いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2012年12月28日(金) 新年会招待状は来ているが「ご遠慮を」…だよね

 この時期になると、様々な団体から新年会の招待状が届く。同じ日に5件などというのも珍しくないが、「新年会で名刺を配るコメツキバッタ」型政治家を嫌っている私は、区議会議員時代も、せいぜい1日3件程度で残りは「欠席」と返事をしていた。それでも、1月中は、自宅で夕食を食べることがないほどの「人気者?」だった。

 来年は「収入もないし」新年会の会費は辛いな〜等と思いながら、ふと気づいたことがある。ほとんどの招待状には「大田区議会議員いぬぶし秀一様」と書いてある。ということは、その職にない来年は、行ってもいのだろうか。

 さっそく、最も早い「大田区新春の集い」を確認してみた。区役所総務課長は「区議会議員さんとしてご招待いたしましたが、失職により議員待遇者となられたので、問題ありません。どうぞ、ご出席ください。」と。この集いは、大田区中の各種団体の長とまとめてお会いできる、実に「費用対効果」の高い会なので、ありがたい。

 次は、蒲田消防署消防団初め式の確認を、消防署にした。しばらく待たされて、電話の向こうから「本当に申し訳なさそうに」、「来年は、来賓ではなく、一般席にお座りください」と。そうだよね。

 さらに、大田区内三医師会合同の新年会(帝国ホテルで会費3000円!)について確認。事務局の女性は、これまたすまなそうに「今回はご遠慮ください」

 いやはや、落選、無役というのはこういうことだよね。いまさらながら、実感した瞬間でもある。反対に、何を間違ったか「衆議院議員いぬぶし秀一先生」やら「当選おめでとうございます」などという招待状が何通か届いた。NHKで当確の誤報でも流したのだろうか。

 まあ、こんなことにメゲズに、いぬぶし秀一、ずうずうしく新年会に出かけていくぜい!!



2012年12月26日(水) 参勤交代ならぬ大阪初入城@維新の会本部

 今日は、日本維新の会本部(大阪市心斎橋)に呼ばれた。落選候補者全員に書面が来て「本人の参加を」と書かれていた。残務整理も多数残っていたが、「本人」の件になんとか都合をつけてむかった。

 ちなみに、維新の会東京都本部(旧太陽の党本部)事務局に確認すると、会合のあること自体を知らなかった。急ごしらえとはいえ、情報の共有化が求められる。

 会合の開始は午後6時とある。終電の新幹線に乗るためには、8時には出なければならない。会合が延びれば無理。念のため、党本部に近い激安ホテルを予約した。ただでさえ金欠病の落選候補者には、新幹線代、宿泊費の負担は痛い。旧たちあがれ日本の支部長会議は、遠方の参加者には、当然のように交通費が支給されていたのが懐かしい。

 会合では、前方に松井幹事長ら日本維新の会執行部がならび、対面して我々落選議員候補が並ぶ。最前列、つまり執行部と極めて近い席は空いている。「みんな、せっかくだから最前列に行こう」と、いやがる旧太陽党出身の候補者を連れて最前列に着席。

 まずは松井幹事長から次のような趣旨の説明があった。

1.旧維新の候補者から預かった100万円の広報費は返却しない。収支明細は後日配布する。

2.旧維新の候補者が自己負担していた比例区の供託金300万円は、1月にはいったら党で支払い返金する。小選挙区分300万円は自己負担。

3.出身母体により不公平があるかもしれないが、選挙は不公平、不平等なものだ。

4.各選挙区支部長は、12月16日をもって解任、支部は解散とする。

 遅参した橋下徹共同代表は、次のように述べた。

1.党として出来ることはこの程度である。党で出来ることはこれまで。この後は個人でいかに伸ばせるかだ。チャレンジしていきたい方とは一緒にやっていきたい。選挙で至らなかった店は、率直にお詫びをする。

2.自立する個人、政治家個人の力を蓄えて欲しい。

3.比例名簿に透明性を、との声があるが、今後も透明性を持たせることはしないし、不公平があって当然である。

 その後、会場の落選候補からの質問に答える形ですすめられた。

橋下:個人の活動費は払わない。確実に議席は欲しければ自民党や民主党へ移ったほうがいい。どんどん公認は変えていく。納得できなければ、やめればいい。普通の集団とはやりたくない。

政治家を職業として考えるから、落選したら党から活動費、という感覚になる。自分のことは自分で出来ない人は政治を志さないほうがいい。

前都議の候補:私は270件の新年会に出るが、支部長の名刺がないと回りにくい。

私:その通りだ。新年会を政治家が回ることは、あまり好きではないが、暫定的に1月だけ支部長名で回らせて欲しい。

橋下:1000名の新年会に出るのか?国政選挙に新年会なんか関係ない。僕らは1件も出ないですよ。もっと、アグレッシブなエネルギーを感じたかった。不満足な会合だ。

(ここで、松井幹事長と橋下共同代表が打ち合わせ。)

