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斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」

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2005年05月30日(月) 電車嫌い

最近、僕は、在宅勤務にしてオフィスには出勤しない日がある。
会社には、在宅勤務という概念がないので、休暇扱い。
社内手続き的には、休暇扱いなのだけれど、実際には自宅で仕事をしている。
僕にとっては毎日、出社する意義が見いだせなくなりつつある。
僕は出社するのが面倒だと、自宅で仕事をする。
休暇扱いになろうと、出社する気分になれない。
出勤するのが嫌なのである。
仕事をするのが嫌なのではなく、出勤、電車に乗るのが苦痛なのである。

僕は、電車が嫌いだ。
満員電車に揺られて、朝9時に出社することに何の意義があるのか?
新聞も読めないくらいに混み合った車内。
無線でPCを接続しようにも地下は圏外。
携帯電話も地下鉄では繋がらない。
通勤時間中は僕にとっては空白時間になってしまう。
地下鉄に乗っている時間帯は、僕にとっては連絡のとれないハイリスクな時間帯なのである。
僕は、起床後、出勤寸前までメールを確認し続ける。
メールには即座に返答する主義の僕としては、仕事のメールを打っていて出社時間が遅れる、というワケのわからない事態も多くなった。
遅刻の理由は、寝坊じゃないぞ、そこんとこ4649。

僕の名刺に書かれた固定電話の直通番号は、携帯電話に転送されるようになっている。
僕は、常にPCを持ち歩いているし、携帯電話でも業務メールのやりとりができるようにしてあるので、僕の物理的身体がオフィスにいなければならない理由はほとんどない。
自宅でもオフィスでも仕事は変わらないのだから、早朝から仕事はするけど、出社時間はラッシュアワーを避けさせてくれっ。
東横線のラッシュアワーでは、満員だと駅員に背中を押してもらっても乗り込めず、次の電車にしてください、と駅員に言われる。
正しい時間に出勤しようにも物理的に電車に乗せてもらえないんだよっ。

オフィスよりも自宅のほうが仕事の環境としては、効率が高い。
システム環境から言っても、会社からはシステムの安定性だとか枯れたシステムだとかなんだかで古いシステムを与えられている。
PCのメモリ容量が少ないのは、安定性とは関係ないと思うけど・・・。
それに対して、僕の自宅システムはお金に糸目をつけずに、現在考えられる最強のシステム構成になっている。
システム的には自宅のほうが圧倒的に環境が優れている。

ゴールデンウィーク明けから、僕らは新しいオフィスに移転した。
オフィスそのものは新築だし、いろいろ考えて設計されたと考えられ、居心地は悪くはない。

だが、新オフィスには決定的な不便さがある。

毎日、帰宅前に完全に机からモノを片づけなくてはならないのである。
セキュリティー対策。
でも、これはかなり不便。
仕事に使っているPCや資料、加えて諸々の一切合切をいちいち鍵のかかるロッカーに納めなくてはならない。
机の上には、紙一枚も残してはならない。
ロッカーは自席からは離れている。
毎朝、毎晩、遠いロッカーと自席の間で荷物を運ばなくてはならない。

帰宅時には、いちいちPCをセットダウンし、資料を片づけ、離れたロッカーに片づけて鍵をかける。
出社したらロッカーから仕事道具一式を持ち出してセットアップ。
コンセントに何本もの電源を繋ぎ、LANケーブルを繋ぎ、資料を机の上に並べる。
これだけで10分くらいは無駄が生じる。
仕事用のPCには何重ものプロテクトをかけているし、ファイルは暗号化しているし、PC本体もワイヤーで括り付けている。
そもそも僕は、重要ファイルはオフィスに置き去りにはしない。
僕はオフィスのセキュリティーすら信用していないくらいに用心深い。

でも、いちいちいちいちいちいちいちいち毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、片づけなくてはならないのである。
机の上に置いてあるものは全て撤去する、とのこと。
どうして、机の下に鍵付きのムービングキャビネットを置く、くらいの発想にならないのか?
僕は、いちいちいちいちいちいちいちいち毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、ロッカーから仕事道具一式を取り出して、何もない机を仕事ができる環境に整える。
ああ、時間の無駄だ。

机の上に何を置いておくと警告されるのか、撤去されるのか、について実証実験を行った。
第一日め。
卓上カレンダー。
見事に撤去。
第二日め。
ボールペンを机の隙間のわかりにくい場所に置いてみる。
見事に撤去。
第三日目。
机の裏にNASを貼り付ける。
見事に警告。
勝手に会社のネットワークにいらんものを繋ぐな、とのこと。
机の裏まで気付くか・・・・。
実証実験の結果、机の上は、いちいちいちいちいちいちいちいち毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、完全に片づけなくてはならない事が判明。

会社側に文句を言いたいけれど、コンサルティングファームはマンションの自治会とか生徒会に近いガバナンス。
文句を言おうにも自分自身が文句を言う対象、というか権力者なのである。
机の上に置いた僕の私物を撤去するのは、指示に従っているだけの契約社員なので、文句を言ってもしかたがない。
僕自身がルールを設定した側なのである。

オフィスがあまりにも不便なので、自宅でお仕事。
自宅なら、資料は手許に置いておいても良いし、PCを片づけなくてもよいので仕事がはかどる。
顔を合わせなくてはならないディスカッションやミーティングを除くと、在宅勤務のデメリットはあまり感じない。
そもそも、ホテリングシステムだとかなんだとか言って、固定席がないコンサルティングファームにとっては、自分のプロジェクトチームのメンバーがどこの席で仕事をしているのかもわからない。

僕が朝、出社して最初にやることは、自分のプロジェクトのメンバーがどの席で仕事をしているかを確認することである。
毎日、席が変わるのでどこにいるかを確認しなくてはならない。
僕の席は固定席なのだけれど、スタッフの席は早いモノ勝ちシステムの椅子取りゲーム。
毎日、居場所が変わる。

オフィスを巡回して、僕のチームメンバーがどこにいるかを確認する。。
「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」、「おうっ」、「うぃーっす」。
自分のプロジェクトのメンバーではなくても、僕は声をかけるので、延々と挨拶は続く。
顔が見あたらないスタッフには電話確認。
「す、すいません。寝坊です」
俺様の巡回時間に出社してないだと?
メッセンジャーは「取り込み中」のステイタスになっていたぞ。
何を取り込んでいたるんだ?
ネエちゃん関係か?

自宅で「休暇扱い」で仕事をしていても、電話はじゃんじゃんかかってくる。
名刺に書かれた僕の電話番号はそのまま僕の携帯電話に転送される。
電話をかけてきた相手、クライアントは僕が自宅で酔っぱらっている事実に気付かないだろう、いや気付いてないといいなあ。
相手には僕がどこにいて、何をしているかはわからない。
メールでも電話でもメッセンジャーでも問題なく連絡が取れるので、僕が酔っぱらっているかどうかまではわからない(はずだ)。
だけど、僕は自宅で酔っぱらっている・・・・。
僕は、歩けないくらいにでろでろに酔っぱらっていても、受け答えは正常である。
酔っぱらっていても、脳は正常。
電話、メール、メッセンジャーくらいでは、僕がでろでろな事には気付かないだろう(であるといなあ)。

この文章を書いている最中もでろでろの状態だったのだけれど、クライアントから電話がかかってきた。
僕は、あたかもオフィスで普通に仕事をしているかのごとく応対した。
クライアントは、オフィスの直通電話へかけてきたのだろうけれど、電話は自宅ででろでろな僕に自動転送される。
クライアントは、僕が自宅ででろでろな状態であることに気付いていない・・・だろう。
シビアな内容のやりとりだったのだけれど、僕はでろでろ。
「うっせー、こっちは休暇中だ」、と思いつつも、サラリーマンらしく丁寧に対応。
大丈夫かなあ、いや、大丈夫なハズだ。
今まで酒で失敗したことは一度もない。

ミーティングとかディスカッションの際だけ出社すればいいんじゃないの?と思う今日この頃。
逆に言えば、休みがない。
東横線に「いつでも座れる権」があれば、倍くらいの電車賃を払ってもいい。


