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拉致被害者の永住帰国

2002年10月24日(木)

北朝鮮が「拉致被害者の子供たちの11月中の帰国は認めない」と言ってきたそうだ。

「認めない」って、何か間違えていませんか?
元々罪のない日本国民をある日突然拉致していったのであって、その子供たちだって、日本国民でしょう。
それを「帰さない」なんて、おかしい。

それにしても子供たちは、これからどうなるのだろう?
自分たちの親が日本人だとは知らずに、ましてや拉致されてきたとも知らず、日本語も話せないと言う。
朝鮮人にとって日本人は(逆も同じだが)、尤も敵対心をもっている民族の一つで、恐らく反日感情を持つように教育されてきたのであろう。
それが、ある日突然、自分たちの親が日本人で、しかも朝鮮に来たのは、自分たちの意志でなく朝鮮の国家的犯罪である「拉致」によって連れてこられたという事を知らされた時のショックを考えると心が痛む。

たとえ、日本へ帰国する事ができても、問題は山積みだ。
被害者たちにとって、故郷は自分たちを暖かく迎えてくれた懐かしい場所でもあり、そこで愛情溢れた人々に囲まれて生活をするうちに、心もほぐれて来るであろう。
しかし、子供たちにとってそこは未知の国である。
被害者たちの一番の心配もそこにあるのであろう。

一方で、自分たちが親になっている今、20年以上も生死不明のまま離れて暮らさなくてはならなかった家族が「このまま永住帰国を」という気持ちも彼らが一番わかっているだろう。
自分の親と子供の板ばさみ・・・。

あらゆる面において、北朝鮮のしてきた事がこうした悲劇を生んでしまった。
確かに過去において、日本が北朝鮮を植民地化してしまったという悲劇はある。
しかし、だからといって、何の罪もない人間に何をしてもいいというわけはない。

彼らたちは、単に拉致の被害者というだけでなく、日朝間で翻弄された歴史の被害者である。
責任は朝鮮にあるばかりではない。
過去の歴史に引け目を感じ、弱腰になって、20年以上も放っておいた日本にもあるのである。
遅ればせながらでも、日本は彼らの生活が心からの安堵と笑みのあるものにしなくてはならない。

同じ日本人として、同じ人間として。











最近、思うこと・・・

2002年10月21日(月)


「人生は何歳になってもやり直しがきく」というが、過去に戻る事はできない。
つまり「もしあの時○○○だったら~」という事はあり得ないのである。

あと一歩勇気をもって踏み出せば、今のような状態に陥らなかったかもしれない・・・と思う。
しかし、過去のその時点に遡って「もう一歩」を踏み出す事はできない。
「もう一歩」を踏み出す事によって、違う意味で後悔はしたかもしれない。
というか、多分しただろう。
自分で決断して積極的に行動した結果の後悔だったら、納得できたかも?

同じような事を学生時代にも経験した事があることを思い出した。

・・・私って、この20年、何の進歩もしていないんだなぁ~(苦笑)

なるようにしかならないとわかってはいるけど、最近かなり鬱状態である。



江戸城の歴史・・・Memorialの付記

2002年10月18日(金)

1456年
 京都の足利幕府の命をうけて武蔵の川越にいた上杉定正は、当時関東公方足利成氏が幕府に離反して下総の古河に拠っているのに対抗するため、家臣の太田資清の子、資長(のち入道して道灌)に江戸城を築くことを命じた。

1457年
 道灌は約一年間を費して、江戸城を築き、これに住んだ。

1486年
 道灌は主君の上杉定正に招かれて相模の糟屋館に在るとき、その定正のために暗殺され、江戸城は上杉の直接支配となって城代(曽我氏)が置かれた。
 
1505年
 上杉定正の没後、上杉朝良が入城し、およそ20年間扇谷上杉氏の本拠となった。

1524年
 小田原に本拠を持つ北条氏綱が、上杉氏を攻略してこの江戸城は北条氏のものとなり、それから約七十年余の間、北条氏の東北辺の要害となった。

1590年
 豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め亡ぼしたのであるが、これより2ヶ月半も前に江戸城は既に豊臣の軍に降伏し、開城していた。
 秀吉は小田原戦役の論功行賞として、徳川家康に北条の領地であった関東八ヶ国を与え、江戸城を家康の居城とすることにした。
 家康が入城した当時の江戸城は、いまの旧本丸と、二の丸、三の丸の区域であって、構えは小さく、濠も狭かった。

