「続・北村太郎詩集」を耽読していました。現代詩文庫(思潮社)です。 この文庫に編集され、収められている詩集は 「眠りの祈り」 「おわりの雪」 「冬を追う雨」 「あかつき闇」 「ピアノ線の夢」 「悪の花」 「犬の時代」 「笑いの成功」 「港の人」 「路上の影」 そしてエッセイ、詩文集。 詩人の晩年の詩作の抄録としても読めます。 一行、一行が詩人の魂からこぼれる滴のように輝いていて、次へ次へと行を追わせます。 大好きな詩人、北村太郎です。
この文庫には今では亡くなった戦後詩人たちが詩の中に登場してきます。 石原吉郎、吉原幸子、鮎川信夫…。 それぞれの生が、あるいは死が、鮮やかに切りとられ、詩人の精神の中にくつきりと刻み込まれていくのがわかります。美しく、哀しく、リアルに。 そして、北村さん自身、死へと傾斜して行きます。不治の病…。
その中で輝く呟きをそのままに綴じていくかのような詩。 すでに吐く息がすでに、詩であるのです。
詩人の中の詩人。北村太郎。「荒地」同人の鮎川信夫をして「ヨコハマの不良」と愛された。ルイス・キャロルの翻訳者。
これから晩年のエッセイを読みます。 そう、古本屋に入ると必ず探す本のリストに彼の詩集が入っているのは言うまでもありません。
Carcoというタイトルで書いたゴザンスの800字のテキストが、ゴザンスのメルマガに掲載されました。 これはとても嬉しかったです。 800字は全文掲載されています。
創作ですが、実際にCarcoという喫茶店は京都の蹴上というところにありました。いまではもうありません。
喫茶店は窓側に座ります。窓越しの光りが好きなのと、通りをウォッチするから。 だから窓の無いところはあまりいかなかったんじゃないかな。
ここ10年で喫茶店に何回行ったでしょう。一桁?かも。 昔はそれこそ毎日行っていたけれど。 今では珈琲は自分でいれるし、音楽も小説も詩集も自分で持っているから。それほど外に出て行きませんね。 だけど、街に出るとやはりなにか発見がある。 喫茶店というのそういう時の基地みたい。 不思議で素敵な空間ですよね。もちろんいい店に限りますけれど。
喫茶店にとって変わったのは、犬との散歩、猫とのごろりんこです。
モノカキ。今日はここままで。ノートを閉じて寝ます。 今日はちょっと疲れました。
ではでは。
2003年08月27日(水) |
Mars…占星術的に思う |
火星大接近の今晩、京都の空は曇りがち。それでも南東の空の雲が切れた時に見えました。ひときわ輝いているのですぐにわかりました。
星は一晩かけて天空を動いていきますから、午前0時のころには南の空にひときわ輝いて見えるでしょう。
星占いで、火星は「闘い」のシンボルとしてとられがちです。戦の神です。ですから、今年は世界情勢の緊張があるだろうと、たぶん、占星術師たちの一部は世界中でもっとも緊張したひとたちの部類に入るでしょう。
なにせ6万年ぶりですから。有史以来の人類は初体験の大接近ですから、ぼくらが知らないだけでとんでもないことが起きているかもしれません。
それでなくてもイラクでの戦争をはじめ、バレスチナ、リベリアなどの悲惨な戦闘も続いています。
今日が最接近ですが、「近い状態」はまだ続きます。台風になぞらえれば吹き戻しの風がはじまるわけです。「闘い」にはまだ注意が必要かと。
さて、さきほど占星術師の「一部」と書きました。占星術師たちは、ほぼみんな、同じホロスコープを読んで解釈していると思ってよいのですが、「一部」以外の人たちはどういう解釈をしているかというと、人類史上まれに見る戦闘の始まりを危惧し、それに対抗するものも大勢力になると解釈したのでした。 だから、破滅的な状況にはならない、と。
今年に限らず、去年、おととしぐらいから始まり、たぶん今年、来年と続いていくのでしょう。闘いと平和の拮抗、です。
さて、火星がシンボルとして担うイメージは「戦い」だけではありません。どの星も占星術的にいくつもの意味を持っています。 ある占星術師はそのことを強くアピールしています。 そのシンボライズするもの。それは「目的」です。
個人、会社、国家などあらゆる単位で「目的」がクローズアップされ、強く意識され、はっきりするであろう、と。
ぼくが注目するのはむしろこの「目的」という言葉です。 普段使われる言葉が、さらにクローズアップされるわけです。
「なにをするのか」「何をめざすのか」火星を南の夜空に見ながら考えてみるのも、一興かと。 それこそ星が願っていることかもしれません。
9月いっぱいぐらいは南の空に肉眼で見えるようですよ。
昨晩は凄い雨でした。 家の周りに地響きをたてて雨が叩きつけられていました。 あれが2時間、3時間と続くと被害がでだすんだろうなと思わせる雨でした。
短い時間のとんでもない雨がこのところ多いです。今晩の阪神−巨人戦もその雨で中止になりました。その雲が今、京都で雨を降らせています。
こんな日ですが、飛騨高山へ小旅行に行かれた方からのお土産で「花オクラ」をもらいました。とても綺麗なうすい白のかかった黄色の花です。ズッキーニの花に似てます。そのまま鰹節をかけて醤油で食べてもいいんですが、京都大原の自家製ノンオイルドレッシングでいただきました。 まったくの無味。さらっとしてていくらでも食べられそうです。サラダとか野菜の素焼きなんかに付け合わせたら綺麗でしょうね。
今日はCDを見にも行ったんですが、おめあてはなく、書店にもなく、結局ネットショップに頼りがちになりそうです。ほんとにないんですよ。ほしいものが。 取り寄せなら店で頼むよりネットの方が早いし確実だから。
ところで京都新聞の文化欄には「座標軸」という不定期連載の記者による、文学の状況のなかで盛り上がっているもの、問題となっているものを鋭く提起してくれるコラムがあります。 今日は岡本太郎のことが書かれていました。岡本太郎は好きです。昔から。テレビでいつも揶揄されてばかりで、実は凄い芸術家なのに、と歯軋りしてたものです。とうのご本人はその「自分像」すら本気で楽しみ、まじめにやりとおしておられました。まったく脱帽です。
