いから、話しかけたりするのにどうしてもそうなりがちだ。

それで時々、フロアに寝ころんで背中を伸ばしている。
ハナが寝ている横とかで。
ベッドのマットも、ほんとうは板ぐらいに堅い方がいいんだけれど、普通のものなのでどうしても身体が沈んで、その結果背中が丸くなる。
だから、寝ころんだ最初は背筋が痛いぐらいだ。
しばらくして気持ちよくなってくる。

パソコンにむかっていても背中を時々意識する。
ノートからデスクトップになったので、背中を伸ばして打ったり、画面から離れて見たりができるようになった。
それでもどうしても前屈みになってしまうときがある。

目が悪いのだ。両眼だと運転免許もOKという視力なんだけれど、実感として悪くなってる。おまけに老眼?にもなり出していてる。

だから余計、姿勢に気が向くようになった。
パワーヨガのいくつかのポーズも続けていきたい。
今は走ることよりストレッチに興味がとてもある。



2005年01月22日(土) 穏やかな寒い日

たぶんこの冬一番の寒気だと思う。
体感的にはそうだった。

音楽も聴かずに、心身を休めている。
本を読む。

音楽は次に聴くピアノのCDの到着を待っている。
山下洋輔氏。
2004年の12月にリリースされた新盤。
富樫雅彦さんの絵を見ながらの釧路でのソロコンサートだ。

考えてみればぼくは高校生の時、山下さんを初めて聴いたのだけれど、この方は火の出るようなプレイに完全にノックアウトされていたんだった。
ノックアウトということは言葉を失った、ということ。
ほとんど唖然として聴いていたんじゃないかな。

ぼくが大学へ入学した年のライブ盤が最近、復刻されてもいる。
富樫さんも、不幸な事故はあったけれど「凄い」ドラマーだった。

それからかなり時間が経過して、彼の演奏がどれほど情感豊かになっても、最初に抱いた緊迫感、緊張感が消えることはなかった。

そろそろ真正面から聴いて、文章を書いてみようと思う。
来週はそんな週にしたい。
新盤と最近の愛聴盤の感想を文章にできれば、と思う。
一行で終わるかもしれないけれど。



2005年01月21日(金) 続けて書く、ということ。

今週は小説を二本、同時並行で毎日アップすることが何日か続いた。
できるかどうかかなり不確定だったけれど、自分を試してみるつもりで書いた。
ひとつは今日のアップで一段落。(In Paradisum)
もう一つも明日のアップで一段落。(walk with Jean)
今、明日ブログに載せるものがだいたいできている。

かなりきつかった。やったことがなかったので不安だったのだと思う。
「惜しみなくアイデアは浪費する」という方針は曲げずに続けることができた。

やり始めると、次へ次へと走り出してくれたからよかった。
ゴザンスの「お題」以来じゃないかな。
自分でテーマじゃなくて「字」を決めた。動詞。

次にやってみたい形式はある。そのやりかたを検討中。
いずれにしても続けて書いていきたい。

詩も書かないといけないし。
睡眠も大事だし。
家事もね。

だけど毎日これぐらい書けなきゃ……と思う。




2005年01月20日(木) モーツァルトのアリアとか一太郎とか。

音楽のこと。
自分で発見する喜びもあるけれど、人から教えてもらって優れた作品に行き当たることも多い。

ロックとかソウルはもう聞き出して何十年も経っているから、(そのうえほとんど毎日聴いている)だいたい目鼻が利く。

クラシックは、自分で選ぶのはバッハの作品ぐらいで、あとは人から教えてもらうものが多い。

モーツァルトもそうだ。
人からの薦めと自分の耳で選んでピアノ協奏曲ばかり聴いている。
何せ作品数が膨大なので、それでいいと思っていた。

とうとう、ある方から「おすすめ」をいただいた。
「モーツァルトをお聞きになるなら、アリアを是非とも聴いてください。
モーツァルトらしさはまさにその中にありますから」とのこと。

「モーツァルトのアリア」。
聴いたことはあるけれど、CDでは持っていない。

なんだろう「ドン・ジョバンニ」の中のアリアとかなのだろうね。
だけどそれを聴いてたら、他に何もできないんじゃないだろうか。
まあ、それもおもしろいかも。
CDで一度聴いてみます。

「一太郎」のジャストシステムから2005年ヴァージョンのDMが来た。
文章校正ツールもいいけれど、
「アウトライン」の充実ぶりがおもしろそうだ。
要素をとにかく放り込んでいくというやり方。これは紙の上ではできないこと。ビジネスにはいいだろうな。

でも、抽象的な要素の書き込みを見ながら「考える」という意味においては、文学にも使えるんじゃないのかな。

一太郎に書き込んだ原稿を原稿用紙に移すという作業もそのうち当たり前になるかも。

というか、自分の本を作る時、それに近いことをやったんだった。
書き直しが多かった。全部書き直したものもあった。

それは当然のことで、ぼくはPCの上は「考える」こと優先でいる。
アウトプットはその次。
とにかく考えを顕在化するためのツールとしてPCをとらえているところがあるから。
だからある意味、とても原始的なのはパソコン上。考えている経過が、生のままで載せられるから。

2004年ヴァージョンもまだまだ使いこなしてるとは言い難いけれど、そそられています。



2005年01月19日(水) 再生のためのネット

京都新聞文化欄で、インターネットや携帯電話で人間関係がどう変わっていくか、というテーマで論考をすすめている方の文章が掲載されていた。
筆者は柴内康文・同志社大学助教授。

この論点では、ともすればネガティヴにとらえる意見が目立つけれども、彼はむしろネットによって「再生される人間関係」というとらえ方をしている。
そのポジティヴさに、目をひかれた。