松井:只今、代表の承諾を得たので「国政対策委員」という名義の使用を許可する。なお、支部長については2月を目途に決定する。

橋下:このままでは参議院選挙は勝てない。自民党は個人商店、維新の会は組織政党としてやっていく。個人の票のほうが、比例票より少ないうちは、アーダコーダ言わないことだ。

 約2時間で会合は、終わり、その後はお祭り男いぬぶしが近所の居酒屋に席を予約し、一人釣り、二人釣り、と結局20名近い大宴会を開催した。

 すみません!ビールもう一杯!



2012年12月24日(月) 衆議院東京第4選挙区投票分析

 1ケ月しかない選挙戦が終わった。結果は次のとおりである。

平将明候補(自民党現職)96,810票 当選
いぬぶし秀一(維新の会)44,999票 落選
藤田憲彦候補(民主党現職)42,424票 落選
広瀬雅志候補(みんなの党)34,902票 落選
山本純平候補(日本共産党)24,167票 落選

 みんなの党との調整があれば、いぬぶしはもう少し伸ばしただろう、との声は聞くが、広瀬氏は1年前から準備をしていたので「お前こそ出なければ」と、彼こそ思っていることだろう。

 もうひとつの大きな要因は、公明党支持票(創価学会票)の行くえである。平候補の所属する自民党の「比例票」は61,891票にすぎない。小選挙区での96,810票との「差」はなにか?それが公明票と考えるのが普通だろう。

 ちなみに、公明党は東京4区には候補者をたてていない。平候補は公明党から推薦を得ている。そして、公明党の「比例票」は、32,129票。これを、自民党の比例票に足すと、ほぼ平候補の票になる。こういう仕組みだ。

 選挙に、「たら、レバ」は禁句だが、悔し紛れに言わせていただければ、公明票が平候補に行かずに、当陣営に入っていると、いぬぶし77,128票、平候補64,681票となり、当落逆転となる。

 さらに、これに加えてみんなの党が出馬せずに、いぬぶしに票がシフトしたとすると、いぬぶし112,030票となり、圧倒的勝利という「夢」を見た。

 まあ、これが選挙だし、だから故、自民党が公明党と連立を組むのだから仕方あるまい。ただ、投票率が70%以上になると、この公明票の力は、ほとんどなくなることになる。

 選挙開始初日、駅前でチラシを配っていた長女が「なんで皆、こんなに関心がないんだろう」と、いささか落ち込んでいた。「お任せ民主主義」、投票率は低く、関心も薄く、マスコミに流される「民意」のほうが、都合がいい場合もある、ということだ。

 有権者の奮起と、自立が大いに求められるし、それに応えられる候補者も重要だろう。

 以上「負け犬」の遠吠えである。ご容赦を!



2012年12月23日(日) 「衆議院候補だった」フンドシに温かい声援@蒲田駅東口

 落選後、初めての街頭演説を蒲田駅東口で行った。選挙中は、バカでかい看板に「いぬぶし秀一」と書いてあるが、選挙が終わると、あれは使えない。なんと示そうか?と悩んでいると、女性スタッフが「弁士のフンドシに衆議院候補だったと書いたら」と提案してくれた。

 フンドシというのは「業界用語?」で、宣伝カーの上から道路面に垂らす「弁士なんの何べい」と書いているヤツのことだ。フンドシの前の垂れた部分に似ているから、そう呼ばれるようになったのだろう。

 面白いのは、あおの中山恭子参議院議員が応援に来て下さった時だ。男性スタッフが「おい!中山恭子先生のフンドシはどうした」と駅前の路上で叫んだのだ。一般の方は「えっ!中山先生はフンドシ派なのか?」と思ったかもしれない。(中山先生ごめんなさい)


 で、結局この提案を受け、私が汚い字で「だった」と加えたところ、演説中に「衆議院候補だったんだってさ」などという声が聞こえてきた。この表示は成功「だった」ようだ。

 そして、選挙結果を書いた「いぬぶし秀一の余計なお世話レポート」のハケも大変よく、「応援してたのに残念」という声を多くの方からかけていただき、感謝、感謝の街頭演説だった。

 しかし、一国の元首(天皇陛下)のお誕生日だというのに、蒲田駅周辺には、国旗が一つもないというのは、なんという惨状だろうか。売国日教組と左翼勢力の努力の結果とはいえ、嘆かわしい光景である。

 「強くてしたたかな国」の第一歩は、国旗を掲揚せい!
 



