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医師への信頼

2004年06月30日(水)


前にも書いたかもしれないけれど、私は「先天性股関節脱臼」で生まれた。
しかもそれがわかったのが、一ヶ月検診の時。
当時母は「どおりで、よく泣く子だと思った」そうだが、
当たり前だよね、きっと痛かったんだよね。
それから数ヶ月、両足ギブス。
1か月放っておかれたせいかわからないけれど、当時としては、
重症の部類に入ったらしい。

その時、治療してくれた整形外科医T先生は、伯父の高校時代の後輩で、
従兄弟の家庭教師でもあり、家族ぐるみの付き合いだった。
T先生の病院は、横浜にあるため、その後、私が怪我をして直ぐに
見てもらったのは、横浜の祖母の家で、従兄弟達と遊んでいて、家の中で
転び、肘を廊下について、骨折した時だけ。
動作はキビキビしているのに、優しくて、幼い私が、何処がどのように
痛いのか上手く説明できなくても、最後までちゃんと話を聞いてくれた。
怪我の絶えない私だったが、父の仕事の関係でアチコチ引越ししていた
ため、怪我直後に直ぐに診察して貰うわけにはいかなくなったが、
それでも、最後には、T先生のところで見て貰っていた。
T先生に「もう大丈夫、治ったよ」と言われると、安心したから。

結婚して、子供を2人生んで、肋骨を骨折した意外は、大した怪我もしなく
なり、すっかりご無沙汰していた。
子供達が幼稚園に通園するようになり、私にも平日少し時間が出来た時、
テニススクールへ通い始めた。
通い始めて数ヶ月、テニスをした翌日は、腰が痛い。
最初は、1日休めばその腰痛も治ったが、段々と治りが悪くなっていった。
そのうち、腰痛だとばかり思っていたのが、股関節の痛みだと気がつき、
近くの整形外科医で診察を受けた。
その時の診断が「前変形性股関節症」・・・異常とはいえないけれど、
正常ではない。
これから、一生涯、要観察が必要だという事。
その医師に「先天性股関節脱臼の治療は何処で?」と問われ、
「横浜のT整形外科で・・・」と答えると
「あ・・・T先生ね。だったら、此処で見るより、T先生に見て貰った
方が確かだ。」
こうして、再び1年に1度T先生の診察を受ける事になった。

ところが、普段日常生活で痛みがないと、この患者、1年に1度の検診を
さぼる。
今住んでいる近くに専門が「変形性関節症」という整形外科もできた。
前回股関節と膝に痛みが出た時は、この整形外科医で診察して貰い、
理学療法に通った。
元々この病気、悪くなる事はあっても、よくなる事は無い。
対処療法で痛みを取るしかないわけだが、理学療法に1ヶ月通い、
痛みがないような、あるような・・・
段々さぼりがちになったが、そうこうしているうちに痛みも消えていた。

それが、1週間ほど前から、左支障をきたし、ビッコ状態。
火曜日、我慢出来なくなって、久しぶりにT先生の診察を受けた。
最悪の場合、数ヶ月の入院が必要となる。
厭だナァ~今入院する事になるのだけは・・・
何時になく不安な思いを抱きながら、待合室で順番を待っていた。
レントゲン前の診察で、やっぱり左股関節の動きの悪さを指摘された。
それに、膝の痛みもズバリ言い当てられた。
直ぐに、レントゲン検査、何時もより枚数が多い。
レントゲン写真を観ながらの説明。
「大腿骨頭への被りが浅いため、関節軟骨の形が綺麗ではなく、部分的に
変形も見られ、骨硬化(レントゲンでは白く見える)も多少見られるけど
数年前の写真と変化はないので、今のところ、このまま日常生活を続けて
いても大丈夫」とのこと。
この診断、「数年前の写真とは変化はないので」という箇所を抜かせば、
近くの整形外科医に言われたのと同じだった。
でも私にとっては、同じ診断でもT先生がそう言ってくれただけで、
重みが違うのだ。
横浜までかなりの遠出だったにもかかわらず、昨日から股関節の痛みは
殆ど感じていない。