読んでみると、つまり、「社会関係資本」というくくりで見たときの人間関係というのは「もう、壊れている」という認識なんだな、と思った。

「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)とは何か。

引用する。
…人間関係が、それに基づく信頼が、社会の中にどれほど蓄積されているかを「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)ととらえる見方が社会科学全体で広まりつつある。
その多寡によって、政治、経済、治安、教育、社会福祉等の格差が非常によく説明できることが知られている。
人間関係に富む地域は投票率が高く、失業率や犯罪率が低く、学力達成度が高く、死亡率が低い。資本金に富む企業の事業が成功しやすいがごとくである。…

そして、これがアメリカでは激減しているという指摘がある。社会的なハードな関係だけでなく、日常的なソフトな人間関係も衰退しているという指摘である。(たぶん日本もそうなのだろう。)

その原因としていくつかが挙げられている。労働時間の増大。居住の郊外化。そしてそれ以上に、娯楽の個人化、その最大のものとしてテレビが挙げられていた。

従って旧来の人間関係の結び方は急速な勢いで壊れつつあるという認識なのだ。そこに冒頭の新しいツールが登場する。
ネットと携帯だ。

この二つが人間関係の分断を促しているのか、それとも新しい関係のあり方を構築しているかは議論の分かれるところだろう。
筆者は後者を選んでいる。

ということは20世紀後半に寸断された人間関係を再生させるツールにネットも携帯もなりうるという主張なのだ。

ぼくは携帯をほとんど使用しない。ロードバイクで遠くに行くときの非常連絡用に使うぐらい。元々持たないし、持ちたくないほうだった。
一方、ネットには毎日何かしらの書き込みを続けているし、作品やメツセージを読み込んでもいる。
新しい人間関係のほとんどはネットによるものだ。

柴内さんの論考を読んでいると、「再生」に向かうしか道はないんじゃないか、という気がしてくる。後戻りはできないから。

まさに現在進行中の社会関係の中に我々は生きているわけで、仮に社会科学が証明しつつあるような、社会関係資本が「豊かな社会」の成り立ちに深く関わるのなら、もはやネットや携帯によって前に進むしかないと思うのだ。

そうなるとネットの端末の我々のディスプレイに時々現れる、「人間関係」に対しての悪意ある障害は粉微塵に粉砕されるのかもしれない。

何故ならこの文章でイメージしたのは、サーフィンのBig Waveなんだ。津波によく似ているけれど誰も殺さない、波。
乗ればハイになれる。ただし間違えると叩きつけられる大きな波。

あとはいかに「ボード」に乗るか、みんなで工夫することだよね。
柴内さんはそれを研究するとおっしゃっている。




2005年01月18日(火) 書いているときの音楽、書く前の音楽

こないだテレビの「あるある大事典」で「よりよく集中するには」ということで
色と音楽と飲み物を紹介していた。

それぞれ「黄色」をみる、「マーチ」を聴く、「日本茶」を飲む、だった。
全部「事に当たる前」にね。

黄色で思い出すのは、頭がくらくらしたことかな。
ビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンドの見開き内側。
歌詞の背景が真っ赤だから、そのあと見開きを開いたら、
それだけで頭が吹っ飛んだ気がした。

「マーチ」っていうのが凄いね。「クワイ河マーチ」とか「ミッキーマウスのマーチ」ですかね…。「テンポ116」が人間の拍動のリズムに合うんだとか。「テンポ116」とはメトロノーム上の数字です。

日本茶はよく飲むからべつにどう、ということはなくて、そのとおりだろうと思う。

ほかに、顔を両手でたたくというのもいいらしい。
三叉神経を刺激するから。脳に刺激がいくんだね。ぺしぺし。

ぼくは音楽をよく聴くけれど、書き始める前と後では音楽が違う。
書き始めたら何聴いてても同じ。つまり鳴っているけど聴いてないんだと思う。
頭の中で組み立てているときの音楽の方が大事かも。

例えばBrian Enoの On Land。
ものを考えるにはいいと思う。よく聴く。
全然マーチじゃない。普通の人なら寝るかも、と思う。
そんな音楽。

だけど、この音楽を聴いて頭が冴え冴えとするような時は、たぶん集中した状態なのだと思う。
考えが浮かび始めると、たぶん何も聞こえていないとも思うし。

書いていて、身体が動き出すようなノリノリの状態になるのは「マーチ」っぽいリズムの曲。それは合点がいく。
ロビー・ロバートソンとか、シールとか。だけど腰が浮いてしまって書いてるどころじゃなくなる。

「あたりまえの感覚」でいることがぼくには大事に思える。
「あたりまえ」をとことん研ぎ澄ますようなのがいい。

そういう意味では、「マーチ」というよりロックのミディアム・テンポの曲が疲れた精神のカンフル剤になったなあ。
と、そんな記憶がある。

でも最大の前提があるよね。
「なにかをしようとしていること」
それがなかったら集中のしようがないよ。

あ、そうそう。
書く前にバッハを聴く。これはある作品の時必ずします。



2005年01月17日(月) なんでもいいから書けばいいじゃん

午後から晴れと雨が交互にやってくる。
それまで、ずっと雨だった。

ブログに何を書こうか考えているんだと、たまたま来た人に口走ったら
「何でもいいから書けばいいじゃん」といわれた。
本とか音楽の感想、エッセイ、小説、詩のどれを、というんじゃなくって全部書けよ、と。

考えてみればそうだな。
ということで、毎日どれかを書くことになりました。

ブログは未だに「重い」といわれることが多いです。
読み手のネット環境にもよるけれど、ADSLでも「重い」。
ブログ天国の韓国なんて、どうなっているんだろう。
なにか他に方法はないかな…。

…だけど、まあそうだ。
読み手のことを考える前に書かなきゃね。
エンピツも勿論続けます。

エンピツのデザインにも創作に向いていそうなのがあるけれどね。
これは要検討。
とにかく書きます。



2005年01月16日(日) TEXAS FLOODとROSSO

桐野夏生さんの「柔らかい頬」に出てくる、癌に冒された身体を持つ元刑事さんが、
もう俺はこれ以外の音楽は聴けなくなった、
というのがスティーヴィー・レイ・ボーンのテキサス・フラッドだ。