2012年12月17日(月) なが〜い一日が終わった!落選

 12日間の恐ろしいほど時間がない選挙が終わり、昨日は投票日。妻と二人で地元の投票所に出向き投票。ポスター掲示板の前で悩む人に「わたし」と叫びたくなる衝動をおさえ室内へ。記名台は満員御礼だ。区議選でも毎回そうだが、祈るような気持ちで自分の名前を書く。

 その後、地元の氏神様である六郷神社に参拝し、必勝を祈る。最後の神頼みの心境である。宮司様と禰宜様が気付いてお茶でご接待いただき労をねぎらって下さったのはとても嬉しかった。

 投票に出かけてからはやることもなく、妻と娘と連れ立って、ラーメンをたべに行くことに。ただし、大田区内では落ち着かないと、橋を渡り川崎市のラーメン屋さんへ向かった。店内は、家族連れやカップルで大繁盛。

 自ら受諾した立候補であったが、あんな「フツー」の幸せがあったのに、と一瞬不安がよぎる。

 午後7時すぎ、まもなく投票締め切りだ。いてもたってもいられず、赤坂のホテルに開設された日本維新の会開票センターに出かけた。広い宴会場には多数の報道陣がカメラを構えているが、まるで葬式の会場のように暗い。地元の都議会議員がいたので声をかけると沈痛な顔で「3議席ぐらいです」と。

 東京ブロックでは、比例の1位は石原慎太郎代表。2位は、党に多額の資金提供をしたとされる新人精神科医。3位が山田宏元杉並区長と決まっており、4位の私は最低でも4議席ないと可能性はまったくないのだ。

 すごすごと開票センターを後にする。駐車場に向かうほんの少しの時間だが、「落選」という言葉が現実として脳裏をよぎる。

 事務所では、いたたまれないので、家に戻る。妻に連絡をすると、場の雰囲気が読めない方が「●●センセイ受かった」と奇声をあげ、自民党の対立候補の当選が決まったとたんに事務所から去ったとの報告があった。悲しい光景だが、これも現実だ。

 夜10時すぎに事務所に入る。刻々と入る当選確実のテロップには私の名前はない。

 早朝4時ごろだろうか、もはや比例復活当選の可能性もないことが確実になり、事務所スタッフや残っていボランテイアさんと握手をして労をねぎらった。

 涙があふれて止まらなかった。それは悔しさではない。多くの善意に支えられての選挙戦。その善意に応えることができなかったことへの申しわけなさの涙だ。

 私や家族は「落選」という現実に向き合うしかない。しかし、私の当選を信じて一緒に戦ってくれた方々には、いったいどうしてご恩返しができるのだろうか。

 選挙戦の12日間に出会った、見知らぬ多くの方々のお顔や光景が走馬灯のように想い出される。申し訳ない。それしか言葉がみつからない。

 放心状態とは、こんな心もちのことだろう。

 本当に多くの善意に感謝!感謝!ありがとうございました。とりあえず寝ます。



2012年12月03日(月) 区議会議員最後の1日

 いよいよ明日、衆議院選挙が公示をされる。つい1ケ月前までは、誰の応援に行こうかな?と思っていた選挙が、まさか自分の選挙になるとは思ってもいなかった。

 しかし、ドタバタの選挙準備だったが、本当に多くの善意に支えられて無事明日を迎えられることになった。明日の立候補届け出をもって、区議会議員は自動失職となる。したがって、今日は区議会議員最後の一日だ。

 報道によれば、数多くの候補予定者が「お国替え」と称して、選挙区を変えているそうだ。大田区で何度も衆議院に挑戦された宇佐美登氏も福島5区に移っての選挙戦である。

 大田区の現職国会議員お二人も、当選してから大田区に異動。おひとりはいまだに生活の拠点は他区と噂されている。国会議員だからそれでいいのか?いささか疑問である。私自身は、この地以外なら、今回の決断はなかったと断言できる。

 私は、大田区で結婚し、子育てをし、起業をし、区議になった。この地で暮らす方々と祭を行い、町会活動をし、PTAにも携わった。議員になっても同じスタンスだ。だから、誰も地元で「センセイ」などと呼ばない。

 お客さんではない、その地で「フツーに暮らす」感覚が、永田町や霞が関には欠落していると思う。

 昨日の報道では、財界の寄付先が民主党から自民党に戻ったとある。そんな、圧力政治ではない、フツーの人々の想いが実現する政治を取り返さなければならない、と、なんの見返りもなく立候補準備を手伝ってくださる、地域の方々、ボランテイアの方々を見て決意をした戦闘開始前夜である。

 明日からは、選挙にかかわるブログの更新が禁じられる。12日後、おかげさまで、と書けるように戦いたい。さああ、楽しみな戦いが始まるぞ!