1606年
 いよいよ江戸城の大修築が始められた。
 全国の大名のほとんどを動員して本丸、二の丸、三の丸の構築をはじめ、天守閣の建造、数多くの楼閣殿舎の建築、さらに桜田門から半蔵門に至る内濠や、雉子橋から溜池にかけての外郭を完成した。

1629年
 三代将軍家光は、約八か年にわたり、従来よりも一層きびしく、また広範囲に全国諸大名を動員し、莫大な金銀を費やして江戸城内外の大増築をした。36年完成。


1657年
 明暦の大火により、天守閣焼失。

1868年
 江戸城は無血開城となり、朝廷の手に収められた。
 明治天皇は初めて京都から江戸城に入り、同時に「東京城」と改められ、本丸は火災で焼失したまま復旧していなかったので、西の丸の殿舎を仮の宮殿とし、西の丸大手門(二重橋の門)を宮殿の正門と定められた。

1872年
 内郭、外郭の存廃がきめられ、神田橋、日比谷、数寄屋橋、鍛冶橋、呉服橋、雉子橋、常盤橋、一つ橋等の諸門は廃止となり、その影を没した。

1873年
 お局方面から火を発し、この仮の宮殿も焼失し、赤坂離宮が仮宮殿となった。

1889年
 宮殿の新建築が完成したので、天皇はこれに移った。

1945年
 昭和20年5月25日の空襲の飛火により表宮殿、奥宮殿ともに焼失。天皇は吹上御苑の御文庫で暮らした。

1948年
 宮城を皇居と呼ぶこととなった。

1960年
 皇居の石垣、門などを江戸城史跡に指定した。(1963年には特別史跡となる。)
 









拉致被害者一時帰国、そして故郷へ

2002年10月17日(木)

 10月15日拉致被害者の5名が24年ぶりに日本の地を踏んだ。

 残念ながらというか、やはりというか5人とも例のバッジをつけていたが、思ったより、明るくホッとした。

 静かに穏やかに・・・と言いながら、報道の加熱ぶりは物凄い。
北朝鮮という国が、ベールに包まれた、不気味な国だけに仕方ない事だとは思うが、彼らの言動に専門家と称する人たちが、色々な事を言う。

 この24年間、隠れるようにして生きてきた人々がいきなり公の場所に出され、報道陣に囲まれ、記者会見をさせられ・・・家族と話した個人的な事まで、家族によって公にされてしまって、せっかく祖国へ帰ってきて心休まる日々を過ごす事が出来ているのだろうか?

 今日、東京を離れ、故郷に戻った。
 故郷の懐かしい景色の中で、家族・親戚・旧友たちに囲まれ、本当の意味で、心身共に日本人であった事を思い出して欲しい。

 彼らたちを北朝鮮まで迎えに行ったのが、あの穏やかな口調・物腰である中山恭子内閣官房参与だったことが救いである。
少なくても前外務大臣のような人でなくてよかった。









北朝鮮による拉致被害者の家族

2002年10月14日(月)

北朝鮮に拉致され、生存していた人たちが、いよいよ一時帰国する。
ご家族を北朝鮮に残してくるという極めて不自然な不満の残る形ではあるが、今までの事を考えると、急展開と言えるであろう。

最近気になっている事が一つ。
それは、今までは拉致被害者の全員の帰国という方向へ全員が一致して向いていた被害者の家族の方々が、ここに来て、微妙に各々の立場が変わってきてしまった、ということだ。

生存を伝えられた人、死亡を伝えられた人、また同じ死亡でもそのお嬢さんらしき人がいるとわかった人・・・
全く明暗を分けてしまったっために、被害者のご家族の感情にも微妙な変化が見られる。

例えば、今回の一時帰国にしても、異口同音にお子さんたちを北朝鮮に残してこなければならないという事に抗議はしているが、その口調が違ってきている。
抗議はしながらも、思いがけず早い再会に喜ぶご家族、人質を取られている様な帰国に北朝鮮だけでなく、それを受け入れた日本政府に対しても激しい怒りを示す家族・・・。

多分、今回の一時帰国をした際も、生存者の家族は、静かにのんびりと過ごさせてやりたいと思うだろうし、死亡を伝えられた家族は、出来れば生存者から自分たちの肉親の安否に関する生の声を聞きたいと願うだろう。

お互いにお互いの気持ちが痛いほどわかるだけに、そして今までの団結力が強かっただけに、被害者のご家族たちは、また違った意味で、複雑で苦しい思いをしているのではないだろうか?