白人のブルース・ギタリスト。
1990年8月27日にヘリコプター墜落事故で亡くなった。

ぼくが彼の存在を知ったのは、デヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」でだった。
カミソリみたいに切れるギターをその時初めて聞いた。

うまいのは間違いない。抜群のブルーズギターだったなあ…。

で、そのテキサス・フラッドが聞きたい、と文庫本主義者が言うので、CDを引っ張り出した。
そして久しぶりにあの乾いた音を聴いたのだった。

トラブル続きの人生を乗り越え、イン・ステップという名盤をつくって、さあこれからという時の死去。
それを踏まえて、文庫本主義者は「あのシチュエイションでこの曲か…何となくわかるな」という。

ぼくは桐野さんの本は読んでいないけれど、その音に眠っていたどこかが刺激されてしまった。

一人になって、久しぶりにロックンロールが聴きたくなった。

取り出したのはROSSO。(新生ROSSOのほう)
日本のロックバンド。
「ハードコア混沌ロックンロール系」というか…。
ドライヴ感がいいね。へヴィーだし。
詞は好きなのもあるし、嫌いなのもある。
そもそもイメージの詞だから、聴いて身体で感じる歌。
そもそも「叫び」だし。

「1000のタンバリン」はいい。
格好いいよ、チバ君。(彼はミッシェル・ガン・エレファントのチバ君です)
いいんじゃないですか。ロックンロールバンドなんだし。
かっこよくないと。

ぼくはロックンロールバンドには「うねり」を求めてしまう。
ジャズやスカやソウルを演っているの日本のアーティテストたちの
創りだす音じゃない音を求める。いわゆる日本のロックというのとも違う、
「ロックンロール」じゃないとできない音。

ROSSOはいいね。
叫び声だからね。

実はギターのイマイ君とドラムの佐藤君が入ってから聴いたんだ。
この二人はFrictionにいたからね。
Frictionは昔から聴いてたバンドだったから。
さすがに半端な音は出してないよ。
ハードコアのロックンロールは彼らでいい。

日本のロックで、バラードやエモーショナルなギターならサカサイ君がいるしね。

まあ、こんな日があってもいいでしょう。



2005年01月15日(土) 「楽園後刻を読んで。

痛切な物語だった。途中何度も溜息をついて、ふと何に対して溜息をついているのか自分の心を覗き込んでいた。
 人はみな老いて死んでいく。その当たり前のことをたとえ忘れていようといまいと、いつか誰もが嫌が応でも突きつけられる。
 やはりそれはそうなのだ。どうしてもそうなのだ。

そしていかに痛く、哀しみが散りばめられていても、作品は最後まで光に包まれ続けていた。「光」…そのモチーフに対する作者の感覚はぼくのそれに親しく、その描写のいちいちを撫でるように読み返した作品でもあった。

 「楽園後刻」、「らくえんごこく」と読む。人生における「楽園」と「後刻」、つまり「その後」が語られる作品である。
 語り手は三人。同級生とおぼしき信子と菊子。菊子のおばにあたる逸子。みな老いており、作中でこのうちの二人も亡くなる。

 様々に楽園が語られる。
 もっとも語られたのは、この作品のある意味、中核をなす、逸子と三郎夫妻の「楽園」。戦時下にドイツ大使館に勤務し、華麗な生活を送った夫妻の住まい。そしてコレクションされたドイツのケーテ・クルーゼの人形、トロイメルヘン。そして失われていく戦後。
 すべては朽ちていく。人は亡くなり、家は消える。冒頭、「夢の残骸」と形容されながら残る逸子の家の庭で信子と菊子は桜を愛でる。そして最終の場面では跡形もなく消えたそこを信子は再訪するのだった。

 84歳の逸子は気位の高い、華麗な生活の思い出とドイツ語をしゃべれることだけがそのプライドを満足させているような、難しい性格の老婆。
 その面倒を見る菊子は「自分の生の感覚だけで生きている人」。夢の中に生き続けているともいえようか。その母は嘗ての自分たちの生活の豪奢ぶりを自慢する女。良家の出ということが最大のプライドである。父は繊維会社の跡取りだったけれど、ノイローゼから自殺未遂を繰り返し、会社を手放す。菊子自身、二度の結婚をし、現在の夫、譲二は舶来家具の会社に勤めながら、いわゆるコレクターであり、様々なモノを蒐集している。やがて譲二の会社は倒産。一家は窮地においこまれ、まるで火が消えるように夫、母、父、と死んでいく。

 その友人の信子はその「生の感覚」で生きている菊子に嫉妬しながらも、友人関係を維持し、夫とゆっくりと動いていく老後に向かおうとしていた。

 「楽園」は、家であり、生活であり、地位であり、思い出であり、人形であった。人であり、犬であり、夢であった。鎌倉であり、ドイツであり、東京であった。光であり、花であったのだ。


 大まかに述べれば、このように話は「楽園」が渦を巻きながら進行していく。物語の構造はフラクタルになっているところが時々見受けられ、作中の言葉で言えば「同じテーマによる変奏曲がなんども演じられている」。病。死に様。現れる花たち。嗜好。不幸。幸福。それらがまるで相手を変えながら続くロンドのようだった。

 寂しさが胸を塞ぎそうになった。しかし、それは誰もが避けられないことなのだ。物語を閉じる信子の語りがすべてを象徴していた。
「いずれは死ぬことが、今生きているということだ」と。
 そして彼女は残された生に向けて歩き始めていったのだった。

 老境を描いた最近の文学を庄野潤三さん、山田稔さんの著作で親しんできたけれど、そのどれよりも痛切だった。光が眼に痛く、滅んでいく美しさを感じた。苦い言葉があった。しかし暖かい手も感じた。死を見据えることが生きることであるというテーマを何度もなぞられた気がする。
 忘れられない本である。

