万葉歌謡/あじさゐ 2003年04月23日(水)
「紫陽花の 八重咲く如く 弥つ代にを いませわが背子 見つつ偲はむ」 歓声が、暮れはじめた空に弾けた。 空気を揺らすその震源へと目を向ければ、整然とグランドに並んでいた人垣がどうっと崩れる瞬間が見えた。 応援団の野太い声が、夕暮れの空を一つ貫くと、太鼓の音がどーん、どーん、と鳴り始める。 「……行かないの?」 グランドの中央で赤く炎をまとい始めた櫓に視線を向けたまま、沙耶子は尋ねた。 足元の男は、寝返りを打って背中を向ける。 無言の返事に沙耶子は少しだけ苛立って、けれど何も言わずにグランドに背を向け、男の隣に腰をおろした。 屋上を囲う塀越しに、グラウンドの炎が夜を照らす。 明るく、暗く、明るく、暗く。足元から伸びる床が炎の明滅にあわせて、浮かび上がっては闇に溶けるのを、沙耶子はぼんやりと眺めた。 下では歌が始まっていた。太鼓の音にあわせて、寂しげな古い曲調が流れてくる。 嫌いな曲ではなかった。 日ごろ遊び浮かれている生徒が多いこの高校には、似つかわしくないメロディと歌詞で、むしろ沙耶子は気に入っていた。 ぽつりぽつりと呟くように、グラウンドの生徒たちの歌に声を合わせる。 二番に入ったところで、隣からも独り言のような歌が流れ出して、自然と二人で声を合わせる事になった。 「寂しいよね」 「別に」 歌い終わって、なんとなく呟いた言葉は返事を期待したものじゃなかった。 だけど、むこうを向いたままの背中が、ぽつんと答える。 「なんで。行けば良いじゃん。行って、一緒に肩組んで、走り回ってくればいいじゃん。今日は、誰も変だなんて思わないよ。祭りの打ち上げなんだからさ」 口早に急かすような気持ちで沙耶子が放った言葉に、男は淡々とした口調のまま応える。 「祭りの時に浮かれて、手に触れて、それで終わった後はどうすんだよ」 「どうするって。──今までどおり、友達って訳にはいかない、か」 馬鹿、と声がして、男が身体を起こした。 ごうっと音がして、グラウンドの炎が激しく燃え上がる。同時に塀が作り出す陰が一気に暗さをまして、彼の上半身が闇の中に溶ける。 「どうせ、あと一年もすればバラバラになって終わりじゃねえか。そしたら、全部夢みたいなもんになっちまう」 「あたしなら、なりふり構わず触るよ。手に入れて、嘘でも良い。その記憶があれば、何も無かった事にはならないじゃん」 ふっと鼻先で男が笑う。馬鹿にしきった笑いに、沙耶子はむっと唇を尖らせた。 「本心かよ。ま、いいさ──俺は、つまらねえ望みに自分を見失う気はねえ。大人だからな。ここで見てるだけで、十分だ」 グラウンドに背を向けている男に、炎のすぐ脇で燦然と輝きを受けているその人が見えるはずが無い。 黒々と影の落ちる屋上と、炎の輝きとを交互に眺めて、沙耶子は溜息をついた。 「見えてないじゃん」 「──うっせえな。そんなに言うなら、じゃあ、慰めろよ。お前が」 ぬっと伸ばされた手を、避けるべきか受け入れるべきか迷って。 結局、寸前でかわした。 馬鹿ヤロウ。そう小さく毒づいて、沙耶子は少し離れたところで、屋上の囲いに取りつく。 「見ててあげるよ、あたしが。最後まで。あの火が、消えるまで」 一瞬の沈黙。馬鹿にしきったような、つかれたような笑いが落ちて。 「風邪引くぞ」 「──あんたもね」 その切り返しが、気が利いたものかどうかは解らなかったけれど、少なくとも座り込んだ男の機嫌は少し浮上したらしい。 またごろりと身体を投げ出して横になった男が、さっきの歌を少しだけ声を強めて歌い始めた。 馬鹿だよね、あたしも、あんたも。 グラウンドでは、最後の輝きを放つように、一際大きく炎が燃えあがっていた。 えせ青春モノ? 母校の屋上にはフェンスなど無く、胸元までの高さの塀というか囲いがあるだけでした。 その上を平均台のように歩いていて、向かいの棟の英語教師にこっぴどく怒鳴られたのも、懐かしい思い出。結局、彼が飛んでくる前に逃げ出したんだったっけ。 