2005年05月28日(土) 金策に悩むプロジェクトマネージャー

コンサルティングファームは、プロジェクト単位の独立採算制である。
プロジェクトはひとつの会社とほぼ同じ。

提案書を書き、見積書を出してお金の交渉をして、契約書を作って契約内容を協議して、メンバーを社内から調達し、プロジェクトを進め、マネジメントし、成果物を提出し、請求書を出す。
この一連の流れを僕がやる。
クライアントから入金確認がなされて、プロジェクトは完了。
コンサルティングファームのプロジェクトマネージャーは、何でも屋なのである。

提案書を自分ひとりで書くことができない場合、スタッフを社内からお金で雇う必要がある。
提案書の段階では、クライアントからお金を貰っているわけではないので、会社から借金をする。
お金を借りて、スタッフを雇う。
借金なので、後で返さなくてはならない。
失注したら、借金は返せないので、ごめんなさい。

会議室の利用や文房具類、バックオフィスのサポートにもそれぞれプロジェクトからの支払いが必要である。
P/L上、コンサルタントのプロジェクトでは人件費も経費も原価扱いになる。
SG&A(販売費および一般管理費) ではない。
クライアントからフィーをもらって商品であるコンサルタントがサービスを提供し、そのために必要な経費なので、会計上は、原価扱いなのである。

独立採算制の企業形態のなかで、仕事をしていると中小零細企業の経営者の気持ちが良くわかる。
僕の頭のなかの半分以上は、コンサルティングの内容ではなく、金策である。
自分のプロジェクトの金策をひたすら心配している。

プロジェクトの開始が契約の遅れなどによりズレこんだりすると、たちまち資金がショートする。
スタッフの確保を既に行なっているので、作業が発生しなくとも、人の確保をしている時点でスタッフへの給与支払いの義務が生じる。
追加融資を受けなくてはならない。
これまた借金なので、プロジェクト内で返さなくてはならない。
プロジェクトの予算を圧迫する。

プロジェクトが当初の見積もりの範囲を超えてオーバーランしたりしたら、目も当てられない。
僕は赤字プロジェクトになったことは一度もないのだけれど、オーバーランしたプロジェクトのプロジェクトマネージャーは相当にきついだろうな、と思う。
クライアントからも社内からも突き上げられる。
予算のオーバーランが小さい間は、スタッフに過剰労働を強いてしのごうとするだろうから、スタッフからも突き上げられているはずである。
クライアントや社内にオーバーランの事実を申告するのは、もはやプロジェクトマネージャーだけでは、対処不可能な状況に陥っていると思われるので、そのプロジェクトチームの士気はかなり下がっているだろう。

プロジェクトマネージャー自身がプロジェクトの見積もりと設計をしたのであれば、プロジェクトマネージャーの責任だ。
だが、甘い見積もりと設計を他の人間が行なっていて、プロジェクトの遂行だけをプロジェクトマネージャーが行なっている場合、プロジェクトマネージャーは災難だ。

僕の場合、基本的に設計、見積もりは自分で行なうのだけれど、たまには他人が設計、見積もりを行なったプロジェクトのマネジメントを行なう場合もある。
そして、そのような場合、おいっ、この予算でやれって言うの?という場合も多い。
クライアントとの交渉余地があるのであれば、再交渉を行なったうえで、引き受ける。
それが不可能なのであれば、僕は仕事を断る。
着手前から破綻することがわかっているプロジェクトのマネジメントを引き受けるほどの忠誠心や犠牲心はない。

デフレの影響か、不況の影響か、コンサルタントの価値低下のせいか、最近はクライアントから見積もりに対する値引き圧力が強くなった。
ちょっとした値引き程度なら対処できるのだけれど、いきなり、半額にしてくれ的な要求も珍しくない。
先日は、半額のうえに、消費税分の値引きまで迫られた。
コンサルティングの見積もりは人件費がほぼ全てなので、半額にしてくれ、ということは半分のメンバーでやれ、という要求である。
コンサルティングのスコープを小さくして、作業量を減らして対応するのが、正しい対処。
だけど、最近は、スコープの縮小をクライアントが受け入れないことが多くなった。
値引きには、クライアントに対しても、何らかの制約をつけなくてはならないのだけれど、一切の制約が認められない。
理由なき値引き要求。
人件費が全てであるコンサルタントにとって、値引き要求に対する対処方法は難しい。
メンバーを減らすか、単価の安い若いコンサルタントに入れ替えるか?
どちらにしてもプロジェクトの質は下がる。
スコープも作業量も同じでメンバー減らすか、経験の少ない若いメンバーに入れ替えるか?
コンサルタント個人にそれぞれつけられた値札とスキルはイコールである。
コンサルタントへの値引き要求は、そのままプロジェクトの質の低下に直結する。
安かろう、悪かろうになるのである。

プロジェクトのリスクも高まる。
人も少なく、経験の浅いメンバーばかり。
それでも受注するか、棄権するか?
予算内でのプロジェクト遂行が不可能である、と判断した場合は棄権する。
だが、何とかやれるかもしれない、という微妙な線にある場合、受注してしまう事が多い。

値札をつけられた商品である自分達自身への値引き要求。
コンサルタントは商品なので、値札がついている。
あまり気分の良いものではない。

何だかここ何年かは、金策の事ばかりを考えているような気がする。
ああ、プロジェクトがうまくいかないのは、みーんなお金のせいだ!
資金が潤沢だったらなあ・・・。
プロジェクトマネージャーの悩みの元凶のもとを辿っていくと、プロジェクトマネジメント能力やプロジェクト遂行能力ではなく、金策に尽きるような気がする。
お金さえあれば、メンバーを充実させられるし、品質も高められるのに。
お金がないと、人手は足りないし、経験の浅いメンバーしか雇えない。
クライアント側は、値引き要求が、結局プロジェクトの質を下げているだけ、ということをきちんと認識しているのだろうか?


2005年05月27日(金) メッシュネットワークとしての脳と専用線構造の身体の乖離

今から1年前、僕の脳と身体は乖離した。
脳が正常に機能しているのにもかかわらず、身体が思うように動かなくなった。
現在は完全に正常に戻っているのだけれど、自分の身に実際に起こった現象であるだけに、原因究明に興味はつきない。
どうして僕の脳は最後まで破綻せず、身体だけが破綻したのだろう?

ネットワーク理論について調べているうちに、僕に起こった現象について説明できるような気がした。
かなり妄想の強い仮説なのだけれど、ひとつの仮説として考えてみる。

脳は、メッシュ型の構成である。
僕の脳の各機能は、メッシュ型のネットワークで構成されている。
1対1ではなく、n対nの構造。
インターネットの構造と同様である。
構造上、破綻しにくい。

一方で、僕の身体と脳を繋ぐネットワークは、n対nの構成を取っていない。
僕の脳と身体は、脊髄の神経を通じて、コネクトされている。
脊髄の神経は、n対nのメッシュネットワークではない。
イメージとしては、1対1に近い。
インターネットに対する専用線ネットワークとして対比することができる。

n対nのメッシュ構成を取る僕の脳と、1対1で構成された僕の身体。
メッシュ構成の僕の脳は、そう簡単には破綻しない。
インターネットは、冷戦構造のなかで、核攻撃でネットワークが部分的に破壊されても全体としては機能しつづけることを目的として作られた。
僕の脳は、インターネットと同様の構造と言えるかもしれない。
だけど、脳と身体を繋ぐネットワーク構造は、イメージとしては1対1だ。
1対1構造で接続されたネットワークは、トラフィックが集中すると破綻する。
特定のノードにトラフィックが集中する事により、サーバーがダウンする。
脳と比較すると、脳と身体の乖離は構造的に起き易いのかもしれない。
身体の神経ネットワークは、脳よりも構造的に破綻し易いのではないか、と思う。