 著者の甘糟幸子さんは、エッセイストとしてたくさんの作品を書かれている。野草の料理の本などは有名だと思う。また、かつて向田邦子さんと同じ場所でライターとして活躍されていたという。その69歳にしての小説デヴュー作品である。
 舞台は鎌倉。鎌倉の描写も多く、一度みたい花がたくさん登場してくる。稲村ヶ崎のカンナ。是非、一度見てみたい。

 ところで「楽園」のモデルの一つとして登場する、聖歌「楽園にて」はぼのブログの由来でもある。「In Paradisum」
であると思われる。参照されたい。

●「楽園後刻」 甘糟幸子・著 集英社 

 



2005年01月14日(金) 柚子待ち

ちょうど植え込む時期からはずれていますが、「売れ残り」があるとにらんで園芸店に行きました。

あったのは、伊予柑、ポンカン、金柑、早生みかん、酢橘。柚子はありませんでした。売り切れということでしょう。
それならば適切な季節にいい苗で植え付けよう、ということでネットで注文。
サカタではなくてタキイにしました。欲しい苗の種類がタキイにしかなかったので。

到着は一緒に注文した朝倉山椒が四月末。柚子が五月中旬です。
果樹用の鉢はその前に到着します。
あとは土をどうするかを調べます。

ところで芥川賞と直木賞が発表されました。
お二人とも実力のある方ですから、驚きはなかったです。阿部さんの本は「アメリカの夜」を持っています。

実は京都ローカルでは白岩玄さんの「野ブタをプロデュース」にとても期待が高まっていて、普通のニュースでも昨日から流していました。
なんせ、綿矢りささんと同じ歳ですからね。また京都となるとすごい!!ということで。

結果は6対4で逃しましたけれど、(そこまでニュースでやるぐらいヒートアップしてたんです)鴨川の河川敷でインタヴューに答えていた彼は21歳の専門学校生。
長身でさわやかな男前です。しなやかな人だなあ、という印象を持ちました。
これからに期待したいです。

ぼくと文庫本主義者が発表を聞いて、思わず「やったあ!!」といったのが角田光代さん。
彼女が今、婦人公論に連載している小説がとてもおもしろくて、いつも辛口の文庫本主義者も「この人はうまいし、おもしろいね」といってます。もちろん彼女の文庫もたくさん持っています。

さて、感想文の対象の本をこれから読みます。
集中集中。
ではでは。



2005年01月13日(木) 桂川を羽束師へ走る

今日は空いた時間に昨日書いた柚子の苗を見に行こうと思っていたんですが、まだやり残していた免許証の更新に行きました。

京都府管内、唯一の運転免許試験場は長岡京市の羽束師にあります。

免許の更新だというのに自転車で行くという変わり者の私ですが、前にも書いたように桂川のサイクリングロードを走れるチャンスなんですよね。
しかも、久我橋の南、名神が桂川を渡っている真下に自転車、歩行者、原付だけのための橋ができていて、とてもスムーズに運転免許試験場に行くことができました。

真冬の河原や土手の風景がよかったです。河川敷の畑では春の支度に忙しそうだし、土手では常緑の草が光に輝いていました。
とてもいい天気で、寒さも少しゆるみ、完全にサイクリング・ハイの状態になっていました。

久世橋と久我橋の間にもう一つ橋が工事中で、これができると向日市や長岡京に行くのがずいぶん楽になるんじゃないでしょうか。
ということは、神戸や大阪から高速ではなくて国道で走ってきても、混み合う市内に入らずに滋賀県方面に抜けやすくなると思います。

ところで道交法の改正で、誕生日の前後1ヶ月の更新ができるようになったので、更新会場は込むこと込むこと。たぶん12月生まれの人が年末が忙しくてみんな年明けに来たんでしょうね。別館の三階まで列ができました。
こんなの初めて。

ぼくはずっと有効期間5年間のゴールドの免許だったので、免許の有効期間が誕生日ではなくて、5年後の誕生日+1ヶ月の日付になっている免許証は初めてでした。ちょっとびっくり。

ゴールドは楽でいいです。講習が30分ですから。
ちょいと悪い人だと1時間の講習。さらに悪いと2時間の講習です。

会場は世相を反映して、年配の方が多かったですね。
ぼくものんびりしてられないんだけれど、そういう方たちにとって最大の難関が眼の適性検査。
視力は眼鏡で矯正できても、視野が狭くなったり矯正視力でさえ悪いと、更新はその場で却下です。

ぐるぐると窓口から窓口へ、順番に手続きをこなしていると、一騒ぎが。
男性の老人が、係官の目を盗んで、申請用紙の適性検査の部分に「合格」のスタンプを勝手に押したんですね。
それでずるしてパスしようとして見破られて、つかまって、怒鳴りつけられて…。

かわいそうだけど仕方ないよ、おじいさん。
事故でも起こしたら、もっと酷いことになるんだから…。

帰り道。下町の迷路、安井太秦界隈をぶらぶら。
とうとう樹齢720年の楠を発見。
なんだか魔境のような下町でした。

楠のあったところは山王社といいます。
街全体が生き物のような場所でした。

なんとそこからの細い道が少しうねりながら、ずうっと北の、うちのすぐ際まで、ほとんどまっすぐに続いていて驚きました。
まったく、恐るべき街です。京都…。



2005年01月12日(水) 雪が舞い散る

冬の底は続きます。
風の強い日。空が呼吸でもするかのように
黒い雲が北から延びたり縮んだりを繰り返しています。
そのたびに晴れたり、雪がちらついたり。

今日はキース・ジャレットのパリコンサートを聴きました。
繰り返される音の渦が部屋に解き放たれたようでした。
1曲目が特に好きです。38分23秒あります。
激しさ、美しさ、繊細さ すべてが含まれたインプロヴィゼーションです。
この曲と続くwindという曲は素晴らしい。

注文していた本が二冊、届きました。
楽しみにしていた本です。読み終えたら感想文を書きます。
舞台は鎌倉。もう一つは東京。

読む前から、たぶんぼくと重なる部分のある方だろうなと思っていたんですが、まともに予想は当たりました。

朝、偶然、料理研究家の辰巳芳子さんのお話をテレビから聴きました。
スープのマエストロというかスペシャリストとでもいうべき方なんですが、ご自宅の植栽の話が素敵でした。

