うつ病で摂食障害などを抱える看護師。色々あるけど、生きて行くのだ!

2003年11月30日(日) 制服を着ない理由と息子が受ける高校

 うちの息子は、小学校6年の頃から不登校になった。今中学3年だが、トータルで学校には10日も行っていない。ただ、教育センターや、学校の相談室には行くことはたまにでき、そこに行けば、出席日数として扱われる。

 私が入院する前は、学校に行きたいという本人の希望で、学校の相談室へ私が車で送っていた。でも、入院したとたんに祖母が連れて行くと言っても、なかなか「行く」とは言わず、行けなくなってしまった。先日久しぶりに学校の相談室に行って来た。そこに担任も来て、三者面談の話や、卒業アルバムの話になった。主人と相談して、卒業アルバムの写真は撮らないことに決めていた。みんなと一緒に撮ることは無理に決まっているし、なんの思い出もない学校の写真を撮って集合写真の上にちょこんと貼ってもらうことになんの意味があるのだろうと思ったからだった。本人もそんなアルバムを見たくないだろうと思っていた。

 先生に聞いてみたところ、集合写真は無く、一人一人撮るのだと言う。それに相談室で撮ってもいいということで、本人は写真を撮ると言い出した。でも、制服を着るのは絶対に嫌だと言う。「写真を撮る時だけ制服を着るのも嫌なんだよね」と言ってみたら、「だってそれは嘘だもん」と一生は言う。そりゃそうだと私も納得した。学校にカーゴパンツやジーンズをはいて行っている息子である。その時だけ制服を着るのは嘘だという気持ちはよくわかる。

 できあがった卒業アルバムを見たくなければ見なくてもいい。封印しておけばいいのだ。将来、見たいと思う時が来たら見ればいい。その時、こんな苦しいことがあったと、なつかしく振り返ることができる日が来ると私は信じている。学校に行けなかった日々は決して無駄ではない。これから生きて行く上で、大きな糧になると私は思う。

 最近真剣に進路について考えている。息子にピッタリの学校が見つかった。
普通科と定時制は単位制。その他に通信制もある。必修科目はあるが、ほとんどが自分で自分の時間割を決める。一年、二年、三年、という学年はなく、単位を取れば卒業できる。しかし、人気のある学校らしく、最近は倍率が高いらしい。もしそれに落ちたら、通信制にすればいい。通信制は月に2~3日のスクーリングがあるが、それならなんとかなるだろう。

 一生が一生らしく生きるために、自分の力を発揮できるように、枠にはまった教育ではなく、フレキシブルに対応してくれる学校が見つかって、ホッとした。まだこの学校に決めたわけでは無いが、今日見に行って来た。悩んでいないとは言え、どうしたらいいのだろうと気になっていたので、見ることができただけでうれしかった。

 中学に行っていなくても、日夜研究に没頭する学者タイプの人間である。
そして、ジョークばかりとばしている、ユーモラスな人間だ。一生の持っている能力を充分に伸ばせるような高校生活を送ることができたら、と思う。






↑エンピツ投票ボタン

My追加




2003年11月29日(土) 閉鎖病棟の実態とイケナイ患者

 入院してすぐに行われたのは、荷物検査だった。ガラス製品は全てダメで、もしコーヒーを持ち込みたかったら、プラスチック容器に移し替えなければならない。砂糖もミルクも同じ。鏡もダメ。ヒモもダメ。もちろん、眉毛をそりたいと思ってかみそりを持ち込むなんてもってのほか。それどころか、綿棒やつまようじさえもダメだった。そういう物はナースステーションに預けて、使いたい時に、使いたいだけもらわなければならない。ベルトもダメなので、カーゴパンツがずり落ちてる少年がいた。まるで刑務所のようだと感じた。私もヒモ付きの袋など、ダメだと言われて母に持ち帰ってもらったものがたくさんあった。コップもプラスチック。不思議だと思ったのは、コード類がダメでCDラジカセなどを持ち込んでも、電池を使わなければならないのに、ヘッドフォンのはいいということ。ヘッドフォンのコードはなぜいいのか・・・。

 外出や外泊をして病院に戻るたびに持ち物検査は行われた。しかし、私は最初から持ち込んではいけないものを持ち込んだ。バレるかもしれないということを承知で、どうしても持ち込みたいものだった。それは携帯である。母にも誰にも言わずに携帯を持ち込んだ。持ち物検査ではバレずに通過してしまった。持ち物検査をしたのは、前回の日記に書いたツノッティーである。

