ディリー?闇鍋アラカルト
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2003年09月25日(木) 司法のトホホ

最高裁判事の国民審査というのがある。
この国民審査というのは経験者はご存知の通り、罷免したい判事名の所に×をつけるようになっている。
×をつけられなかった場合は信任という意味になる。
しかし、この制度によって罷免になった判事は一人もいない。
大体、国民審査の判事名を知っている人が少ないのだ。
ずらっと並んでいる判事名を見て、誰がどのような判決を下した人なのかの資料が殆どない。新聞で国会議員候補者のプロフィールは読めるが、判事の経歴・プロフィールはよほど探さないと分からない。
僕自身、沢山並んでいる判事名で覚えのあるのはちょっとしかないのだから、司法関係者以外の大抵の人にとっても同様かそれ以下だろう。
つまり、この制度は有効に機能していないのだ。
このままではこの制度を有効に機能させる事は出来ない。
国民審査に先立って、選挙同様に、名前と経歴・どのような判決を下した判事なのかがもっと知らされなくてはならない。
このような事は国民審査の現状がどのようなものであるかを知るなら改革して当然と思うのだけれど、実際には国会で話し合われるのを聞いた事もない。
こんなトホホが放置されていて、当事者たちは恥ずかしい事のように感じないのだろうか?
尤も、そのトホホのお蔭で当事者たちは、仕事を失わなくて済む訳だが・・・・


2003年09月15日(月) 仏陀の悟り・無知の知

大学時代に「ブッダの言葉(岩波文庫)」を読んでいる。
仏典の中には様々な物があるが、この「ブッダの言葉=スッタニパータ」は最も古く、歴史的人物としての仏陀の言葉に最も近い詩句を集成した聖典だと言われている。
読んでみた感じでは、割と当たり前の事を書いてある感じで、深遠で崇高な教えとは感じなかった。
例えば、
259.諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬する事、・・・これがこよなき幸せである。
261.深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること・・・これがこよなき幸せである。
ブッダは釈迦族の王子として生まれ、この世の無常を感じて出家し、修行し、遂には悟りを得るのだが、その悟りは余りに霊妙で、他の人々に伝える事など不可能のように思えた。そして、「ならば、この悟りを抱いたままで死のう。」と考えたのだが、その時御使いが現れて、その思いを翻し、人々にその悟りを伝えるように説得したという逸話がある。
「人々は迷妄の中に居る」だから、苦しみは続き悲劇は起こる。だから悟らなくてはならない!何を?座禅を組めば悟れるのだろうか?どんな悟りが得られるのだろうか?南無阿弥陀仏と唱えたら悟れるのだろうか?南無妙法蓮華経の方がいいのだろうか?
僕の考え方は具体的だ。皮膚や健康状態や生態系のバランスなどから考える。
合成洗剤(ボディシャンプーなど)を使うと皮膚がカサカサになり易い。という一つの事実がある。これは厚生労働省のHPにも書かれていた事だ。化粧品や洗剤による健康被害は非常に多い。
では、これがなかなか減らないのは何故だろう?
このような現象の中に「人々は迷妄の中に居る」という事があるのではないか?
超大国アメリカの必死の努力に関わらず、中東の争いは静まりそうにない。
やり方がおかしいのではないか?金と軍事力によって解決出来ると考えるのが迷妄なのではないか?
そう考える人たちに政治の力を預けてしまうのが無知なのではないか?

無知と言えばソクラテスが「無知の知」というような事を言ったように高校時代の倫理社会の本に書かれていた。
ソクラテスは自分が知恵者であるなどと思っていなかった。知らない事が沢山あるのを知っていた。
しかし、知恵者と呼ばれるような人たちを観察すると、その人たちは知らない事が沢山あると気付いていないように見えた。もし自分が知恵者であるとするなら、自分の無知を知っているという点なのではないか?これがソクラテスの無知の知だ。

高校時代の倫理社会の教科書には、ソクラテスも仏陀も登場し、悟りについても無知の知についても教えられるけど、それは肌荒れの解決にも国際紛争の解決にも役立たない。
他人の借り物の悟りや無知の知ではなく、目の前の肌やスーパーやTVで報道される事に潜んでいる事をしっかり観察する事が、現代に於ける悟りや無知の知を知る始まりなのではなかろうか?


2003年09月14日(日) 大学の意味・機能

僕は大学を中退している。

辞める時には勿論親兄弟に反対されている。
僕にとって、大学の授業は意味のない事のように感じていた。
こんな事に時間を費やすより、働いた方が良いのではないか?
(しかし、何を仕事にすれば良いのだろう?)

今も思う。大学で学ぶものはなんの役に立つのだろうかと。
大学というものが、この社会や地球、人間という生物にとってどのような意味を持っているのだろうかと。
どのように機能しているのだろうかと。
例えば、中東紛争の場に於いて、生態系の危機の場に於いて。

もしかしたら、大学や教育のシステムそのものもまた、それらの原因となっているのではないだろうか?


2003年09月10日(水)

医療の問題点を描いたコミックがヒットしてから、TVでも医療の問題点についての番組が増えたような気がする。と言っても、うちのTVは映らないので、他所に行った時にたまたま見たのでそう思うのだが・・・

医は仁術にして算術に在らずとは言われる事だが、現代の職業医は完全に算術である事が多いように思われる。
大体、「医の道に進んだのは?」と聞かれて「高校時代に成績が良かったから先生に勧められて・・・」と答える人間が多いらしい。本人の意思はどこにあるのだろう?
自分で生きる事を他人の価値によって決めてしまうと、その中に自分の価値を見出すのが出来にくくなる。外面的な価値が判断基準になってしまいやすい。
その中でも所得の多さや権威というものが「医」そのものの価値よりも大きなものになってしまいやすいのだ。

僕は高校時代に「薬のいらない健康法」という本を読んだ。それは玄米食について書いてあり、僕はそれで便秘の改善が出来た。食と医の関係について初めて考える体験でもあった。
大学時代、専攻は昆虫学だったが、漢方薬局でバイトをした。書棚にある漢方の専門書を片っ端から読み、薬剤師先生と患者さんのやり取りを聞いて実践を肌で感じた。先生曰く、「医者でも漢方薬を処方する人がいるけれども、実際に漢方の治療体系を学んで処方するのでなく、病名を頼りに処方している事が多いので、見当違いが多いんだよ。」この事情は現在尚改善されていないようだ。漢方の副作用による死亡事故というのは、実は診立て違いが大半なのだ。
幼い時にはしょっちゅう病気になっていた僕だが、関東で生活するようになって余り病気にはならなくなった。これは玄米食のお蔭かも知れない。たまーに体調を崩すと自分で漢方薬を選んで飲んだ。
健康法としての飲尿もやった事がある。金のかからない健康法とも言える。
自分一人で生きるという意志が、病気になんかなっていられないという気持ちを育んでもいた。なったとしても自分で治す!
漢方薬から離れたのは、漢方薬もまた病に対して処方されるもの・・という認識からだ。病にならない事が一層大切だと思うようになった。
その為には自分の体を構成するものをもっとよく理解しようという事で、再び食生活について研究するようになった。
また、管楽器や歌をやってたせいで、呼吸や姿勢というものにも気をつけるようになった。これが猫背の改善法に結びついている。
高校時代から興味のあった心理学の一分野としてのリラグゼーションが肩こりの改善法に発展してもいる。
僕にとっての医は一人で生きるという事と密接に関係していた。
自分の体という一つの宇宙。それは、幼い頃に昆虫に抱いていた限りない興味と同じく取り組み甲斐のあるものとして感じている。


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