2006年02月24日(金) 【 中毒奇譚:2 】 |
【注意書き】
初見の方はまずこちらをご覧下さい(『はじめに』のページです)
【店主の経営メモ:本日のお客様──お得意様】
そういえばそろそろですね、と、店主は壁にかけられた時計を見て呟いた。2日に1度のこの時間、それは、店主のある種の楽しみでもあった。 ごそごそと後ろの棚を探り、1冊のノートを取り出す。店主がそれについてメモを取るようになったのはいつからだっただろうか。表紙をめくると、びっしりと何かが書かれている。よく見るとそれは──
「こんにちはー!」
店の暗さに反して、ひどく陽気な声だった。扉が開き現れたのは1人の女性。時間通りである。 綺麗に整えられた黒髪を後ろでひとつに縛り、柔らかな色合いの、シンプルながらによく似合っている服装に身を包んだ女性。扉が開いた時から絶やされる事のない笑顔は誰が見ても好印象だった。店主は自然と微笑みを浮かべ、会釈する。 「いつもどうも。本日はいかが致しますか?」 「今日はアフガニスタン風なんですよー!」 「アフガニスタンですか。アーモンドの原産地ですね……仕入れた物がありますが、いかがでしょう」 「アーモンドも良いですね! ブラニタンドリとブラニバデンジャンにしようかと思っていたんですけど」 「それは美味しそうですね。ではブラニバデンジャン用にヨーグルトもお出ししましょうか。……あとはスパイスといえば、カルダモンがありますが、チャイなども飲まれてみては」 「わ、素敵です! お願いしますー」 「かしこまりました。少々お待ち下さいね」 流れるような会話が終わり、店主が席を立つ。そして背後の扉の向こうへと入っていった。 女性は笑みを浮かべたまま、椅子に座り店主の戻りを待っている。
──2日後 「こんにちは! 今日は素敵なお天気ですね!」 きっかり同じ時間に、再び女性はやってきた。お散歩とかはしないんですか? と尋ねる女性に、店主はインドア派なのですよ、と返す。 「私も家の中にいる事が多いですけど、外に買い物に出るのは好きですよー!」 「そうでしょうね、お客様はいつも楽しそうで素敵だと思います」 店主は微笑むと、いつものように聞いた。 「本日はいかが致しますか?」 「今日はレバノン風にしようかなって。辛いのが苦手な人にはいいみたいですよ?」 「そうらしいですね。野菜たっぷりで日本人向けだとか。そうですね……オリーブオイル、レモン、あとはゴマあたりでしょうか」 「ええ、あとはパセリもお願いしますー。タブーリ用に」 「ホンムス用のひよこ豆は。瓶詰めでしたらございますよ」 「あ、それもですね!」 「かしこまりました。少々お待ち下さいね」 そしていつもの部屋入る店主。しかし今回は、すぐにそこから顔を出した。 「おっと、キサーラの赤などもございますが」 「それも是非!」 店主の言葉に、女性は満面の笑みでそう答えた。
──2日後 「こんにちは! 今日は雨で大変ですね!」 けれど雨が嫌いという訳ではないのだろう。女性はいつもの笑顔でやってきた。 「今日はフランス風なんですー」 「おや、豪勢ですね」 「お給料日だったので」 「そうですか。家庭的なものと言えば──ポトフなどですか?」 「それは外せないかなって。あとはニース風サラダなんかにしようかとー」 「ふむ。サラド・ニソワーズは美味しいですね。ではひとまず、アンチョビと黒オリーブ、ワインビネガーなど」 「あとローリエとコルニッションもお願いしますー」 「了解しました。……デザートは何に」 「まだ決めかねてるんですよ。何かオススメとかあります?」 「そうですね……桃のコンポートなどはいかがですか? アイスクリームを沿えて、バルサミコ風味のカラメルソース」 「あっ、美味しそうですね!」 「ではバニラビーンズとバルサミコ酢もお出ししましょう。本日はそれで宜しかったですか?」 「はい! お願いしますー」 かしこまりました。店主はそう言って、いつものように席を立つ。 いつもの光景である。店主は勿論なのだが、女性はいつもこうだった。幸せそうに、楽しそうに。店主は店の奥の部屋で棚を探りながら、ふと思い出す。
……そんな朗らかな彼女にも、悩み多き時期というものはあったのだ。 出会いは、そう。
