散歩主義

2002年08月31日(土) 「縦書きのすすめ」を読んで。

文藝春秋9月臨時増刊号は文学や言葉についてたずさわっている者やそれを趣味とする者には、必読といつていいほどの内容が含まれています。
「美しい日本語」というテーマどおり、どの文も読みやすくわかりやすいです。

たくさんのテキストの中で石川九楊さんの「縦書きのすすめ」を今日は紹介します。
そういえばぼくはノートをとったり詩を書いたり、すべて横書きです。
社会の中でもパソコンは横書き、いわゆる企画書も公文書も横書きですね。
石川さんは書家ならではの感覚と論考でそれを改めるべきだと主張します。縦書
きと横書きでは文体どころか内容も変わってしまう、と。

石川さんは、同一のテーマで、大学生に縦書きと横書きとで短い作文を書いてもらい、書き方による差異があるかどうかアンケートを取ったそうです。
なんと全員が「ある」と答えたそうです。

一般的にはおなじ文章を書くのだから、変わるはずがないという意見や感じ方が大半であると思います。しかし、彼らは違うと答えたわけです。
『横書きだと流れ気味』
『縦書きだと重いけれどまとまりやすい』
『文体が変わる』など。

横書きにたいする意見は『書きやすい』『文が長くなる』『どこまでも書けそう』『箇条書きになる』など。
圧倒的に多かったのは『文がまとまらない』『文がしまらない』。
つまり書きやすさがまとまりのなさを生んでいるわけですね。またパソコンで
あれば漢字を変換してくれるわけで、延々と広がっていくことも考えられます。

たとえば今、横書きでこの文章を打ちこんでいます。田口ランディーさんがメル
マガで開発したテクニック、「3から4行で一行アキ」を使っています。
これは横書きが続くと読みにくいから、という配慮から生まれたもの。
ところがそれに慣れてくるとそのなかで段落をまとめようとしています。

そうであるにもかかわらず、横書きだと流れ気味だなと感じてはいました。

石川さんの指摘されるとおり、本も週刊誌も縦書きです。東アジアの表意文字は
天から地へ向かって書くのだから、この事を大事にすべきだと氏は主張します。
『戦後60年近く、政府や企業は横書きを推進し、まとまりのない文や思想を生みつづけるという、とり返しのつかないほどの大きな文化的誤りを犯してきた』とも。

ところでぼくは原稿用紙は清書にだけ使うという習慣を続けてきました。しかし
清書の都度、自然とリライトが入り、まったく別物の作品になることもよくありました。感覚的なものだと思っていたのですが、もっとふかい歴史性を秘めた問題でもあったわけですね。
詩以前のところで無意識にまとまりのなさにもがいているのであれば、縦書きを徹底的に励行してみるのもいいかもしれません。

縦横の違いとはまた別に林真理子さんはパソコンを止めて手書きにしたそうですね。それがご自身の文章作法の中で一番大事なことだとおっしゃっています。
また同書の中で猿谷要さんも縦書き、横書きについてコラムを書いておられます。
こちらも参考に併読をおすすめします。

さて、この『日記』、ノートに縦書きで書いたものを横書きに移し変えているのですが、いかがでしょう。
いつもと違いがあるでしょうか。
「発見」がありましたら掲示板までご一報くださいませ。



2002年08月30日(金) 強い風の日

台風の影響の強い風が吹いています。
陽射しは強烈で、積乱雲もとても巨大。きょうも「熱帯」です。

ホームページの掲示板に書きこんだ平井堅さんの「大きな古時計」。結構評判いいみたいです。彼の小さいころの愛唱歌だったとか。
この歌は今から100年以上昔のアメリカの童謡。原題は「Grandfather‘s Clock」。歌詞は放送作家の保阪康午氏の訳詞です。
古時計の年数が”ninetyyears”となっているのを「百年休まずにチクタクチクタク」となってます。歌いやすさからでしょうね。
ちなみに、CDジャケットは彼の小学校時代の古時計の絵を使っているそうですよ。

