今回は映画ネタ。見てきたのは「博士の愛した数式」 この映画を一言でいうなら、「ああいう授業を受けてみたかったなあ」で ある。
私もおそらくは多くの方の例にもれず、高校時代に数学に挫折して、文系に 進んだクチである。 数学の先生に、「数学を勉強したからって、社会じゃ役に立たないし」なんて 直接言ってしまったこともあるし。
今から思うと、数学の理論がさっぱり理解できなかった、という事もある けれど、その一方で自分自身が、理解しようと努力しなかったし、反復も しなかったからだ、という気もする。 この映画、および原作の小説は、そういう数学挫折者に対して、数学者が 捉える数学の世界の秩序の美しさ、について教えてくれる作品なのだ。
映画を見た時点では、原作はまだ読んでいなかったんだけど、映画と原作 の一番の違いは、物語の冒頭、ルート(√)とよばれた少年が成長して学校 の先生となり、自分と博士と母親の話を振り返るところから話が始まる所 である。
博士とは、家政婦である母親が世話をしている元数学者であり、普通の人 と大きく異なっているのは、交通事故に遭ったせいで彼の記憶が80分しか もたないということ。 だから、毎朝母親が博士の所を訪れるたびに、「新しい家政婦です」と挨拶 しなければならない。
そしてもう一つ変わった点は、彼が人と会話を交わす時に、数字を媒介さ せるということである。 だから、母親は毎朝、靴のサイズを聞かれ、電話番号や誕生日を聞かれ る。 そしてその母親の靴のサイズ、24は、「4の階乗で、実にいさぎよい数 字」であるらしい。 4の階乗とは、自然数、1から4までを全部掛け合わせると24になる。 1×2×3×4=24
こんな風に、日常にありふれたように思える数字の中に潜む美しさを、 母親とルート少年は発見していくのだ。 高校時代の私が思った、「数学なんて勉強しても何も役には立たない」 という言葉に対しても、博士は物語の中でこう語る。
「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」 「素数の性質が明らかになったとしても、生活が便利になる訳でも、お金が 儲かる訳でもない。もちろんいくら生活に背を向けようと、結果的に数学の 発見が現実に応用される場合はいくらでもあるだろう。楕円の研究は惑星 の軌道となり、非ユークリッド幾何学はアインシュタインによって宇宙の 形を提示した。素数でさえ、暗号の基本となって戦争の片棒を担いでいる。 醜いことだ。しかしそれは数学の目的ではない。真実を見出すことのみが 目的なのだ」
映画では、大人になったルート少年を吉岡秀隆が、博士役を寺尾聡、 そして家政婦の母親役を深津絵里が演じている。 で、博士役を演じる寺尾聡がうまくはまっていると思う。 普段は気難しいんだけど、小さな子どもの前では相好を崩すあたりがいい しまた、彼の声で語られる数学の世界はどこか優しい感じがして。
また、吉岡秀隆演じる数学教師は、ややもすると複雑になりがちな数学に ついての解説をうまく挟み込んでいて。 で、やっぱり彼の語る数学の世界が、まるで本当に博士に薫陶を受けた 人が語っているように、優しく私の心に響いてくるのである。
だから原作の持ち味を損なうことなく、役者さんたちが登場人物たちに うまく血肉を与えていると思うのだ。 ルート役の子役も、吉岡秀隆の小さい頃、「北の国から」の純君をほう ふつとさせるくらいに似ていたし。
博士が昔は野球をやっていた、という風に変えた脚本もうまいと思う。 映画を見て泣き出すほどの感動の名作、ということはないけれど、 ほんの少し心が温かくなるような、そんな映画でした。
連日のライブドアの捜査の報道で、事件については段々と判明しつつある けれど、週刊誌では数々の周辺報道もなされるようになってきた。 その中で目にしてちょっと興味がひかれた記事を紹介すると、
今週発売されたSPA!1/31号では、神足裕司のニュースコラム「これは事件 だ」が面白かった。 それによると今回の偽計取引の舞台とされた出版社「マネーライフ社」は、 「年収400万円の社員が一人でやるから、利益が出る程度」の会社だった らしい。 以下引用させていただくと、
もともとライブドアを関係が深い会社からグループ関連会社に株を移動さ せただけなのに、新たに「子会社化する」と虚偽(偽計)の発表を行い、結果 バリュー社の株価が45倍に跳ね上がったという。