その彼が若い世代の間でブームだというのだから、これはみすごせませんね。 絵や彫刻ではなくて彼の言葉が脚光を浴びているのです。 ご想像どおり激しいです。激しいからよいのです。実を言うと今ぼくがいちばん求めている言葉がこの本にはぎっしりと詰まっています。
え?本? そうです、たぶんぼくに似たこころ持ちの若者たちにじわじわと売れつづけている本『強く生きる言葉』。なんだかそのまんまのタイトルですね。 これはいいですよ。「癒し」とか「励まし」ではありません。だけどよくよく考えてみれば、回り回って激しく叩きつけられながら癒され励まされているんだと思います。だけど字面はまったくそういうものの逆の極にあるような言葉です。
で、Charaの旦那さんの浅野忠信氏が「岡本さんにはずいぶん救われました」と書いてます。おー、ますます浅野氏のファンになりますね。
例えばこんな言葉
『生涯をつうじて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない』
いいですねぇ。
で、『座標軸』の記者氏はこう書くのです。 『財産、出世、安心、知識…わたしたちが求めて止まない価値を次々と粉砕した岡本は、徒手空拳で時代と闘いぬいた。「ゼロからの出発」こそ、今の日本が必要としているのかもしれない』
いやまさにその通りだと思います。 そんな岡本に若者が共感しているというのは、なかなか頼もしいかぎりだと思っているのです。
ではでは。
追記 『恐かったら 恐いほど 逆にそこに飛びこむんだ』 岡本太郎
ぼく自身仏教徒では無いけれど、京都という古い街に住んでいると、いやがおうでも寺にでくわし、その境内を散策したりもする。 うちの近所は歩いていける範囲に有名な寺がごろごろあって、そのひとつは町内にあつたりする。
仏教のあり難いお話、というのはその手の本を熱心に読んだりしないので、あまり詳しくは無いけれど、「呼吸」がとても大事だということは、おぼろげながらも記憶に定着しています。
そもそも仏教というのは、万人、一人一人が「成仏」するのが目的。「仏に成る」わけだ。仏に成るというのはどういう事かというと、人生の苦しみから解放された存在になるということ。つまり「悟る」わけです。
そのための道筋がいくつもいくつも、それぞれの人なりにあります。釈尊の教えに彼の書いた本が無いのは、ひとりひとりに対してその人にあった、修行の方法や生きかたを説法をしたためだとも言われています。それを弟子たちがまとめていったわけです。膨大なものになってあたりまえですね。
で、そんないくとおりもの道筋の一つに「禅宗」があります。座禅を組む派ですね。 日本ではなんといっても道元がその祖でしょう。
じつはうちの回りは禅寺だらけなんです。普通に暮らしている街中にそういうのがごろごろとあるのが、いかにも京都なんですが、毎朝、散歩で挨拶を交わすフランス人の男性は市民参禅会に参加するために、この町内に引っ越してきたぐらいなんです。
その座禅で、やはりつきつめると「呼吸」なのだ、という教えがあります。 腹式の深い呼吸です。まず吐くことからはじめて、吐き切ったらいっぱいに吸い、止めて、また吐き出す。このリズムの数え方や、はいたり吸ったりする時に肛門にに力をいれるというやり方などは、教える人によって千差万別なんで、一般には、リラックスして深く呼吸して瞑想をするということが大事だ、ということでよいと思います。
なぜ、深い呼吸が大事なのかというと、ポジティブな考え方に結びつくから。浅い呼吸はネガティヴになりやすい。 この前、ここで成功願望の前に生き方、と書きましたが。ただイメージトレーニングをして瞑想をしてアフアメーションをしても、ネガティブになったらなんにもなりません。ただスキルとしてそういう自己実現や成功願望のためのエクササイズをしているので、潜在意識は発動してしまいます。だから恐ろしいことになります。
ポジとネガ。前向きと後向きということじゃないです。人のためを思えるか思えないかの違いです。 で、本気でネガティブな気持ちになっている人は、うーん、不本意でしょうね。
なぜ、ここまで言いきるかというとぼくがそうだったからです。 今だってネガティブな気持ちになりがちなときが自分でもわかります。 その時に呼吸。 深い呼吸。たぶんものの見方が、少しならずとも変わらなくても、「止まり」ます。
まず人を思う。 最近、再確認した大事なテーマです。「人」のなかには命あるものすべてが含まれます。蚊とかゴキブリには迷わず成仏を強いるわたしですが……。
ではでは。
今日は日がな一日、「籠」のアップロードをしていました。 Blogだけですませようとも思いましたが、ゴザンスのメール配信で読んでもらってる方にも送ろうと思い、分割してのアップロードです。
それから今回の婦人公論で佳作になった「スケッチ」をこれからアップしようかと思っています。これも最初はウェブサイトだけと思いましたが、ゴザンスにもアップします。原稿用紙なんで、今から探します。
日が暮れるとドライブを満喫してきた友人からブロッコリーの苗を三つもらいました。京都・大原のものです。 キュウリが終わって空いたプランターで栽培しようと思います。ちょうど今が植えつけ時期で収穫は11月ごろから。楽しみです。
モノカキは「WalkxWalk」が前に進みます。アップまでもう少しです。 それよりも婦人公論の詩の公募の原稿が今のところ、優先順位いちばんなのです。 書かねば。
ところで、 「籠」の主人公、ツトムと同様、ぼくも『声』が大好きです。 歌にインスパイアされる。ぼくにとっては小説よりも大事なんですが、文庫本主義者はそれがお気に召さないらしく、いつも小言を言われています。 それでもだいぶ本、読んでるつもりなんですけどね。 「まだまだ」とか「偏ってる」とか。 うーーーーん。
あ、作業作業。 きょうは早く寝ます。
ではでは。
