rokoのNotebook


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代理母出産

2004年01月31日(土)


 人各々事情も違うし、価値観も違う。
 当事者が納得し、環境が整うのであれば、第三者がとやかく言う事ではない。
 
 ちょっとだけ、感じた事を書いてみよう。
 
 自分達が決めた決断を最後まで責任を持って欲しい。
 結婚がゴールでないのと同じように、出産はゴールではなく、スタート。
 人間一人育てるという事は、楽しい事や嬉しい事ばかりではない筈。
 子供が成長する段階で、何時も子供と心が繋がっているとは限らない。
 どんな状況になった時でも、決して後悔だけはして欲しくない。

 もう一つは、生まれてきた子供の事。
 何時の日か事実を知った時、自分には2人の母がいるんだって受け入れ
 る事が出来るのかな。
 もし、自分が子供の立場だったらって考えると、怖くて代理母出産は、
 出来ない。

 そして、私は、どんなにお金を積まれても代理母にはなれない。
 自分の血を分けた子でなくても、自分の体内の中でずーと育ててきたのに、
 渡しちゃう事なんかできない。
 どんなに家族ぐるみでって言われたって、やっぱり自分の手元で育てるの
 とは違う。


関東風? 関西風?

2004年01月27日(火)


  大学時代に、岡山出身の友達は、学食で絶対に口にしなかったのが、
  おうどん・おそば類。
  「色が気持ち悪くて食べる気がしないもん」って言うのが彼女の言い分。

  関西は薄味(しっかりお出しの味はついているけど)、関東は濃い味(お醤油味)
  って言われていますね。
  昨夜、何気なく見ていたテレビ番組で、その境界線をはっきりさせようという試みを
  していたの。
  関東出身のタレントと、関西出身のタレントの2人が、東海道新幹線の停車駅
  のホームにある立ち食い蕎麦屋で試食して、お汁を貰って小さなビンに入れ、
  色を比べる。

  先ず東京のお汁の色は、こげ茶色、新大阪のお汁の色は、黄色。
  それに、メニュー表示が東京では“そば・うどん”なのに、新大阪では“うど
  ん・そば”なんだって。
  私はどちらかと言えばうどんの方が好きなんだけどネ。

  東京を出発して、浜松駅で既に多少お汁の色が薄めになって、豊橋駅ではメニ
  ュー表示が“うどん・そば”。
  ではお汁の色はっていうと、思いっきりこげ茶色に戻った・・・っていうか、東京
  よりも濃いかも。
  お店のご主人曰く
  「名古屋は味噌カツや味噌煮込みでもわかるように、結構濃い味の方が好まれ
  ます」との事。
  同じ愛知県でも次の名古屋駅では“きしめん”が主流だけど、まだ関東風だと
  の話です。
  (何しろ、2人のタレントは食べているけど、こちらは、見ているだけだモン
  ね。)

  ところが、次の米原駅では、完全に関西風。
  関西出身のタレントは「美味しい〜」って言うし、関東出身のタレントは「薄
  い〜」って言っている。
  2人は境界線を探すべく、在来線に(東海道本線)乗り換え。
  同じ愛知県でも尾張一宮駅。
  お汁の色も東西の中間色のベージュ色だったし、東西両方のタレントともに
  「美味しい〜」って納得したお味にぶつかりました。

  この番組で乗車した電車も限られているから、これが全てっていうわけではな
  いけれど、この番組なりの結論が出たようです。

  見ているだけの私としては、おうどんが食べた〜い!
  今日は寒いし、お昼は煮込みうどんにする事にしました。

  ハイ、勿論
 関東風 でーす。
    

  


天国からのお年玉

2004年01月13日(火)


      亡くなった義母から、毎年私にお年玉が届きます。
      って言っても、勿論ツレが相続した分から渡されるのだけど・・・

      このお年玉、最初は何時だったかなぁ〜
      義母が作るおせち料理は、黒豆・昆布巻き・伊達巻・煮物・田作りぐらいで
      それを普通に何時ものようにお皿に並べていただけ。
      結婚してすぐに、ツレは家庭でお重に入ったおせち料理を食べるのが昔
      からの夢って聞いて、私は3年目から手作りのおせち料理をお重に
      詰めたの。 
      私にだって、そういう可愛い時期はあったんだから(笑)。
      それとは別に、元日の午後には、義母が作らないおせち料理は私が
      用意して、姑と嫁の合作のおせち料理をツレの実家で食べていたの。

      でも、ある年、義母が年末にインフルエンザにかかってしまい、「お正月の
      用意は何も出来てない」って、連絡があったの。
      その時に初めて、ツレの実家の分として、お重に詰めたおせち料理をプレ
      ゼント(?)したら、やっとインフルエンザの治った義母が「綺麗ネェ〜」
      って、喜んでくれて、沢山食べてくれたの。
      その一部を独身で一人暮らしの義兄にもお裾分けしたら、とっても喜
      んだってお礼を貰ったの。
      それが、お年玉の始まり。
      それから毎年、何となく暗黙の了解のうちに、ツレの実家の分と義兄の分と
      おせち料理を作り、お年玉も貰っていた。

      何の料理も出来なくて結婚した私に、色々教えてくれたのは義母だった
      から、きっと私の料理の味が義母も口にもあったのでしょう。
      彼女が末期癌で入院して、抗がん剤の副作用で病院食が口にできなく
      なった時期も私の作った野菜スープと酢の物とプリンだけは、食べる事が
      出来たの。
      だから副作用が収まって、病院食が食べる事が出来るようになるまで、
      主治医の許可を得て、毎日作って病院へ持っていた。

      最期の一週間、吐血して、既に胃が食物を拒否しても、主治医は流動食
      だけは、口に出来るように応急処置をして下さった。
      2度と胃に食べ物が行く事はないけれど、せめて食べたい物を「美味しい」
      って、思いながら口に出来るように。
      叔母(義母の妹)は、デパートで売っている有名ホテルのスープ(缶詰)
      を買ってこようとしたけれど、義母が希望したのは、私の作ったスープ
      だったの。
      その頃の私は、義母の看病に毎日病院へ通い、夜は引越しの準備、家の
      中も既にダンボールだらけ。
      もう仕舞い込んであったミキサーを見つけ出し、義母が「もう一度、
      食べたい」って言ってくれたスープを作った。
      結局それが、義母が食べた最後でした。

      その時言われたの。
      「私が亡くなっても、お年玉はちゃんと届くようにしてあるから、
      それで、お洒落したり、お友達と遊んだり、旅行してね。」って。

      それが「天国からのお年玉」です。
      

      

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