僕は、当初、自分の脳が高出力であるがために、身体がついてこれなくなった、と思っていた。
だけど、脳と身体の神経ネットワークの構造そのものが、異なっているのではないか、とも感じる。
脳と身体の乖離は、出力の違いによって引き起こされたのではなく、神経ネットワークの構造上の問題ではないか、と。

n対nのメッシュ構成の僕の脳と、1対1構造の身体。
それが、統合体としての僕の破綻の原因ではないか、と。

かつての人類は、脳と身体のバランスを取って、うまく生きてこれたのだろう。
高機能で耐性の強い脳と、進化から取り残された身体。
それでも問題は起きなかった。

僕らは、ネットによる外部記憶、他者の脳との強結合というかつてない急速な進化の過程に、たったの数年の間に晒された。
物理的な脳、身体はそのままに、僕らの脳はネットによって実質的に急激に機能拡張された。
たかだか数年間の間に異常とも言える進化を遂げた。
人類史上はじめて遭遇する急速な進化だ。

人類の機能拡張による機能不全、適応障害は、一般的には脳に発現する。
「うつ」であったり「そう」であったり。
極端な環境変化に脳は、適応できない。
「うつ」か「そう」か。
僕の周辺を見渡す限り、「うつ」が圧倒的に多い。
「うつ」が蔓延している。

それに対して、僕は「そう」になった。
ガンダムシードでいうところの「種割れ」である。
限界に晒されて、種が割れた。
僕の脳は、身体能力を超えた。
医師の診断書には、「軽そう」と書かれた。
僕はコーディネイターではなく、ナチュラルなので、脳が「種割れ」しても身体は置き去りにされた。

ネットの異常進化により、人類は「神」の予想を超えた進化の環境に晒された。
「神」は人間のアーキテクチャーを設計したとき、人の意識がネットワークで共有化され、共同して動作することを想定していたのだろうか?
人類のアーキテクトとしての「神」は書物による脳の外部記憶化や、オーラルコミュニケーションによる他者との意識の結合は意識していたと思う。
だけど、「神」はネットワークによる外部記憶、他者との意識の結合、並列化は想定外だったのではないか、と思う。

僕らは既に「神」の想定を超えている。
「神」は僕らの異常進化を「想定の範囲内」と言えるのだろうか?
それとも僕ら人類は、淘汰されるべき異常種なのだろうか?

ネットワークと融合した僕らの脳は、いずれ環境とも融合する。
個としての脳と身体は乖離を続け、脳は集合体として並列化されていく。
僕らはユビキタス環境、センサーネットワークの部分存在となる。
そのとき、人間の定義は何なのだろう?
僕らは個としての意識を保ちつづける事ができるのだろうか?
どこからどこまでが僕であり、どこから先が他者なのか?
どこまでが僕の記憶で、どこからが他者の記憶、外部記憶なのか?
ヒトがヒトであり続けることは、可能なのだろうか?
置き去りにされた旧式の身体は、どこまで耐性があるのだろう?

これまでこのような自己と他者、外部環境との境界が曖昧になることは、精神疾患とされてきた。
でも、今はそれが日常となりつつある。

脳と身体はネットワークとしての構造が異なる。
構造上の乖離による問題は、広がりつづけるだろう。
精神疾患とされてきた状態が日常化している。
これはただの仮説なのだろうか?妄想なのだろうか?


2005年05月26日(木) どうも腰の辺りが重い

どうも腰の辺りが重い。
ダルい。
喉も痛い。
咳も出る。
痰もからむ。
鼻も詰まっている。

ん?

これって風邪?

風邪っぽいけど、熱はない。
いや、腰の辺りが重いので、何かヤバい病気ではないだろうか?
痛くはないので、腰痛ではない。
先日の人間ドックの成績はオールAだった。
学校ではそんな成績は取った記憶はないのだけれど、人間ドックでの成績はいつも良い。
僕の身体の奥深くで、何かが進行しているのではないか?

とりあえず近所の病院に行くことにする。
病院に行って診察を受けて領収書を貰えば有給休暇ではなく、疾病休暇になるので、お得なのである。
医師に症状を伝える。

「ハイ、口を開けて、あああああああ、と声を出してみてください」
内科医が、アイスクリームの棒みたいなものを僕の口に突っ込む。
「ああああああ、げほっ、げほっ」
「喉が腫れてますね」と、言いつつ僕の首を触診。
「痛いポイントがあったら言ってください」
「あ、そこ痛いです」
「リンパ腺です。立派な風邪ですね。どちらか片方だけ痛くはないですか?」
「右側だけ痛いです」
「喉も右側が腫れています」
「腰のあたりが重いんです。もっとヤバい病気じゃないんですか?」
医師が僕の腰のあたりを触診。
「重みの中心に来たら言ってください」
「あ、そこです」
「腎臓ですね」
「風邪に伴って腎臓に来てます」
「でも、腰が重いですよ?」
「咳が出ているので、体力を消耗してるだけです」
「ただの風邪です。でも長引くと思います。インフルエンザでもありません」

ちっ、ただの風邪かよ。
「立派な風邪」らしい。
でも、腰が重くてそこから全身にダルさが廻っている。

そうだ、電気風呂だ。
スーパー銭湯に行こう。
電気風呂で腰を癒すのだ!

僕は、電気風呂は恐くて入れなかったのだけれど、最近、勇気を振り絞って、電気風呂に入れるようになった。
痛気持ちいい。
マゾヒスティックな「歓び」、というか。
野原しんのすけ(5才)と同じ声が出る。
アナクロさもいい。

病院から駐車場に直行。
スーパー銭湯はクルマで10分くらいのところにある。
ドアキー兼イモビライザーのリモコンを押す。
反応なし。
いつもならイモビライザーを解除すると、ハザードを点滅させて「こんにちは」って挨拶してくれるのに。

鍵穴にキーを挿しこんでクルマのドアを開ける。
今のクルマを買って5年になるのだけれど、いつもリモコンを使っているので、鍵穴に鍵を挿しこむのははじめてかも。
何か変。
エンジンキーを挿しこみ、キーを廻す。
無反応。
あ。
バッテリーあがり。
僕のクルマは電装品だらけなので、放っておくとバッテリーの電圧が下がりやすい。
そう言えば今年のゴールデンウィークは、新幹線で帰省したし、その前から運転していなかったような・・・。

くそっ。
スーパー銭湯に行けんぞ。

バッテリーをはずして充電しなくてはならない。
自宅にはトリクル充電器がある。
トリクル充電器とは、バッテリーをつなぎっぱなしにしても過充電にならないように充電し続ける特殊な充電器である。
冬場はバイクのバッテリーをはずして、トリクル充電器につなぎっぱなしにしている。

ボンネットを開ける。
バッテリーをはずすためには工具がいる。
工具はトランクに入っている。

が、僕のクルマのトランクは電動でしか解錠できないしくみになっているのであった。
盗難被害対策のため、鍵穴がない。
外からはリモコンでしか開けられない。
バッテリーがあがっている、という事はすなわち、トランクは開かない。
工具が出せん。
工具が出せない、ということはバッテリーもはずせない。

僕の駐車場は近所では数少ない屋根付きであるため、自宅からは結構距離がある。
工具を取りに戻って、また駐車場に戻ってきて、バッテリーをはずして、また自宅に持ち帰って、充電して・・・。

がーっ。
電気風呂があっ。
今すぐ電気風呂に入りたいんだよっ。

バイクがあるぞ。
が、バイクもバッテリーを取り外して充電中だった。
バイクのバッテリー取り付けは、カウルをはずさなくてはならないので面倒くさい。
そこまでして電気風呂に行くか?

しょうがない。
温泉だ。
僕の自宅から自転車で数分のところに、銭湯タイプの天然温泉がある。

クルマもダメ、バイクもダメなら、自転車だ。
チャリに乗ろうとすると、今度はタイヤの空気が抜けていた。

神は僕を電気風呂にも温泉にも行かせないつもりか?
僕は神の与えたもうた試練に、空気入れで立ち向かった。
バッテリーは面倒だけど、空気くらいは入れてやる。
がっこんがっこんと空気入れでチャリのタイヤに空気を入れた。

無事にチャリで温泉に行った。
徒歩でも10分もかからないのだけれど。

クルマはともかく、バイクと自転車は実物大プラモとして、パーツを取っ替え引っ変えして、走行不可能な状態にある期間のほうが長い。
AudiTT Quattro、Ducati998 Matrix、Canondale SV。
どれもこれもデザインだけは、最強に美しい。
僕にとって、この世で最も美しいと思われるクルマとバイクと自転車だ。
少々マニアックではあるものの、デザイン重視なので、おたくではないだろう。
でも、あんまり乗る機会も時間もない・・・。
首都圏の繁華街には、駐車場も駐輪場も少ない。
なかでもバイク用の駐車スペースは「全く」ない。
クルマもバイクも自転車も実用として使う機会は少なくなってしまう。

僕は、走ることのできない状態で放っておかれたクルマとバイクと自転車に対して、申し訳ない気持ちになった。
クルマとバイクと自転車に謝れっ!
ごめんなさい。

週末は、クルマとバイクを動く状態にしてあげよう。
乗り物に愛を!