今日、明日と京都中の路地では地蔵盆が行なわれます。 古い街とはいえ、街中のお地蔵さんの数たるや相当なもの。町の数より多いのはもちろんです。うちの近所のように通り一本ずつにお地蔵さんの祠のある所がとても多いから。
うちの近所は子供がほんとにいなくて、あっという間に終わるんですが、子供の多い地区や団地の地蔵盆はおおいににぎわってます。テントを夜通しはって、御菓子が振舞われ、くじ引きがあったりで、子供たちが路地に敷かれたゴザの上ではしゃいでます。
最近、夜の散歩をしています。 犬とではなく、一人で。 夕食後の40分ぐらい。碁盤の目の、大きな通り一つ分を、細長い長方形の線上を歩くようにして。
人が多いです。人を見ています。 街の空気と夜空、家たち…そんなものも。 犬とではないのでどんどん歩きます。自分のペースで いわゆるウォーキングにちかいのかな。
歩いていると背骨が伸びてくるんですよ。 それが気持ちいい。
きょうはむこうからとても体格のいい高校生、たぶん野球をやっているんだと思うんだけど、その子が歩いてきていて、「わぁ、背が高いな」と感心してたんです。 そしたら、すれ違うときに自分と同じだという事に気がつきました。
こういう事が多いんですよ。自分の背の高さに関してまったく自覚が無いんです。 自分がどのように通りの中を歩いているのか。確実に頭一つ抜けているんだけど、その実感がまったく無いんです。
で、たまに同じくらいの人に遭遇すると、わぁ背が高いと感心する。そんな事を繰り返してます。
「散歩」や「WALK」という言葉をしょっちゅう使うぐらいに、ぼくはよく歩いてきたし、今も歩いています。いろんなことがありますよ。ほんとに。
『夜は散歩者』…福山庸ニという漫画家の傑作です。 もう、相当古い作品になります。もう一度手に入れたい作品ですね。 『白』で闇を表現できる稀有な方でした。
さてと 違う場所をまた、歩きますか。
ではでは。
blogに続けて書いていた「籠」を、時間があったので最後までアップしました。
いくつかの補足説明を
今回手を入れて一番変わったのは主人公です。そもそも名前が「トオル」から「ツトム」に変わりました。 全体の長さが、半分になったと思います。削りまくりました。
音楽もブルース色が薄くなりましたね。その音楽の説明です。
「愛の讃歌」はエディット・ピアフが歌って世界中に広めたフランスの歌の代表的なもの。あらゆるアーティストが取り上げています。ぼくの好きなのは越路吹雪さん、クミコさん、ホセ・カレーラスです。
「I put a spell on you」はジャン・ジャームッシュの映画「ダウン・バイ・ロー」でミシシッピデルタの風景とともに白黒の画面に流れつづけた音楽。スクリーミン・ジェイ・ホーキンスです。
アヴェ・マリアのカップリングは、SLAVAのデヴュー・アルバムがそうで、全12曲すべて作曲家の違うアヴェ・マリア。有名なのはバッハとシューベルトてすが、バロックっぽい劇的さのあるカッシーニのアヴェ・マリアも冒頭に収められています。声はもちろんカウンター・テナー。大ヒットしました。
「ストレンジ・フルーツ」はビリィ・ホリデイの絶唱で知られる、衝撃的内容のブルース・ソング。ツトムがショックを受けたのはカサンドラ・ウィルソンのものです。
あー、書き終わっていちばん感じたのは自分が変わっていること。
猫たち 犬たちに感謝です。
ではでは。
暑い1日。 きょうはBlogのシステムをいろいろとお勉強。 凄いblogもあった。ぼくみたいに「連載」を書いている人は いまのところ一人も出会っていない。 これは読むほうもいつ更新されるかわからないから、できればBlogrollしたいんだけど、今のところでは駄目みたい。
Blogのあの画面で一度に読める量はあまり多くを望んではいけないと思う。 PCのサイズにあった読物がこれからでてくるんだろうとも思う。 画像も入るから書きこみも少なくなる可能性もある。
ぼくは旧い世代だから、画像は画像で楽しんでもらえれば、とおもうけれど表現の主流は画像と言葉とがMIXされ、ほとんどコミックスのような展開をする方へ向かうんじゃないだろうか。そんな気がする。
そうなると、たぶん逆の意味で「紙」の意味や媒体としての価値が変わってくるんだろうな。
それはそれとして、テキストの方はノートがだいぶできてきました。 毎晩、PCの前でしばし書きこんでいます。
音楽もききつつ。 少しづつの前進です。
夏が戻ってきました。 とにかく暑かった。35℃を超えてました。
きょうは「籠」を少し前進させました。舞台は夜ですね。夜の話ばかりになると思います。
あしたは「夕顔の町」を前進させましょう。そろそろタイトルが変わると思います。連載小説の章のタイトルですね。
詩も書きたいです。
どうも最近、夜になると頭が冴え冴えとしてきて、ちょっと前だといやだったんですけど、今は受け入れてます。書くのにいちばんいいのは朝なんですけどね。 夜更かしは「昼」からの制限があるのでできません。アタマがくるくると動く短い時間に一気にPCに向かってます。
昼はノートを置いといて、思いついたらメモを書いたりしてます。なんだかんだでまとまった時間は早朝か夜しかないんですよね。
夜は静かです。 それがいいですね。
昔は昼と夜が完全に逆転した生活をしてた時期もありますけど もう、あれは無理です。 犬と猫がいたらね、無理ですよ。
ではでは。
2003年08月19日(火) |
過去の作品から学ぶこと |
僭越ながら自分の過去の作品です。 詩ではそれほど思わないんですが、小説では感じることが多いです。 なんのことかというと 引き摺り方。
詩はそんなに引きずらないんです。なんどか集中して最終稿を書いたら、へたすると忘れてしまうほどぼくから「飛び立って」いきます。 小説はそうはならない。それだけ不完全に終わっているということでしょうね。
今、BLOGのシステムを使い、「連載小説」のかたちで古い小説を引っ張り出してきてリライトしながら書いています。 2作目ぐらいのものです。何故引っ張り出してきたのかは、ほんとのとこ、よくわかりません。