次は「あづさ」 2003年04月21日(月) さくらさくらの花くらがりに 落としたむかしのお話の からすの子供はどこいった まっくら暗がりその下で 唐突に掴まれて 逃げ出しそうになった もみじほどの小ささで 豚のように貪欲な手が 怖かったのさ だから、俺は はなよ花よと舞う蝶の あすの命の羽ばたきの 一つうちては火にやかれ 二つうちては捕らわれて 見上げるな 今日の月と等しく明日の月を望むおまえ 無心さと無欲さで俺を捕らようとするな 握り締めてきたものを 取り戻そうとするな さくら桜の花闇に きょうもひとつの焔もゆ 万葉歌謡/あせび 2003年04月16日(水) 「池水に 影さへ見えて 咲きにほふ 馬酔木の花を 袖に扱入れな」 もちろん、一面の花畑なんて望んじゃいなかったさ。 生まれたときから指折り数えて、善い事をした記憶なんて片手でたりるほどしかない。一方で悪いことなら、両手両足使っても足りないくらい、覚えがあるんだから。 そういうわけで、俺はとりあえず驚いた。 驚くしかないだろう。目の前が一面、鈴なりの真っ白な花で埋め尽くされていれば。 俺の目の前、細い小道の両脇に、胸元ほどの高さの木がどこまでもどこまでも続いていた。木はびっしりと花房で覆われ、所々から覗く艶やかな緑色の葉が、花の白さをいっそう引きたてていて、どうしようもなく目が眩んた。 理由も解らないのに、胸が痛んで、だから俺は思ったんだ。迷ったに違いないって。 小さい頃から、方向音痴にかけては天才的だった。 中学を卒業して、生まれ育った街を後にするまで、代わり映えもしない古い路地の間で、何度迷子になったことだろう。 祭りがあると言っては迷子になり、トンボを追いかけては迷子になり、その度に俺はなす術も無く道の上で立ち尽くし、泣き喚いたもんだ。 そうだな、結局俺は、ずっと迷っていたのかもしれない。 ──ぜんぶ、に。 「やれやれ、この期に及んで迷子か」 そう独り言をつぶやいた俺に向かって、ざわと風が吹き付けた。 花も揺れる。鈴のような花は、楽の音の変わりに、聞き覚えのある声を発した。 「──相変わらず、馬鹿だね、お前は」 聞き覚えのある声。 馬鹿な。 「馬鹿だね、本当に。こんな景色を、後生大事に覚えてたなんて」 花が揺れる。声が鳴り響く。 その声を、俺が間違える事なんてありえない。 お袋の声。 だが、お袋は──。 俺は驚きのあまり、腰を抜かしてその場にへたりこんだ。 我ながら、情けない有様だったさ。 敵対する組の若い衆と、ドス一本で向かい合った時だって、俺は汗一つかかなかったはずだ。 それが、とっくに踏みにじって捨てて、忘れたはずの人間の声に、おびえたんだ。 「こんな花、あたしは嫌いだったのに。お前は覚えていたんだねえ」 声は俺の動揺なんか無視して、しんみりと語る。 「だ、誰だっ。隠れてないで姿を現せっ」 わたわたと足を動かしながらの声は、凄みも迫力もまったく吹っ飛んだ情けないものだった。 当然のように答える声はなく、変わりに──。 目の前の湿った土の上に、ひとつ、ひとつ、飛び石が現れた。 そんな物の存在なんてすっかり忘れていたのに、不思議なことに蘇った思い出と色味も形も寸分変わらない。 少し右上の欠けたひよこ、それから真ん中がくぼんだカエル、ちっちゃい俺が暇に任せて生き物に見たてた飛び石の連なりが、白い花木の下にずっと道を描きだした。 ざわざわと、花が鳴る。 その先にあるものを見たくなくて、俺は目をつぶろうとした。 けれど瞼が言うことを聞かない。視線は吸い寄せられるように、緩やかな坂の先へと向いてしまう。 そこにはやっぱり在った。 黒々とした柱と、真っ白な漆喰の壁。 開け放たれた木戸の脇に立つ人影を、見たくなくて、俺は飛び起きると一目散に駆け出していた。 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な。 そこにいるはずが無い、そんな筈は無い。 俺は喚いていた。喚きながら、必死に走っていた。 花が揺れる。少し緑味を帯びた波が、俺の目の前で渦巻いてうねる。 戻らなくては、戻って確かめなければ、それだけを必死に念じて俺は白い渦に飲み込まれた。 何もかもが白で埋め尽くされたその一瞬、「馬鹿だね」とあの声が──。 ──これでこの話はおしまいだ。 目を覚ました俺は、救急病院の真っ白な天井を見上げてたってわけだ。 ざわざわと人の声が廊下からひっきりなしに聞こえて、それがきっと花の音に聞こえたんじゃねえかな。 