──1ヶ月前 「お願いがあるんです!」 女性は、真剣な表情を浮かべて店へとやってきた。その時が初めての来店だった。店主は、女性の第一声にうんざりとした顔を浮かべそうになったのは、今では良い思い出だ。 「……お願い?」 若干怪訝さの混じる声で店主は聞いた。何をしろと。何を出せと。無言の視線を容赦なく女性へと突き刺した。別に、普段もそうする訳ではないのだが──むしろ詳細を聞くまでは笑顔を保つのだが──その日はちょうど、直前に店主に言わせれば『たかだか個人経営の店に、自分の人生預けようとする馬鹿な客』と一悶着があった後だった。 だが、女性の話を聞いて、店主は冷静さを取り戻すこととなる。 「ここに来れば何でも揃うって……お世話になっている人から、聞いて」 「物にもよりますけれどね」 「そんなけったいな物ではないです……ただ、何したらいいのかが分からなくて。何でも大丈夫ですよって言われはしたんですけど、それでも」 店主は思わず眉をひそめた。女性の話が掴めない。 「……ひとまずその椅子におかけになっては如何でしょう。気分の落ち着くハーブティーなどをお出ししましょう」 「はい……すみません……」 素直に従った女性を見て、店主は大丈夫かもしれない、と感じた。通常、店主の嫌うタイプの客は、促しても落ち着いてくれやしない。一方的に期待に溢れた言葉の数々を店主に投げかけるものだった。店主は手際よくティーカップを用意し女性に差し出した。 「まずはそれを一口飲みましょう。それから、深呼吸の後に事情をお話頂ければ幸いです」 それにも女性は素直に従った。ハーブティーを一口、すぐに目を少し大きく開いた。それもそうだ。店主自慢のお茶である。 「……ごめんなさい、私、取り乱してました……」 「落ち着いて頂けたのであれば何よりですよ。そうですね僕に出せるのはそういった、ちょっと素敵な何か、の程度であるとご理解頂ければ」 「私、ちょっと焦っていて……大丈夫ですと言われた事は嬉しかったんですけど……」 「何が大丈夫であると?」 「好きな人への告白……です」 女性は、カップを持ったまま話し始めた。 とてもとても好きな人がいて、彼の好みの女性になるべく努力をしていたのだそうだ。けれど、どうしても上手くゆかなくて女性は自信を失いかけていた。そんな時に、普段世話になっていた人物が言ってくれたのだという。 そのままで十分ですよ。 そのままの貴方で、ほんの少しの工夫をするだけで、彼にぶつかってご覧なさい? 「男性というものは、美味しい料理と赤が好き、と」 「後者はよく分かりませんが、前者は認めます」 見ての通り、店主は黒が好きである。それはさておき 「僕も、素敵な料理を作って下さる女性は好きですよ。お料理は得意で?」 「ええ、一応褒めて頂ける程度には」 「ふむ。告白の際にお作りになった料理を持参しようという事ですか?」 「そういう事です。なんですけど……」 いざ作ろうと思うと、何を作ったら良いかが分からなくなった。悩み抜いて数日、再び困り果てた女性は、そのアドバイスをくれた人物に尋ねようとした。けれど、 「盲腸炎で入院してしまっていたんですよ」 「それは災難ですねぇ」 「メニューは自分で考えてみます、だなんて強がらなければ良かったです……それで、こちらのお店の事だけは事前に聞いていたので……焦ってそのまま」 すがるように飛び込んできた、というわけだった。そういう話であれば、店主も協力をしようという気分になる。 「僕で宜しければご協力致しますよ。きっと必要である材料もお出しできるでしょう」 「ありがとうございます! ……それで、男性の方が喜ぶ料理って、何が多いんでしょう」 店主は自分の好みを思い出すように思考を巡らせた。美味しいと思えば割と何でも食べる方ではあるのだが、それを食べる事により、作った相手に思いを馳せてしまうもの、となると、また別の話である。しばし考え、そして至った結論は、 「……やはり、基本的な家庭料理。これに勝る異性を釣る餌はないですよ。まぁ僕の主観ですが」 「それで、いいんですか……?」 もっと気張ったものを考えていたのか、女性は拍子抜けしたような顔を見せた。店主は小さく微笑むと続ける。 「ええ。例えば……シンプルな具の中に、その男性が好きな具をひとつ、さりげなく入れただけの味噌汁と……あとはよく聞くのは肉じゃが、でしょうか」 「あ、肉じゃがは確かによく聞きますね……」 「ですね。全体的な栄養と色のバランスは考えたうえで、低コストで抑える事が出来ても良いかもしれませんね。