とりあえず読んでいて思ったのは、とにかく枠を意識しすぎ。途中から無理やり終わらせようとしているのに気がつきました。あるいは、想像力の持久力も切れ味も完全に「力不足」。
あのころはこれが精一杯だったんだなと。
ただ、今これを書くことに意味があるのかと思いながら、書きなおす作業を始めていたんですが、話が動き出しそうな気配が出てきました。うーん、変な言い方かもしれないけれどディテールに動かされているようです。登場人物もずっと待っていたようです。
おなじ「闇」と書いても今は全然違う意味で捉えてしまうから、そっくりそのままで書くのが苦痛なんです。だから、全体の大きな流れはそのままに、大方を書きなおすことになっています。
書いていて思ったのは、この作品は「終わっていなかった」ということ。 最後に「終わり」と書いたけれど、それはカタチだけのことで、本当の話はまったく書かれていなかったんじゃないかとさえ思います。
詩はずっと書いていて、小説は15年くらい前から三つ書いて止めていました。 自分の書く「足場」の設定が間違っていたのかもしれません。
自分を投げ込んで、「ものがたり」を書ければと思っています。
ところで、ゴザンスのトップページに 「猫のオミヤゲ」と「Carco」をピックアップしていただきました。 そちらの方も是非読んでみてください。
成功願望、超人願望のようなものがあるとして、ぼくの知り合いにも 「願い」は「無意識の力」と結びつくことによって必ず実現するという人がいます。
成功者の物語やビジネスマン向けのハウツーなんかにもよくありますね。 スポーツマンの成功物語にも登場してくる。ぼくは否定も肯定もしません。 肯定はしたいですね。「願い」ってやはりかなったほうがいいと思うから。
ところでその「無意識」とはなにか。 これがわりと漠然としています。ユングの言う人類共同の海のような無意識の域というイメージが一般的かも。そりゃあパワーが強烈なのは当然ですよね。 人類共通だから。昔から真理を探ろうとした人たちが必ず行った「瞑想」もそこへ辿りつくための方法であったのかもしれません。
「瞑想」の体験も語る人も多く、それがきっかけで何かに目覚めるという事もあるようです。もちろん「願い」の実現も。
ところがぼくが知り合いから聞いた話はちょっと怖かった。 当然、自らの「願い」を念じたり、意識したりするわけなんだけど、人の意識の強さというのはやはり凄くて、そういうほうへと自らを持っていくんですよね。それこそ無意識のうちに。ところが「願いを実現する」ということへ、仮に無意識からの力もうまく後押ししてくれて、叶いだしたとたん悪いことばかり起こるという事があるそうなんです。
それは「願い」というのは自分が考えていたり、覚えていたりするものだけじゃないということ。 「死んじゃえ」「くたばれ」「あんなやつ○○になっちゃえ」などなども見事な、それも強烈な願いで、そうではない「まともな願い」がなんども念じることが大事なのと同じ原理で、あんまりしつこく、そして強くそれを願っていると、そちらが「実現」してしまうんです。それも自分に降りかかってくる。
「人を呪わば穴ふたつ」といいます。「穴」とは「墓穴」のこと。「ふたつ」とは相手と自分ということです。そうらしいんですよね。願いとは、良い悪いに関係なくストレートに自分に帰って来る事でもあるのです。
それでえらいめにあったというんです。 「死ね」と思っても相手の「生きたる!!」のほうが強かったら負けますね。 負けたらどうも自分のところに帰ってくるみたいですよ。願いだけが。
やはり問題は生き方だと思います。 願う前に。
ではでは。
今日は雨の日曜日でした。 猫のごはんをやリ、部屋の掃除をして、犬とゆっくりしながらBSで鎌倉の瑞泉寺の映像をずっと見ていました。
ここは夢窓国師の作になる庭園がある古い寺です。この感覚がどこかに似ていると思っていたんですが、それが夢窓国師という名を聞いて納得しました。
ぼくの好きな庭園のある寺も夢窓国師の作った庭のある寺です。夢窓国師、法名は夢窓疎石。疎石のほうの名でぼくは親しんでいますが、彼のかかわった寺、嵐山の天竜寺、衣笠の等持院、そして西芳寺。
ぼくがいま、いちばんその在りかたを知りたいと思っている人です。禅宗の中興の祖でもありますね。
彼の庭を持つ寺が鎌倉にあって、そして京都と同じ花が咲いていました。 先代のご住職が植えられたといいますから、たぶん京都の寺に倣ったのかな、と思いました。 瑞泉寺はいわゆる「花の寺」として有名です。ほかにもさまざまな花がありました。そんなかでひときわ多く植えられ、ぼくが京都と同じだと思ったのは芙蓉の花です。
白い花。花開くと1日で花は萎れてしまいます。ところが萎れても萎れても、次から次から屍の朽ちる横で白い花が咲いていくのです。 京都では等持院が有名です。
夕顔と違う白。これは作品としてまとめたいです。
この瑞泉寺の近くに長い放浪の果てに住み着いた歌人がいます。山崎方代(ほうだい)といって長らく一部に熱心なファンがいるだけの、知られていない歌人でした。最近、ブームに近いかたちで彼に脚光があたりだしました。破綻した生活と精神的な弱さを見せつけた底に、それを突き抜けてしまっている目線というか境涯を感じます。 もちろん、もう故人です。
戦争で片目の視力をうしない、見えているもうひとつの目の視力も極端に悪く、そういう生活の中での作品はしかし、自由で放埓で、急所を突いてくるかんじですね。 あ、いいなという作品がいくつかあります。
山崎方代、瑞泉寺、等持院、夢窓疎石、そして芙蓉の花…。 パズルを組み合わせるように作品が動き出しました。
ちなみに等持院の近所も文士が住んだ形跡があって、水上勉、金子光晴が有名です。
二人で歩きました。 相方は57歳です。 京都の碁盤の目を細長い長方形に切り取って歩きました。