新たに家に住む方、世帯を持つ方は柚子と山椒の木を植えるといいですよ、と。確かに柚子は青い実も黄色い実も使えますし、今、話題のユジャロンも簡単にできますよね。辰巳さんは花もみそ汁に入れるとか。
山椒は香辛料としてそれこそ幅広い使用法があります。

他にも辰巳さんはご自宅の周りの家庭菜園でとれる野菜を普段の食事につかっておられて、随分、刺激を受けました。

庭のない家庭でもできますよ、と力説されていたのが印象的でした。
そうなんです。巨大な木枠の鉢で作られている方がおられますから。

明日は園芸店に行って苗を見てきます。

そしてある老詩人との対談で、一人暮らしだから、簡略化したりいい加減になりがちな、ひとりだけの食膳をきちんと整えているという話題になったとか。そのお話がよかったです。

確かに、そういうことに限らず、衣食住のそういう部分がいい加減になると
感覚が鈍磨して、退行していくとぼくも思います。
ただし、面倒くさいのも事実。
別にそんなに整えなくても死なないし、生きていけますから。と、いうように思うことが実は落とし穴なんじゃないかな、と。

精神的にも身体的にも凛としていたい、というためには必要なことだと思うのです。
で、老詩人はそれを自分に癖づける方法として、「お客様に対するようにしています」と。自分との向き合い方、とでもいいましょうか。

辰巳さんは「そこで気づかれたんですね」とおっしゃっていました。
同じ文脈、あるいは意味合いで、辰巳さん自身は「命に仕えている」と意識しているそうです。

自分の、他者の、動物の、植物の、ありとあらゆる「命」に仕えているのです。

「自分」が「自分」の命に仕えている、という感覚。最近になってぼくなりの理解が少しずつまとまってきています。

身体と脳という分け方でもいいし、身体と精神という分け方でもいい。どちらかというと後者だけが「自分」と思いがちだけど、両方とも「自分」なのです。しかも不可分。

意識しなくても動くことを止めない心臓や肺。意識しなくても、考えなくても日々繰り返される「命」のシステムというのは、まさにそれだけで奇跡的なことであって、まさに「自分」というものはその「命」そのものに仕えていくようにすべきではないのか、と。
「命」がなければ自分もないのですから。

実は大病の経験や人や動物のの死に触れるにつけそう思うようになりました。
今日から読み始めた本も「命」「生」の輝きがその足下から描かれています。
感想文を書き、著者や題名はそのときに紹介しようと思います。

今、頭に引っかかっているのはその老詩人が誰か、ということです。
知りたいな。




2005年01月11日(火) 鳥の歌…パブロ・カザルス




鳥の歌…パブロ・カザルス/A concert at White House

 ガザルスの、ホワイトハウスにおけるライヴ録音である。オリジナルは1961年に録音された。もちろんCD化に際しては、最新の技術によるリマスタリングが施され、カッティングも最高の技術によるものだ。
 しかし音はとても悪い。ノイズも多い。
 だがそれがなんだというのだろう。
 「記録」か「作品」かと問われたら、あえて「記録」、と答える。それにもかかわらず世紀の名演であるとも。

 たぶんカザルスたち三人の精魂込めた演奏の恩恵に浴したのは、主のケネディはじめ、この日ホワイトハウスに招かれ、耳を傾けた人たちだろう。その人たちに向けてカザルスたち三人の音は発せられている。しかしその音楽は記録され、その聴衆を射抜いたであろうベクトルはそのままに、こうしてスピーカーの前の私たちを射抜くのだ。

データーを挙げておく
on      1961,11,13
at      ホワイトハウス舞踏室
player  パブロ・カザルス…チェロ
        ミエチスラフ・ホルショフスキー…ピアノ
        アレクサンダー・シュナイダー…ヴァイオリン

list    メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第一番ニ短調 作品49
        クープラン:チェロとピアノのための演奏会用小品
        シューマン:アダージョとアレグロ変イ長調 作品70
        カタロニア民謡(カザルス編):鳥の歌

 当時、カザルスはスペインのフランコ独裁政権に対する反抗と拒絶を鮮明にし、スペインを後にしていた。そしてこのファシスト政権を承認している国では一切のコンサートを行わないことを表明していた。
 反ファシズムだからといって政治的な党派には属していない。
彼の言葉によれば「一人の人間として正しい道を歩みたい」ということである。だからこそ当時フランコ政権を承認していたアメリカの、それも大統領官邸で演奏するということの重みを感じたい。
 つまり彼は「自由」であったのだ。自由を選び、自由を訴えてきた人が、民主と自由を求める人のために、あるいはそう表明する人たちの前で演奏することに、何のためらうことがあるだろう。そのように彼は「自由」だったのだから。

 この演奏全体ではチェロの表現力の豊かさに驚かされる。「鳴り響く」という言葉がぴったりである。鳴り響きわたり、そして歌っている。自在である。
 全体のトーンは哀しい。そして優しい。 哀しみが溢れて止まらない印象がある。哀しみが部屋の空気にに浸みていくようだ。演奏は表情豊かで、力強く激しい部分も多いけれど、「鳥の歌」が終わったときに感じるものは、やはり「哀しみ」である。センチメンタルなものというより、号泣に近い感情をぼくは感じる。カザルスがどんな表情をしていたかわからないけれど、音そのものを聴いて感じるのは、こちらの心をがっしりと掴んで揺さぶってくる「力」だった。

 バッハの死後180年間、ほとんど眠っていた「無伴奏チェロ組曲」を発掘し、チェロの聖典にまでしたカザルス。チェロの奏法に一大革命をおこし、チェロという楽器の能力を一気に拡大させたカザルス。
 正しい道、そして自由を生きた人の音はどこまでも力強い。

