written by 田村 MAILHOME
#言葉の重要性
2003年05月08日(木)

人間にとって、言葉は重要なコミュニケーションツールの一つである。仕事が絡めば尚更だ。場合によっては、言った言わないの泥仕合になることも少なくない。
今回は、そんな言葉の行き違いから発生した様々な誤解を、実例を交えて紹介したいと思う。このサイトを御覧になられている諸氏も、是非今後に役立てていただきたい。



ケース1

(前提:田村が上司M田氏にコーヒー代100円を貸して)

M「はい、田村さん1,000円」

私「え?いや、1,000円じゃ多すぎですよ、100円だし」

M「いや、あの、全部差し上げるとは申していないんですけど。お釣りいただけますでしょうか?」


いかがであろうか。
このように言葉が足りないばかりに、意思疎通に支障をきたしている(どちらがより言葉が足りないかは、あえて言及しない)。更に悪いことに、このケースの場合、私の財布の中身にその時小銭がまったくなく(お札など言うまでも無い)、お釣りという観点がすっぽりと欠落していたことも、コミュニケーション不能に陥らせるひとつの重要な要因となっていたのである。



ケース2

M「ボールペンを消すやつ持ってないですか」

私「ええ?・・・うーん、ちょっと持ってないですねぇ・・・修正ペンじゃ駄目でしょうか?」

M「あ、それそれ、修正ペンでいいんですけど・・・」

私「あ、ボールペンのインクを文字通り消すやつかと思ったんですけど・・・」

M「そこまで大掛かりなものは要らないのですが」


この前段階で、「消しゴムで消すことの出来るボールペンで書類を書いているやつがいる」という話題が前提となっている。よくよく考えれば分かるのであるが、よくよく考えないと分からない。やはり言葉は重要だ。



ケース3

(内線電話での会話で)

『あのー、Mさんはいらっしゃいますか?』

「申し訳ございません、Mは本日は退社してしまったのですが・・・」

『え!?退社ですか!??何日付けで退社されたんですか!!?』


思わず「18時30分付けで退社しました」と言ってやろうかと思った(思っても言わないのが大人である)。



いずれのケースも日常でよく見られる些細な言葉のやり取りであるが、たったこれだけでも様々な誤解が生じている。いかに必要充分な言葉を相手に発し、状況をちゃんと説明することが重要であるか、きっとお解りいただけたに違いない。
誤解されてはいけないが、別に毎日こんなやり取りを繰り返しているわけではないことを念のため言っておく(そこまで暇ではないのだ)。



#出産祝いに出掛ける
2003年05月05日(月)

久し振りの更新である。毎度のことなので、これ以上言い訳はしない(更新しない理由は山ほどあるのだが、今ここでそれを語るにはスペースが足りないので次の機会にしたいと思う)。


大学時代の先輩A野氏の生まれたばかりの子供、ももちゃん(仮名 生後10日目)を見に行ってきた。

ももちゃん(仮名)はベビーベッドでご就寝中だったのであまり相手をしてもらえなかったが、寝顔を見るとやはりかわいい。手も顔も、すべてが小さい。頬を突っついてみると、これをたまご肌と言うのだろうか、ものすごく柔らかい(桃井か○りは嘘っぱちであろう)。
「やっぱりかわいいですね」と何気なく言ったところ、


旦那「いやあ、産まれた時はブサイクだったんだよね、顔。どうしようかと思った」


と返されてしまった(返事に窮した)。

生まれた直後と今では随分と顔が違うらしい。実際写真を見せてもらったが、成る程顔のつくりがまったく違った。

そこでももちゃん(仮名)の顔を改めて眺めてみると、まだまだ成長(形成?)の過程であろうかと思われるところがいくつも見られた。母親の胎内から外に出ることで一気に形成が進むのだろうか。もしかしたら急激な環境変化に対する適応の一環なのかもしれない。次に会いに来た時には別人になっているに違いない。


旦那「最初顔見たときは、なんじゃこりゃ?と思っちゃったよ。写真見るとそう思うでしょ?」


なんと答えろと言うのか。取り敢えずあははと笑っておいた。


奥さん「ほんと、毎日顔のつくりが違うのよね。すごく変わる」

旦那「そうなんだよね、2〜3日前の顔のがかわいかった」

奥さん「あ、そうかも」


リアクションに困る会話だ(嫌がらせだろうか?)。



しかし最も面白かったのは、旦那の親ばかぶりであった。


私「女の子じゃかわいいでしょう、いいなあ」

旦那「男は絶対に近づけさせない」

私「い、いやいや、まあ友達ぐらいなら・・・」

旦那「ダメ。男はパパだけで充分だもんねー(言いながらご息女を抱き上げる)」


親はやはりどこもこんなもんなのだろうか。
どこまで本気でどこまで冗談なのか分からないところが微笑ましくも恐ろしいところである。


などと、ゴールデンウィーク最終日を出産・育児の四方山話を聞きながらのんびりと過ごしていたのであるが、A野氏のご両親、じいじとばあばの襲来でその空気は破られた。


ば「ほーらももちゃん(仮名)、笑って笑ってー」

じ「おーもも(仮名)!眠いのかーほら!」

ば「あらー泣いちゃったー!ごめんねぇー起こしちゃって!」

ば「(写真を撮ろうとして)あら!フラッシュたいちゃった!ごめんねぇー!」


・・・じいじとばあばもやはり、どこもこんなもんなのだろうか。
後先考えないかわいがり(?)であったが、かわいがられる方とあとであやす方は大変であろう。

しかしこれが子育てというものなのか。いつしか私もこういう体験をするのであろうか。ああ、うちは父母どころか祖父母もいる、一体どうなってしまうのか。あまり考えたくない。
などと思い悩んでいると、


ば「あら、ちょっとこの服じゃ暑いかねえー」

奥さん「あ、そうかも、今日は気温も高いし・・・」

ば「ジャ○コ行って新しい服を買ってこようか。これからちょっと行ってくるね」


と言ってじいじとばあばは去ってしまった。

家族の団欒に水をさすのも申し訳ない、連れと相談し、我々はここらで退散することにした(逃げるわけではない)。


子育てにあたり、これから色々と大変なことがあるだろうが、しかしきっと彼らなら乗り切ってくれるに違いない。それでも、あの小さな命が健やかに育つために、何か私も手伝えることはないだろうか?帰りの車の中で、必死に考えた。


私「毎週行ってしょーもない言葉ひとつ覚えさせて帰ってくるっていうのはどうでしょう?」

連れ「10倍返しされそうだから、やめた方がいいですよ」


ごもっともである。


赤ちゃんのかわいさ、夫妻(特に旦那)の親ばかぶり、じいじ・ばあばのパワーを見せつけられたゴールデンウィーク最終日であった。




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