そうだな、馬鹿馬鹿しい夢だったさ。 最後の最後って場所で、お袋の声にびびって逃げ出したなんてな。 え、お袋か? お袋は──ぴんぴんしてたさ。 退院した足で向かった老人ホームで、俺の顔を見て『馬鹿だねえ』って笑いやがったよ。 次にあの場所へ行くときは、あんな花じゃなくてもっと違う景色を看られるように、少しは目を開けときな、あたしは絶対にあんな場所をあの世の入り口になんかしないよ、だとさ。 なんだかな。俺だってあの世への入り口なら、もっと綺麗な場所がいいさ。柄じゃねえって言われてもさ。湖とか、山とか、もっと色々あるだろう。 ああ、そういう理由だ。ちょいと旅に出るってのは。 もう少しばかり最後にふさわしい景色を、頭ん中に叩きこんでおこうと思ってな。 ケロ太だのピヨコだのって名前をつけた石が、あの世への飛び石だなんてしまらねえだろ。──子供の頃迷いに迷った俺が、なんとしても帰りつきたかった場所が、あの小道だったとしても。 ああ、もう時間だ。行かなきゃなんねえ。 遅れたらまたお袋に笑われちまう。また迷子になってたのかい、なんてな。 この年で親子旅行だなんて、お前も笑っちまうだろう。 笑ってろ。いいさ。 しょうがねえ、お勤めだと思って行ってくらあ。 じゃあな。 長らく放置していた企画もの、万葉歌謡の三題目です。 や、投稿の締め切りもあったけれど、イマイチ方向性が見えてませんで。 これで良いのかなあ? くさはらを目指しつつ手前の湿原で留っているような感じでしょうか。 もう少し試行錯誤してみたいかと思います。 定期的な更新も含めて。 次は「紫陽花」 断章──魚── 2003年04月11日(金) 春の指先 木蓮の 抱えきれない 秘め事に 千のこぶしの 開く頃 君と眺めん 寂寥の 春の都に 降る雨を ……戯れに歌うと、魚はそれきり沈黙したのでした。 私は、と言えば、重ねて問うことも出来ず、ああ、と歯軋りをして身悶えたのでした。 一体、魚に真実を語らせることなど、誰に出来るというのでしょうか。 人のうちにあって人を生かしていながら、魚はひとつも明かしてはくれないのです。泳ぎつづけるわけも、目指すその先にある海の色も。 ──では魚など、捨ててしまえば良いのに。 蛙も蛇も、人は思い立てば捨てて自由になることが出来るのだから、魚も。 魚も、捨てて、人は自分の足だけで歩けば良いのです。 私はそう思い立ち、胸元にひらひらと動く赤い色に爪をつきたてたのでした。 いいえ。 爪は、私の胸をえぐりはしましたが、魚は。 魚は相変わらずひれを動かし、どこかを目指して泳いでいるきりなのでした。 私は再び歯軋りをし、けれど怒る事も嘆くことも出来ず、ただ魚の背鰭が向かう先へと、眼差しを向けることしか出来なかったのです。 そこには、花が。 ひたひたと忍び寄る薄闇のなか、浮かび上がるようにして香りたつ梅の花が、巨大な大樹を埋め尽くし咲き誇っていたのでした。 どうして、春を告げる花はああも暗い幹をしているのでしょう。 闇が深まるほど、幹は暗がりに溶けて失われ、花だけが。 花だけが、まるで魚だけが海を目指して人はその付属物であるその様のごとくに、鮮やかに。 私は、私はこのように魚の泳ぎを助ける水としてだけ、存在しているものなのでしょうか。 ぴたん、魚のひれが、はっきりと意思を持って私の胸を打ちました。 私が沈黙し立ち尽くしたままでいると、また。 ぴたん、ぴたん、せかされて私はのろのろと歩き出しました。 薄闇はいよいよ濃く、小道は闇に閉ざされて足元も危うくなります。 おぼつかない足取りの私が、どこを目指すのかも解らず歩いていると、突然、魚が言ったのでした。 ──春の道だ。 当たり前のことを。私は半ば憤りながら目を上げ、 そして、闇の中に浮かび上がる、白いこぶしの、その先の連翹の黄色の、さらに先の白梅の、小道の先々を照らす花の道しるべを──。 魚に促され、私は再び歩き出しました。 この先に海があるの、本当に? 私が尋ねても、魚は答えませんでした。 ただ、胸のまんなかでくるりと回転し、再び、小さな声で歌い始めたのでした。 |
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