最後に釘をさされたけど・・・
痛みがなくても定期的に検査にくる事と少なくても5㎏の減量。
痛い思いして、人工関節になりたくなかったら、ちゃんと守れ!って。







「愛し君へ」最終話

2004年06月29日(火)


「オレンジディズ」と同じように、今クール欠かさず見ていた「愛し君へ」の
最終話。

四季が流産した事(前回、妊娠がわかった時点では「エッ、何時の間にか
そういう関係だったの?」って思ったけど)
俊介の元婚約者と結婚するという嘘が、四季にわかった事。
四季が長崎に帰った俊介に会いに行った事。
何も知らない俊介が四季を一度は撥ね付けた事。
四季の上司にあたる降谷が長崎を訪れ、俊介に全てを告げた事。
「好きだから別れた」二人が「好きだから別れる事が出来なかった」事。
俊介にその日が訪れた時、隣には四季がいた事。
俊介が最後に見たものは、四季の笑顔だった事。

ストーリー的には、予想通りだった。
それでも、涙なしには見る事が出来なかった。
お互いを思いあい、お互いを必要としている二人の思いが通じ、本当の意味で、笑顔を取り戻した事に、テレビドラマだとわかっていても、安堵せずにはいられなかった。
地味だけれども、心の奥にしみじみと響いてくるドラマだった。

「ただ、彼と一緒に過ごす時間が楽しかっただけ」
「どんな人生にも行き止まりはなく、道は続いている。前に進めば、必ず、
道は開けている」

原作は、「解夏」(さだまさし著)
但し、ベーチェット病で失明する主人公とそれを支える恋人や周りの人々と
いった設定以外は、内容は違う。
「解夏」は、仏教用語である。
古来、禅宗の修行僧は、師を求めて各寺院を行脚し、托鉢し、修行を積んでいるが、夏の90日間は「庵」に集まり、共同生活をしながら座禅をする“雨安居”と呼ばれる修行をし、それが終わると再び行脚へ旅立って行った。
この修行の始まる日を「結夏」といい、終わる日を「解夏」といった。
作品では、主人公の男性が失明するという恐怖と戦う行の中にいて、やがて、失明する瞬間には、その恐怖から解き放たれる・・・その日が彼にとっての「解夏」なのである。


ハリーポッター

2004年06月27日(日)


土曜日に公開がはじまった「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を見てきた。
今までは、前評判の高い映画、注目されている映画は、混むといけないから、初日に行った事はなかった。
場合によっては、自分が予定していた時間に見れなかったことも多い。
私がよく利用する映画館は、前もってネット(or携帯)で、席を予約できるサービスが始まったので、それを利用してみた。
当日、機械で発券するのだけど、まだそのサービスが知れ渡っていないせいか、発券する機械も、並んでなくて、楽だった。

さて、映画の内容は、まだ見てない人のためにも此処では触れない。
「ハリー・ポッター」ファンの息子に影響されて、過去1・2作も映画館で見たが、3作目、校長役が変わろうが、監督が変わろうが、作風自体が変わるわけではなく、魔法学校が懐かしかった。
今回一番「へぇ~」って思ったのは、主役の3人の成長。
各々魔法学校に在籍している13歳の少年少女という設定で、ハリー役のダニエル・ラドクリフが14歳、ロン役のルバート・グリントが15歳、ハーマイオニー役のエマ・ワトスンが13歳なので、そんなに違和感が無い筈だけど、この時期の少年少女の成長は著しく、スクリーンの中の彼らは、凄く大人びていた。
ハリーを中心に彼らの成長が描かれているのだから、それは当然の事なのだが、逆に初々しさは減少した。
危険いっぱいでありながらユーモアいっぱいの魔法学校の見学時間は、ハラハラドキドキしながらの2時間20分、私は楽しく過ごせた。