 後日、母にメールを出したら、叱られた。
「もし見つかったら、あなたは叱られて済むだけかもしれないけど、検査をしたあの若い看護師さんがかわいそう」と。でも、私は反論した。携帯は私の命の次に大事なもの。私から携帯を取り上げないで、と。看護師の私がこんなことをするのは、マナー違反以前の問題だと自分でも思う。でも、私は携帯を手放すことはできなかった。

 まず考えたのはどうやって充電するか。電池式の充電器を探したが、私の機種に合うものがなかなか見つからなかった。かなりのお店を回ってやっと見つけて、これで充電はオッケーと思ったが、一週間も経たないうちに簡易式充電器が壊れてしまった。これじゃ普通に充電するしかない。携帯の本体にコードをグルグルと巻きつけてコンセントに挿した。そして、それが見えないようにゴミ箱で隠した。充電は必ず夜やる。そしてゴミ箱に入っているビニール袋を少しだけ上にずらす。これがポイントだった。

 あんなに怒っていた母が、時々メールをくれた。「何か持っていくものある?」などと(笑)


 病院に携帯を持ち込んでしまったイケナイ患者だったけど、携帯があったから1ヶ月半の入院に耐えられたのかもしれない。友人達の励ましがうれしかった。私は携帯依存症かもね。






↑エンピツ投票ボタン

My追加







2003年11月27日(木) イケメンぞろいの閉鎖病棟

 閉鎖病棟と聞くとどんなイメージを抱くだろう。
私は任意入院(自分の意志で入院すること)だったので、本来ならば、開放病棟に入るはずだった。しかし、自殺する意志がなくても、リストカットやオーバードゥース(大量内服)の前歴があるため、自殺企図とみなされ、閉鎖病棟に入ることになった。
閉鎖病棟には出入り口に鍵がかかっていて、看護師や医師の許可がなければ鍵を開けてもらい出入りすることができない。

 疲れきり、不安だらけの入院だった。でも、私が入った閉鎖病棟はそんな気持ちを吹き飛ばすような明るい場所だった。日中はみんな私服を着ていて、夜になるとパジャマに着替えた。出入り口に鍵がかかっていても、食事や薬の時間以外は自由時間で、ホールで麻雀やトランプをしたり、お菓子を持ち寄ってみんなでおしゃべりをすることもある。入院すると同時に、自己紹介をしてくれる患者が多く、友達もすぐにでき、すんなりとその生活に溶け込むことができた。朝早く目覚めた時はホールで日記を書くことが多かったが、日中の大半は、友人とおしゃべりをしたり音楽を聴いたりしてリラックスして過ごした。

 なんと言っても、よかったのは「イケメン」ぞろいだったこと。決してカッコイイだけではなく、カッコイイ=本当のイケメンもいたが、特に男の看護師は優しい人が多かった。

 私が好きな順番に並べると、
1、肉まん君
2、ツノッティー
3、ワイルダー小野里
4、カラサワ君


 あやかちゃんの好きな順番に並べると
1、ツノッティ-
2、イシピー
3、肉まん君
4、ワイルダー小野里


それぞれ、最初に問診した看護師が担当看護師となり、私はツノッティーだった。
ツノッティーは身長185cmあり、ジョークもかなりおもしろい。イケメンであり、性格もよかったので、みんなにうらやましがられた。私はもちろんツノッティーも好きだけど、なぜか肉まん君が好きだった。肉まん君は決してカッコイイとは言えない。身長も高くない。でも、理由なしに肉まん君がよかった。本当は「筋肉マンと呼んで」と本人が言ったらしいが、前入院していたミカちゃんが「肉まん君」と呼んだので、そのまま「肉まん君」になってしまった。

 肉まん君が点滴をしに来た時に「失敗したらゴメンネ」と言われたので、「私は何十回刺されても平気だから、大丈夫だよ」と言うと、チクッとやった瞬間に「ゴメン」と言った。つまり、すぐに漏れてしまった。2回目はすんなり入ったが、しばらく経つと漏れた点滴の跡が青くなって来て、それがウサギの形に見えた。

あやかちゃんに、
「ねえ、この点滴の跡、ウサギさんに見えない?」と言ったら、大爆笑された。
そして、「肉まん君、ウサギさんにしてくれてありがとう」と言う気持ちになった。ほとんど、看護師相手に遊んでいる状態だったかもしれない。