腰が重い。


2005年05月25日(水) コンサルタントになりたての時の資料を読み返した

資料を作っていて、僕が過去に作った資料とテーマがほとんど同じことに気づいた。
具体的な内容そのものは、全く異なるのだけれど、基本構成や盛り込むべき内容はほぼ同じはずである。

で、自分のHDDをごそごそ。
当該資料発見。

その資料は、数年前、僕がコンサルタントになった直後に作成されたものだった。
150ページ近い。
資料の日付を見てみると、入社後1ヶ月半の時点で作成されたもののようだ。

僕は、入社して2週間め、クライアントへの報告会に参加することになった。
某巨大企業グループの戦略策定のプロジェクトで、場所は本社の役員会議室だった。
テレビに出てくるようなゴージャスな会議室に巨大なテーブル。
テーブルの双方にコンサルタントチーム、クライアントチームが相対する。
座る場所には印刷されたネームプレートが置かれていた。
僕のネームプレートもきちんとあった。
テーブルについているのは、グループCEOとグループ各社のCEO。
テーブル以外にも椅子がぎっしり詰められていた。
椅子に座っているのは、役員。

う〜む、こんな場所でコンサルタント歴2週間の僕が、偉そうにネームプレートつきの席についても良いものなのか?、隅っこの椅子でいいのに、は思いつつ、僕はテーブル席に着いた。
コンサルタント歴2週間だったのだけれど、僕のプレゼンテーション時間も用意されていた。
プレゼンテーションそのものは、コンサルタントになる以前から日常的にやっていたので、とりたてて問題はなかった。
ミーティングそのものもうまくいった、と記憶している。

で、今日見た資料が、そのミーティングを経て、仕上げられた資料。
同じクライアントの同じメンバーに対して、報告を行なった際に使った資料である。

感想。

ひどい・・・。

当時、結構うまく行ったと思いこんでいたプロジェクトの資料なのだけれど、今、見てみるととんでもなくレベルが低い。
今の僕に、スタッフがこの資料を持ってきたら、僕はブチ切れだろう。

分厚いだけあって、内容は濃い。
文字や図表がびっしりと書き込まれている。
がんばって考え、作りこんでいる形跡はある。
ワケの分からないパワーや気合いだけは伝わってくる。

だが、言葉の選びかた、図表の表現、メッセージ等々のプレゼンテーションパッケージの基本がめちゃくちゃ。
一文がやたらと長くて読みにくい。
構造化もされていない。
どこからどう読めばよいのかわからない。
結局、何を伝えたいんだ?
言いたい事、伝えたい事がやたらとあったらしく、考えている事を全て書き散らかしている。
言いたい事を全部言おうとしているので、本当に伝えたいメッセージがぼやけている。
これでは経営者は意思決定ができない。
ダメパッケージである。

じっくりと時間をかけて読み込めば、きちんと書いてあることは理解できるのだけれど、これじゃあ時間に追われる経営者は、短時間では理解できないだろうし、意思決定もできないだろう。
経営者向けのプレゼンテーションパッケージの体をなしていない。
戦略コンサルタントのパッケージとしてはダメダメ。
僕は書いた当事者だし、当時の記憶もあるので、思い出しながら読むと、ほうほうなるほど、と頷けるのだけれど、改めて見直してみるとひどいものだ。
パワー全開だけど、上滑りしまくっている。
コンサルタント歴1ヵ月半の時のパッケージだからひどくて当然、といえば当然なのだけれど。

きっと当時はアマタのなかに情報が溢れまくっていて、言いたい事がたくさんあったのだろう。
でも、それが構造化されておらず、表現も稚拙で、的確なメッセージが出せていなかったのだろうと思われる。

僕は、コンサルタントの仕事がどういう仕事なのか良く知らずコンサルタントになった。
そして、いくつかあるコンサルタントのなかで戦略コンサルタントを選択したのは、会計系に行こうにも会計の知識がない、IT系に行こうにもSE経験がない、業務、プロセス系の知識もゼロで、専門特化していない営業職だった僕にでも戦略コンサルタントだったら務まりそうな気がしたから、という消去法からである。
戦略コンサルタントになりたての頃の僕にとっての戦略コンサルタントとは、「その他諸々を扱う何でも屋」だった。
そんなことでよくもまあ6年もコンサルタントを続けられているなあ、と思う。
中途採用で戦略コンサルタント歴6年は、この業界ではかなりの古株である。

コンサルタントになりたての頃に作った資料を読み返して、当時の自分の拙さを笑いつつ、ここまでの無謀で恐いもの知らずなアホパワーは、今はもう失ったのかもしれないなあ、と思った。
僕は成長したのだろうか?退化したのだろうか?
得たものと失ったもののどちらが大きいのだろう?


2005年05月23日(月) 自宅でお仕事

朝、起きたら身体が異様に重い。
何だか腰のあたりが「ぼよ〜ん」としている。
熱はない。
腰のあたりを中心として、全身に倦怠感。
「う〜む」。
そういえば、先週、同僚が同じ症状を訴えて休んでいた。
うつされたか?

僕はサイボーグなので、痛みという感覚がない。
頭痛、腹痛、歯痛、腰痛、といった一般的な痛みを生まれてから一度も経験したことがない。
痛覚が切れてるのか?
外傷的な痛みは感じるし、ダルかったりもするのだけれど、内部的な痛覚は切れているらしい。
頭痛って何?胃が痛いって何?
加えて、睡眠薬を飲まなければ、眠くもならないし、疲れすらも感じない。
これは、さすがにヤバいので現在薬物治療中。
今日は、全身がダルい。
ダルさが全身に回っているので、今日は、急遽会社をお休みすることにした。

午前8時、今日はお休みします旨のメールを書き、僕のチームに本日の仕事の割り振りを指示。
睡眠薬を飲んで、もう一度寝る。
昼過ぎに起きて、メールを開くと、早速何件もメールが届いている。
返事を書いて、必要な処理を行なう。
で、また寝る。
夕方に起きてメールを開くと、メールが溜まっている。
返事を書いて、処理。
お腹が空いたので、夕食を買いに出かける。
帰ってくると、またメールが届いている。
また返事を書いて処理。
社内のシステムにアクセスし、いくつかの作業も行なう。
寝たり起きたりしつつも、いつもとあまり変わらない。
オフィスではなく、自宅にいるだけ。

僕は、どこでも会社のネットワークに接続できるような環境を構築している。
メールだけではなく、社内システムにも自宅からアクセスできる。
自宅はもちろん、移動中だろうが、海外からだろうが、どこでも仕事ができる。
自宅のPCは電源を入れっぱなしのものだけで3台。
常時オフィスに繋がっている。
メールが届けば、ペインが開き、メールの到着を告げる。

最近、一緒に仕事をしているチームの人たちは朝が早い。
朝6時頃からメールが飛び交う。
自宅から出勤前にメールを書いているのだろう。
僕は、朝7時起床なので、朝起きると既に何らかのメールが届いている。
起床してすぐにメールを確認して、いくつかの返事を書く。
シャワーを浴びたりして出勤の準備をしているうちに、またメールが来る。
朝8時くらいになると、出勤している人もちらほら出てくるので、メールがいくつも届き始める。
返事を書いていると、あっという間に9時頃になる。
メール書いているので、自宅から出られない。
あわわわわ、遅刻だ!
仕事をしているので、自宅から出られない、というワケのわからなさ。
電車のなかでもメールは打てるのだけれど、僕の出勤ルートは地下部分が大半だし、満員電車のなかで、立ったままメールを書くのは難しい。
自宅で、ひととおり仕事を済ませるので、僕の出社時間は遅くなる。