ところが・・・
原作を既に読破してから見に行った息子は「物足りない」という。
長い原作を限られた時間内に映画化するのだから、原作に書かれたものを全て描ききるわけにはいかない。
それでも、息子は、カットされてしまっているのは、大事な場面だったのに、と残念がっていた。
今私の手元に原作がある。
息子が「絶対に原作の方が面白いから読んでみて」と置いていった。


オレンジディズ 最終話

2004年06月21日(月)


 初回を何気なく見て、最終回まで一度も欠かさずに見ていた「オレンジディズ」
 毎回胸キュンとする場面もあったし、素敵だなと思う台詞もあって、引き込まれていった。
 主人公の2人だけでなく、「オレンジの会」を見ていると、2度とは戻って来ない青春時代の自分に
 重なった。
 只、時々見え隠れする「愛していると言ってくれ」の影。
 同じ脚本家(北川悦吏子)だから、ある程度仕方ないかと思ってみたいた。

 でも、期待した最終回。
 ストーリーも今まで楽しんできた台詞も簡単に予想が出来てしまうものだった。
 紗江がドイツに立つ前に見た櫂と真帆の事は、紗江の誤解だという事、櫂の本当の気持ちを真帆
 から聞いた事、ウェディングドレスや指輪まで用意しながら、ドタキャンする紗江の結婚、
 戻って来ない筈だった卒業式に戻ってきた紗江、オレンジノートを発見する事によって、
 その事を知り、探し回る櫂・・・。
 何より、宝石店から出てきた櫂を見つけた紗江が彼を呼び止める為に発した声、
 卒業式の日、2人が再会する場面。
 単に男女が入れ替わり、リンゴがオレンジに変わっただけで、何ら「愛していると言ってくれ」
 と変わらなかった。
 そして、エンドロールの後に一緒に暮らしている2人、出かける櫂に「行ってらっしゃい」と声を
 かける紗江。
 「感動した」と見る人もいるだろうが、一度覚めた目で見ると、4年前まで健常者だった紗江が
 幾ら耳が不自由になった以降、話すことをやめ手話だけの会話になったとはいえ、あんなに
 ぎこちない発音であることさえ、おかしく感じてしまった。

 最終話・・・時間を延長したまでやる必要が何処にあったのか・・・。
 
 未だに「愛していると言ってくれ」をビデオで見たときの方が胸キュンするのよねェ~・・……(-。-) ボソッ
 
 

 


於岩稲荷

2004年06月15日(火)


 新宿区にある四ツ谷警察署の大通りから裏に入ったところに「於岩稲荷田宮神社」がある。
 この神社、有名な「四谷怪談」の由来となっている場所であり、怪談ものを扱う芸能関係者が必ず
 お参りに訪れる名所でもある。

 「東海道四谷怪談」は、江戸時代後期の歌舞伎脚本作者、四代目鶴屋南北の作で、江戸に暮らす
 浪人,民谷伊右衛門は、元赤穂藩士の浪人だったが、吉良家の家臣の娘「梅」といい仲になり、
 婿入りすれば再就職できると、お岩に毒を盛って殺してしまい、新婚の夜からお岩に幽霊に祟られ、
 あげくはお岩の妹お袖の夫である佐藤与茂七に、主君の仇討の裏切者として討たれるという、よく
 知られた怪談話です。
 何時の世も、全く男は、浮気性なんだからぁ~。
 女を怒らせると怖いよ~


 ところが、この「於岩稲荷田宮神社」に祀られている「お岩さん」は、かなり違う人のようです。
 神社の説明書によれば、
 幕府の御家人田宮又左衛門の娘お岩さんは、養子伊左衛門の貞淑な妻であり、美人で働き者で、
 代々家に伝わる稲荷を篤く信仰していたといわれています。
 ところが禄高は少なく台所はいつも火の車だったのですが、お岩さんが稲荷を篤く進行していたお陰
 で、田宮家は以前の盛んな時代に戻る事ができました。
 このお岩さんにあやかろうとしてお岩稲荷の信仰が盛んになり、それからは「於岩稲荷」「四谷稲荷」
 「左門町稲荷」などと呼ばれ、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神と
 してますます江戸の人気を集めるようになっていました。
 