それと、お酒を飲まれる方でしたら、それに合うおつまみを作って頂ければ、僕は惚れます」 「お酒……は飲んでるみたいです、ね。私の職場が洋ものの食材店なんですけど……時々洋酒を」 「時々という事はたしなむ程度でしょうね。毎日飲み過ぎる人よりは余程いいかと僕は思いますよ」 店主は自分が酒に酔うことにより、普段維持しているイメージを崩す事を嫌っている。制限が出来る人ほど、後から後悔をしないものであるというのが自論だった。まぁ、今はあまり関係の無い話である。 「それはさておき。その後にちょっと、手製のデザートなどを沿えれば、お客様のような可愛らしい方であれば完璧だと思いますよ、僕は」 事実、女性はとても……言うならばチャーミングという表現が似合いそうな女性であった。魅惑的というよりは健康的・家庭的な女性。これはあくまで店主の趣味であるが、長く付き合うならばそういうタイプの方が好きである。 一般的な感覚を持った男性であれば、この女性を振るような、独り身の輩には、蹴りの一発でも入れたくなることであろう。 「あ、ありがとうございます……それで、デザート……」 「これはそこまで張り切らずとも、ご自身が出来る範囲で、主食の合間に作れるものを用意すれば宜しいかと。食後の甘味はほんの数口あるだけでも、全体の満足度が違いますよ」 「生地を色々作り溜めていたアイスボックスクッキーがあります、ね」 「それでも十分でしょう。……と、かなり僕の主観で話してしまいましたが、大丈夫ですか?」 実際、個人個人が相手を完全に理解する事は不可能である。多少のズレはあって当然なのだ。大事なのは、理解をする事よりも、しようと思う気持ち。 店主には、女性から焦りが抜け落ちたように見えた。 「……大丈夫、です。私、頑張りますね!」 無意識で店主は微笑んでいた。それでは、と、安価で手に入るが、質は保証できる食材を幾つか挙げる。女性は嬉しそうに何度も頷いた。 「ではお出ししましょう。少々お待ち下さいね」 店主は椅子から立ち、背後にある部屋のドアノブに手をかけた。それを女性が「あ、」という声で引き止める。 「? どうなされました?」 「あの、食材の他にお願いしたいものが──」 「はい、おっしゃってみて下さい」 「赤い服を」 「こだわる理由が良く分かりませんが、了解致しました」
……その後の結果は今、にこやかに店に来ている女性を見れば、明白である。
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「では本日も、ありがとうございました」 食材を片手に店を出ていった女性を見送り、店主はふぅ、と息を吐く。
片手には、1冊のノート。開くとそこには西から東、北から南の多数のレシピ。 扉を見つめながら、ふとひとりごちた。
「……グーグルは便利ですね」
検索条件は『国名+家庭料理』、である。 万能店主は今日も必死だ。
2006年02月08日(水) 【 中毒奇譚:1 】 |
【注意書き】
初見の方はまずこちらをご覧下さい(『はじめに』のページです)
【店主の経営メモ:本日のお客様──空色な人】
青年は何故かそこにいて、目の前にあった扉に手をかけていた。簡単に開いた扉の先に、自分よりは少し年上と思える青年の姿を認めて小さく会釈する。 「いらっしゃいませ。どうぞおかけ下さい?」 「……どーも」 青年は素直にそれに従い、椅子に座った。座り心地の良さに驚いていると、テーブルの向こうで青年──店主がひとつのティーカップを取り出した。 「何か飲まれますか? お好みの飲み物を告げて頂ければ出せるかと」 「じゃあ、オレンジジュースで」 「珈琲と予想しておりました」 店主はそそくさとティーカップをしまい、代わりにグラスを取り出した。 「珈琲は苦くて苦手だから……」 「実は僕も苦手です。紅茶が好きですね」 実は店主側の足下には、小さな冷蔵庫が置かれている。この店の雰囲気にはそぐわないので反対側からは見えないようになっているが。そこから冷えたオレンジジュースを取り出してグラスに注ぎ、青年へと差し出した。 「どうぞ」 「どーも」 青年は受け取り一口飲んだ。味に満足したのであろう、無表情だったそれが少しだけ和らいだ。 「今日はどういったご用件で」 「んー、よくわかんない。