では、本の話を。「からくり民主主義」高橋秀美・著・・・硬そうなタイトルでしょ。たしかに硬いんだけど苦笑いしてしまうんですよ。この本。
「ありゃあ」ってかんじかな。深刻に思う人もいるだろうけれど「これが日本だよなぁ」と思う人も多いんじゃないかな。
解説が村上春樹氏です。かれも困りながら苦笑いというか・・・。
さらに本の話。
田川未明さんの「溺レルアナタ」が9月のはじめに発売されます。掲示板に来てくれている「ミメイさん」です。ホームページのリンクからご覧ください。

ゴザンスからのオンデマンド出版。これから増えていくと思います。編集の省力化とコスト軽減は確実で、システムが確立されれば出版界はドラスティックに変わるでしょうね。

さらに本の話。
「文藝春秋9月号特別編集号」これは宝物です。いつでも読めるよう、おいて置きます。
内容が豊富。水準点は高くにあります。
まず、松本隆さんを読み、続いて車谷長吉さん、高橋順子さん。
「喝」が入りました。
116人もの言葉のエキスパートが語っています。刺激に満ちています。
しかし、詩人が少ない。高橋順子、ねじめ正一、松本隆、宗左近、阿久悠、永島卓。歌人で目をひいたのは岡井隆、福島泰樹、黒田杏子。
他にもおられたと思いますが、少ないですね。

そしてだれもが現況を憂いています。ならば流通が目撃されている現代詩はどこにいるのか。。

ぼくはあえて、詩の専門誌への投稿は避けてきました。僕の詩とは異質な世界だから。読まない本に投稿しても意味がありません。
「婦人公論」は家の者が読めと言い、たまたまそこで選をしておられたのが井坂洋子さんだったので投稿したのです。井坂さんの詩集は読んでいましたから。
難しい詩はありません。選者がわざわざ「シュルリアリスムも読むように」というぐらい日常に貼りついた詩が多いです。

そこで松本さんの「美しく響く日本語」という文章に触れるとそれだけで体に響いてきます。日常から遊離するよりもさらにそのコアを抉り出す鋭さがあります。

そもそも詩を書き始めた動機が「はっぴいえんど」というバンドにあるのです。
たぶん、こういう出自を明らかにしている詩人はあまりいないと思います。
松本さんの詩を『読んだ』のではなく『聞いた』のです。

だから普通の詩とは違ってあたりまえです。
歌詞でもなく現代詩でもなく頭の中で「歌いながら」書く詩です。

うーん、ほんとに『喝』がはいりました。









2002年08月29日(木) 「9月11日」に向けて。

今日も朝から雨が降ったりやんだりの繰り返し。
遠い台風からの雲が太平洋、和歌山、奈良、京都と通過していくようです。

今日は朝の3時起き。いつも4時なのでそんなに感覚は違いませんでしたけど、外猫がもそもそし出す4時過ぎまで貴重な1時間でした。
しん、としてて、一人だけなので集中できました。
掲示板のレスポンスを書いたり、詩の下書きをしたり。

詩は「9月11日」に向けての詩を書き出しました。投稿するか自分のWeb上に載せるかは決めていません。
自分の中で「9月11日」に向けて詩を書くという気持ちはそれほど形になっていなかったのですが、投稿を呼びかけるサイトが結構あって
その熱に乗る形で自分に仕掛けてみました。

3時から4時の間に粗い骨組はできました。これからつめていきます。
これは早く仕上げてしまいたいです。

ところで午前3時って丑三つドキですよね。ウシミツドキに聴いた音楽はSADEの「Lover‘s rock」でした。
10曲目をリピートにして。ゆるく、暖かく・・・人を好きになる気持ちで・・・。

『サヨナラ悪霊たち、ぼくは光のほうへ歩いていく。』
たぶんこんな詩になると思います。




2002年08月28日(水) 「熱帯がきます」と彼は言った。

京都は午前中から雨が降りだし、終日降りました。
昨日書いた高野川もほんの少しましかな。コンスタントに降ればいいのですが。
ある気象予報士が「今日から、熱帯が入ってきます」と言ういい方をしていました。温かい湿った空気というより、そう言ったほうが適切だと。
たしかに台風からの影響であろう雨と蒸し暑さは彼の言っていることが、たしかに「適切」であることを証明しています。
だけど半端じゃないな、この「言葉」・・・・。