寝坊じゃないぞ。
自宅で一仕事終えてからの出社だ。
僕の出社時間は遅い、と思っている皆さん、それは誤解です。

仕事を終えて帰宅すると、まずはメールを確認。
何かあれば、その場で処理。
寝る直前にもメールを確認。
夜中に目が覚めたら、メールを確認。
どこにいようが、もはや仕事上、ほとんど関係なし。

毎日、満員電車に揺られて出勤する意味がないなあ、と思う。
もちろん仕事は、顔を直接合わせなくてはならないシーンがたくさんあるので、完全な在宅勤務に対して、僕は反対だ。
でも、朝、きちんと出勤したり、無意味に深夜までオフィスに残って仕事をしていても意味がないなあ、と思う。

と、いうことで僕は、最近は比較的早く帰宅することにしている。
早めに帰宅しても結局は、仕事をしているので、早く帰宅する意味はないのだけれど。
仕事のスタイルは、時間的にはフレキシブルになりつつあるのだけれど、どこまでも仕事は追いかけてくる。
携帯電話、メール、メッセンジャー。
逃げ場はない。

そのせいか、休暇中はメールを見ません、と宣言する人も増えてきた。
でも、僕はメールを見ないと却って不安になるタチなので、常時メールをチェックしている。
ゆったりと出社できるようになったり、早く帰宅できるようにはなったのだけれど、結局は、24時間体制で仕事をしている事には変わりない。
便利になったのかなあ、それとも逃げ道がなくなったのかなあ?どっちなんだろう。

仕事とプライベートをきちんと分けられるケジメをつけられる人がうらやましい。


2005年05月21日(土) 有事に備えた射撃訓練

注文しておいたガスガンが届いた。
「イングラムM11」というサブマシンガンである。
限定モデルだかなんだかで、専用のハードケース入りで、オプションもいくつかついている。
専用のハードケースには、オプションまで一緒に収納できる。
持ち歩け、ということか?

僕は、以前から「グロック26」という小さめのハンドガンを持っていた。
僕はガンマニアではないのだけれど、男の子として武器系のものに興味がないわけではない。
グロック26は、プラスティック製のちょっと小さめのガスガン。
映画にもよく登場する。
いろいろ妄想した結果、グロック26がハンドガンとしては、最も有効である、と思い自宅内でバシュバシュ撃って遊んでいた。
だが、ハンドガンだけでは心許ない。
戦闘に巻き込まれたら、サブマシンガンもないとヤバい。
と、いう事でオプションをつけまくったイングラムM11を入手。

僕は海外で何度か実銃を撃ったことがある。
44マグナムも撃った。
実銃を撃ってみると、オートマチックよりも、リボルバーの44マグナムのほうが、反動も大きいけれど、命中性能も高くて面白い。
でも、実戦を考えるとリボルバーよりもオートマチックのほうが有効だ。
オートマチックには弾詰まりのリスクはあるけれど、リボルバーの弾交換の不便さ、装弾数の少なさを考えると、オートマチックのほうが実用的である。
実用な場面が日本国内であるのか、という疑問はさておく。

僕は日本在住なので、実銃を保有することはできない。
海外だと、サブマシンガンでも簡単に買えたりするのだけれど、日本ではさすがに無理。
なので、プラスティックのBB弾のガスガンでガマンせざるを得ない。
まあ、BB弾でもむにゃむにゃなものを手に入れたり、ガスガンといってもむにゃむにゃすれば、むにゃむにゃなシロモノになったりするのだけれど、それはむにゃむにゃ。

僕はグロック26をリビングの手の届くところに置き、シューティングターゲットを10メートルくらい先の廊下の端に置いて、気が向いたときに、バシュッ、バシュッと撃っていた。
最近のガス式のハンドガンの威力は強い。
弾がプラスティック製のBB弾なので、殺傷力はないのだけれど、撃った際にきちんと反動もある。
音もブシュッ、ブシュッとする。
それなりに、銃を撃っているぞ、という感覚がある。
10メートル程度のターゲットであれば、ど真ん中に命中する。

実銃とトイガンの大きな違いは、撃ったときの反動である。
小さなオートマチックだと、たいした反動はないのだけれど、44マグナムなどは、片手では撃てない。
両手できちんと構えて撃たなくては、射撃時の反動で手許が狂う。
最近のトイガンは実銃まではいかないもものの、それなりの反動もあり、撃った際の爽快感がある。
気晴らしに、バシュッ、バシュッ。

僕の人生において、実際の戦闘に巻き込まれる可能性は限りなくゼロなのだけれど、妄想としては、訓練を積んで置かなくてはならない。
今の日本の情勢を考えると、いつ日本が戦争に巻き込まれるかわかったものじゃない。
ジャングルでの戦闘は想定しづらいけれど、都心のビルのなかでテロリストと戦闘に巻き込まれる可能性は否定できない。
サバイバルゲームのようにフィールドでの戦闘よりも、ビル内での戦闘に巻き込まれる可能性が高い。
僕の勤務するオフィスは都内でも有数のセキュリティーが厳しいエリアにある。
オフィスの周囲は警官だらけ。
夜になると、オフィス前の道路は閉鎖される。
オフィスの窓から見渡すと、ビルの屋上にまで警官が配備されている。
スナイパーか?
日本国としては、相当に警戒レベルを高くしているようだ。
僕もいつ戦闘に巻き込まれるかわかったものじゃない。

最近は、映画や小説以上の事件が、実際に起こる時代なので、何が起こるかわからない。
戦争が起きて、僕が徴兵されることは考えにくいけれど、テロリストがオフィスを占拠し、僕が人質にされるくらいの事態は、じゅうぶんに考えられる。
ヤバいからこその異常な警備体制だ。
そのときに備えて、銃器の扱いには慣れておかなくては。
映画でよくあるような、テロリストに向かって銃を向けた人質が、「銃には、安全装置があるんだよっ。そのままでは撃てない」などと言われるようなマヌケであってはならない。

僕としては、ハンドガンの射撃訓練は、日々、積んできていたのだけれど、サブマシンガンの使い方はよく分からない。
民間人である僕にサブマシンガンが与えられるということはない。
僕が人質になったとして、倒された敵、味方の銃をこっそり頂戴する、というシーンが現実的だろう。
そこで手に入れられる銃は特殊部隊用のサブマシンガンだろう。
特殊部隊に配備されている銃の取り扱いに慣れておかなくてはならんっ。
なにせ、特殊装備の警官に囲まれたオフィスで仕事をしているので、あながちただのも妄想とも言えない。

妄想としては、特殊部隊仕様のサブマシンガンなので、イングラムM11に、ワルサー製のフラッシュライトとレーザースコープを装着した。
フラッシュライトは、索敵する際の必須アイテム。
銃本体にリモコンをつけ、手で触れるだけで、フラッシュライトが点灯するようにした。
オフィスがテロリストに占拠されたら、ビルの電源はカットされるだろう。
暗闇になる。
フラッシュライトは必須。

そして、レーザースコープ。
映画では、目標にレーザーの赤いドットが当たるシーンがよく出てくるけれど、あれは、実戦向きではなく、現在では主流ではないらしい。
レーザーの赤いポイントが敵に当たると、敵に自分が狙われていることを察知されてしまう。
それに遠距離のドットは視認しづらい。
なので、実戦用のレーザースコープは、標的には映らないものが主流らしい。
最新型のワルサー製の実戦用のレーザースコープをイングラムM11に装着。
銃にとりつけられたスコープ内に赤、緑のレーザーポイントは映るが、標的には映らない。
赤いレーザーと緑のレーザーが標的を捉える。
実戦に近いレーザースコープを装備。
フル装備のサブマシンガンは、重い。

僕は、実戦用の装備を整えた。
レーザースコープとフラッシュライトを備えたイングラムM11サブマシンガン。
航空機に持ち込む際、X線で映らないプラスチック製のグロック26ハンドガン。
有事に備えて日々、射撃訓練。
弾はプラスチックのBB弾。
海外に行ったら、実銃で射撃訓練。