気付いたらこの建物の前に立ってて、それで入ってた」 「おや、運命的ですね」 そしてなかなか珍しい方ですね、と店主は続けた。青年が店に入ってきた時から思っていたのだが、青年の髪と瞳が、とても綺麗な空色をしていたからだ。顔つきは日本人と思えるのだが、だとすれば余計に珍しい。 「あー、これ? よく言われる」 ジュースを飲みながら青年は自身の髪を指さした。言われ慣れているのだろうなと店主は思う。 「ちょっと、ね」 相変わらずの薄い表情のまま青年は言った。何か事情があるのだろうか、そうだとしても、店主にそこに踏み込むつもりはない。相手から触れてくるのであれば、ある程度は付き合うのだが。 「そうですか。まぁ、これも何かの縁です、一応雑多に品物を揃えている店ですので、何かがあればお出ししますよ」 「店だったんだ、占い師さんとかかと思った」 ぐるりと店内を見回しながら、青年は相変わらずちびちびとジュースを飲んでいる。確かに過去にもそういったことを言われたことがあった。 「外装も内装もただの僕の趣味ですよ。……まぁ、お陰で変な噂が立って、時々苦労もしますけれど」 「……噂で……苦労?」 ええ、と店主は頷く。そして、お茶請けにでもと話してやった。この店に対する世間のイメージとの相違、時々塩を撒いて追い返したくなる心境など。 「あんな扉にしなきゃいいんじゃ」 「それはそれで、茶飲み仲間の人が入ってこれなくなってしまうので」 妙に開きやすい扉に対してのコメントにそう返す。例えば、近所に住んでいて、店の前を散歩コースとしているおばあさん。彼女は店主の煎れる緑茶が大変お気に召している。 「ふーん……ま、客商売ってそういうもんだよね」 「僕も頑張ってそう割り切ろうとしてますよ」 「ん、頑張ってね。 ……あー、そうだ、どのくらいの品揃えなの? 変な噂が立つくらい?」 「ええ、それなりに。突拍子もない事を言わないで頂ければ一通り」 何でも出てくる店、という、とある四次元に繋がったポケットよろしくな店に憧れていたものだから、店主は若くして色々と頑張っていた。販売に知識や資格が必要なものを取り扱いたいと思えば、意地でも修得。そんな事が日常茶飯事となっていた年代もあったものだ。 「何でしたら、突然切れていた事に気付いた時にでもお立ち寄り下さい?」 「何が?」 「お塩や、味噌など」 「あるんだ!?」 改めて店を見回し、どこか乾いた笑い声を漏らしてからようやく、青年はグラスを置いた。暫くの間何かを考えていたようだったが、店主の顔を改めて見てから頷く。 「……うん、店主さんはなんか親近感が沸いてるからいいや。雑談がてらに聞いてくれない?」 「構いませんよ」 親近感の理由は少し気になった。けれど、やはり聞きだそうというところまでは、店主の意識は達しない。代わりにジュースのお代わりを勧めると、青年は嬉しそうにグラスを差し出した。 「俺ね、ちょっと疲れてて」 「お疲れ、ですか……あ、どうぞ」 再びジュースの注がれたグラスを差し出す。青年は受け取ったが、今度はすぐに飲まずに話を続けた。 「うん、ちょっと、知られたくない事があってさ、それでそれを頑張って隠しているんだけど……結構限界の崖っぷちまできちゃっててね、そのうちいきなり叫んで逃げそーで怖いの」 「分からないでもないですね、限界がくると180度回転をして、まるで駄目な人などになってみたくはなります」 「大声上げながらどっかに走っていったりね」 いわゆる現実逃避ではあるのだが。つまるところ、青年はもうすぐ走り出しかねないということだろうか。店主が見る限り、この物腰の落ち着いた青年は、そこまで追いつめられているようには見えなかった。 「限界なのですか」 「うん、限界なの。……嘘だと思っているでしょう、俺は本心は顔に出ないんだよ」 考えていることを読まれてしまい、店主は思わず苦笑した。青年は『いいけどね』と呟くと、続けた。 「困ってるんだ。普段俺が何かを隠す時は、とりあえず笑うんだよ。笑っていればみんなそれに騙されてくれるの。俺はそうさせる為に、普段から陽気に振る舞うワケね。地道な努力の末、俺はいつも笑ってる、悩みのなさそうな奴、って認識を確立させてきたんだよ」 「それはまた、なかなかに大変ですね」 「そうだよ大変だよ。でも俺が笑う事をやめると、一気に色々が崩れちゃうんだ。壊したくないものまで壊しかねないんだよね。だから必死なんだけどさ」 疲れちゃって、と青年は溜息混じりに呟いた。 