今朝の散歩で、エンジェルトランペットが咲き出しているのを見つけました。
この花もここ3,4年で急速に広まった花ですね。
ラッパが地面に向かって開いた形で咲きます。葉も花も大ぶり。けっこうざっくりしている「エンジェル」です。毒も持ってますしね。
タイムテーブルどおりに花が咲きだすと、季節の変わり目だというのがわかります。こんなに暑いのに。

「夢の封印」読みだしました。坂東真砂子さん。
いきなり表題作は社内不倫。男は立ちすくみ、置いてきぼりにされます。当然だろうな。彼女が自らに気づいていく瞬間がとても涼しい。
と、こういう短編が続きます。

文藝春秋の特別号も本屋さんに夜になって走りました。
特集「美しい日本語」。いつもより大きな字の特別編集。サイズもいつもの文春より大きいです。
なんと116人の作家の方の書き下ろし。読みたい人として高橋順子、車谷長吉、河野多恵子、そして松本隆さん。
読むぞォ。



2002年08月27日(火) 川のこと。薔薇とか小説など。

残暑が厳しいです。しかも空気がからからに乾いてます。京都の左京区を流れる高野川が完全に干上がりました。
上流は八瀬・大原。この川にはダムもなく、雨だけがたよりの川です。ぼくも京都に住んで長いですけれど高野川が干上がるというのは初めてです。

上流にはまだ水があったり、水溜りのようなものが残っているようですけど、川蟹や魚は大変です。
雨が降りますように。

こんな暑さの中、四季咲きの薔薇があちこちで咲いてます。我が家も特にプライド・オブ・イングランドが元気です。
つくづく薔薇は陽光と風が大事なんだなと思います。水遣りさえきちんとしてれば暑さには結構強いですね。でも光がなければ育たないし、風通しが悪いとすぐ病気になります。「光の花」なんですね。

もともと薔薇は年に一回しか咲かないのです。すべての季節で花がみたいという人間の欲望が、四季咲きを作り上げました。オーソドックスに薔薇といわれている花はそのハイブリッド・ティーという種です。
3,4年ぐらい前から日本でもブームになりだしたオールド・ローズという種が、その名の通りもともとの薔薇。年に一度だけ咲きます。
今年植えた、ピエール・ド・ロンサールはそのオールド。少し日当たりが悪いのと植えた時期の関係で花は来年にもちこしです。
薄い紫の厚ぼったい花。オールドはもっさりしてて病気に強く芳香も強いんです。
来年が楽しみ。
花が咲き終わったら今ある薔薇たちもケアしてやりましょう。

さて、インドア。
小説、詩。小説はエロティカルなものにちょっと焦点を当てようと思ってます。坂東真砂子さんの「夢の封印」。「13のエロティカ」というのもあります。
ただ9月にはいったら、村上春樹「海辺のカフカ」、田川未明「溺レルアナタ」と
読みふけることになるので、早いうちに読んでしまおうかな、と。
詩も官能の詩です。これは読んでから書きますね。

精神と肉体の、男と女の究極のコミュニケーションであり快楽であり苦痛でもある、と。
生きることのダイナミズム、あるいは生きることそのものを見つめる時、エロティシズムは避けては通れないと思うし、今なら読めると思ったんです。
だけど、男のはつまんない。とおりいっぺんだから。
吉行さんや藤田さんのはぐっときますけど。それ以外はほとんど優しくない。
女人の側からのエロティシズムも知っておく必要があると思ったのでした。

本屋さんへ行こうかな。






2002年08月26日(月) 東京JAZZ 2002 その2

調布・東京スタジアムでのコンサートも二日目。
来日組は同じメンバー。

今日は、ノルウェイの新進トランぺッタ―、ニルス・ペッタ―・モルヴェルのバンドの話から。「新進」といっても彼はロック系から来た人。
楽器もさまざまなリード楽器を経てトランペットにいたった人です。
音は幽玄なエレクトロサウンド。当然のようにエフェクトされた音です。モロッコ音楽の影響もかなり深いですね。