 でも、実は、もう一人「お岩さん」がいたのです。
 それは田宮神社でお祀りされているお岩さん(1636年死去)から5代目の人で、下級武士田宮又左衛
 門の娘のお岩さん。
 大坂出身の浪人伊右衛門を婿に迎えたが、伊右衛門の上司にあたる伊東喜兵衛が妊娠した妾を
 伊右衛門に押し付けるためにお岩を離縁させました。
 あとから事実を知ったお岩は狂乱したあげく、行方知れずとなりました。
 そののち田宮家は変死者が続出して断絶。
 ここで、一旦田宮家は血筋が絶えますが、後に、近親者がお岩稲荷を建てました。
 この「お岩さん」が「東海道四谷怪談」のモデルになったようですが、実はこの女性の名前は不明
 のようです。
 其処で初代のお岩さんの名前だけ借りたのではないか・・・と、言われています。

 さて、「於岩稲荷田宮神社」は、都指定旧跡となっていますが、この神社の真向かいに
 「於岩稲荷陽運寺」があり、本家・元祖と競ってさえいます。
 「於岩稲荷田宮神社」は都旧跡に指定した案内板を立てているのに対し、もう一方の「於岩稲荷
 陽運寺」の方は、これに負けじと盛沢山の飾りつけがしてあります。
 こちらの方が広く、おみくじがあったりしますが、何故か「縁結びの神・縁切りの神」の旗が並び
 立っています。

 ご多分に漏れず、私も「おみくじ」を引いてみましたが・・・(;^_^A


 






仕事の分担

2004年06月14日(月)



20年以上前の話だけど、私が仕事をしていた頃、勤務先のボスに言われた言葉で、
「最初から無理だと思ったら、仕事を全部一人で引き受けない事。」っていうのがあった。
つまり「自分の能力を見極めて、仕事を分担しなさい」という事だ。
安易に一人で引き受けてしまい、期限に間に合わずに最後になって、皆に手伝って貰うより、最初に「全部は出来ない」と言うなり、引き受けた仕事を他の人にも分担すればよいのである。
これは一見仕事に消極的で無責任のように思われるが、自分の分以上の事を引き受けて、最終的に皆に迷惑をかける方が、よっぽど無責任なのだ。
勿論、仕事に慣れや自分を磨く事によって、自分が出来る仕事の範囲が広がっていく事は言うまでもない。
社会に出て仕事をするという事から離れて20年たつが、最近ふとこの言葉を思い出した。

これは、昨年4月にNotebookに書いたもの。
今、この事は、例えば「○○会」のようなその仕事がボランティアだと当て嵌まらないという事を痛感している。
「誰かがしなくてはならない仕事」なのは、同じでも面倒だったりすると、分担したくても、誰も引き受けない。
中には、嘘を吐いてまで、引き受けようとしない人間もいる。
結局、「自分の能力以上」のものでも「自分には向いてない」と思っても、無理をしてやってしまう。
そう言いつつ、今も期日に間に合うように、会報作りをしている。

本当は、私一人が、この会をやめてても、代わりは沢山要る筈なのである。

それがわかっていてもやめられない・・・。


Kさん

2004年06月07日(月)


 関東地方が、梅雨入りする数日前、Kさんが、突然HPを閉鎖して、気侭な旅に出た。
 最近、日記の更新が途絶えがちだったから、「忙しいのかな」とは思っていたが・・・
 某サイトで知り合って2ヶ月間足らず、主を失ったサイトのトップ頁には、彼の置手紙のように、
 「あ・り・が・と・う」という言葉と共に、挨拶文が残っているだけだった。
 本当は、私の方が「ありがとう」と言いたいのに、其処に、彼はもういなかった。