 薬を飲む時間には、ホールに水を入れたコップを持って集まる。薬をため込まずにその場で飲む事を徹底させるためだ。粉薬をうまく飲めない人は、アーンと口を開いて飲ませてもらっていた。私は真面目な看護師にはついイタズラをしたくなる。イシピーの時に、アーンと口を開けると「えっ?」という表情をした。「冗談ですよ」と笑うと「飲ませて欲しいのかと思った」とイシピーは言った。
 カラサワ君の時もアーンと口を開いてみた。「えっ?あっ?はっ?」みたいな言葉を発したので、またまた「ジョーダンで~す」とふざけて笑った。

 こうやって楽しく過ごしていても、頭皮のかさぶたをはがして血だらけになり、ナースステーションで消毒をしてもらうことが何度もあった。ツノッティーの時も肉まん君の時も、イシピーの時も、小野里さんの時も消毒してもらいながら泣いた。「しみる?」と言われたが、もちろんしみるから泣いているわけではない。

 一番つらかったのは、先生が鎮痛剤を替えてくれなかったこと。出されている鎮痛剤がどうしても効かなくて、先生に何度訴えてもダメだった。私は一週間頭痛がひどくて食事がとれずに点滴をすることになった。
「あなたは薬物依存症です」と言われ、「頭痛薬を飲むのをやめなさい」と言われたが、「だったら、この頭痛を全部先生にあげます」と言ったこともある。

 小さな中庭のチェリーセージをじっと見ていたら、鍵を開けてくれた看護師もいた。そこで少しは外の空気が吸える。好きな花の手入れができた時は本当にうれしかった。

 つらいこともあった。泣いてばかりの夜もあった。でも今はみんなと合宿をしていたような楽しい日々が思い出される。






↑エンピツ投票ボタン

My追加











2003年11月19日(水) 心地良いMRIと涙で歩いた30分

 内科でMRIを撮る日だったので、母に車で病院まで送ってもらった。
一生と主人はゴルフ。二葉は学校に行きそれぞれの時間を過ごした。

 最初に受けたMRIはものすごい音がしたのを覚えている。まるで工事現場にいるようだった。それが、私がバイトしていた病院のMRIは昔に比べて音が低くなったと感じた。さらに、今日行った病院では、ヘッドフォンを貸してくれた上に、説明書には「大きな音が苦手な方には耳栓を用意してあります。1個50円」と書いてあった。MRIの検査は何度か受けたことがあるが、ヘッドフォンをしたのは初めてだった。しかも、水の音と心が落ち着くような音楽が流れていて心地良かった。

 母が姉の家(小山)に行ったので、私は友達の家に遊びに行くことにした、行きは時間がなくなったので、小山に行く前の母に駅まで車で送ってもらったが、帰りはタクシー代をケチって歩いた。ケチっただけではなくて、本気で痩せたいと思っているので、歩いた方がいいと判断したのだった。しかし体力の衰えは予想以上だった。歩くことが辛かった。約2ヶ月の入院でこんなに体力は落ちるものだのだ。
 
 歩いているうちに泣けて来た。私は何をしているんだろう。タクシーに乗ればよかったのかなぁ。でも、がんばるんだ!と思ったら涙がボロボロこぼれた。
やっぱりまだがんばれないんだなぁと思ったら、また泣けて来た。

 歩いては止まり、歩いては休み・・・・15分で着くはずが30分かかった。家に着いた途端、ホッとして泣いた。







↑エンピツ投票ボタン

My追加

BBS










2003年11月18日(火) 退院したからといって治ったわけではない

 退院すると、病気が治ったと思う人が多いようです。でもそうではなく、退院して外来での治療に切り替えた、と言ったらわかってもらえるでしょうか。


 最近は精神状態が安定し、穏やかに暮していたのですが、今日はそうではなかったのです。まだまだ治っていない現実を思い知らされた日でした。急によくなる病気ではないことは充分わかっています。病歴は長く、20年にもなるし、入院するまでもここまでかかったのです。

 でも、かなりショックな一日でした。
  


 大好きな青い花を三種類買いました。近いうちにアップしたいと思います。花は私の心を癒してくれます。






↑エンピツ投票ボタン

My追加

BBS









2003年11月16日(日) ぎゃ~!!!やってしまった!!!