バンドの構成が、ドラム、ベース、ギター(シンセギターも)、トランペット、そしてDJがふたり。一人はディスクを廻してもう一人はノートパソコン。
リズム音とシンセの音のキーをパソコンで変調させたりずらしたり速度を変えたり。全身タトゥーの細いお兄ちゃんがクールに決めてましたね。
ハンコックのカルテットにもDJはいて。いまやジャズのグループにもあたりまえになってきてます。ハンコックがはじめたこと。
というか亡くなる前のマイルス・ディヴィスがラッパーを起用したというのがそもそもですが。

ハービー・ハンコツク自身がマイルスのコンボに在籍していたこともあるのか、マイルス・フォロワーがふたり登場しました。
一人はこのモルヴェル。もう一人はハンコック・カルテットのウォレス・ルーニー。ふたりとももろにマイルスでした。

モルヴェルはバックステージでのインタヴューにこたえて、自分はトラディショナルなジャズはまったく聴いていなくて、マイルスの「イン・ア・サイレント・ウェイ」を聴いてトランペットをやりだしたんだ、と答えていました。
まさにそれはステージに反映されていて、「サイレント・ウェイ」の世界を純化させ、そこに優れた機材とモロッコとヨーロッパの色彩をつけた、という感じでした。

さて、つぎはハービー・ハンコックのバンド。名前がアルバムと同じ「Future2Future」。前述のウォレス・ルーニーの音はどう聴いてもマイルス。
そこにベース、ドラムス、DJそしてキーボードがもう一人。
マイルスに詳しい人ならピンと来ると思いますが。ツイン・キーボードはマイルス・コンボの黄金期の編成です。チック・コリアとハービー・ハンコックのふたり。
余談になりますが今や日本を代表するジャズアーティスト、小曽根真はハイティーンの時にチックコリアを聞いてジャズをやリ出したといいます。

ハンコックに戻りましょう。演奏はパワフルでイマジネイティヴで骨太でニュアンスが豊富。しかも題材が幅広い。
いってみればマイルス・コンボを彷彿とさせるもの。ただし、ウェイン・ショーターがいないだけ。
ユニークだったのはドラムスが女性だったこと。パワフルな音なんだけど、彼女、小さいすらっとした「女の子」なんです。とても新鮮だった。テリ・リン・キャリントンといいます。
しかも、冒頭にハンコックによるポエットリー・リーディングがありました!!!
日本語です!!!知恵と知識の違いについての言葉でした。
『時を知り 時を創る 要諦は知恵です』みたいに聞えたんですけどね。

さて、その後は昨日のトリをつとめたブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブとオマーラ・ポルトゥオンド。水のような生き物のようなバンドの音と天性の表現力あふれる声のオマーラ。最高でした。極めつきの「ベサメムーチョ」を聴けました。
素晴らしい。人間、もっと恋をするべき、と何故か思いました。

最後は昨日のスーパー・ユニツト。相変わらず絶好調のマイケル・ブレッカーのパッション溢れるようなテナーがよかったです。
寺井さんも一生懸命。彼女、こんな体験なかなかどころか、もうできないかもしれませんね。

と、終わってみればハービー・ハンコックの仕掛けたマイルスとコルトレーンへのオマージュだった感が強いです。これからのジャズはまさにこのふたりが提示した新しい地平へもう一度踏み出していくんだ、という決意が見えましたね。
死んだジャズじゃなくて活きたジャズ。そのためのひとつ方法だったと思います。

演奏そのもはスリルに満ちていて素晴らしかった。当分また、ジャズを聴きそうです。



2002年08月25日(日) 東京JAZZ 2002

東京をJAZZ一色で染めてしまおうという試み。
メインの調布、東京スタジアムはじめ、都内のジャズ喫茶やジャズのライブ拠点ではさまざまなイベントがあったようです。
こちら京都からはBSの中継を見るのみ。感想を結果から言うと、昨日東京スタジアムにいた人は相当ラッキーだということです。

いろんな形態の演奏がありましたが、なんといっても昨晩だけのスーパーユニットが素晴らしかった。
ツイン・ピアノ、ツイン・ドラム、ツイン・コンガ、ツイン・ベース、それだけでも凄いのにウエイン・ショーターのソプラノサックス、ウォレス・ルーニーのトランペット、同じくトランペットにブエナビスタソシアルクラブバンドの若手、テナー・サックスにマイケル・ブレッカー、ピアノのうち一人はもちろんハービー・ハンコック。凄いラインアップですね。