自宅内で、フルオートにして、イングラムM11サブマシンガンをぶっぱなす。
バラバラバラバラッ。
一瞬にして弾装内の弾を撃ち尽くす。
イングラムM11を撃ち尽くしたら、すかざす、グロック26を構える。
ビル内がテロリストが占拠した場合を想定(妄想)しつつ、バラララッ、バラララッ、バシュッ、バシュ。
俺はジャック・バウアーだっ。

「家で銃を撃ちまくってるんだよっ、楽しいよっ」
と、言ったら、女の子に思いっきり引かれた。
女の子のほうから、飲みに連れて行ってください、と誘われたのだけれど、僕はそこで銃について語りまくった。
その後、その女の子からの連絡は一切ない。


2005年05月17日(火) 「中間管理職」と「楯と矛」

僕は、いわゆる中間管理職である。
中間管理職という立場にいると、どうしても悲しき中間管理職的な立場に立ちがちだ。
会社のご都合主義、上司の理不尽、そしてそれを自分のスタッフに指示しなくてはならない割り切れなさ。

アメリカ大統領か自営業者にでもならなければ、どこまでポジションが上がろうと永遠に中間管理職である。
役員になろうと社長が上にいるし、社長になっても親会社がいたり。
小泉さんだって、上司は`米帝のブッシュ総統だ。
上司に加えて、クライアントや選挙民からの圧力もある。

僕は下っ端の中間管理職。
中間管理職を続けていると、どんどんと自分が嫌になっていく。
僕のポリシーは、「上司には矛であれ、部下には楯であれ」である。
自分自身のポリシーに従って行動してはいるつもりだけれど、どこまでうまくいっているかは自信がない。
上司には「矛」として接しているので、当然ながら嫌われる。
部下には「楯」として接しているつもりだけれど、どこまで理解してもらえているかはわからない。
僕の部下からは、僕が理不尽な事を言っているように見える事もあると思う。
僕は、上司から見れば反抗的な部下だろうし、部下から見れば理不尽な上司だろう。
中間管理職が、上司からも部下からも良く思ってもらえる、という状況を維持する事は至難の技だ。
ヘタすれば両方とも敵に回すことになる。

僕には、上司は敵に回しても構わない、いう割り切りがある。
でも、部下は守り抜きたい。
部下は、何でも守り抜きたい、と思う。

僕が、何が何でも部下を守り抜こうと考えるのは、過去に自分の部下を守りきれなかった事があるからだ。
そのとき僕は、部下を守ろうとして、徹底的に上司に歯向かった。
自分自身はどうなろうと構わない、でも部下は意地でも守り抜く、という気持ちから上司に歯向かい続けた。
結果として、僕は配置転換された。
そこまで歯向かうなら外す、という処分。
権限を剥奪された僕は、部下を守る事ができなくなった。
僕の部下は、潰れ、退職した。

僕は「上司には矛であれ、部下には楯であれ」というポリシーは崩したくないし、崩すつもりもない。
中間管理職は難しい。


2005年05月13日(金) 中国の反日暴動を無理やり数学的にモデリングしてみる

中国の反日暴動を見ていて、「割れ窓理論」を思い出した。
僕は、「休日のちょっとしたお遊び」として、参加していた中国の反日デモの参加者が、暴徒化してしまった理由を考えたい、と思った。
僕にとっては、ごくごく普通に見える反日デモに参加した人たちが暴徒化していった様子が気になった。
どうして普通の人が暴徒化していったのだろう?
「割れ窓理論」をWikipediaで調べると下記のように説明されている。


■割れ窓理論

治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。

一見無害な秩序違反行為が野放しにされると、それが「誰も秩序維持に関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作りだす。
軽犯罪が起きるようになる。
住民の「体感治安」が低下して、秩序維持に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。
よって、治安を回復させるには、

・一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる。
・警察官による徒歩パトロールを強化する。
・地域社会は警察官に協力し、秩序の維持に努力する。

などを行えばよい。


「割れ窓理論」は1990年代にニューヨークでジュリアーニ市長のもとで実践された。
僕は、「割れ窓理論」によるニューヨークの治安回復キャンペーンの時期に、ニューヨークを拠点に仕事をしていた。
僕がはじめてニューヨークに訪れた際、信号は無視して、赤信号でも歩行者は道路は突っ切るものであった。
でも、ほんの2年程度の間に、信号無視をする人は激減していった。
たかだか、歩行者の信号無視をきちんと取り締まるだけで、ニューヨークの治安が回復していった。
僕は「割れ窓理論」の効果をリアルタイムに実感していた。

僕は、「割れ窓理論」の逆の現象が中国では、起きていたのではないか、と思った。
加えて、コンサルタントとしては、「割れ窓理論」で定性的に反日暴動を説明してしまってはつまらない。
「割れ窓理論」は正しいと思うけれど、それをモデリングしたい。
定量化して、数学的にモデリングしなくてはならない。
無理やりにでも定量化し、シミュレーション可能なモデリングを行ないたい。

「閾値」で考えてみる。
まずは、ロジックの説明。
善良なる反日デモ参加者が、暴徒化する閾値をモデリングしたい。

わかりやすくするために、反日デモの参加者が100人だったと仮定する。
デモに参加している中国人が暴徒化する閾値を0〜99と設定。
自分以外に暴徒化している人間が何人いれば、つられて暴徒化するかが閾値である。
「赤信号、みんなで渡れば恐くない」。
「他の人もやってるから自分もやっちゃっても大丈夫だろう」、の閾値。
閾値1のデモ参加者は、暴徒化する人間が1人いれば、つられて暴徒化する。
閾値2のデモ参加者は、暴徒化する人間が2人いれば、つられて暴徒化する。
閾値50のデモ参加者は、暴徒化する人間が50人いれば、つられて暴徒化する。
何人が暴徒化したら、自分も暴徒化するか、というモデルである。

100人のデモ参加者が暴徒化する閾値が0〜99ときれいに分散していたとする。
最初に、閾値0のはじめから暴徒化するつもりの中国人が存在したとする。
閾値0のデモ参加者は、閾値が0なので、いきなり暴徒化して石を投げる。
すると、閾値1のデモ参加者は、1人が石を投げたので、よ〜し、パパがんばっちゃうぞ、とつられて石を投げる。
2人が石を投げると、閾値2のデモ参加者も閾値を超えたので、つられて石を投げる。
3人が石を投げると、続いて閾値3のデモ参加者も暴徒化。
そして、次は閾値4のデモ参加者も暴徒化。
と、いうようにして結果的に100人全員が暴徒化する。
これが、暴徒化理論の基本である。

中国の反日デモ参加者の閾値はバラバラだっただろう。
閾値5の人間が10人と、閾値10の人間が20人、閾値30の人間が30人いたとする。
閾値5の人間は、5人が暴徒化すると、つられて暴徒化する。
中国の反日デモ参加者のなかに過激な5人グループがいたとする。
5人は「石を投げちゃえ」とグループ内で同意する。
5人で一緒に石を投げるのであれば、投げちゃえ。
閾値5の5人が、一緒になって日本大使館に向かって石を投げる。
だが、そこには仲間ではない閾値5の人間も5人いる。
5人が石を投げた時点で閾値5の5人もつられて石を投げる。
最初に石を投げた5人に加えて、石を投げた人間は、10人。
この時点で、閾値10の人間20人がつられて石を投げる。
石を投げた人間は、これで30人。
そこには、閾値30の人間が30人いるので、更に30人が暴徒化し、暴徒化したデモ参加者は合計60人。

と、こんな感じで中国の反日デモは、ただのデモから暴徒化していったのではなかろうか、と。
反日デモの参加者は、デモに参加した時点では、それほど反日感情は持っていなかったのかもしれない。
閾値30くらい。
それでも、暴徒化理論によると、反日感情の閾値が30であったとしても、人は暴徒化する。

模倣者と言っても良いかもしれない。
最初は小さな火種であっても、人は同じ方向に向かってしまう。
デモ参加者がノンポリで、閾値が高いったとしても、暴徒化理論により、暴動は広がる。

暴徒化理論は、人単位ではなく、都市単位でも考える事ができる。
北京で暴徒化したから、次は上海、そして香港。
そのまま拡大していけば、中国全土に広がる。
面的広がりに加えて、暴動のレベルも上がっていく。
あのまま放置すれば、戦争にもなりかねない。
もともとは、閾値の高い集団内で起きた暴動であっても、放置すれば巨大化する。