露地から大路、大路から露地と。 ぼくの散歩コースと少しだけ重なっています。 夕顔がたくさん咲いていました。
彼が癌の手術をして3年が経ちます。 団塊の世代のまんなかを突っ走ってきた人です。 ゆっくりと長く歩いた方が汗が出るんや、なんていいながら。
夏とは思えない気温の夜。 「なにが…」 「どうして…」という会話。
だいじょうぶ だいじょうぶ
夜を歩くのはほんとに久しぶりで 帰宅途中の若い人たちを見てました。 いつもは早朝と夕方ですからね。
たぶん時代の真中にいる若者たちが歩いていました。 なにがあっても この風景があるうちはいいんだ、と。
ここに爆弾が落ちたり 歯抜けのようにひとり ひとりと戦場に消えて行ったり
それだけは許してはいけない。 そんなことも思いました。
相方の年齢の人たちが戦後の繁栄と墜落とを体現してきました。 がんばってきたんだな…。 あと数年でこの世代の人たちがいっせいにリタイアします。
腰を懸命に動かして前に進む彼の斜め後ろから だいじょうぶ だいじょうぶと やはり裏声で、聞こえないような裏声で 呟いていました。
今日は8月15日です。
なんとも涼しい一日でした。 クーラーを切ったのは久しぶり。猛暑よりはましとはいえ これでいいはずもないですね。 野菜の生育状態は悪いんじゃないかな。 わがやのキュウリもお役目終了。来年のためにいろいろと勉強できました。
そうそう、雨も止みません。 明日からも曇り続きだそうです。で、このまま秋へなし崩しかというとそうでもないらしい。来週、また暑くなるとか。 たらだのコンデイショニングに気をつけないといけませんね。
で、お盆です。 京都に来ている観光客の方も今年は過ごしやすいんじゃないかな。 いつも、過酷な暑さですからね。
ところで、ゴザンスからの「お題」がでました。今回は帰省されてる方も多いから、原稿の集まりも遅れ気味になるかもしれませんね。 ぼくはまったくいつもと変わらないペースで書くことを続けてます。
いつものようにまず「ことばあそび」から。 今回はアタマの言葉が「なつやすみはもうおわり」と、ちょっと長めです。 一応書いたんですが、少しスウィートに傾いたかな。 だもんで、もう少し寝かせます。
書く時間をどこで確保するか、だんだん切実になってきました。ずいぶんと意識してないといけません。 細切れにしか時間がとれないから、24時間、暇さえあれば考える、思いつけばメモるというかたちでいきます。紙経由だと時間がもったいないから、直接PCに向かうようにもなると思います。
短い時間にどれだけ集中できるか、それを意識しています。
そうそう週刊ポストの一番最後の伊集院静さんのスポーツのエッセイが面白くて、ずっと読んでます。ヤンキースの松井にずっと密着していて、読んでいて発見する事が多いですね。
それにしてもイチローも松井も長谷川も大家も野茂も石井もたいしたものですよ。 田口も新庄も。 体の手入れが素晴らしいこと。怪我をしない。そのことが素晴らしいです。 大魔人はちょっと?がついてしまったけれどね。
ではでは。
2003年08月13日(水) |
「街角の煙草屋までの旅」 |
「街角の煙草屋までの旅」という吉行淳之介さんの短いエッセイを久しぶりに読みました。 もう黄ばんでいる古い文庫で、何度も読んでいる本です。 ヘンリーミラーの次のような言葉を吉行さんは紹介しています。 『(前略)私たちは一生涯動き回っている。しかしこれまでによい旅(ボン・ヴォワイヤージュ)などしたことがあるだろうか?私たちが飲み屋や角の八百屋まで歩いていクときでさえ、二度と戻ってこないことになるかもしれない旅だということに気がついているだろうか?そのことを鋭く感じ、家から一歩外へ出るたびに航海に出たという気になれば、それで人生は少しは変わるのではないだろうか?(後略)』 これを吉行さんは『街角の煙草屋までいくのも、旅と呼んでいい』ときめつけて、 ご自身の住んでおられた都市のなかを動く事を『旅』と受けとめている、と述べておられます。そして、それほど身近な風景に鋭敏に反応するアンテナを持っておられたにもかかわらず、いやだからこそなのか吉行さんは 『風景は一目にかぎる』と断言されています。 御茶ノ水の「山の上ホテル」の裏手の急勾配の長い石段も、赤坂溜池の交差する高速とその下の広い下りも、ちら、と「一目」みるだけ。
ぼくも歩くのは好きで、京都のいろんなところを歩いています。うちの近所にもいわゆる旧跡がたくさんあるけれど、最近では、それよりも犬と歩く町中こそが、吉行流に言えば「好みの風景」の宝庫になってます。だけど吉行さんのように『「おや」と思い一目だけ見る』という事ができない。おや、と思い、じっと見つめ、あろうことかデジカメを出してきてパチリ、なんてことが常。 吉行さんの「一目」には、なにか集中しきったものをかんじます。最初の印象をとても大事にする意識を感じます。しつこく見ているとなにか手垢がつくとでもいいたげな。 まるでそのほうが「粋」なんだよといわれているような。
ぼくが自分のBLOGのスペースを「WALKXWALK」としたのも、ダイアリーを「散歩主義」としているのも、ただたんに身近を無意識に歩くこと(義務的な犬の散歩のような)から、逆転してそれを「旅」ととらえたいという積極的なまなざしへ転換しようとし、しつづけている、一種の決意表明にちかいものなんです。その後押しをしてくれたのがこのエッセイなのでした。 考えて見れば、毎月毎回ゴザンスにアップしている作品たちも「街角までの旅」が原点になっています。西陣や祇園、木屋町、銀閣寺、衣笠、今出川、…。さまざまな京都の町。 実を言えば学生時代から一番かかわった場所は一度も作品に出てきていません。近づいたのはありましたが。 それより、今。毎朝歩いている狭い町中にも「旅」は存在するのだということを、もういちどアタマに叩きこんで歩こうと思っています。せっかく犬という得がたい相棒がいるんですから。 できることなら「一目」で、風景をすぱっと焼きつけるほどの「粋」な感覚でいきたいものです。これは目標です。