たんにビッグネームだから凄いんじゃなくて、演奏そのものがとてもスリルに満ちてスケールが大きかったのです。
久しぶりに「ぶっ飛ぶジャズ」を聴きました。個々の卓越したテクニックやセンスはもとより生み出そうとするものが新しかった。

素晴らしい演奏の中でも特筆すべきもの、ひょっとしたら語り継ぐべきかもしれない演奏は、たった一人でステージに残ってブロウしたマイケル・ブレッカーのテナーです。
曲はジョン・コルトレーンの「ナイーマ」。日本ではずっと「ネイマ」といわれていた曲。ブレッカーが呼び名を訂正してました。
ちょうどブレッカーはハービーとマイルス/コルトレーンのトリヴュートを出したところでもあって、素晴らしい演奏でした。
「スピリチュアル」という言葉がもっともふさわしい形容でしょう。

ジャズのライブで鳥肌が立つたのはほんとに久しぶり。
精神性が高く、呪術のようでもあり、静かに深いトランスに入っていくかのよう。
音はあくまでクリアーでシャープ。タフで淀みないフレーズ。
いやがおうにもイマジネーションをかきたてる素晴らしいインプロヴィゼイションでした。

もしミュージシャンに「旬」があるとしたらマイケル・ブレッカーはまさに今がそうでしょう。
彼の精神性の高い演奏。もちろん彼のソロアルバムもあるのですが、こちらよりも誰かとのセッションでよりその威力を発揮します。
小曽根真さんの「Treasure」の最後の曲。これなんかはおすすめです。

ハービー・ハンコック・カルテツト、ウェイン・ショーター・カルテツト、ともに素晴らしい演奏でした。
そしてブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブバンド。キューバの老若合体のバンド。これもよかった。特にこのバンドの歌姫オマーラ!!!
72歳!!!にしてその声量、アドリブのアイデア、リズム感。全出演者を圧倒してましたね。

前出のスーパーユニットをバックに「サマー・タイム」を歌ったんですけれど、これがすごかった。自ら手拍子でテンポをとってバンドを仕切ると、アフロキューバンの真っ黒な「サマータイム」を歌いあげたんです。
ピアノのハービー・ハンコックは感極まって踊り出す始末。こんなの聞いたことないです。
夏の闇の空気の感触。セクシャル!!!
そういえば、みんな「色気」がありました!!!それが素晴らしい。
ほんとにこの夜を経験した人がうらやましかったです。

ほんとにジャズはいいなぁ。
おっと今日もあるのでした。また、感想がまとまれば書きますね。



2002年08月24日(土) WOMAGIC

ボビー・ウォマック。癖になるといえばこれほど癖になった人もいないです。
先週、エリカ・バドゥのMama‘s Gunを聴き直してから、一気にソウルの世界に引き戻されてしまいました。
となると、ぼくの場合どうしてもボビー・ウォマックから聴きなおし。
これが日本のロックだとはっぴいえんど。ジャズだといまならウォン・ウィンツァン・トリオなんですけど。
ベースなんですよね。これを押さえとかないと不安になる、というか、聴くと落ち着くというか。

ウォマックというとやはりPOETです。一連のPOETシリーズはよく聴くんですが隠しだまの様にあるのがWOMAGICというCD。
たぶん、手に入れるのにてこずると思います。国内盤はあっという間に廃盤になったし。
この人はレーベルとのトラブルが多く、移籍も多くてリリースが不安定なんです。それとかっこいいぐらいエキセントリックだし。突然販売中止とかもあるらしいのです。

数々のミュージシャンからのリスペクトを受けています。特にロック系に強くて、ローリングストーンズやエリック・クラプトンは彼と共演したり彼の曲を取り上げたりしています。

ちょうどこのころはストーンズやクラプトンとわぁわぁやってたころ。
Make love to youのクラプトンのギターは渋くて痺れます。
だからこのアルバムはコアなソウルファンには無視されてる事が多いです。だけどカーペンターズでも、キャロル・キングでも
平気でじゃんじゃんカバーするひとですよ。ぼくは好きだけどな。