中国政府は反日教育により、閾値を下げてきた。
そして、デモが起き、暴徒化した。
だが、暴徒化は暴徒化理論により、予想を超えて拡大化していった。
中国政府は、反日暴動によって盛り上がった暴徒のエネルギーが中国共産党政府に向かう事を恐れた。
取り締まり強化によって、閾値を上げる行動を取った。

暴動や戦争が起きる過程は、モデリングしてシミュレーションできないこともない。
僕は嫌なコンサルタントなので、中国の反日デモのニュースをテレビで見つつ、愚かなる大衆は数学的にモデリングできるなあ、と思うのであった。
この暴徒化理論は、コンサルティングの実務では、強引に流行を作り出したり、市場を動かしたり、というような場面で適用可能ではないか、と思う。
マーケットの閾値の状況を分析し、それに応じたマーケティング施策を打っていく。
閾値の把握とコントロール、全体の動きのシミュレーションができれば、市場をコントロールできるはずだ。
応用範囲は多い。
そんなこと言ってるコンサルタントはいないけど。

■割れ窓理論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8C%E7%AA%93%E7%90%86%E8%AB%96


2005年05月11日(水) スタンガンジジイ@地下鉄

会社の帰りに地下鉄に乗ると、酔っ払ったオヤジがシートをベッドにして爆睡していた。
シートを三人分占拠。
地下鉄内は、満員電車ほどではないものの、結構混雑していて、座席の空はなし。
立っている乗客は、爆睡中の酔っ払いオヤジをわざわざたたき起こすのも面倒だし、立ってりゃいいや、という雰囲気。

そこに、チロリアンな登山スタイルのジジイ登場。
チロリアンジジイは、爆睡オヤジにまっすぐに突撃。
シートをベッドにしているオヤジに覆い被さるように着席。

チロリアンジジイは、爆睡オヤジの頭の上に座った。
はあ?
車内が一瞬凍りつく。
チロリアンなジジイが酔っ払いオヤジの頭の上に座っているぞ。
酔っ払いオヤジは頭の上にジジイが座っているのに、相変わらず爆睡中。
酔っ払いオヤジは、頭の上に人が座っているのに爆睡継続。

チロリアンジジイは、酔っ払いオヤジが反応しないので、酔っ払いオヤジの身体を起こして無理やり座った体勢に立て直して、マイスペースを確保。

爆睡中の酔っ払いオヤジは30秒もたたないうちに、チロリアンジジイにもたれかかった。
チロリアンジジイ、露骨に嫌な表情。

チロリアンジジイは、登山リュックをごそごそ。
10年以上前の型と思われる携帯電話を取り出した。
さすが、ジジイ。
僕は、未だに古い携帯電話を使っているのか、と思って見ていた。
その携帯電話の形を見ると、鬼の角みたいな突起がついている。
ん?

チロリアンジジイは、爆睡中のオヤジのスーツに携帯電話を当てた。
「ばぢばぢっ、ばぢばぢっ」
チロリアンジジイ、変な音が出てるぞ、と思いつつ僕は、携帯電話を見た。
携帯電話の鬼の角みたいな部分から雷みたいな光が出ている。
「ばぢばぢっ、ばぢばぢっ」
雷。

あの携帯電話って、スタンガン?
酔っ払いオヤジは反応なし。

チロリアンジジイは、スーツの上からは効果なし、と判断、酔っ払いオヤジの顔に携帯電話を当てた。
「ばぢばぢっ、ばぢばぢっ」
雷。
「ばぢばぢっ、ばぢばぢっ」
雷。
爆睡中の酔っ払いオヤジ、「あせdfgyふじこlp;」。
悲鳴をあげつつも起きる気配なし。

チロリアンジジイ、携帯電話型のスタンガンのパワーアップ。
「ばごばごばごばごっ、ぴゅーいーん、ばごばごばごばごっ、ぴゅーいん」
アラーム音が地下鉄内に鳴り響く。
爆睡中の酔っ払いオヤジ、「あせdfgyふじこlp;あせdfgyふじこlp;」。
これは、シャレにならんだろ。
ケンカになるぞ。

チロリアンジジイ VS 酔っ払いオヤジの対決開始か?
地下鉄内に妙な期待感が走る。
僕は揉め事が好きなので、わくわくしながら観察。
残念ながら僕は、揉め事を止めようなどというような薄っぺらい良心は持ち合わせていない。
笑えるレベルにある限りは、状況を面白がる。

酔っ払いオヤジ、悲鳴を上げつつもまだ爆睡中。
悲鳴を上げながら、起きる気配なし。
オヤジ起きろっ、チロリアンジジイと対決しろっ。

チロリアンジジイは、オヤジにスタンガンで攻撃継続。
地下鉄車内に、アラームが鳴り響き、乗客は大注目。
僕はケンカが始まったら、燃料を投下してやろう、と画策しつつ観察継続。

酔っ払いオヤジ、爆睡したまま、くしゃみを始める。
加藤茶の「へっくしょい」と同じスタイルのオヤジ専用くしゃみ。
チロリアンジジイがスタンガン攻撃をかけるたびに「へっくしょい」。

「ばごばごばごばごっ、ぴゅーいーん、ばごばごばごばごっ、ぴゅーいん」
「あせdfgyふじこlp;あせdfgyふじこlp;」
「へっくしょい」

「ばごばごばごばごっ、ぴゅーいーん、ばごばごばごばごっ、ぴゅーいん」
「あせdfgyふじこlp;あせdfgyふじこlp;」
「へっくしょい」

「ばごばごばごばごっ、ぴゅーいーん、ばごばごばごばごっ、ぴゅーいん」
「あせdfgyふじこlp;あせdfgyふじこlp;」
「へっくしょい」

以下ループ。

地下鉄にはいろんな人が乗っているのですね。


2005年05月09日(月) 今日から新オフィスでお仕事

今日から新オフィスでお仕事。
自分のオフィスなのに、地図を見ながら会社にたどり着く。
駅から2分と聞いていたのに、駅のホームからは10分近くかかった。
駅から2分というのは、駅の出口からの所要時間であって、ホームからの時間ではないらしい。
○○駅より徒歩×分の不動産屋の表示を信じてはいけない。
ホームから地下通路を延々と歩いて地上に出るような構造の駅であっても、駅の出口からが、徒歩○○分の表示なのだそうだ。
路線によっては、駅の通路を10分以上歩くハメになる。
それでも駅(の出口)から徒歩2分。
僕の自宅からは、2種類の路線で最寄駅までアプローチできる。
今日の出勤コースは、1分ほど電車に乗っている時間が短かったのだけれど、ホームは3分ほど遠い。
歩くのは嫌なので(運動しろ)、明日は別コースで出勤してみることにする。

新オフィスは、都内でもセキュリティーレベルが非常に高い場所にある。
国防上ヤバい施設に取り囲まれているワケだ。
ビルの前にはパトカー常駐。
道路は、一般道路なのに、いつでも閉鎖できるように、「ジャバラの通せんぼ」装備。
夜、帰るときは、「ジャバラの通せんぼ」でビル前の道路は封鎖されていた。
棒を持った警官もあちこちに立っている。
警備会社ではなく、日本国政府の警官。
休日にクルマやバイクで出勤しても、路上駐車なんぞ問題外の外な雰囲気。
僕は、警官やパトカーを見ると緊張する。
後ろめたいことがなくても、条件反射で構えてしまう。
「俺は(今日は)怪しくないぞオーラ」で武装して、新オフィスのビルに入る。

ビルに入ると、JRの改札みたいなゲート。
警備員あり。
カードをかざして、ゲートを抜け、エレベーターホールに入る。
エレベーターにもカードリーダー。
オフィス階に到着。
自分のオフィスに入るためには、またカード。
が、カードが通らない。
ピーピー鳴るだけで、ドアは開かず。
警備員接近。
ヤバし。
写真入りの社員証を見せて、入館カードの再登録をしてもらう。
僕のカードは登録漏れだったらしい。
とりあえず、警備員にオフィスに入れてもらう。
入館カードが使えるようになるには、午後までかかった。
午前中は、トイレにも喫煙コーナーにも行けず。
トイレや喫煙コーナーに行くと、自分の席には警備員に連れて行ってもらわなくてはならない。
喫煙室にもカードリーダーを通さなくては入れない。
よくよく考えてみれば喫煙室は、女子化粧室と並んで、社内の最高機密情報が飛び交う場所なので、当然の処置と言えよう。