芥川賞受賞作「ハリガネムシ」を読みました。吉村萬壱さんです。 長さがそれほどでもないのと、文章に力があってぐいぐい進むものだから、あっというまに読了。
なんどか笑い、なんどか切なくなり、なんどか眉間に皺が寄り、それでも一気に最後まで読ませる力はさすが、でした。 内容はスラップスティック。あからさまにされる暴力は当然酷いけれども、その奥にある作者の目は一点を見据えて実にクールです。
「不快だ」「顔を背けたくなる」というのはわかるけれど、読んでいて、しかし、登場人物の破天荒さと剥き出しにされた暴力と性への渇望は、その奥に潜んでいるものを指差しています。 「もう、こんなのはごめんだ」という気分。これだけぶちまけられたが故に、だからこそここから歩くしかないという終わり方だとぼくは読みました。
ぼくの想像力は「暴力」をテーマにはしていないけれど、一貫して「暴力」をテーマにしている作者の、腰の座った「その先」を見ようとする視線をとにかく感じました。
タランティーノよりもむしろジャームッシュが撮ったら面白いかなとか、いやいや井筒さんが撮ったら面白いかもなどととも思ってました。 だけど「サチコ」をできる役者さんがいないでしょうね。
気になった台詞 『何より、私は自分の欲望に飽きていた。体のなかのハリガネムシが暴れるたびに死にたくなる』
めくるめく暴力とセックスの果ての、もう血も出ないぐらいくたびれた言葉です。
ちなみに審査員のなかでは女性陣が全員、高く評価しています。 そのことがおもしろいです。そのあたりに暴力を見るまなざしの違いや作品の読み方の違いの秘密があるのかもしれませんね。
文藝春秋九月特別号に全文掲載されています。
2003年08月11日(月) |
読んだり書いたり聴いたり |
今日は文藝春秋の発売日で、芥川賞を受賞した「ハリガネムシ」が全文掲載されています。京都では縁のある人だけに、新聞などで話題が先行したけれど、作品はどうなのでしょう。コピーには 『高校の倫理の教師が堕ちる、凄まじい暴力と性』とあります。 写真で見た作者の印象とずいぶん違うなぁ。などといっても違うのがあたりまえなんだった。作品、作品、…。
書く方は「walkxwalk」を再開。アップはしなくても毎日少しずつでも書いています。ある程度の長さになったところでアップ、というカタチ。
詩は、「書くぞ」と決めたら、とにかくカタチになるまで書きます。アップしたり、投稿するかはまた別にして。
「聴いたり」はバンブー茂をまだ聞いてます。アルバム聴いてないんですよ、まだ。たぶん聴きこんでしまうから、今はいいのかも。今は書く事が優先順位の最初に来てますから。 それにしてもサカサイ氏のギターはかっこいいなぁ。
ここのところ、気がついたら散歩主義を書いていない日が二日ほどありました。 忘れるぐらい、他の「書くこと」に集中してたんです。 まだ集中できる、という言い方はへんですけど、集中できる自分でありつづけたいというのが願いです。
さて、本屋さんに行こうかな。 ではでは。
きのうは詩を二つアップ。今日は『夕顔の町』の8をアップしました。
「夕顔の町」のほうはなんとしても連載小説で続けるので、間隔をあまり空けないようにしなければ。
ところで台風が京都を通過。こんなのはほんとに久しぶりでした。朝、突然雨風がやんだので、犬たちの少しだけの散歩に。台風のときはほんとに雲が低く垂れ込めて真っ暗になるんだけれど、妙に明るくて、生まれたての雲みたいな空気が地面に下りてたみたい。たぶん中心の近くですね。 ものすごく細かな粒のシャワー。それも緩いシャワーのような雨。 雨というより「水のなか」という感覚でした。 なんだか水の原初に触れたような。液体でも気体でもない水。そのどちらとでも言えるような。不思議に気分でした。
行ったあとは大掃除。枇杷の葉やら、松の葉やらが飛んで吹き溜まっていたものだから。壊れたものはなかったです。
さて また ふたたびモノカキを…。今日は早く寝ます。
ではでは。
大型の台風が四国からこちらへ向かっています。 高松では高潮が発生しました。
そんな日になにをしていたかというと 詩を書いていました。 書かねばいけない、という気持ちがあったのと、文庫本主義者から 「あんたの基本は詩だよ」という指摘もあって。
今日はノートをひっくり返し、カタチになっていないものに集中しました。 婦人公論への応募ではなくゴザンスのページにアップしています。 サイトのほうからご覧ください。
ひとつは「松風」。 もうひとつは「道行き/やわらかなひと」
ゴザンスのライターの方ならおわかりでしょうが、「道行き」は「ことばあそび」の企画にインスパイアされています。 頭の言葉が「やわらかなひと」。
「やわらかなひと」のイメージでなにが書けるのかと思ったら、一幕の「道行き」になりました。 その前に書いていた「松風」を書いた余韻が留まっていたようです。
能の「松風」のイメージから小さなイメージを引き出そうとして、引きつけて引きつけていたら、でてきたのは造成地でした。
松の上に立つ姿が見えたので。 兄のつもりでいたけれど、いつのまにかシルエットになっていって。
台風はまだ渦巻いています。 満開の夏のバラの花は摘み取りました。 朝に散り散りになっていますからね。
さあ、そろそろ小説書こう。
ではでは。
大型の台風がこちらへ向かっているようです。風も雨もすごいようですね。さっき、夜の8時過ぎ頃から京都も雨が降り出しました。昼の気温が36℃近くあったからとても涼しく感じます。
きょうは自転車のタイヤがバーストしたために、空いた時間はその修理に費やしましまた。 空気圧が高すぎたみたい。
音楽はきょうも「バンブー茂」 こんなに聴くならアルバム聴けばいいのに。まったくね。
東京では今年も「2003東京JAZZ」が開かれます。今年のメンバーで注目すべきはジョシュア・レッドマンでしょう。いったいどんなサックスを聴かせてくれるんでしょうか。楽しみです。