全体はいつものウォマック節。この人を聴いた人は、まず言葉の多さとテンションの異様な高さに辟易しがち。
そこをぐっとこらえると、ほらほらもう抜けられなくなってる。。。そんなかんじですね。
歌は恋の歌。しかも例によって「濃い」。バックの演奏がとてもクールでタイトなんで歌が引き立っています。

前の日記に「気がみなぎる詩」と書きましたけれど、「気がみなぎる」とはまさに彼のこと。優れたソングライターでもあるんだけど
それを凌駕する気のみなぎり方なんです。

ロニー・ウッドが描いた彼の肖像画もかっこいいですけど、それはまた別のCD。
それもいいです。
昔は苦しい時、とにかく聴きました。今は歌を見渡しながら聴いてます。もちろん原点に戻りたくなったら即、ですけれど。
今日は一日、ウォマックを聴いていよう。
ではでは。



2002年08月23日(金) 今日から「えんぴつ」。

ホームページ上には、最後のあがきのようにダイアリーをどうするか
ぐだぐだと書いていたと思います。
結局、ヤフーのサーチからとあるリンク集に辿りつき、たくさんある中から
こちらを選ばせていただきました。
書いた後のリンクを貼る作業やレイアウトの作業がわずらわしいこと。
それとだんだんとHP容量を食いつぶしていくのも問題になるだろう、と。
選んでみたら誰かさんと「おんなじ」ところですね。
ちょっと恥ずかしい。だけどいいものはいい、ということで。

HP上は自分の作品をメインにしていきたいので、どうしても余裕がほしかった
というのあります。プロバイダを変えるとか、サーバーを借りるとかいろいろ考
えましたが、こういう選択をしてみました。
過去の日記もアップできるそうなのですが、それは今はちょっとできません。
ホームページ上のダイアリーの14から15にかけてのごちゃごちゃを整理して
しばらくは置いておこうと思います。
格納の方法は後からでもいいと思うのでとりあえず新規の書き込みを、最優先で
いきます。

「散歩主義」・・・文字どおりの散歩から、文学、絵画、音楽などなど日々の出
来事の中を「散歩」するという意味からのタイトルです。
今日からはこちらで書き込んでいきます。



2002年08月22日(木) 「無何有」

知人から北陸の温泉をネットで調べてくれと頼まれて、「べにや無何有」という宿を見つけました。立派なお宿ですよ。
名前が面白いのでいろいろ調べていたら結構面白かったです。

おそらくこの立派な建物を設計されたのであろう建築家の竹山聖さんが、その由来をお書きなっておられます。
「無何有」とは荘子が特に好んだ言葉だといいます。つまり、何もないこと。
無為であることという意味です。この宿のコンセプトがこれなのですね。
「ぽっかりあいたスケジュール表の余白のような時間。空っぽだからこそ自由に満たされた時間」こんな時間をお過ごしくださいということでしょう。
また、荘子の「虚室生白」という言葉をひいて、部屋は空っぽなほど光が満ちる。
何もないところにこそ自由なとらわれない心がある、とも。
今、光をテーマに詩を書いているのでとても興味深かったです。

荘子の言葉は形而下でも形而上でも理解できます。(それと「ひかりは白かったんだ」という発見も)。
だけどここではぼく流の解釈として「室」あるいは「部屋」を「体」という言葉に翻訳してみたり、「アタマ」と翻訳してもこの論理は成り立つんじゃないかという気がしています。

ソリッドでシンプルであること。それこそが可能性とちからをうむのではないかと考えるのです。
そういう意味で「心」と翻訳した時、それこそ「虚心」こそが光に満ちるんだと思います。
闇すらも退ける「虚」というありかた。
身につけたいですけれどね。

ところで「光」。ウタダさんの「光」一度聞いてみます。今度のディープリバー、相当いいみたいですね。
何故かジャズファンの間で評判なのです。



2002年08月21日(水) 詩について

今日、今までに書いた詩を全部読み返してみました。
自分でこれはいいかな、と思ったのが、24篇ありました。わがことながら少し
うれしかった。以前はひとつかふたつしかなかったのです。
ぼくの書いてる詩はそんなに多くないです。この先死ぬまで書いたとしていくつ
いくでしょう。年間がんばって30として1000いかないんじゃないかな。
ま、詩は数じゃないから気に入ったひとつの詩があれば十分なのだろうけれど。

