エル(オス猫)が死んでから一年が経つ。
主人と一生はゴルフの帰りにお墓参りをしているが、私は一度もお墓まいりをしていなかった。エルのことを忘れたわけではない。自分が生きることに精一杯だったような気がする。
車で三十分ほどのところにあるペットの共同墓地。一年前、共同では嫌だと二葉が泣いた。
「どこにエルちゃんがいるのかわからない。」
私もできればエルだけで火葬してほしかった。エルの骨をずっと持っていたかった。でもあの時の私は働くこともできず、エルだけの火葬をするお金を持っていなかった。
お花や餌を供えた。
「エル・・・ごめんね」
心の中で詫びた。いろんな意味でエルの命を縮めたのは自分のような気がしてならなかった。合わせた掌の間から涙がつたった。
謝った後で、色々な場面が思い出されて来た。それはエルとの楽しい思い出ばかりだった。
「エル、ありがとう、ありがとう・・・・」
とずっと繰り返した。
飾ってあるたくさんの絵馬を見たら、もっと泣けて来た。私達のようにペットを失って同じような思いをした人達の言葉が綴られていた。生まれたてのような子猫もいた。
エルを忘れない、と心に誓った。

エルとモコに会ったのはペットショップ。
雑種の猫ちゃん達が入っているゲージには「もらって下さい」と書いてあった。後ろにいるのがエル。三角にちょこっとだけ顔が見えているのがモコ。

初めて我が家に来た日。じゃれて遊んだ。

2003年のエル。「私の恋人」と言っていた。

そして、2004年、エルが死ぬ一ヶ月前。こんなに元気なエルが死ぬなんて思ってもみなかった。

エルのお墓参りをした後、一生が飛行機を飛ばしたいと言ったので、公園に行った。何度も飛行機を飛ばす一生の姿を見ていた。その後子供達はバドミントンをした。そんな姿を見ていたら、涙が乾いていた。
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数年ぶりに青森に帰省した。
こっちに戻って来る頃には父の顔を見ることさえ嫌になっていた。
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実家には父が書いた遺書があった。遺書と言っても、メモ用紙に書いたようなものが何枚も。私の名前のところには、「苦しんだね」と書いてあった。
それを読むと涙が止まらなかった。拭いても拭いても涙はこぼれた。
父のことを理解したいと思っている。でも、返ってくる言葉や怒った表情を見るのが辛かった。
実家に帰っている間に母の五十肩がひどくなり、母は針とお灸をしてもらいに通った。私も頭痛が強くて針治療をしてもらった。自分がまだ元気とは言えない状態だったが、それでも両親を実家に連れて帰りたかった。
「やっぱり自分の家が一番いい」と実感し、おいしいものを食べ、元気になってここに戻って来たいと感じてほしかった。
主人が市場に連れて行ってくれた。兄の子供たちと手をつないで歩いたらしい。
父が愛した山にみんなで行った。知人が草取りをしてくれていたせいか、思ったより荒れていなかった。母が植えたアジサイが咲く道は昔と変わらなかった。
10分も経たないうちに、座っているのが辛いと言って、帰るという父。
父の口から出る言葉は不満だらけだった。
数日家を空けるに当たって、猫を預けなければならなかった。
猫は犬と違って車などでの移動に弱い。人間がずっと車酔いをしているのと同じ状態になるらしい。ペットホテルに預けるためには予防接種をしなければならず、予防接種とホテル代、2匹で4万円以上かかった。
うちの車には5人しか乗れないので、8人乗りのレンタカーを借りた。
レンタカーが5日で5万円強。
高速代とガソリン代は母に払ってもらったが、うちとしてはかなりの出費だった。
こうして計画したことは無駄だったのだろうか。
ありがた迷惑でしかないような父の言葉が突き刺さる。病気は人を思いやる気持ちすらなくしてしまうものだのだろうか。
「行ってよかった。ありがとう」
と言ってくれた母の言葉が救いである。
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往復全ての行程を運転してくれた主人に感謝している。