マネー社関係者が不思議がったのは、売買時、それはわずか4200万円の 会社だったことだ(略)
そのマネー社を「子会社化」したからバリュー社(現ライブドアマーケティン グ)の時価総額は高騰。2億8600万円が翌年1月には44億6000万円に跳ね 上がった。その一部を8億余で海外ファンドに売却、ライブドア本体へ。 4200万円の会社を子会社化したら3億円が45億円になった!?(略)
私の夢想かもしれない。 たった一人が働く出版社を舞台にした4200万円が元で、国家の税収にも 近い金額が消えた。
という部分。 偽計取引の舞台となった会社が出版社だった事は知っていたけれど、 それがたった一人の従業員の企業だった、というのがこの事件というか、 錬金術といわれる部分の皮肉さを語っているようであり。
もう一つ、やはり今週発売されたAERA誌1/30号では、昨年のニッポン放送 買収騒動後、1400億円の現金を手にしたライブドアの社内の雰囲気が、 どこか浮かれているというか、地に足が着いていない雰囲気だったと 書いている。 それがどこまで本当なのかは分からないけれど、でも1400億円という大金 には、思わず気を緩ませる力があったのかもなあ、と思うのだ。
元々の念願だったメディア支配は出来なくて、目標を失った、という事も あるのかもしれないし。
それに本業で頑張らなくなって、堀江社長がバンバンメディアに露出し、 どこかの企業を買収したと発表しさえすればどんどん株価は上がって いったんだとすれば、やはり濡れ手で粟というか、あほらしい気分に なっても不思議はなかったのかも。
そして、そういう時期にホリエモンに対し、政界進出を打診した自民党、 そして武部幹事長はやっぱりババを引いたというか、人を見る目が本当に なかったんだろうなあ。 それだけ、あの当時の郵政解散選挙では小泉陣営も抜き差しならぬ、とい うか、切羽詰っていたのかもしれないけれど。
でも、少なくとも今まで自分の言葉に対して責任を持つ、ということが 一番の支持基盤だったように思われる小泉政権にとっては、打撃は与えた だろうと思うのだ。 武部幹事長に関しては、今まで人との関係を斬りすぎて恨まれていても 不思議ではないし。
これは週刊誌ではないけれど、スポーツライター玉木正之氏のサイトでは 知人の話として。「ホリエモン逮捕はポスト小泉を見据えたうえでの ナベツネ−ナカソネ−カメイら守旧派によるコイズミ−タケナカ路線 に対する反撃やね」という意見が載っていた。
本当のところがどうかは分からないけれど、少なくとも今まで抵抗勢力 よばわりされて、小泉政権下で冷や飯を食っていた人たちが勢いづいた のは、間違いないのかもしれない。 いずれにせよ、その政局に国民不在なあたりが何だかなあ、って感じなん だけど。
さてナベツネといえば、今度ライブドアの社長に就任した平松庚三氏は ソニー入社前にナベツネ氏の下で働いていたらしく。 ナベツネが何か意見を言っていたのを報道ステーションでやっていた。
その平松庚三新社長が、弥生会計の社長としてのメッセージを弥生会計の サイトに載せている。 以下、引用させていただく。
「経営者はネアカでなければならない」これは、盛田氏から繰り返し言われたことです。 リーダーはいつも前を向いて、すべてをポジティブに考えることからスタートする。トップが前向きなら、それが会社中に広がっていくんだと。 厳しい市況の中でネアカになれないときは、社員に対しても、自分自身に対しても、ネアカになったふりをする。そうすると、不思議なことに本当にネアカになって、いいアイデアが浮かんでくるんですね。 経営者はネアカでなければならない "Be positive" という盛田氏から聞いたことは、もはや私のDNAになっています。 また、経営というのは資源をマネジメントすることといえます。経営の資源には、資金、技術、動産、不動産、時間などもありますが、もっとも大切なのは人です。給与やポジションだけではなく、ビジョンを共有できる人物かどうか。特に経営陣には、何かしら私よりも優れたものを持っている人物を選ぶ。優秀なタレントを集めること、そして彼等を動かすこと、それが私の仕事といえるでしょうか。
「ネアカ」で、人を大切にするマネジメントというのは、これからのライブ ドアの経営者にとっては、一番大切な資質なのかもしれない。 波乱の船出で、今後どうなっていくのかは分からないけれど、ライブドア のサービスを、ささやかながら利用している立場としては、今後の ライブドア社がどうなっていくのかも注目していきたいと思う。