引越し

2002年10月13日(日)

3年前、結婚以来17年間住んでいた場所から今の住居に引っ越してきた。

理由は2つ。
義母の病気の看病。
ツレが千葉へ半単身赴任(週末には帰宅)だったが、この地からだったら、通える範囲内にあるため。

2つともやむを得ない理由だったため、泣く泣く転居。

昔から「住めば都」というが、未だに馴染めない。

物理的な面からいっても住みにくい。
燃えるゴミの収集が以前は週5日だったのが、今は週2日。
粗大ゴミも無料だった。

息子が慢性疾患のため、その病気に対する医療費補助が受けられる。
検査(治療)が無料だったばかりでなく、それに対する補助金もあったのだが、今の地域だと補助がないばかりか、無料の検査(治療)も20歳になると打ち切られてしまう。
同じ税金を払っているのに、不公平。

17年間の間には、たくさんの友達が出来た。
子供が公立の小中学校へ通学していれば、子供を通して母親同士の付き合いもはじまったのだろうが、それも皆無。
ご近所は親の世代の方ばかりで、未だに殆ど付き合いはない。
その上、お隣さんは(義母から聞いていたが)、変わり者。
マァ、色々文句を言われているが、極めつけは・・・
玄関周りを掃除したついでに、当たり前のように水をまいた時、その水がお隣にも流れるから水撒きは止めろ!と言われた事。
(多少坂になっているため、我が家で門の周りに水を撒くとお隣の塀沿いにも流れてしまう)
仕方ないから、我が家の水撒きは天気予報が確実に「雨」の時だけに限られている。

所謂「ピンポンダッシュ」(玄関のベルをイタズラに鳴らして逃げる事)が多い。
まさか、大人がやっているとは思えないけど・・・
以前は目の前に小中学校が並んであったが、この手のイタズラをやられて事がなかった。
小学生がやっているという証拠も無いから、近くの小学校へ文句を言うわけにもいかない。

近くのスーパーでコピーをする時、後ろに並んだ人に「急いでいるから代わってくれ」と言われた事。
別に私が多量のコピーをしていたわけでもないし、それが一度や二度でないため、
この辺でコピーをするのは止めた。

「緑が少ない」
一応東京都下なので「まだまだ緑は多いでしょう」と言われるが、とんでもない。
以前の家も賃貸にしてあるし、友達も多いため立ちよる回数も多いが、帰ってくるたびに思うのは「空気が汚い」。

それに、私の実家からは、かなり遠くなってしまった。

マァ、書けばキリがないのだが。。。

ここへ転居してきた2つの理由、
義母は私たちが引っ越してきて3日目に残念ながら亡くなった。
ツレは、その半年後、元の東京勤務に戻り、単身赴任生活が終わった。

つまり、ここにいなければならない理由は全くなくなった。

親子3人切に望んでいる事
もう一度、前の家にお引越ししたい!



人はみかけによらない・・・

2002年10月10日(木)

バスの中での出来事・・・

白髪の、60代以上と思われる老女が大きな買い物袋を担いで乗ってきた。
バスはほぼ満席状態。
その中で、男子高校生がさーと席を譲ったが、老女は拒んだ。

よく見ると、その老女・・・
上は、普通のジャケットを着ていたが、その下はスポーツウェア。
おまけに手にはテニスラケット。
まだまだ元気なおばあちゃまでした。

その元気なおばあちゃまに、さーと席を譲った男子高校生。
髪の毛はものすごーい茶髪。
制服のズボンは物凄く下に穿いて・・・(そう、今流行のルックスね)
耳にはピアス。

後ろの席で(というか私の隣で)本を読んでいたお嬢さま風の女子高校生。
・・・制服も有名なお嬢さま学校・・・
降りる時に、大きな鞄がアチコチ人にぶつかっているのに、一言の詫びの言葉もなく降りていった。

番外編・・・
そろそろミカンが出回る時期。
近所のコンビニの前で、野菜を売っているが、そこのミカンが一袋198円と破格の安さ。
皮の色もかなり黄色いし、「酸っぱいかなぁ~」と思いつつ、値段に引かれて買ってみた。
今年食べたミカンの中で一番の美味。


医者と患者

2002年10月09日(水)