鳥の歌/パブロ・カザルス sony classical SICC 322



2005年01月10日(月) 薔薇のメンテナンス




薔薇栽培家、ロザリアンにとって冬はとても大事な時期。
新しい大苗の植え付け時期でもあるし、深い剪定をするのもこの時期。また鉢で栽培している人は「鉢替え」もこの時期。

この時期の手入れで来るべき春が決まるのです。いや、一年が決まるといってもいいかも。

今、鉢の土交換をしています。大きな鉢にしたいし、立派な花もつけて欲しいのでせっせと交換中。

庄野潤三さんの小説にも出てきますけれど、薔薇の肥料に一番、と昔からいわれてきているのが牛糞。
これは確かに効果てきめんなんですが、どうしても匂いがします。広い敷地のあるお家ならともかくも、うちの近所みたいに建て込んでいるとどうしても気を遣います。

そこでお手軽なタブレットを…。
それが画像の肥料。
「京成バラ園」といえば千葉県です。近畿では大阪の枚方に素晴らしいバラ園がありますが、「京成バラ園」のものは全国に流通しているようですね。
新しい花の作出もしておられるようだし。

しかし去年、花付きが悪かったので牛糞も混ぜてやろうと計画中。
匂いを消したものもあるらしいのです。

うまくいきますように。



2005年01月09日(日) 疾走

冷たい朝だった。
日の出前にハナと散歩に出る。家に戻ってからハナはストーブの前から動かない。

素晴らしい晴天の午前、ハナは太陽の当たるところにずっと横たわっている。
猫は…。猫は朝ご飯のセットを置いて、そのまま寝かせておいてあげる。
ずっと寝ている。布団の中に全員が潜り込んで出てこない。

外猫は防寒対策をした段ボールハウスのなかに湯たんぽが入っているから、これも出てこない。

静かだ。
静かに太陽が空の頂を目指している。

ぼくは疾走している



2005年01月08日(土) ブログ、そして”Cafe Impala”

ブログの勢いがいよいよ日本でも本格化してきたようだ。
当初は日記サイトとは比べものにならないぐらい低調だった。
広がり始めた最大の理由は、利用者に親切なブログのサーバーの登場だと思う。

やはり始まりの頃は、パソコン初心者は入っていけなかったと思う。
とにかく使い勝手が悪かった。それが格段によくなり出したんだと思う。
だから「初体験組」以外に「乗り換え組」も多い。

エンピツからブログに移る人もけっこう多いようだ。
感想コメントの書きやすさとか、編集のやりやすさとかもあると思う。
あとホームページをブログにしてしまう人も多い。
コンテンツの分け方がとてもスムーズだから。

ぼくはずっとエンピツに書いてきていて、膨大な過去のファイルがある。
だから今更引っ越せないし、引っ越す理由もない。
一つだけやるとしたら「専用BBS」へのリンクをつけるぐらいだけれど、
まだつける予定もない。

今使わせてもらっているブログを比較すると
「作品主体」だから、読みやすい活字の大きさとスペース幅が必要。
それだとリトログかドリコムのほうがいいと思う。
だけどゴールを紙媒体とするならアメブロ、とも思う。

リトログ、ドリコム、ニュースハンドラー、アメブロそれにエンピツ。
たくさん持ってしまった。そろそろ整理した方がいいと思う。

いずれにしても、ブログを見ていると、やっぱりネットは即時性なんだなあと思う。
それが必要でないのなら原稿用紙に書く方に重心が移したほうがよさそうだ。
あるいは、というか今ほとんどそうなんだけれど
「一太郎」に向かいっぱなしになるかもしれない。

一太郎の設定で「原稿用紙」を使い出しているし、ATOKというシステムはとてもおもしろい。
(ぼくの使っている一太郎はヴァージョンの新しいもの)方言のヴァージョンもおもしろいし。

ヴァージョンといえば、IBMのホームページビルダーも最新ヴァージョンだと
レイアウトやカラーコーディネイトの自動生成機能がつくという噂がある。
ぼくもビルダーを使っているからヴァージョンアップを検討中。
だけどそれって、ほとんどブログビルダーじゃないのかな。

ぼくは2000年前後からネットにかかわりだした。
ホームページを作り、詩のストックをすべてそこに載せ、そして日記を始めた。
日記のアップロードの手間や容量の問題をクリアするためにエンピツに移った。
そしてゴザンスというライティングスペースを得てそこから作品を発表していった。
最初、こだわっていた画面上の読みやすさに配慮することをやめて、
とにかくヴォリュームを優先したのもこのころだ。
そしてゴザンスは解散。
ぼくは再び自前の作品発表ページの構築に試行錯誤を繰り返している。

年末から、メルマガのストックを読み出し、そのままそのかたのサイトにお邪魔して、
ずっと読みふけっているサイトがある。
それが池澤夏樹さんのCafe Impalaだ。

もちろん内容もおもしろい。三人がかりの書評データベースもとても読み応えがある。
そしてふと、作家のサイト=ブログとして一つのお手本に思えるレイアウトに気がついた。

シンプルで、例えば連載の「異国の客」の一回分の分量もちょうどいいように思える。
一行の長さ。字数や字の大きさも。
システムはサイトのトップページにコンテンツをだし、
そこから作品ごとのブログやページに繋がるもの。

だから、ぼくの場合を単純にあてはめると
コンテンツのところに「温かい雨」「天使形」「籠」「詩」「書評」などが並び
そこから各ページや各ブログへと飛ぶシステム。
画面がシンプルなのもいいし、なによりCMがないからすっきりしている。
コマーシャルを抜くと当然有料になるけれど。それでもいいと思っている。

で、一番見習おうとおもったのは、実に丁寧な行替え。
書きまくって自動的に行替えできる機能になれてしまうと忘れがちなこと。
ネットの画面では大事なことなんだと今更ながら再認識した。
池澤さんは、だから画面上のワンセンテンスが短い。