ということで、これで私のライブドア関連に対する感想はとりあえず 打ち止めにしたいと思います。
2006年01月24日(火) |
ほりえもん「前後」で考える彼の功績 |
ホリエモンこと堀江貴文ライブドア社長がついに逮捕された。 元来が天邪鬼な性格のせいか、マスメディアがこぞって彼をバッシング しているのを見ると、少しは彼の功績について考えてみたっていいのに、 なんて気になってしまう。 ということで考えてみた。
ホリエモン逮捕と聞いてから一夜明けて、考えたのは「彼はイカロスだっ たのかなあ」という事である。 イカロスというのは、ギリシア神話に出てくる人物で、親とともに鳥の羽 をロウで固め、人間として空を自由に飛ぶことに成功したとされる伝説の 人物。
ただし、空を飛ぶことに夢中になりすぎて太陽に近づきすぎたがゆえに ロウで固めていた羽根が焼かれて、地上へまっさかさまに落っこちて しまうのだ。 なんか時代の寵児ともてはやされ、そして落ちていく様が似ているという か。
イカロスの行なった事に対し、太陽に近づかなければよかったのに、とか そもそも人間が空を飛べる訳ないじゃん、という評価があるのはもちろん だと思うけれど、これは寓話の世界だとはいえ、空なんか飛べっこないと 思い込んでいた人間に対し、知恵と工夫で空を飛んでみせた事は評価して もいいんじゃないかな、と思ったりする。
同様にホリエモンの行なった事に対しても、私は彼のような立ち居振舞い は出来ないし、そもそも性に合わないし、株取引さえしない人間ではあるが、彼が時代に風穴をあけた(ように見える)事は評価してもいいんじゃな いかな、と思うのである。
だって、ホリエモンが出てくる前のたかだか2年前の日本と、今現在の 日本だと、やっぱり雰囲気って違ってきていると思うし。 それは景気が上向いてきているのが実感してきたりとか、その景気動向の 背景には世界的な金余り現象とか、日本企業の好調さといったものがあり。
もちろん、それらすべてがホリエモンの功績であるわけではない。 むしろ彼はそういう時代背景を基にして踊らされたのか踊っていた人間 だと思う。 でも、2年前のプロ野球再編問題の頃って、やっぱり何となく時代の雰囲 気が暗かったと思うんだよね。 先行き不透明さというか、閉塞感みたいなものが今以上に強かったと思う し。
それに対してプチバブルとも評された昨年の年末の「イケイケドンドン」 な雰囲気作りの一翼をホリエモン的なものが担っていたと思うのである。 それがいいか悪いかは別として。 だからそういう時代の雰囲気が大きく変わる象徴、イコンとしての役割を 「ホリエモン」というキャラクターが担っていたんじゃないのかなあ、と 思うのだ。
そして要は、彼が開けたかもしれない風穴をこの先どのように評価し、 利用していくのか、ということなのかもしれない。
少なくとも私自身は去年1年を通して生きてきて、今また時代の閉塞感、 みたいなことに悩もうとは思わなくなったし。 その意味でやはり2004年〜2005年という年は、ホリエモンの年として 長く記憶していくんじゃないかなあ、と思う。
また、彼の功績がもう一つあるとすれば、今のコイズミ劇場的政治と、 それを取り巻くメディアがいかに薄っぺらなものなのか、ということを いやというほど見せつけてくれたのも、彼のおかげといえるのかもしれ ない。
「会社は誰のものか」とか「本当にお金で買えないものはないのか」とか、 普段考えないような事を考えるきっかけをつくってくれて、その分、 本当に大切なものがどこにあるのかを考えるきっかけにもなったし。 そう考えると個人的にはホリエモン様々なのかも。
逮捕後の彼の行く末がどうなっていくのかは、分からないけれど、 でももし彼が本当に無一文になったとしても、その時彼にとって 「カネでは買わなかったもの」がはっきりしてくるのかもしれない。
それはたとえば、彼の中にあるビジョンであるとか、はたまた今の彼を 支えてくれる人であるとか。 人は一人では生きていけないけれど、資本金を600万からスタートして 今の規模にまで大きく出来た人である。 それだけ彼には、人を巻き込む魅力と、時代の風を読む感覚が備わって いたともいえるわけで。