末期がんだった義母の主治医は、義母の具合が本格的に悪化してからは、休日にかかわらず(お正月でも)、たとえ数時間でも病院へ来て、義母の病室へ顔を見せてくれた。
そして、義母の話し相手になりながら、その日の様子を聞き、薬の指図をしていった。
義母は、その医師が病室へ顔を出されるだけで、安心するようで、信頼し、全てを任せていた。
亡くなった日、朝から意識がなくなりつつある中で、主治医の「○○さん、○○さん」という呼びかけには、かすかながら最期まで反応していた。

息子が風邪をこじらせて、肺炎になりかけ高熱が続いた時、
近くの開業医で数日点滴をしていたが、その日点滴が終わる頃、医者が申し訳なさそうに、
「実家で不幸があってね、これから行かなくちゃならないんだよ。明日点滴してあげられないだけど、大丈夫かなぁ?」と、息子の顔を覗き込んだ。
明日・・・って、元々そのクリニックの休診日。
そして、帰り際、
「このまま高熱が続いて、苦しむようであれば、他の病院で点滴して貰って。
この中に、今の病状と使用している薬が書いてあるから、その先生に渡して」と、一通の封筒を私に差し出した。

翌日、息子の熱は幸いにも少しずつではあるが、下がり始めたが、夕方その医師から
「○○君の様子どう?もう自宅に帰ったから、いつでも連れて来ていいよ」と、電話があった。
息子の病状を伝えると
「あ~よかった。それなら明日9時に連れて来て。(診療は9時半開始)
診療がはじまる前に見るから。」との事。

因み転居して3年目。
息子は風邪が中々なおらないと「○○先生に診て貰ってくる」と、そのクリニックまで行きます。


医師不在の病院

2002年10月08日(火)

三重の病院で、院長の帰宅後、当直医が遅刻。
この医者がいなかった空白時間に、入院患者が食べ物を喉に詰まらせてしまい、亡くなられた。
しかも、この当直医・・・昼間、他の病院で勤務後、アルバイトでこの病院の当直をしていたとの事で、遅刻は日常茶飯事だった。

医師がアルバイトに当直医をするっていう話、昔からよく聞く。
医師も生活をしていかなくてはならないから、アルバイトをするな、とは言わない。
でも、自分が遅刻をするようなアルバイト先を選ぶな。
病院長も何故当直医が来るまで、帰宅をしないように出来なかったのか?
二人とも自分が人間の命を預かっている職業だという自覚が足りなすぎる。

3年前の事。
当時中学生だった息子が学校の帰りに足首を捻ったとビッコを引き引き帰宅。
見ると尋常ではない腫れ方。
運悪く、近所の整形外科の開業医は休診日。
一応電話をしてみるが、やはり応答がない。
で、タクシーで10分かからない所に救急指定病院があるので、其処へ連れて行こうと、準備をしながら電話をし、症状を話した。
(前に、夜間関節を外した時にお世話になった事もあったし・・・)
「整形外科は、外来の先生が帰ってしまい、当直の先生が来るのが、7時です。(内科医とレントゲン技師は在中しているが)今来て貰っても1時間ぐらい(丁度6時頃だった)お待たせしてしまうので、もし、他に見てくれる病院があれば、そちらへ行かれた方がいいと思います」という思わぬ答。

「嘘でしょう~、何が救急指定病院よ~」と思いながら、電話を切り、地域が発行している小冊子で整形外科を探し回る。
外来の終了時間が5時半~6時という病院(医院)が多い中で、やっと隣の駅近くに診療時間が6時半までの開業医を見つけ、何とか診察して貰った。(専門は脳神経外科だったけど)
結果、重症の捻挫で、松葉杖のお土産つき・・・。

息子の場合、
あのまま電話をせずに、救急指定病院へ駆け込んで、かなり待たされても命にかかわる問題ではなかったけど「救急指定病院」なんて、看板に偽りあり。
昨今小児科医が少なくて、小児科の救急看板を下ろす病院が増加しているが、無理なら最初から看板外してくれた方がまだ良心的。


北朝鮮による拉致被害者

2002年10月05日(土)

北朝鮮に拉致された被害者たちは、肉親には会いたがっているけど、
日本へ帰国する事に対しては、消極的だという。
日本では「それは、北朝鮮によって言わされているんだ。帰国したいに決まっている」との意見が圧倒的だ。