むろん、他の作家の方も工夫はされていて、一行アキにしている方もおられる。
とまれ、今、池澤さんをお手本にしていきたいと考えている。



2005年01月07日(金) しゃみせん

今日、三味線の音に強く惹かれた。
うちの近所にもお師匠さんのお宅があったり、家で教室を開いている方もおられる。
琴の弦の制作で有名なお宅もある。
だから、外にこぼれる三味線や琴のの音には随分慣れ親しんでいる方だと思う。
で、琴はCDでも聴いてきたけれど、三味線はそこまでして聴いたことがなかった。
だけど今日、CDでどっぷりと聴きたくなった。

津軽三味線はフィルムでよく観てきたぶん、よく聴いている。
だけどぼくはそれよりも聴いた頻度は少ないけれど、
小唄や長唄の三味線にとても惹かれる。
この二つの三味線は打楽器と弦楽器、自然の音と都市の音、
というぐらいの違いがあるようにいつも感じていた。
つまりぼくは江戸の三味線が好きなのだ。
ぼくにとっての三味線は江戸のものというイメージが強い。
勿論京都でも盛んなんだけれど。

今日、NHKのハイヴイジョンで三味線の特集を見ていて、一気に興味が深まった。
音の作り方と間の取り方の粋さ。いわゆる「手」の深さ。
季節と風景をあらわす定番の「手」は日本そのものだ。

つまりあれは無言詩なのだと思う。
日本的感情の器だと感じた。

そして「うねり」を意図的に楽器に仕込んんだ江戸の感性も粋だ。
その音の「うねり」と「ひびき」にずいぶんと揺さぶられてしまった。
番組で言っていたけれど
「三味線は血を狂わす」のだそうだ。
江戸の言い伝え。さもありなん。

基本的に誰でもできる庶民性の強い楽器であることもいい。
ちょっと入り込んでみようかな。



2005年01月06日(木) 寒い日の豊後梅



ここのところ、季節どおりの寒い日が続いています。
今日はお昼頃から冷たい雨が降りました。
半ばみぞれ。予報ではきつくは降らないとのことでしたが、けっこうしっかり降っていました。

散歩道の途中では、山茶花にまじって寒椿が咲いているところがあります。
紅い花が雨に打たれて、美しく滲んでいました。

一方、梅の開花の準備も進んでいて、我が家の豊後梅、今年はいつになくたくさんの蕾を付けました。開花が楽しみです。画像は朝、撮ったもの。白壁は隣家です。

今年からコンポストを本格的に始めました。
といってもとても簡単なもの。大きい円形のゴミ箱に土を敷き、その上に生ゴミを載せ、その上から土をかぶせる、というやり方です。普段はふたをしておきます。

土の力は凄いです。というか土の中の微生物の力なんですけれど、ゴミは見事に分解されます。跡形もなく「土」に還ります。
特別なことではなくて、家庭菜園をされているところでは当たり前にされていることではないでしょうか。
また、少しはさみで細かくして土に直接鋤込むこともします。

椿や薔薇が濃い緑の葉をつけて、豊に花をつけてくれたら、うれしいだろうな、とかハーブが大きく育ったらいいななどと、今からわくわくしながら作業しています。



2005年01月05日(水) パウラ・モレレンバウムを聴く




彼女の名前を初めて知ったのは、夫とともに坂本龍一氏と組んだ、アントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュートともいえるプロジェクト、”morelenbaum2/sakamoto”のアルバム”CASA”ででした。

その透明感あるヴォーカルに魅了され、美しい水や軽やかな風に喩えたくなる誘惑に駆られました。
その声は今回紹介するアルバム「ビレンバウム」でも健在です。

このアルバムには大きな二つの特徴があります。
ひとつはボサ・ノヴァ、最大の詩人ともいえる故ヴィニシウス・ディ・モラエスの作品に絞ったこと。

もう一つは現在進行形の最新のブラジル音楽による演奏であること。音は新しいです。

モラエスの代表的な作品は例えば「イパネマの娘」。ボサ・ノヴァの創生期からの詩人であり、様々な作曲家と組んだ傑作が数多くあります。
このアルバムでは、ギタリストとしても有名なバーデン・パウエルが3曲、御大アントニオ・カルロス・ジョビンが3曲、カルロス・リラが2曲。ピシンギーニャが1曲、シコ・ブアルギが1曲、モラエス自身名義が2曲という構成。

パウエルの作品はジャズ・サンバ的だし、ジョビンはボサノヴァそのもの。他の作品もショーロ的なものもあれば熱いサンバもあり、という具合。
アレンジが凝っていて、エレクトロニクス加工された音も実に効果的に配され、音楽そのものが発展している感がします。けっして損なわれる方向ではないと思います。

一番好きなのは5曲目の「インサンセテス」。アントニオ・カルロス・ジョビンが作曲。
このボサノヴァのスタンダードともいえる曲に施されたアレンジがなんとも絶妙。「電子音」が細かなニュアンスの表現に成功していると思います。歌詞は恋に破れた人へのクールなメッセージなんですが、そのクールさを引き立たせる曲とその演奏が何ともいえません。

ところどころエレクトロニクスポップに意匠を変えて久しい、EBTGに通じる部分もあります。だけど考えてみれば彼らもボサノヴァから彼らの音楽をスタートしていて、そのスタンスは変わっていないなと改めて思ったり。

使われている曲は古い曲だけれど、新しい息を吹き込まれて鮮やかな存在感に溢れています。

ブラジルの新しい水、新しい風です。
モラエスの歌詞はすべて「恋」。焦がれ、身を灼き、望み、燃え上がる。成就と破綻と…。
このテーマは永遠ですね。



2005年01月04日(火) 新年のアントニオ・カルロス・ジョビン




新年によく聴いている音楽の二枚目です。
ボサ・ノヴァの創始者にして、最大の作曲者であるアントニオ・カルロス・ジョビンの作品。

タイトルは”The composer of desafinand,plays”1963年録音。
直訳すると『ちょっとおかしい作曲者、演奏す』とでもなるのかな。
『おかしい』というのは「調子っぱずれ」とか「ひょうきん」という意味。
(邦題は『イパネマの娘/アントニオ・カルロス・ジョビン』)
丁寧な解説が付いているから、ボサ・ノヴァ誕生前後の歴史もわかります。

