■ 腰痛日記 ■
ケイの10年にわたる痛みの治療体験を少しずつ書いていきます

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2004年09月26日(日) 感じる(かんじる)

::::::: 『生きるヒント2』 ::::::::
― 今の自分を信じるための12章 ―
五木寛之 著

【第三章 感じる】


「肩が異常にこるというのは、なにか体が訴えているんじゃないかと思うんだよ。つまり、無理をしすぎているとか、睡眠が足りないとか、心労が多すぎるとか、その他いろんなことを体が本人に伝えようとしている。体は常に信号を発して自己とコミュニケーションしようとしているんじゃないか。いろんな予兆というのは、体が発する信号なんだ。それを感じる能力がないってことは、本当は困ったことなんじゃないかの思うね。彼は体の発する言葉を聴く耳を持たないらしい。一種の不感症なんだよ。ぼくは医師として、そういうタイプが必ずしも幸せとは思わない。こんな時代に生きていて、肩こりを感じるほうが自然なんじゃないか。きみは少し気をつけたほうがいいと思うね」

そのときの皆の喜びようといったらありませんでした。ドクターはきっとぼくをからかおうとして、そんなことを言ったにちがいありません。その証拠に、彼自身も愉快そうに大笑いしていたのですから。

しかし、ぼくはその日、なにかとても重要なことを教えられたような気がしたのです。ドクターの言葉にはジョウクではない、ある真実があると感じたからでした。

<体が自分に話しかけたがったいる>

というのは、おそらくとても曖昧な言い方です。しかし、なんとなく正しい考え方のような感じがする。

<体が発する信号>

<体がコミュニケートしたがっている>

<体の言葉を聴く耳をもたない>

それぞれに漠然とした表現ですが、たしかにそうだ、とぼくを感動させるものがそこにありました。

体はいったい誰にむけて話しかけようとしているのか。それは<自分>です。では、<自分>とはなんだろう。体とは別に<自分>というものが存在すると考えていいのだろうか。

体を離れて自分というものがありえないことは確かだが、それでは体イコール自己と言い切ってしまえるものかどうか。

<自分>とは何かを考えるためには、<自分でないもの>のことを想定してみなくてはなりません。

この<自己>と<非自己>を考える上で、これまで最もくっきりした答えを出してくれていたのは、医学上の<免疫>という考えかたでした。体内における<自己>と<非自己>を排除する体のしくみ、と、ぼくたちは簡単に理解していたからです。

しかし現在では、<免疫>に関して、それほど楽天的に割り切って考えることはできなくなってきているらしい。<免疫>に限らず、生という営みは常に諸刃の剣なのです。

<罪業深重のわれら>というふうに人間を認識したのは、今から八百年も昔に生きた親鸞という宗教家ですが、人間を光と同時に闇とも向きあっている存在であることに、化学もようやく気づきはじめているのかもしれません。

― 中略 ―

感じる、ということは、とても大事なことの様な気がします。肩こりでさえもそうなんじゃないでしょうか。肩がパンパンにはっていても、それをぜんぜん感じない人は、体の声を聴く耳をもたない人かもしれません。かつてのぼくがそうであったように。

さて、そんなわけで、最近はすこし自分が進歩したように思っていたのですが、困ったことが出てきました。感じる能力が回復したせいか、最近やたらと肩がこるのです。感じ過ぎるのも楽じゃありませんね。やれやれ。


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2004年09月24日(金) 歓ぶ(よろこぶ)

::::::: 『生きるヒント』 ::::::::
― 自分の人生を愛するための12章 ―
五木寛之 著

【第一章 歓ぶ】

ところで、<よろこび上手>とは逆に、もうひとつ、<よろこばせ上手>というのがあります。昔、ある女性作家と対談したとき、その人がおもしろいことを言いました。

「わたし、寝る前に鏡にむかって、自分の体のあらゆる部分をひとつひとつ触って、ほめてあげることにしてるんです。指なら指、肩なら肩、おなかならおなか、やさしく触って、きょうは一日ごくろうさま、あなたはとてもよくやってくれたわね、とてもえらいわ、ってほめてやるんです。そうすると体の細胞のいろんな部分が皮膚で下でプチプチッて音を立ててよろこんでいるのがわかるんですよ」