北朝鮮に言わされている・・・というより、
長年、北朝鮮で生きているうちに、洗脳させられたのだろう。
それに、北朝鮮で生きていくためには、そうせざるを得なかったのだろう。

ただ、彼らにとって「肉親に会いたい=日本へ帰りたい」というわけでは、ないのではないか?
「日本へ帰国したいに決まっている」というのは、待っている方の心理のように思う。(そう考えて当然なのだが・・・)

自分たちが望んでいない、ある日突然、拉致された
彼らたちにも、今現在既に北朝鮮での生活がある。
日本に帰国しても生きていく事(生活する事)をやめるわけにはいかない。
これからの一生を、何もせずに生きていくわけにはいかない。
全く生活習慣の違うところへ帰ってきて、仕事を探して、順応しなくてはならないのである。
その事に不安を抱き、躊躇する気持ちがあるのではないだろうか?

彼らにとって、過ぎ去った長すぎる年月の間に、日本は祖国でありながら、違う国になってしまったのではないか?

奪われてしまった時間は残酷である。








育児ストレス

2002年10月03日(木)

テレビで母親の育児ストレスについて考える番組を見た。

実験的に、所謂幼児がいる家庭の日常生活の中で母親の脈拍を測ってみる。
雨の日なのに子供が外でサッカーをしたいって言ってみたり、その隣で下の子がお漏らしをしたり・・・おとなしく兄弟で遊んでいたと思ったら、喧嘩をし始めてみたり・・・マァ育児中の家庭では普通の感じ。
で、母親の脈拍は子供が騒ぐ度に速くなる。
それは、ちょうど就職試験の面接を待つ状態とよく似ているとの事。
毎日そんな感じじゃーストレスもたまる。

専門家はいとも簡単に「1日に数時間でもいいから自分の時間を持てばいい」とおっしゃる。
平日、そんな時間あるわけない。
母親だけやっているのではなく、主婦業もやっているのだから。
子供が昼寝をしている時間に、家事を済ませてしまわなくてはならない。

だったら・・・
夫の休日、夫に子供を預けて数時間お友達とお喋りをしに行くご家庭の紹介。
またまた専門家のご登場。

その場合の注意事項・・・
①留守中夫のやった事に文句を言わない
②他の家庭の夫と比べてはいけない。
③二人の子供なのだから、夫が子供の面倒を見ていて当然と思わない。(必ず感謝の意を表す)

①②はともかく、③は冗談じゃない。
逆でしょ。
夫婦二人の子供なんだから、妻ばかりに育児を任せるのではなく、休日の数時間ぐい夫が面倒をみるのが当たり前・・・だと男性は考えるようになって貰いたいものだ。

専門家がこんな馬鹿な事を言っているから、世の中の男(父親)たちは、増長するんだ。
そういうのに限って、子供が何か悪い事をした時、妻に向かって
「お前のしつけが悪いから」と責任を押し付ける。

まったくなぁ~家に大きな子供がもう一人いるようなものだ。


都民の日

2002年10月02日(水)

昨日・・・10月1日は、東京都民の人若しくは、東京都の学校へ通学している人ならご存知の「都民の日」だった。

以前住んでいた川崎市は1924年7月「川崎市」が誕生したので7月1日が「市制記念日」。
ちょっと他の地方を調べてみても大体市(県が)が誕生した時を記念日としている所が多い。

で、東京都を調べてみたら・・・
「都民の日」が制定されたのは1952年年10月。
でも東京都政が施行されたのは1943年7月1日で、10月とは関係ない。
では・・・何故「都民の日」が10月?
結局都庁の公式HPを見てもわからず(探し方が悪かった?)、ネットで調べたところ、1898年10月1日、東京市が誕生し、市役所が開設された。
この日を1952年から「都民の日」に制定し、7月1日の方が「東京都政記念日」。

10月1日の方は東京都にある学校が休校・・・大学は一部休校・・・になり、
動物園をはじめとして、都の施設の入場料が安くなる。

八景島まで安くなるのは、何故?
八景島ってどう考えても神奈川県なのに。

ま、どっちにしても日本人は「○○の日」って好きよね(笑)。

因みに 2月15日(横須賀市民の日)、6月2日(横浜市民の日)、6月15日(茂原市民の日)、6月15日(栃木県民の日)4月29日(三島市民の日)、8月21日(静岡県民の日)、11月13日(茨城県民の日)、11月14日(埼玉県民の日)、11月20日(山梨県民の日 )、 12月1日(川越市民の日)。

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