言われてみれば、青年はこの店に入ってからずっと、ほぼ無表情だった。店主が初対面であることは、青年にとって逆に都合が良かったのかもしれない。息抜きが出来ているのならば何よりである、と店主は思った。 「というわけで、いい胃薬とか、ハーブとか、アロマとかそんなのがあれば」 「余程溜まっているのですね。精神安定求めすぎですよ」 「多分気休めにしかならないけどねー……」 品物自体は店主の後ろにある扉を越えれば確かに用意がされている。それにしても結果溜め込みすぎるだけにはならないか、と珍しく店主は客の今後を気にかけた。 「うぅむ。……お客様が今一番キツイ部分と言えば、何になるのですか?」 「んー……」 青年は再びグラスを手に取りながら思案顔を浮かべた。虚ろにも見える目をふらふらと泳がせ、それからジュースを一口飲み── 「笑う事」 再び店主に目を向けた。 笑う事、単純に笑っているだけでは駄目なのだろう。相手を信じ込ませる程に、楽しんでいる笑みを。何も悩んでいない笑みを。そうでなくてはいけないのだろう。 そうする事を貫きたいと思っている青年を、店主に止める権利はない。 「……ワライタケでも出しましょうか?」 「そんなのもあるの? あーもう、いっそそれでもいーや」 「冗談ですよ(ありますけれど)」 どうしたものかと店主は考える。無理矢理笑わせようとするから悩むのだろうか。そもそも、青年が辛いと言っているそれをさせるのは。 ならば発想の転換である。店主は更に考えた。笑わなくてもよくなればいい。青年が満足をする形で、笑う事をやめられれば。 「んー……」 それから店主は、品物が置かれている、自身の背後にある扉の向こうを思い浮かべた。あそこにはアレが、あそこにはソレが。そして、確かあの棚の上に── 「あぁ」 ぽん、と店主は手を打った。青年はそれに少しだけ目を大きく開ける。 「どしたの?」 「いいものがありましたよ。少し反則技ですから、お気に召して頂けるかは分かりませんが」 しかし多少の自信があったのだろう。店主はうきうきとした面持ちで席を立つと、奥の部屋への扉を開けた。するりと中に入り、扉を閉める寸前に、『少々お待ちを』とうやうやしく告げて微笑んだ。青年は大人しく、ジュースの入ったグラスと共に店主を待つ。 「……まぁ、気休めでも……楽になれれば幸せ……」 誰へともなく呟く。グラスの中で、氷がカラリと崩れた。 「お待たせ致しました」 店主は程なく戻ってきた。軽く会釈をしてみせた彼の腕には、小さな箱が抱えられている。店主はそれを青年の前に静かに置いた。 「こんなもので宜しければ、どうぞ」 そして、自ら箱の蓋を開いた。箱の中を見た瞬間、青年は一度瞬きをしてみせる。出てきたものが予想外のものだったからだ。 「……ゴーグル?」 「ええ、ゴーグルです」 「何でゴーグル?」 箱の中にあったものは、しかりとした作りのゴーグルだった。不思議そうに店主を見る青年に、店主は微笑みを崩さぬままにそのゴーグルを手に取る。 「よく見て下さい、これ、レンズに色が入っているのですよ」 言われてみれば、そのゴーグルのレンズは渋い緑色をしていた。店主が自分の目の前でかざしてみれば、その向こうは朧に映る。 「どうです? これをつけていれば、目だけでも笑わなくて済みますよ」 口だけならば、笑みを作る事も多少楽になるでしょう、目は気を抜くとすぐにバレますけれど。そう店主は言って、青年にゴーグルを手渡した。渡されるがままにゴーグルを受け取った青年は、それをじぃと眺めてしばし黙り込む。 「発想の転換です。……反則ですかね、やはり」 「…………いや、ううん、なんてゆーか……」 ぽつぽつと呟くように、それはやがてくつくつという笑い声に。青年はゴーグルを握り締めた。そしてそのまま俯いて、笑った。 「いいね、コレ。ありがと」 小刻みな笑い声は、何故か泣いているようにも聞こえた。青年は俯いていたから、表情は伺えないけれど。 店主は何も聞かない。ただ短く、『お買い上げありがとうございます』と微笑んだ。
2006年02月07日(火) 【 中毒奇譚:はじめに 】 |
【その店の話】
その店は、ごく普通の街の、ごく普通の路地裏に、目立たぬように建っている。 建物の正面には窓が無く、漆黒色をした扉のみが張り付くようにして存在している。扉にも覗き窓の類は無く、そして見回しても看板らしき物すらない。