何とか自分の席にたどり着く。
チームメンバーは僕の姿が見当たらないので、探していたようだ。
「ごめん、オフィスに入れてもらえんかった」

新オフィスに入ってみると、外資度100パーセント。
もともと外資100パーセントのはずだったのだけれど、旧オフィスは正直言ってボロかった。
新オフィスは、「こんなオフィス、普通ねえだろ」的ツッコミを入れたくなるような、いわゆるテレビドラマ的内装。
オフィスに入ると、正面にいきなり某オサレ系チェーンのカフェが社員専用に出店していた。
「置物としての外国人」も適度にばら撒かれている。
旧オフィスでは、外国人はなぜだか隔離フロア(ボロい内装)に固まって棲息していたのだけれど、新オフィスに移った事で、一般フロアに湧き出してきたようだ。
あちこちに液晶モニターが置かれ、環境映像が流れている。
四角のほうが使い易いのに、丸くてガラス張りの会議室。
ガラス張りの会議室で外国人集団がガラスにもたれかかり、立ったままミーティングをしている。
何だか外資みたいだぞ。
僕のような小汚い系の人間が映らないように美男美女の若い社員と外人だけが映るようにしてカメラを回せば、トレンディードラマ(死語)のセットっぽく見えないこともない。
ミーハーな脳内でイメージする外資のオフィスそのもの。

午前中は、自分の席をささっとセットアップだけして、早速ミーティングに突入。
午後からはクライアント先へ外出。
夕方にオフィスに戻って、会議室に缶詰。
夜9時にようやく自分の席で落ち着く。

自分の席から周囲を見渡すと、既に派閥(仲良しグループ)で座席が構成されている。
オフィスは予約制で、固定席は存在しないし、事前に打ち合わせたわけでもないのに、群れとナワバリができていた。

って事で、よくわからないまま新オフィスで業務開始。
どうもよその会社にいるようで落ち着かない。


2005年05月05日(木) 報道無罪

JR福知山線の脱線事故から10日が経過したにもかかわらず、トップニュースは連日、JR西日本関連である。
僕は今、関西の実家にいるので、ローカルニュースでもJR西日本糾弾が続く。
JR西日本糾弾ネタだけで、テレビの前で一日を過ごせる。

驚愕の事実発覚!!!

「JR西日本の社員は、ボーリングの後、二次会で寿司を食べただけではなく、三次会で焼肉を食べていたことが発覚しました!」
「JR西日本の隠蔽体質はどうしようもないですね」
「どうして隠すんでしょうか?」
「鉄道マンとしての誇りはどこへ行ってしまったのでしょうか?」

焼肉を食ったことまで記者会見で報告しないと、隠蔽工作なのだそうだ。

「あんたら、もうエエわ。社長呼んで!」

敬語なしの記者に呼ばれて、JR西日本の社長、深夜の会見。
ボーリングと寿司と焼肉の謝罪会見。

「『どの面下げて』行ったのか、遺族の家に」

「どの面下げて」だって。
ジャーナリストは、特権を持っているらしい。
報道無罪。

JR西日本が引き起こした事故は、重大だ。
事故を引き起こしたJR西日本の体制や体質に問題があることも事実だろう。
事故後、二転三転するJR西日本の発表に信頼が置けなくなっていた事もあるのだろう。

でも、マスコミはちょっと調子コキ過ぎ。
記者会見は、糾弾の場ではない。
マスメディアはいつから裁く権限を得たのだ?

テレビは、おどろおどろしいBGMで事故を伝える。
マイナーコードの悲しみたっぷりのBGMで、被害者の声を伝える。
JR西日本幹部のコメントのBGMは悪役用。

今回の一連の報道を見ていると、主観的要素があまりにもハナにつく。
これは、ジャーナリズムではない。
ただのエンターテインメントだ。

報道は「客観」であるべきか、「主観」であるべきか。
それは二元論では語れない。
事実は客観として伝えられるべきだし、それに対するコメントに主観が入ることは当然のことだ。
報道には編集作業が伴うので、完全なる客観報道はあり得ない。
カメラのフレームや言語のような制約条件がある限り、完全な客観報道を行うことは不可能だ。
だが、ジャーナリストには制約条件があるからこそ、客観報道に努める使命がある。
「事実ではなく真実を伝える」というのはジャーナリストの奢りだ。
ジャーナリストは裁く事ではなく、伝えることが仕事だ。
報道に主観を混じえることは、ジャーナリストにとっての罠だ。
主観報道は、客観報道よりも容易だし、メッセージも伝わりやすい。
ジャーナリストは客観報道を常に意識し続けなくては、主観報道に傾く。
主観報道を否定はしないが、安易に主観報道に陥ることは危険だ。
意識しなければ主観報道になってしまうのだから、ジャーナリストは客観性を常に意識しなくてはならない。

どこの放送局にチャンネルを切り替えても、報道の論調は同じだ。
主観報道であるはずなのに。
報道の自由が認められている国なのに、論調は同じ。
限られたチャンネルを切り替えようと、異なる意見を聞くことはできない。
これは、マスメディアによる暴力だ。
メディアレイプだ、と僕は思う。

JR西日本の犯した罪は大きい。
でも、裁くのはマスメディアじゃない。
コメンテイターがキャスターが記者が、感情を剥き出しにし、怒り狂いながら、ヒステリックに報道する。
これはジャーナリズムではない、と僕は思う。


2005年05月01日(日) 携帯電話のバッテリーは二系統にすべき

携帯電話は、本来の電話としての「話す」という目的以外の用途が増えてきた。
ブラウザ、PIM、音楽プレイヤー、デジタルカメラ、地上波デジタル放送受信、ゲーム機、云々。
同時にバッテリーの消耗も激しくなってきた。

僕の場合、FOMA端末を使っているのだけれど、携帯電話をガンガン使うと、半日程度しかバッテリーは保たない。
カタログスペックから言えば、2-3日くらいは充電の必要はなさそうなものなのだけれど、実際には、電話以外の機能を多用するので、あっという間にバッテリーを消耗する。
そのせいで、僕の携帯電話は常に充電中。
自宅と会社に充電用のクレードルを置き、コンセントがある場所では、携帯電話を常に充電器に繋ぐようにしている。

携帯電話の「話す」以外の機能は今後も拡張されていくだろう。
だが、そこで困るのが、バッテリー問題である。
携帯電話は、待ち受け状態で長時間に渡って利用可能でなくてはならない。
ところが、「話す」以外の機能の多用により、バッテリーが消耗してしまい、待ち受け、通話が不可能になる事が多くなってきた。
携帯電話本来の「話す」機能が、多機能化により、犠牲になってしまう。
これは、大変困る。

僕は、携帯電話のバッテリーは二系統にすべきだ、と思う。
通話のためのバッテリーと付加機能のためのバッテリー。
通話以外の機能の多用により、通話機能のバッテリーを犠牲にしなくても良いように二系統にわけるべきだ。
携帯電話に音楽プレイヤー機能が搭載されているから、といって携帯電話で長時間、音楽を聴いていたら、バッテリーはあっという間に消耗してしまう。
通話機能と通話機能以外で、バッテリーが二系統に別れているべきだと思う。

もしくは、バッテリーが一系統であっても、通話機能のためにバッテリーの一定容量を確保できるようにすべきだ。
待ち受け100時間、通話1時間は、通話用に常に予約。
余ったバッテリーの容量を、通話以外の機能のために使用する。
通話用のバッテリー予約容量は、ソフトウエアアプリケーションで任意に変更できるようにしておけば、更に機能的だ。
通話以外の機能に予約しておいたバッテリー容量がなくなっても、通話用のバッテリー容量を通話以外のバッテリーに回せるようにしておけばいい。

携帯電話の付加機能の有効活用のためには、バッテリーを二系統にするか、マネジメント機能を搭載することが不可欠であるように思う。
どうして存在しないのかな?




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