 彼の日記、所謂「今日~した」というものではなくて、短いものだったが、好きだった。

 掲示板での遣り取りも楽しかった。
 彼のレスは、私が思いも及ばない事を書いてきた。
 それだけに、どんなレスをつけてくれるのだろう・・・ と、ワクワクしていて、時には、悪戯もしてみた。
 お互いによく知らないという気安さもあって、思わず、本音が書けてしまう空間だった。
 掲示板の中で、その時に応じて、色々な言葉を貰った。
 彼独自の言葉だったり、何処からか引用したりしながら。
 それが、私のその時の心情に嵌って、心地よかった。

 今、彼は、「帰る家を失った旅も気楽でいい」と気侭な旅を続けていると言う。
 もし、気侭な旅の途中で、気が向くことがあったなら、時には、私のところにも風を送り込んで
 くれればいいな・・・と思っている。
 
  


熟女映画が流行る?

2004年06月06日(日)


 熟年の女優が活躍する海外の映画が相次いで公開され、注目されているようです。

 「カレンダーガールズ」は、イギリスの田舎町の婦人会のメンバーが、夫を亡くした友人を
 力づけようと自分達のヌード写真をカレンダーにして売り出した実話を映画化したものだそうです。
 「永久の語らい」では、カトリーヌ・ドヌーブなどの往年の名女優が、人生観や恋愛感を議論しあう。
 「スイミング・プール」の主人公は、シャーロット・ランプリングがミステリー作家として、主演。
 「イザベル・アジャーニの惑い」は、フランスの女優イザベル・アジャーニ魂の演技が光る映画。
 
 これらの映画、「カレンダーガールズ」は、58歳、「永久の語らい」は、60歳と75歳、「スイミング・
 プール」では、58歳、「イザベル・アジャーニの惑い」は、48歳の女性が主人公。
 
 今までのヒロインの3大要件は「若い・美しい・性格がよい」だったらしいが、そうではない女性も 
 美しく素敵だという価値観が熟してきて、年齢を重ねる事によって滲み出てくる人生観や生き方
 にも、特に女性の共感を呼んでいます。
 それは、映画の中に限らない事で、現実の社会でも中高年の女性達が頑張っているといるのです。
 私の身近やネット友の中にも私と同年代の女性達が、色々な場所で、色々な立場で活躍して
 います。
 その時、彼女達は、生き生きとしていて、きっと若い頃とは違った意味で美しく輝いているので
 しょう。

 その姿は、同年代の私にとっても、とても励みになり、そして、自分自身もそうありたいと思います。
 私の人生の主人公は他の誰でもなく私自身でしかあり得ないのですから。。。
 
 
 
 
 
 


曽我さんの真意

2004年06月04日(金)


 小泉首相が再訪朝したのが、5月22日。
 この時に、他の拉致被害者の家族と共に、日本へ来れなかった曽我ひとみさんの夫ジャンキンス氏
 と曽我さんとの再会が決まったのに、未だに場所も時期も特定出来てない。

 日朝首脳会談後の小泉首相の記者会見で、「第三国、例えば中国の北京で、家族が会う」事を
 外務省を通じて曽我さんに確認した、と述べている。
 しかし、この時、「北京」という都市名を出したのか、只の「第三国」と言ったのか定かでない。
 しかも、曽我さんには、ジャンキンス氏が首を縦に振らない以上、それしか道はなかったのである。
 それなのに、曽我さんの意向を確かめもせずに、外務省を中心に政府内では最有力候補として
 北京を推す声が多く、川口順子外相も22日の日中外相電話会談で中国側に協力を求めたという。