ところで…「ばんしげ」ですが…。 ソウル独特の歩きまわるようなベースが好きなんです。つい腰が動き出すような。あんまり聴いていると気持ちよすぎて眠くなる。 そこでリヴァーブのきいたギターに「飛ばされる」という塩梅です。 とてもセクシーな音でもあるのです。
PCを打っているテーブルの下でジャンが眠りだし、ハナは背後の夏蒲団の上で丸くなってます。 ぼくが行くと起きちゃうんだよね。 いっそここで眠ろうかな。
そんな夜でありました。たぶん明日は雨です。
ではでは。
バンブー茂。
グループです。もうご存知の人も多いかも知れない。 特に京都の人には。 カテゴリーで言うとなにになるんだろう。「日本のロック」 あるいは「J−POP」。うーーーん…たぶん後者だと思う。 オリジナルメンバーは3人。ヴォーカル、ギター、ドラムス。 エキストラでベースやシンセが入る。
かれらの3枚目にあたるマキシシングル(3曲入り)の「橙色の馬」ばかり聴いてる。今日の昼過ぎに手に入って、それからずっと。 音がね、もろにぼくの好み。一連のノーザン・ソウル。つまりデトロイト・シカゴ・ニューヨーク・フィラデルフイアのサウンドやホール&オーツ、スティーリーダン、シャーデなんかが好きな人には特におすすめ。ファンクやジャズが好きな人も聴けるよ。 あと、歌詞がとても良いんだ。そちらでもおすすめ。 日本語。日本にこだわっている。そしてファンキーで幻惑的。
70年代っぽいって言われがちだけど、これが2003年の「日本の音」。の、ひとつ。 実はついこないだ京都でインストアライブをやってた。けっこうファン多いよ。このシングルより昔、これは京都のバンド?と思った。音のニュアンスが京都に近いんだと思う。 何故京都で、そんなに有名かというと、FM京都の深夜0:00からのプログラムの火曜日を「バンしげ」が担当してたから。 今まで黙ってました。ごめん。
かれらのHPによると、ギターのサカサイ氏は東京の下町出身。他の二人は東京出身じゃないけど近所に住んでたんだという。日暮里だとか。おもしろいね。
7月23日に彼らの待望のアルバム「ボクノフネ」がリリース。それはまだ手に入れてなくて、このマキシのほうを聴いてます。これはね実は短いPVがCDにのなかに埋めこまれていて、CDをPCに入れると彼らのライブが見れます。 ほんとに面白いんだけど、京都のメディアで応援してるところが多いみたい。
ヴォーカルの女のこも、ドラムスのお兄ちゃん(ほんとそんな感じ)も、いいけどギターのサカサイツトム氏がほんとにカッコイイ。ぼくがミュージシャンになるなら彼のようになりたかったなぁ。
と、我慢できずに白状しました。
エゴ・ラッピンよりも好きだね。はっきり言って。ずっといいよ。「バンブー茂」のやってる音楽の方がぼくの趣味にあってる、という意味だけど。
機会があれば聴いてみてください。ぼくのオススメの曲は 「MAROBINE」。
ではでは。
今日はゴザンスのテーマを入稿しました。システムが改編されて入稿と同時にメルマガが登録してくれている皆様のもとへ届きます。 こないだ「ことばあそび」。今日が「テーマ」のうちのひとつ。とどいてますか?
今回のテーマは「12歳の夏」。「12歳」ということでは前回「デモーニッシュな闇」というコラムを書きました。長崎の児童殺傷事件事件を念頭においてです。今回はまるっきりポジティヴな内容です。12歳はこうでもあるんじゃないか、というのを書いておきたかったのです。
ぼく自身、12歳のときは北海道にいました。それはそれで思いではありますが、それからまたしても関西へ引越し。もう転校はごめんだ、とつくづく思いました。北海道の時の友人とはそれっきりですからね。
それとWalkxwalkの「夕顔の町」の次のアイデアの端を今日掴みました。またしても散歩途上。テーマは「回りが違うと」。これは犬を飼っている人には経験があると思います。詳しくは作品で。なんとかものにします。
過去の作品のアップの作業。これは大変です。 15年前の粗が見えて見えて。何が悪いかというと、副詞を使いすぎ。文章が回りくどい。これではダメですね。「副詞を使うな」というのはローレンス・ブロックの教えでもあります。知ったのが遅かったんですね。副詞を使わないと文章がすっきりします。結構もったいつけてるような印象が吹き飛んで、スカスカするぐらいの印象。副詞を使わないぶん、センテンスの積み重ねになりますが。そのほうがいいです。 文庫本主義者によれば「形容詞もいらない」そうであります。それはまだ実現に至っておりません。 で、過去の作品、5行だけ進みました。気長に待ってやってください。
明日は800字をアップできればと思ってます。メルマガ購読の皆様には確定したことはいえませんが、近いうちにまた、行きますからね。
数は少ないけど、大切な読者さんなのです。不定期から定期的な発行しようかなと検討中です。「文滴堂控帳」みたいな。CDや本の感想などもいれて。同時にゴザンスの最新記事としても登録されるし、ぼくのWebSiteでも告知されます。 メルマガはメールとしてアナタの所へ届きます。ぼくも他の人の作品をメルマガでとっていますが、メールで来るのはやはりちょっと違います。もう少し意識的になってみようということです。
さてと…とりあえずはノートに書いてみます。いつもスケッチから…。
ではでは。
2003年08月04日(月) |
京野菜とイタリア料理 |
久しぶりにテレビのドキュメンタリーを録画しました。 さっき終わったところです。 明日、もう一度見ます。
モノを作る真剣な顔。よかったです。 プライドと尊敬と。 かたや東京・代官山のイタリア料理店カンヴィアーノの「天才」料理人といわれる植竹氏。 一方は京都・鷹峰で京野菜を400年作りつづけている家を守る樋口氏。
カンヴィアーノの京都店がこないだオープンしたばかりなんですけれど、とにかく野菜にこだわることで、(それも素焼きで)東京のイタリアンのみならず料理界にショックを与えた植竹さんが、京野菜を知って、そのとりこになりました。だからこそ、次は京都でやりたかった、と。