扉は誰を拒むこともなく簡単に開く。入るなり、客は目にするであろう。 微笑みをたたえた一人の男、これが店主である。 店主の微笑みと共にあるのは、店内の唯一の照明であるテーブルの上のアンティーク調のランプ。窓の無いこの空間を薄ぼんやりとオレンジ色の光に照らしている。 その明かりを頼りに視線を巡らせれば、テーブルを挟んで男側の壁に取り付けられた古時計、その下の古びた棚に置かれたアンティーク物のティーセット。男の脇にはどこかで見た有名な年代物のレコーダーが置かれ、その先に扉がひとつ。黒い布で上半分が覆われていた。 店主へ再び視線を戻す。二十代前半だろうか。まだ十分な若さを残す、端正な顔つき。先刻見た扉のような漆黒色の髪は耳の半分ほどを隠す長さ。着ているのはまるで喪服のような、黒のスーツに白いシャツと黒のネクタイ。彼は言う。 「いらっしゃいませ」
その店は、ごく普通の街の、ごく普通の路地裏に、目立たぬように建っている。
店主曰く ──ここは僕の趣味でやっているのですよ。 店主曰く ──何てことのない普通の店です。
客曰く ──あの店は凄いよ。望んでいる事が叶うんだ。
店主曰く ──そんな事はありませんってば。物を売っているだけですし。
客曰く ──行ってみればいいよ、きっと満足するはずだ。
店主曰く ──営利目的じゃないのですから、余計な噂は不要なのですが。 店主曰く ──何ですか? 黒っぽければそうなるのですか? 黒で纏めるだけで僕は魔法使い? とんだ言いがかりですよ。黒好きへの弊害ですよ。世の中の黒好きさん達が一斉暴動ですよ。と言いますかね? 噂のせいで、もし望まれた商品……けったいなミラクルアイテムなのでしょうけれど? それが出せなくて僕が恨まれて、裁判沙汰にでもなったらどうするのですか。いい加減にしてくださいよ。僕は平穏無事に、細々と生きたいだけなのですよ。僕だけが平和ならばとりあえず構わないのですよ。そもそも──
店主と客の相互理解は、遠い。
【注意書き】
この小話は、とある小説の数々のパラレルワールド的なものとなっております。各話完結型。
推奨:とある小説の数々を一通り目にしている方
※初見でもそれぞれひとつの物語として読めるものではありますが、時々(直接的な表現は少ないにしても)地雷のようなネタバレが仕込まれたりしております。 ※…が、パラレルですので実際の設定とは異なる部分があります。 ※色々弄くり回してあっても気楽に受け止め可能な方のみ、次のページからどうぞ。 ※結構何でもアリなのは仕様です。 ※時々尻切れなのも仕様です。 ※不定期に、何となくネタが出て書けた時に更新されます。 ※ネタバレが平気な方なら、各小説を読むきっかけになるかもしれません(ならないかもしれません)
考えとしては、この小話達は『直接的に伝えると違和感や蛇足感が出たり、明確に番外編とするには少し厳しいものに対する自分なりの解決策』です。そんな感じでひとつ。
※おおもとは、『覆面作家企画 わたしはだあれ?』(企画サイト閉鎖済み)に投稿された、『奇妙な店と赤い花の話』です。興味がおありでしたらどうぞ。
【ショートカットと目安】
形式上、コミカルとシリアスが混在しているので、どちらかのみを好む方の為に目安を提示してみました。参考までに。(目安に騙されたと思われた場合は、遠慮無く言って下さい…)
シリアス □□■□□ コミカル ……となっております。
奇譚1 :□□■□□ 『空色な人』 奇譚2 :□□□□■ 『お得意様』 奇譚3 :□□□■□ 『舌っ足らずな子供』 奇譚4 :■□□□□ 『脆い花のような人』 奇譚5 :■□□□□ 『不安定な強さを持った人』 奇譚6 :□□■□□ 『ごきょうだい』 奇譚7 :■□□□□ 『儚き男性』 奇譚8 :□□□□□■『思い出したくない』 奇譚9 :□■□□□ 『雲を探す子供』(初見でも平気) 奇譚10:□□□■□ 『旦那様』 奇譚11:□□□■□ 『あげる人達』 奇譚12:□□□□■ 『不器用な大人』
──それは、事実に限りなく近い虚偽の束。
一応、解説(ネタバレ)ページ的なものはありますが、蛇足感も強いのでお好みと自己責任でどうぞ。別窓で開きます。
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