生きる。を消費する
2018年02月09日(金) |
社会がみな近所のババアに見えてくる |
最近、Twitterを全然見なくなった。 私はTwitterを始めてかれこれ10年は経つのだが、こんなに見なくなったのは初めてだ。 始めた当初は「1日に最大でどれくらいつぶやく事が出来るのか」試したり、炎上を経験したり結構面白い事があったと思っている。 ここ数年位だろうか。 傾向として以前で言うところの2ちゃんねるみたいな流れが多くなった。 いや、それ以下かもしれない。 2ちゃんねるは(自分の探し方次第では)どこかに「なるほど〜!」と思わせるような名文があったり、個性的な意見を見つけたりすることが出来た。 そこにたどり着くまでが長いだけで、ネットの海をずーっと眺めてると、なんだかんだいって閃いたりアドバイス貰えたりした。 Twitterを見ていて思うのは、みんな薄っぺらいおせっかいを垂れ流しすぎな気がする。 やはりモバイルで文字を打つ、それも短文で、 となると推敲せずに書かれてるだろうし、とはいえ書いた時の勢いが SNSでは割と大事なわけで、自ずと駄文が増えてしまうだろう。 で、読んでる方は単なる愚痴とか悪口とかを延々聞かされてる気分になるのだ。
子育てについての色々も、子供が居ない私がいっちょかみな事を言えるくらいの蘊蓄は溜まる。 がしかし、それが正しいのか何なのかわからない(わかりにくい)。 だからデマが流布されるし、それを読んだ人が傷ついたりするんだろう。 そう、単なるおせっかいな近所のババアなのだ。 正しいかどうかなんてどうでもいい、向かいの家の息子が最近金髪にした頃から自転車の停め方が気に入らなくなったり、ゴミ出しをちゃんとしないアパートの住人に挨拶もしない、みたいな気分次第で優しくなったり塩対応になったりする、そんな感じ。
社会をよりよくしたい、という考えはいいが、自分と意見が合わない人を排除する考えはちょっとなーと思う。 最近よく見る総理大臣をバカだのアホだのいうのも、ちょっとなーと思う。 自分にとって遠い存在だから悪口言っていいとか思ってるのであれば、それは本当に卑しい考えだと反省した方がいい。 死ねなんてもってのほか。自分が言われた事を考えたらわかるだろうに。
少なくとも年を取ると偏屈になりがちだ。 出来るだけネガティブな文章を読まずに年老いていきたいと思う事が 贅沢な望みになりそうな気がして、なんだかイヤーな気分になったのだ。
そう思ってからSNSはあまり見ないようにした。
私がインターネットを始めて20年近くたつが、その間 テキストサイト〜ブログ〜SNSとコミュニケーションツールは大きく変化した。 またその変化が起きる事を願って、今はタイムラインを捨てて街に出るとしよう。
今年に入ってから、とても気分が落ち込んでいる。 家にいる時は快適だしあまりアップダウンが無いのだが、ちょっと外出するだけでヘトヘトになってしまう。なので一人で遠出が出来なくなってしまった。
40代に突入して、年々無理が効かなくなっている。 まだ人生半分しか経ってないのに、もう実感するとはなー。
というか、私の人生振り返ってみると実はすごくハードだったのでは?と思う。 競争に揉まれ、自分のアイデンティティをぶったたかれ、ヘトヘトになってた。 それを今になっていい思い出だったと、身体の衰えで感じたくないなあ。
筋肉がほぼ無くなってしまっているので、ジムにでも通わなくては。
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