樋口さんの畑には京都の超有名料亭の若い衆が手伝いにきます。 「吉兆」「和久傳」などなど。手伝い、野菜を知り、その日の新鮮な野菜を仕入れて帰ります。お互い半端な仕事ではだめですね。 もちろん樋口さんのところの野菜はそれだけやなくて、振り売りでも売られてはいますが。
お互いの発想の新しさとこだわり。そして努力。これは立派でした。 見ならわなあきません。
実を言うといちばん感心したのは、京都店のチーフを任された山口氏。 店が三条で、鷹峰が北西の端。金閣寺からさらに北へ、山へ向かったところが鷹峰です。近くには光悦寺と源光庵があります。本阿弥光悦が拠点にしていたところですね。で、この往復を自転車にバックパックでこなしていること。
鷹峰へはずっと坂なんです。それもかなり急なところがある。それを野菜を背負って走るんだからたいしたものですよ。 そして、三条と鷹峰の中間に彼の住まいを定めた、と。写ったのを見たら知ってるマンションだったのでした。あらまぁ。
京野菜には個性豊かなさまざまな野菜があります。賀茂なす、鷹峰唐辛子、九条葱、京にんじん、壬生菜、などなど。あと、樋口さんのところの黄色いトマトみたいな、その家にしかないものを持ってはる農家も多いです。
うちでは今年から家でトマトとキュウリを作り始めました。プランターだから「園芸」ですけどね。キュウリはそろそろ秋キュウリの植付けをしなくてはいけません。トマトもほとんど毎朝食卓をにぎわせてくれました。
でもね、なんといつてもあの眼と考える顔と動くからだが、凄いエネルギーを見せてくれました。
京都には「美山山荘」「中東」といった野菜を材にした素晴らしい料理をだしてくれる店があります。また、イタリア料理もイルパッパラルドはじめ、素晴らしいお店が競っています。彼らの目の色も変わるでしょう。 ほかの京野菜をつくっている農家にしても、よっしゃあ、とさらにいいものを創り出すと思います。
いやいや、京都も捨てたもんやないですよ。
昨日、書いたことを実行すべく、机の引出しのいちばん下から古い原稿用紙の束を取り出しました。 懐かしい、というよりも恥ずかしい気分。一つは原稿用紙にエンピツで書いてます。もう一つはワープロ。もう一つもエンピツ。 鉛筆で書いているのは、たぶんペンで書くと、直す時に読めなくなるからだと思います。
読んでいて、うーーん、熱意は感じるけれどわかりにくいなぁ、という印象。もう15年ぐらい昔のものだけど、これを書いた頃と今とはずいぶん違う。 なにが違うかというと、毎日こんなに何かを書いていなかったし、本を今ほど読んでいなかった。蓄積もあるんだろうけれど、書く姿勢が全然違う。 いいかっこしなくなった。書くことにもっと真剣になった。それは自分でもそう思います。
昔のは、ほんとに熱意だけ。あとはなにもありません。 これをweb上に出す、というのは情けなく、恥ずかしい。 どうしようか。
それとよく読むと話が強引に終わっているところがある。創造における体力のなさがよく見える。 それととにかく起承転結がなければ、テーマをキチンと出さねばいけないとか…。「ねばならない約束事」に振りまわされている気がする。題材も今なら考えもつかないようなこと。 言葉も貧弱だし…。これをリライトして書く…。どうかな。
テーマは暴力。「ヤンキー小説」。これを書いているときはマイク・ハマーを考えていたのかな。矢作さんの。 これを2003年のぼくがリライトするとしたら、想定する舞台はヨコハマから、どこでもない都市に変わる。 できるだろうか。
うーーん、とにかくやって見ます。
2003年08月02日(土) |
いきなり暑さ、どまんなか。 |
夏とはいっても、それほど暑くない日が続いていましたが、今日は暑かったです。 外の日向にいるだけで汗がたらたら。で、気がついたら昨日、この日記を書くのを忘れていました。「夕顔の町」の原稿のアイデアが出たので、そちらに集中しきってました。今日もその手直しとアップにほとんどかかりっきりでした。
このあともたぶん、続きを書き始めると思いますが、さきにこちらを書いてしまっておけばいいかなと思ってます。没入状態になると他のことは忘れてしまうのです。詩にしても短い小説にしてもチャンネルがパチーンと入ると、周りがどうであっても平気な顔してノートに書いていたりします。 だけど、「いつも」ではありません。まだまだ、入り方に研究の余地があります。意識的になる、ということですが。 野球の打者が打席に入るまでの一連の動作に敏感になるように、「なにか」でスイッチが入るようになったほうが、もっと粛々と作業は進むのかもしれません。音楽をかけたり、本を読んだり、ほぐしたり、しめたりしながらなんだか大変です。
だけど、やはりひとりにならないとダメみたいですね。 まだまだ続きますけれど、長い話を書くのがほんとに久しぶりなので、刃のかけた包丁を砥いでいるような感覚です。
ひょっとしたら、お蔵いりになっている小説を「ほんとうに」web上に引っ張り出すかもしれません。ただ、それをやると時間が足りなくなる怖れがあって、今までもやってこなかったんです。
でも、それってモノカキに没入しきっていなかったからかもしれませんね。今ならできるかもしれません。 黄ばんだ原稿用紙を引っ張り出してきて、それをPCに移す作業からはじめてみようと思います。だけどたぶん、当然直しながらになるから、遅々とした作業になるだろうな。
BLOGをまた、使ってもいいかなと思っています。 だけど、そうなったらBLOGのテンプレートをいじる余裕はなくなりますね。 モノカキ・オンリー。だいたいHTMLも、CSSもろくに知らないで、テキストオンリーで突っ走ってきた感があるんですが、この先もそうなると思います。
じゃあ、続きを書きに行ってきます。 ではでは。
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