その作家はどことなくシャーマン的な風格のある女性でしたから、そんな言葉を妙に実感を持って聞くことができました。

皮膚の下の細胞がプチプチッとよろこぶ、なんて非科学的な表現も、それほど不自然ではないんですね。

ひょっとしたら、本当に細胞がよろこんで生き生きしているのかもしれない。

いま、科学はゆっくりと大きく転回しつつあります、デカルト的な精神から、さらに古代の自然と科学のかかわりを求める学問へと変化しつつありるらしい。

かつて宗教が医学の渾然一体となってむ結びついていたことは、次回にお話したいと思います。

私たちはいま、あらたな心と体のむすびつきについて考えはじめようとしている。

肉体がほめられることによって変化するなどということは、これまでは常識ではありませんでした。しかし、人間の心のありようで、人の抗体や免疫作用が変化するということも事実であるらしい。現にストレスから生じる病状については、みなさんもご承知のとおりです。

― 中略 ―

柳田国男は。「人をアミューザンするもの」が大切だと言いました。そして、疲れてとぼとぼと歩いていく人に、だまって野の花を一輪さしだすような心持が、日本文芸の伝統である、という意味の発言もしています。「慰藉する文芸」という表現もつかっています。

それもこれも、人が生きるということの苛烈さ、大変さを知りつくしているからこその言葉でしょう。

私たちは、よろこびをもって生きたい。それを持っているだけではなく、自分からさがし出すことに慣れなければならない。どんなにつまらないことであってもいい、それをきょう一日の収穫として大事にしたい。
<よろこび上手>こそ苦しい世に生きてゆく知恵なのだ、とぼくは自分の体験から思うのです。


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でね、前の所有者がとても勉強家だったようで
あちこちにメモ書きが残ってます

たとえば、上の文章の中の
『慰藉』→なぐさめ、いたわること

また別のページには
『アナキスト』→無政府主義者

『ヒッピー』→
既成の社会生活を脱し物質文化を否定
「自然に帰れ」をスローガンとする若者の集団
長髪や型破りな服装が特徴





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おまけに前保有者の解説つきです
とっても得した気分でしゅ(^.^)



2004年09月16日(木) ストレスをつま先から出す

今朝新聞を見ていたら
最近、マツケンサンバではじけている
歌って踊る“上様”松平 健
のインタビュー記事が載っていました

Q&Aの中で


ズバリ健康の秘訣は?


ストレスをためないこと
“ウォーキングはつま先からストレスが出ていく”
と言いますからね



ストレスってつま先から出て行くのかぁ

先日広島に行ったとき
強い痛みはほとんど出なくて
センセに
「ダーリンとビールが一番痛みに効く薬なんだね」
と冷やかされました

気の合う友達と飲みに出かけたときも
痛くないんだよねぇ^_^;

非日常が悪循環を断ち切るのかなぁ
なんて思ってましたが・・・

私の場合
【 歩く + おしゃべり 】
が良いように思います

飲みに行く時もバスを使って結構歩いたし
ダーリンといると「散歩に行こう」とよく誘われます
彼の場合は歩いていると
モヤモヤごちゃごちゃしている
頭の中が整理されていくそうです




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2004年09月08日(水) 抱えて生きる

昨日書いたエッセイ集のなかに
もういっこ腰痛のことが書かれていました


:::::::::『ここの天気図』:::::::::
― 抱えて生きる ―


半年ほど前、突然、腰痛がおそってきた。朝、ベッドの中で、腰部に異様な激痛を感じたのだ。上体をおこそうとするが、腰が痛くておきあがることができない。寝返りを打つことさえ苦痛なのである。

「またか」

と憂鬱になった。ずっと以前に腰痛では散々な目にあっている。四十代の半ば頃のことだった。夜も昼もなく机に向かって原稿ばかりを書いてた。足を使って歩くということが、ほとんどない暮らしだった。車で移動し、時には自分でハンドルをにぎって、東京・大阪間を一日で往復したりもした。そんな生活をなにか時代の先端を風を切って疾走しているかのように錯覚していたのだろう。