ぼく自身はテレビのドキュメンタリー番組でみた、ジョビンがバスルームにこもってギターの練習をしていたというエピソードが強烈に残っています。
ボサ・ノヴァのサウンドを得るためになんでもしてたんだなあ、と。
ジョアン・ジルベルトに代表されるような呟くヴォーカルスタイルをフューチャーしたのもジョビンだったし。

柔らかで、クールで、おしゃれでセクシーな音楽。
呟きや吐息に一番近い音楽。シンプルで…スロウ。
サウダージと呼ばれる独特の「郷愁感」。
大好きです。

ジョビンのボサ・ノヴァ入門のための作品としてはA&M/CTIからでている”Wave”が有名ですが、それよりもこちらの方が好きです。

というか、ここに収められている楽曲の質といい、ボサ・ノヴァの代名詞にまでなってしまつたオーケストレーションによるアレンジといい、そしてバスルームで響いていそうなジョビンたちの演奏といい、これ以上のものはないと思います。

ジャズ演奏家たちのボサは結局、ジャズ・ボッサであって、本家本元のボサ・ノヴァというのはこれでしょう。

ここに収められている楽曲の多くは坂本龍一とモレレンバウム夫妻による”CASA”にも収められていて、アレンジの洗練という点でいけば、このアルバムと「対」で聴くのもおもしろいですよ。

「調子はずれ」というのはいろんな意味でボサ・ノヴァらしく、ジョビンのシングルトーンのピアノの独特の妙味にも通じるところがありますね。

全編イントゥルメンタルのアルバム。
明日はボサ・ノヴァ最大の作詞者の作品に取り組んだアルバムを紹介します。



2005年01月03日(月) 新年にウエス・モンゴメリー





新年に聴くために用意したのはキース・ジャレットの「パリ・コンサート」だったんですが、予想どおり、というのも変ですが、「ブレゲンツ・コンサート」ばっかり聴いています。

実は他にも何枚かを繰り返し聴いていて、それを一枚ずつ紹介していきます。
最初に紹介するのはウエス・モンゴメリーの”Goin` out of my heads”。

ジャズ・ギターには好きな人がたくさんいます。だけど作品によってこれはいいけどこれはどうも、というのが必ずあるんです。
ぼくの場合、それがないのがウエス・モンゴメリー。

人がなんといおうと、この人の作品はすべて素晴らしい、というのがぼくの意見。
そんな中でも、たぶん”Incredible jazz guitar”がベストだと思います。

が、「あの親指サウンド」と「歌心」にしびれているものとしては、レーベルがリヴァーサイドからヴァーヴに移籍してからのものにも心惹かれます。

新年に見つけたのは、長らく廃盤扱いというか、(CD化はされていなかったんじゃないのかな)手に入りにくかった
”Goin` out of my heads”がリマスターされてリリースされたもの。

これはウエスのファンならば聴いておいた方がいいでしょう。
アレンジとバックアップミュージシャンを束ねているのがオリヴァー・ネルソン。
表題作は無論、有名なポップナンバー。他にもアントニオ・カルロス・ジョビンもあればチムチムチェリーもあります。
ウエスのオリジナルが3曲。これも抜群。

オリヴァー・ネルソンがアレンジしたバッキングは、ビッグ・バンド・スタイル。普通ジャズのビッグ・バンドだと、ギターはひたすらコードでリズムを黙々と刻んでいるだけなんだけど、ビッグ・バンドのメロディー部分をウエスのギターだけに担わせる、というもの。

ウエスはそれを楽々とこなすというか、いつもの如くエモーショナルでチャーミングな演奏を展開。アレンジもいいし。

聞き物は6曲目のオリジナル、”Twisted Blues”。
縦横無尽にひきまくっております。
勿論、バラードは胸にしみいるようなタッチで聴かせてくれます。

オリジナル盤は1965年の録音。
一部のジャズファンの間でだけ有名だったウエスは、この前年に大ブレイクしました。その"Moovin` Wes"の流れのまま本作、続いて”California Dreamin`”と大ヒットを続けざまに出していったのでした。

何を弾いても「ウエス節」になってしまう、どうしようもないぐらい素晴らしいオリジナリティです。
新年からいいものを聴きました。

明日はアントニオ・カルロス・ジョビンの作品です。



2005年01月02日(日) 快晴の日

快晴。
静かなお正月の二日目。
猫と犬の相手をしています。

自転車でポタリングでもしようかと思ったけれど、家でぼんやり。
たまっていた池澤夏樹さんのメルマガを読んだり…。

知り合いの弁護士からメールで年賀状が届きました。
彼は日本を脱出するとのこと。2年間の予定でスペインに滞在するといいます。

「幻滅」のことを想いました。
池澤さんのアメリカへの幻滅。
知り合いの日本への幻滅。
イラク戦争への対応が決定的だったのでしょう。
アメリカからカナダへの移民申請が止まらないとも聞きます。

今年はどんな年になるでしょう。
イラクが泥沼と化していることは、隠しようがなくなっています。
そんな昨年末にはスマトラ沖で未曾有の大地震が起きました。
一方、日本では殺人事件が異様に増えた気がしてしかたがありません。

なんだか動揺が止まらない気がします。

そんな時に
花を育てたり
ネットに繋いで
短い話を書いたり、詩を書いたりしている。

恵まれています。

書くべきことはあります。
それが今年も続いていきます。
ぼくなりの「幻滅」に対する言葉をだしていきます。



2005年01月01日(土) 賀正

新年あけましておめでとうございます。

元旦に雪は止み、昼からは晴れ上がりみるみる乾いた空気になりました。
気温は低く、冷たい風が街を洗っています。

猫も犬も元気です。
「散歩主義」の読者の皆様
今年もよろしくお願い致します。

元旦に詩をアップしました。「定期便」という作品です。

今年もいろいろな作品を書いていきます。


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