父の山に続く道は、トトロが出てきそう。
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数々の山を越えた。
1、2日 栃木での仕事
3日 娘の部活の発表会
4~8日 青森へ帰省
9日 栃木での仕事
10日 栃木のデイサービス、夏祭り
11日 訪問入浴の仕事
娘の部活のこと、帰省したこと、夏祭りのことなど、書きたいことは山ほどある。でも、疲労がたまらないうちに休むことにしよう。
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今朝久しぶりにメールのチェックをした。
100通以上のメール、ありがとうございました。
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2005年08月10日(水) |
夏休みなのにハードな毎日 |
4日から8日まで数年ぶりに青森に帰省した。
両親が栃木にいるので、ここ数年実家に帰ることがなかった。両親も同じく数年ぶりだ。
帰って来てからすぐに栃木での仕事。
そして一週間ぶりに我が家に戻って来た。明日も仕事があるので、日記はこのぐらいにしておこう。
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2005年08月02日(火) |
小池さんのお仕事とサダ子さんの言葉 |
2~3日前、一人で残業をしていたら、長谷川さんという利用者さんの家族から電話がかかって来た。
長谷川さんのバッグの中に田島さんの手帳が入っていたという連絡だった。
デイサービスでは、一人一人に手帳があり、その日の体温や血圧その他の状態や、家族への伝達事項などを書いている。
電話を受けた私は、長谷川さんの家族に謝った。そして、田島さんの家にも電話をして謝った。その他諸々事後処理を。
わ~やってしまった!
でも確かに田島さんのバッグに入れたはず。田島さんは歩行器を使っている。その歩行器にかかっているバッグに入れたとハッキリ記憶していた。
でもなぁ・・・・私がやることはマがヌケている。
生まれつきボケているのだからしょうがない。
今日、スタッフに呼ばれた。
「ねぇ見て下さい」
というしぐさだった。
小池さんが飯島さんのバッグの中から手帳を取り出そうとしていた。
そのスタッフが、
「田島さんの手帳も小池さんが長谷川さんに渡したのかもしれませんね」
と小声で私に言った。
認知症の小池さんは、まるでお手伝いをしているか、スタッフのように、
「・・・・ですからお願いします。ぢゅおいうもうkjぬkどうあrマおじょあうお、f歩dふぉだjふぉじゅあいいですか?ハイよろしくdもふmおえうぃふぃj・・・」
と言った。
私もスタッフも笑いをこらえた。
「ハイ、わかりました。ありがとうございます」
と言って小池さんから手帳を受け取った。
私達スタッフは小池さんがすることにNOとは言わない。
否定せずに、別の方法で気持ちを変えるようなやりかたを取っている。
たとえば誰かがトイレに入っている時に入ろうとしたり、他の人とトラブルになりそうな時は、
「ここに座ってお手伝いして下さい」
と言って、看護師の隣に座ってもらう。
他の利用者さんにも理解してもらいたいが、認知症対認知症ではそういうわけにもいかない。
いつも座っていられるわけではないから、歩きながら相手をしたりもする。
小池さんの話を聞きながら仕事をする。少なくとも私と武田さん(看護師)はそうしている。
でも田中サダ子さん(看護師)は違うらしい。
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そう言って、他のテーブルに連れて行くという。
※利用者さんやスタッフの名前は仮名です。
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土曜に家に帰り、日曜の夜には再び栃木へ。ハードな生活が続いている。
疲れが出たのか、今日は朝からつらくて仕事を休みたかった。何がつらいのか説明が難しい。眠いわけでもなく、痛いわけでもい。強いて言うなら体全体がだるいような感じだ。
これが夏バテか?
昨夜寝る時、一生が布団を敷いた。
姉の家ではフローリングの上に直接布団を敷いている。
さあ寝ようと思い、体を左向きにした。
ん?なんか左腕(二の腕)に違和感がある。
右を向いてみた。こちらはそうでもない。
もう一回左を向いてみた。やはり、違和感がある。
これは太ってしまったせいだ。
どうしよう!
脇の下も肉がついた感覚がある。
これが感じなくなったらおしまいだ。
どうしよう・・・・
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ああ、よかった!
と喜んでいる場合ではない。
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