 しかし、彼女は、早い時期に、意向を聞かれた自民党の安倍晋三幹事長に北京拒絶を伝えた。
 また、26日には、中山恭子内閣官房参与は、広島県尾道市での講演で、曽我さんが「第三国」に
 ついて米国と犯罪人引き渡し条約を結んでいないことを挙げるとともに、
 (1)北京は北朝鮮と近すぎて怖い(2)英語圏が望ましい(3)北朝鮮から直接電話やファクスが
 入る面会場所は困る--と伝えてきていることを明らかにした。

 その後30日に、杉浦正健官房副長官と中山参与が、曽我さんと面談し、北京以外にも複数の再会
 候補地を提示した。
 曽我さんは具体的な場所について言及しなかったが、「政府が責任を持って静かに一家が安心して
 話し合えるようにしていただけると信じ、お願いしたい」と希望した。
 この後の、記者会見で杉浦官房副長官は、「曽我さんの意向を十分聞き、信頼関係ができた、
 曽我さんは北京を拒絶していなかった。あれは、中山参与が言っていただけ」と述べ、
 曽我さんが「北京容認」したかのように記者団に説明した。
 
 しかし、「一家が安心して話し合える」のに、北京が果たして、相応しいのだろうか。
 元々北京は金正日総書記が提案した場所、それに、表立って反対すれば、北にいる家族へ影響が
 あるかもしれないと心配したからではないか。
 現に、同席した中山参与は「曽我さんは言外に北京以外と伝えようとしていた」と言っているでは
 ないか。
 案の定、翌31日には、曽我さんが、佐渡市の支援室を通じ「できれば北京以外で再会したいと
 思います」との談話を発表した。
  同じ拉致被害者である蓮池薫さんも「われわれみたいに北朝鮮に拉致された立場から考えると、
 (北朝鮮の)近くに行きたくないというのは当然のこと」と言っているが、曽我さんが、「北京は厭」
 という言葉を出さなくても、何故察する事が出来なかったのか。
 想像力の欠如、無神経さにに唖然とするしかない。
 その上、外務省の幹部には「中国に対しても失礼だ」と、不快感を示すものもいると聞く。
 この際、中国の思惑など関係ないではないか。
 元々、曽我さんの意思も確認せずに、中国側に協力を要請したのは、外務省であて、曽我さんに
 責任はない。
 自分達が行った行為は、自分達で、責任を持って、対処すればよい事である。
 
 





ある小学校の運動会

2004年06月01日(火)


 子供達の卒業した小学校の2年生に、足の不自由な男の子K君がいます。
 5人兄弟の4番目の可愛い男の子。
 腕の力で少しなら立つ事が出来るので、歩行補助器を利用しているのです。

 その小学校のOB会の役員をしている関係で、先日運動会を見に行きました。
 K君は、見学しているのではなく、運動会にちゃんと参加していました。
 勿論、全てが皆と同じように、とは、いかないけれど、自分の出来る範囲で、精一杯に。
 そして、K君が自分の力では、どうする事も出来ないところからは、友人達が手を貸すのです。
 全校ダンスでも、彼は、皆の輪の中に入って、上半身だけで、楽しそうに踊り、移動するところでは、
 友人が歩行補助器を押していました。
 それが、とても自然なのです。
 ちょうど、ダンスの音楽が終わった時、K君は私の目の前にいたのですが、その時、K君は
 自分に手を貸してくれた友人たちに「ありがとう!」と言っていたのが、聞こえました。
 
 お昼休み、ふと校庭を見ると(私達は校長室で昼食をいただいていたので)、K君は、
 ご家族と一緒に、美味しそうに昼食を食べてました。
 今年は、お父さんが単身赴任中なので、お父さんの姿は、見えませんでしたが・・・
 昼食後、K君の周りには、お友達が集まってきていました。
 その輪の中で、K君の顔から、笑顔が絶える事はありませんでした。

 勿論、K君にも苦しい事も悲しい事も辛い事もあるでしょう。
 でも、今の笑顔、忘れないでいて欲しいと、思います。

 
 
 
 
 

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