年間30ということは一月に2ないし3つの詩を書くことになります。
去年や今年のペースだと可能かも。でも、後で読みなおしてボツにしてしまうの
があるから。投稿している雑誌の選者、井坂洋子さんは「絶対置いておくべき」
と書いておられました。後で読み返して、絶対何かが残っているはずだ、と。

今日読みなおして思ったのは「へたくそ」だということ。自分の詩的な感情をど
う引っ張りだして文字に置くか、四苦八苦してるのばかりが目につきます。
ただやはり書けば書くほど「何かに近づいてる」という感覚があります。
特に今年、詩のスタイルを散文というか、それこそ「作文」のようなものにして
からそうです。自分がより出せているような・・・・。

吉行淳之介さんの「詩より、詩的なもの」というエッセイを読んでから始めたんです。「あ、それでもいいんだ」って。自分の気持ちを出し、自分で読んで納得の
いくものにするのになんの遠慮もいりませんよね。
以前は書いたものをプリントして家の人や友人に見せていました。そのうち「次
はまだ?」というリクエストに応えるように書いた時期もあって、彼らのために
という気がだいぶあったように思います。その気持ち、悪いとは思いませんけれど。
ホームページに公開し出してからプリントアウトは止めました。それから詩がま
ともに自分に向き合い出した気がします。また、まったく知らない読者の方の
感想はそれまでになかったことです。
こないだ婦人公論に出たぼくの詩を久しぶりに見た「プリント組」のひとたちは
相変わらず「全然わからん」といってました。
こちらはあまり変わっていません。

詩にはいろんな形があります。やっと自分らしいやり方というのが見えてきたよ
うに思います。「わかってほしい」というのと「おもねる」というのは、違うこ
とです。だけれどより多くの方の心に届くべくがんばるべきだと思ってます。

目指すは「子供の詩」。少々文法的な間違いがあって書きかたの規格が破格で
あってもとにかく「気のみなぎった詩」をめざします。
それともうひとつは「しんっ」とした詩。これはきりきりきりと切り詰めて行く
詩。心に届くにはそのようにして何かを剥ぎ取らねばならない気がしています。



2002年08月20日(火) 百合蜻蛉洋装裂

NHKの大河ドラマ「利家とまつ」。前回で柴田勝家と市が越前北の庄で
壮絶な最後を遂げました。「北の庄」とは現在の福井市です。
さて、このドラマ、前々から合戦に登場する利家の兜に巨大なトンボがあし
らってあるのがずっと気になっていました。
秀吉の「ひょうたん」は有名だけど「トンボ」とは何故、と思ってたんです。

京都新聞に不定期でずっと連載されている小さなコラム「西陣織歳時記」を読
んで少し推論が立ちました。そこに紹介されていたのは西陣織博物館所蔵の
「百合蜻蛉洋装裂」というもの。
「洋装裂」とは明治時代になって宮中の礼服に洋装が加わったため、日本の古
典文様を洋風にしたもの。その裂(はぎれ)というわけです。

はたしてそれは金色の「百合」と黒の「蜻蛉(とんぼ)」の文様でした。
百合は根が幾重にも重なることから吉事が重なるとしてめでたいものとされて
いました。そのことが縁起を担ぐ武士に喜ばれたといいます。また、その根は
非常食としても用いられました。(京都では「ゆりね」、普通に食べますけどね。)一方、蜻蛉は後ろへ一歩も退かないその動きが武士の動きとされ、「勝ち
虫」と呼ばれていたそうです。そう言われて見ればトンボの動きはホバリング゙
はするけれどバックギアはついてなくて、直線的で後退はしませんね。

そこで「なるほど」。「槍の又左」といわれた前田利家は古来からのその「勝
ち虫」にならってトンボを「しるし」にしたのではないか、と。
それにしても武士の好むふたつの「しるし」を身にまとう明治の貴婦人とは
・・・・。

ところで記事によればさらに古代からはトンボは死者の霊を天井に運ぶとされ
ていて、お盆のころのトンボは「精霊蜻蛉」というそうです。
神秘の虫でもあるのですね。


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