たそがれまで
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2003年09月13日(土) 誕生日 2




ひょんなことで、今日病院へ行くことになった。
具合が悪くなったのは私ではなく、夫。
朝は元気そのものだったのに、午後の夫は苦しくて声も出ないほどだった。

病院の診察室の前で待っていると、ふと昔のことを思い出した。
母の診察を待っていた私も、壁に貼られたポスターを隅から隅まで読んでいた。
インシュリンの注射が欠かせなかった母は、2週間に一度は必ず受診していたし
リハビリしていた頃は毎日、病院通いに付き添った。

あの頃はいつものことで病院の待合室に慣れきっていた私、
今日の私は久し振りの待合室に、心が落ち着かなかった。
(夫が心配だということもあったけれど、それ以外にも落ち着かない原因があった。
 「歳時記」でぶちまけてしまったけれど、関係者の皆様、お気を悪くなさいませんように)






若い頃から病気がちだった母は、私が幼稚園に通っている頃に
長いこと入院したことがあった。
私自身ではっきりした記憶は無いのだけれど、遠足で写った集合写真に
祖母と私が写っている。

大人になってから、あの時、母が子宮摘出の手術を受けたのだということを知った。
母のお腹の大きな傷がいつも不思議だったのだ。
何度か尋ねたこともある。

その時の母の答え「ここからあなたが生まれてきたのよ」
少し大きくなってから帝王切開という出産方法を知り、私はそうだったのだと思った。
私がそう信じていたことを、母は嬉しく思ってくれたのだろうか。

もっと大きくなって、あの傷から私が生まれたのではないことを知って、
初めて母に子宮が無い事実を知らされた。
私が養女であるという事実と、母には子宮がないという事実。
なんの因果関係もない。
なぜならば私が養女に貰われてからの出来事だから。

だけど本当にそうだろうか。
目には見えない力が母の子宮を奪ったようで、それが私と関係しているようで
私はとても申し訳ない気がした。

母は月に一度、婦人科にホルモンの注射を受けに行っていた。
体調を崩さないためにも必要なことだったと思うのだけど
それ以外の理由を母の口から聞いたことかある。
私が大人になってからからのことだが
「女である為に」
そう言った母は、何か毅然としていて綺麗だった。

母は自分で自分の身の回りのことが出来る限り、いつも小綺麗にしていた。
化粧も服もとても気を使っていたと思う。
同級生の母達より年齢的にずっと上だったが、変に所帯じみずにいつも綺麗にしていた。

それは女である為、
女でいる為の意地だったのかもしれない。

意地を見せたかったのは父へだったと思う。
可愛く甘えるなどできなかった母だ。
照れくさくてありがとうの言葉も言えなかった母だ。

なかなか家へ戻らない父に対して、帰ってきて欲しいなどと
泣いて頼んだこともない筈だ。
そんな母に女を見いだせなくなった父、
悲しいけれど二人の気持ちはいつからかすれ違ってしまった。

だけど父の葬儀で棺にしがみついて離れなかった母を見て、
やっと帰って来たと涙を流した母を見て、
私は母の中に女を見た。

誰よりも可愛く、愛らしい女を見た。




もしも69才の誕生日を今日迎えた母がここにいても、
やっぱり愛らしい女だったろう。

お誕生日おめでとう。
お父さん、お母さん、
おめでとう。
おめでとう。








まさか母の誕生日に急患を連れて病院に行くことになるなんて、
よっぽど母は病院が好きだった  らしい・・・。






2003年09月12日(金) 誕生日 1




夕方、私の故郷で大きなお祭りが始まったというニュースをやっていた。
大きなお社の参道にズラっと露店が並ぶ映像も流れた。
毎年、9月12日から1週間の間、万物の生命を慈しみ殺生を戒める神事。
「放生会」

小さい頃、毎年父と手を繋いで出向いたお祭りでもある。

延々と続いている露店の灯り、烏賊を焼く匂い、カステラの甘い香り
子供にとってはそこは別世界だった。
めったに父と出かけたことがない私にとって、お祭りの魅力と
父と出かけるという喜びが幼心に同居していたと思う。

この日だけはわがままを存分に言っても怒られなかった。
綿菓子に風船、おままごとの道具、帰り道の私の両手は
いろいろな物で塞がれていた。

手を繋がないとすぐにでも迷子になってしまいそうな人出に、
父は私を肩車してくれたこともある。
それが嬉しくて、でも少し恥ずかしくて、
今でもはっきり覚えている。




父は寡黙な人だった。
大正という時代の最後の年に生まれた父は、家庭でも多くを語らなかった。
若い頃に患った肺の病気のおかげで、戦争に行くこともなく
無二の親友が学徒出陣で命を落とし、なぜ自分だけが生きているのかと
悔やんでいることも誰にも話さなかったという。
これは父の死後、叔父への手紙でわかったことだ。

仕事はできる人だったし、人望も厚かった。
それを葬儀の時に並んだ生花で初め知ったのだ。
誰もが父を誉めてくれた。
そして
娘である私のことを、誰かれとなく自慢していたことも・・


愛されてないのかもしれないと疑ったこともあった。
母へ私というおもちゃを与えて、自分は好き勝手していると怨んだこともあった。
血が繋がっていないから、養女だから。
いつもそんな言葉と闘っていた。

でも、父は私は愛してくれていた。
父は私を自慢の娘だと思ってくれていた。
父の葬儀の日、皆から聞く言葉に私は涙を流すしかなかった。




もしも、生きていてくれたら
今日が78才の誕生日だ。
居なくなって15年が経つけれど、
私の中ではいつまでも63才のままの父だ。

もしも現在ここにいて、孫と一緒に祝うことができたら
父はどんな顔をして、どんな言葉を発するのだろう。

今夜はケーキの代わりにエクレアを食べた。
子供たちにもちゃんと説明をした。
今日がお祖父ちゃんの誕生日で明日はお祖母ちゃんの誕生日だからと。

そう、子供の頃、二人の誕生日が一日違いということで
プレゼント代に四苦八苦したっけ。

仏壇に向かって「おめでとー」と声をかける子供たち。
逢わせてあげたかった。本当にそう思う。


来年は家族で放生会に行くよ。
本当はね、私も家族で行きたかったんだ。
もう子供の頃の話しだけれど・・・。









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