あす以降の予定(決定済みのもの)

12月4日 午前11時 出陣式 事務所前(大田区蒲田5-32-6 サワダビル)

12月4日 午前12時 蒲田駅東西 第一声 応援弁士 増元照明氏

12月8日 正午 東六郷2丁目町会会館 移動事務所

12月8日 午後1時すぎ 蒲田駅東西 応援弁士 平沼赳夫氏

石原代表、橋下代表代行については未定



2012年12月02日(日) ドタバタの中のお誕生日

 いよいよ総選挙公示まで2日。都知事選挙の最中とあって、政治活動が極端に制限されており、街頭演説やチラシのポステイング等ができない。事務所で事務作業の最終確認をしていると、事務所スタッフの息子さんが何やら袋をかかえて入ってきた。

 そのお母さん、ずっと事務所を守ってくださっている力強い味方である。「みなさん、ちょっと集まって下さい!」と、袋をあけるとなんと「TAKANO」のケーキ。「祈当選」の文字が「祝当選」に見えてしまい、ちっと早いんじゃない、と言うとボランテイアの方々から「ああ、年取ったら目も悪くなっちまった」と笑われた。




 それから1時間程たった頃、大森山王のお嬢様育ちの支援者さんが、何やらケーキらしき箱を持参。ご自宅で作って頂いたというケーキ。甘さ控えの美味。ボランテイア全員でおいしくいただいた。




 12月16日まで禁酒宣言中の私は、残念ながら大好きなビールを飲むわけにはいかないが、とてもありがたい誕生日となった。ありがとう皆さん!

 夕方からは、地元の支援者の方が叙勲を受けられたお祝いの席に夫婦で駆けつけた。長く警視庁警察官として第一線で活躍をされていた方だ。気さくだが、ひかないところは絶対に引かない気骨の持ち主。いつも厳しくも優しい「指導」をいただく。

 世が世なら、雑色駅から提灯行列をして街中でお祝いをすべき慶事である。無論、地元自治体の長たる区長が、お祝いすべきであるが、残念ながら天皇陛下のお立場すら軽んずる風潮の中、いずれもない静かなお祝いの会となった。


 天皇陛下、先生、オヤジ等、権威を否定する教育の結果、人身は荒廃している。権威のない組織は崩壊する、社会学が教えている。日本の再生は、権威の尊重から始まる、といっても過言ではない。

日本維新の会



 



2012年12月01日(土) ポスターに見る、ありがたい支援者の姿

 人は時として、自分の力で生きていると勘違いすることがある。特に、成功の絶頂期にいる経営者や、落下傘候補で「風」で受かったような人々が、その勘違いに陥りやすい。

 経営者なら、どんなに絶頂期であろうが、その「絶頂」を支えてくれている取引先があり、従業員さんがいるはずだ。また、その経営者の精神的支えとなる家族の存在もある。

 政治家であれば、落下傘で一発で当選したとしても、投票して下さった有権者の方々、まあ、「風」を起こしてくれた政党なりの存在があるはずだ。そのことを忘れて、自分の力だ、と過信するところに、人生の落とし穴が待っている、と私は信じている。

 特に、選挙を応援して下さる方々の、無償の善意には本当に感謝!感謝!それ以外に表す言葉がない。私ごときを応援しても、見返りは「いい政治」しかない。個人的や、業界的、または会社としての見返りはない。

 突然の国政候補者になって、区議会議員時代からの支援者の方から、「二連ポスターはないのか」と、質問をいただいた。二連ポスターとは、党首と候補者が映っているもので、衆議院選挙では解散後又は任期満了6ケ月前に入っても「候補予定者」の顔と名前を掲示できる唯一のものだ。

 ただ、今回は解散から総選挙まで時間がないため、東京4区で二連ポスターを作っている陣営は、みんなの党だけである。(ちなみに、今街中に残っている候補者名だけのポスターは公職選挙法違反)我が陣営では、期間がないから作らない、というのが大勢だった。

 ところが、区議会議員選挙を通じて、支援者というよりは「オヤジ」のようにご指導いただいている方が「ポスターがなければ皆に知らせられない」と一言。ありがたいことだ。さっそく、この方の声に答えうべく、少ない数だがポスターを発注した。

 ポスターの到着を心待ちにしていた、この方は、両面テープを待ち切れずに、ご自宅周辺のあらゆる場所に、緑色の「養生テープ」で貼って頂いたようだ。




 確か、数日前には、自民党候補のポスターがあった場所である。ポスターの効果もさることながら、この方の熱い想いが、街中に貼られた「私の顔」に込められていると思うと、涙腺がまたまた緩む。

 選挙では、時として罵声を浴びされることもあるが、ほとんどの場面は「感謝」と「感激」の場面で、いつも目頭が熱くなるのだ。この感激を忘れて、自分だけで勝った、自分は議員なんだ、と驕った時、政治屋になり下がるのだろう。そんな奴らが蠢く永田町に殴りこむぜい!

 ありがとうSさん!

日本維新の会




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