昨日まで入院していた病院から電話がかかって来た。

「あの~こちら、○○病院5病棟のAと申しますけれども、ベッドの下の引き出しに忘れ物があったんです」

「え~っ?そうなんですか?充分調べて帰って来たつもりんですけど,
何を忘れていましたか?」


相手は少し間をおいて、気まずそうにこう答えた。












「パンティーなんです」



「えっ?きゃ~はずかしいいいいいいいいいいいいいいい!!!」(絶叫)


「今度外来でいらっしゃいますか?」

「でも、かなり恥ずかしいのでそのまま処分してもらっても結構なんですけど」


「いえいえ・・・ちゃんと中身がわからないように包んで、外側に名前を書いてわかるようにしておきますから、外来にいらした時に5階の受付に寄って下さい」



「ハイ。申し訳ありません。よろしくおねがいします」




なぜ寄りによって、パンツなんか忘れてくるんだろう(T-T)







↑エンピツ投票ボタン

My追加

BBS








2003年11月15日(土) これが本当の「ただいま」かな?

 11月7日に精神科を退院した。約一ヶ月半の入院で、先生には「だいたい一ヶ月、長くても一ヶ月半」と言われていたので、予定通りといえば予定通りだろう。

 
 ところがやっと退院して喜んでいたのも束の間、悪夢は8日の深夜3時ごろに襲って来た。激しい頭痛、腰痛、関節痛、その他に体の皮膚の表面がピリピリと痛かった。主人に「お願いだから病院に連れて行って」と言っても、信じてくれない。
狼少年(少女?女?)になっているのか、「またか?」という反応である。それに、
「朝の9時まで待ってよ。今の時間は料金が高いんだから」

 激しい痛みを訴えても「不定愁訴か?」ぐらいにしか考えていない主人は、ぐうぐう寝ている。あの状態で9時まで待つことはどうしてもできなかった。どうにか主人を起して救急外来に連れて行ってもらった。
 
 熱を測り採血をした。熱は39、4℃にもなっていたが、痛みの方が強くて熱があると言う意識は全く無かった。
当直医に「白血球の数がかなり少なくなっています。1400ですから、どういう状態かわかりますね。それに肝機能もかなり悪くなっています」と言われた。白血球の数値が低いということ感染しやすい状態にあることを意味する。白血球の正常値は約4500から8500ぐらいで、10000を越えると今度は感染を疑う。

 「今すぐ入院して下さい」と言われた。私は、「先生、私昨日退院したばかりなんですよ」と言ったが、「お気持ちはわかりますけど、今は危険な状態ですから」と言われ、先生の指示に従うしかなかった。

 翌日の採血では、白血球の数が2万に跳ね上がり、何かに感染したことを意味しした。
 

 そして思っても見なかった入院生活を送ることになった。最初の3~4日は悪夢のようだった。痛みが強くて、「痛い、痛い。なんとかして。助けて」とずっと言っていたような気がする。それでも主治医は、痛み止めを使うことはなく、抗生剤を使って様子を見ましょうというので、耐えるしかなかった。身の置き場が無く、寝返りを打つのも辛かった。4日ぐらいICUにいて、それから消化器内科に転棟することになった。
 
 最初は4日間絶食で、それでも薬は飲まなければならず、精神科の薬の副作用で喉が渇くことがとても困った。どうしてもゴクゴクとお水を飲みたい。当たり前のことだが、トイレに行きたくなる。でもトイレまで歩くのがしんどくて、点滴台にしがみつくようにして歩いた。

 母に薬を取りに行ってもらったら、精神科の先生は「もしかして薬の影響があるかもしれない」と言い、薬をかなり減らした。それで喉の渇きはずいぶんよくなりその分楽になった。

 内科に移ってからは、辛くても積極的に歩くことにした。部屋ではなく、洗面所まで歩いてハミガキをしたり、顔を洗ったりした。それがよかったのかどうかはわからないが、一日毎に体が楽になっていくのを感じた。

 先生はぼよよ~んとした人で、「検査の結果がよかったら週末ぐらいに退院しましょう」と毎日繰り返した。つまりいつ退院できるのか、当日までわからかったのである。

 今日も採血し、「数値がかなり下がっていい状態になっていますので、退院してもいいんですが、いつしますか?」と聞かれ、「今します」と即答した。


 そして今日退院し、久しぶりの日記を書いています。入院中もほとんど毎日書いていたけれど、ボチボチとアップして行きたいです。


 明日入院なんてことはもうありませんように!







 < 過去  INDEX  未来 >


きき [BBS] [BBSⅡ] [ANDANTE] [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加