そんな時期に最初の腰痛があらわれたのだ。それはひどいものだった。朝、顔を洗うために洗面台にむかっても、腰を曲げることができない。もちろん、しゃがむこともまったく不可能である。そのくせ長い間すわっていることも苦痛なのだ。

タクシーなどに乗ると、目的地へ着いて自分でたちあがることさえできない。うしろから腰を押していると少し楽なので、いつもベルトの背後に文庫を一冊はさんで暮らしていた、

もちろん、あらゆる手をつくして腰痛退治につとめた。外科手術だけは避け、そのほかのすべての治療をためしてみる。だが、腰痛を親の敵のように憎んで敵意を燃やしても、どうも無駄らしい、と、やがて気づいた。そして歩くこと、体重をへらすこと、車の運転を控えることなどにつとめ、やがて腰痛はしだいにおさまっていった。

それから今回、再度の腰痛の訪れである。しかし私はそれほど不安でなかった。人はうまれながらに腰痛を抱えて共に生きるのだと、自分で覚悟していたからである。

そして今、二度目の腰痛はおだやかに私の体に奥へ戻っていこうとしている。


::::::::::::::::::::

執着を手放す、痛みを手放す
書くと簡単ですが・・・なかなかね^_^;

「手放す」ことができないとき
いっとき「抱える」時期も必要なのかも?




不安さえなければ↑(投票ボタン)
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2004年09月06日(月) 膝を屈すること


先週の土日広島へ行って来ました
片道4時間強掛かるのですが
久しぶりにゆっくり読書することができました

行きは古本屋で購入した
『誰か・・・』宮部みゆき 著
いっきに読んでしまった^_^;

帰りはダーリンのアパートに転がっていた
文庫本を何冊か拝借してきました


:::::::::『こころの天気図』::::::::
― 膝を屈すること ―


喫茶店で雑談をしていた相手が、急に中腰になって、テーブルの端を両手でわしづかみにしたので驚いた。見ると顔が引きつっている。発作でもおこしたのかと気遣うまでもなく、ハックション!と大きなくしゃみをした。

ほっとした表情で座り直した彼の話を聞いて、ようやく納得がいく。以前ギックリ腰をやったことがあって、それ以後も油断すると厄介な事態になるのだそうだ。うっかりくしゃみをした瞬間、例の「魔女の一撃」とやらに襲われるケースが間々あるらしい。そこでくしゃみが出そうになると、急遽、近くの手すりや椅子の背などにつかまって中腰の姿勢をとるのだという。

満員電車のなかで、くしゃみが出そうになり、反射的に前の中年婦人の腰に両手でつかまって、おそろしい顔でにらまれたことがあったそうだ。そのときは不思議にくしゃみが途中でひっこんだというからおかしい。

ギックリ腰にかぎらず、近ごろ腰痛を訴える男たちが馬鹿に増えてきた。サラリーマンなどにことに多い。どうやら腰痛は平成の国民病となりそうな気配である。

これに処するには、発想の転換しかないというのが私の意見である。二足歩行をはじめたときから人間は腰痛を宿命づけられたいる。したがって人類はすべて腰痛持ちである。

そう考えれば、腰痛に完治はないという結論に達する。手術をしようが、牽引しようが、鍼灸にたよろうが、気功、カイロ療法を選ぼうが、腰痛を根本からとり去ることはできない。できることは一つ、腰痛を出さないように飼い慣らして生きることだけだろう。

そう納得したときから、二十年間悩まされた私の腰痛はおとなしくなった。
ヒントは「膝は曲げるためにある」という古人の言葉である。腰は折るが、曲げない。膝はできるだけ深く屈する。魔女の一撃も、日常の困難も、膝を屈してやり過ごすしかないのだ。

これも濁世に生きる知恵というべきか。


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彼も腰痛持ちだったのね

「膝を屈する」とは
「屈服する」と言う意味もあります
腰痛に屈服したわけではないでしょうが
治療に対する拘りを捨て
良い意味で開き直ったときに
痛みは去っていったようですね(*^_^*)


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