今後の彼に同様の風が吹くのかはわからないし、そもそも失ってしまった 信用を回復するのは大変だと思うけれど、彼がそういうカネには替えられ ないものの価値に気づくのであれば、まだまだやり直せるんじゃないのか な。
ま、人の事はさておいて、私は私の生きる道をより確かなものにして いこうと思うのみである。
今日は東京でも雪が降り、毎日通っている明治神宮も一面の雪景色に。 でも、普段見慣れている光景でも、雪が降るとやっぱり違った印象に なるもので。
今日はセンター試験だったようで、受験生の皆さんはお疲れ様でした。 明日も頑張ってください。
その後、朝日カルチャーでワークショップに参加した後、隣にある Sizzlerで夕食を食べる。
Sizzlerは日本だと高級ファミレスって感じなのかな。
でも、追加のサラダバーが1000円もする!んだけど、サラダだけでなく スープバー、デザートバー、ついでにトルティーヤや焼きそばまでが 食べ放題になるのでかなりお得な感じなのである。 サラダも新鮮で美味しいし、種類も豊富だし。
ちなみにこれがデザートバー。 ケーキに杏仁豆腐に、チョコレートムースにチョコとバニラのミックス アイスに… どう考えてもカロリー摂りすぎ。
2006年01月19日(木) |
ほりえもん的経営哲学と林文子的経営哲学 |
今週の月曜日に行なわれた、ライブドアへの強制捜査が世間を騒がせて いる。 彼のグレーぎりぎりだったビジネス手法が、果たして本当に真っ黒だった のかどうかは、今後の捜査や裁判によって明らかにされていくのだろう。 東京地検特捜部にとっても、これは「国策捜査」らしいので、躍起になって 立件しようとするのだろうし。
今後東証の日経平均がどこまで下がるのかは分からないけれど、最近の 株ブームに乗っかった人にとっては初めての下げ局面なのだろうから、 授業料を支払ったようなものなのかもしれない。 それを本業になさっている人に対しては、まことに気の毒としか言いよう がない。お見舞い申し上げます。 また今後は日経平均が堅調に動く事を祈っております。
今回の強制捜査に関して、様々な人が様々に語っているんだけど、 私が一番興味を持ったのは、私が時々引用している内田樹センセイの友 人である、平川克美氏のブログの内容だった。
以下引用させていただくと
しかし、俺は 堀江をビジネスマンであるとは思っていない。 彼を新しいタイプのビジネスマンであり、 市場原理の申し子だといって おだて上げ、選挙の場で猿回しの猿の役回りを与え、 真正の起業家精神のロールモデルのように 担ぎ上げようとした、事業家、政治家、 金融家、観衆たちは、いったい何処を見ているのかと思う。
俺にとって、 ビジネスの現場とは、 商品をつくり、その商品という言葉を通じて 顧客と出会う場所である。 堀江は、 どのような意味においても、 その商品をつくってはいないのである。 彼が作っているのは 仕掛けであり、罠であり、ビジネスモデルと呼称される ものである。 そこには、カモはいるが、起業家が出会うべき 顧客はいない。 商品と顧客がいない金の流動や蓄積を ビジネスと言ってはいけないのである。
何度も書いてきたことだが、 ビジネスの現場では 二重の交換が行われている。 商品とお金という目に見える交換と 誠意と信頼という目に見えない交換である。 この二重の交換の意味が分からないと、 ビジネスとは限りなく、詐欺に近いものになる。
という部分である。 なんでこの箇所に興味を持ったかといったら、たまたま今週読んでいた 本、「林文子 すべては『ありがとう』から始まる」の中に共通する ような表現があったから。
林文子とは、女性で初めてフォルクスワーゲン東京、BMW東京という販売 会社の社長に就任し、現在は再建中のダイエーの会長に就任した人。 この本の中で、林会長はこう語っている。
「たとえば、六千台の車を販売するということをイメージしたとき、六千 分の一は、一人の営業マンが、一台を一人のお客様に売るということなん です。販売会社、小売業というのはある意味ではシンプルなんです。もの を仕入れて売って、それをアフターケアして、またその人とのお付き合い の中で新しいものを買ってもらう世界でしょう。だから、自動車の販売業 で何が残るって、人しかないし、まったく人のビジネスそのものじゃな い。だから、トップマネジメントが人に触れるしかないじゃないですか」
はたまた、現在再建中のダイエーに関してはこう言う。
「要するに、私どもは小売、リテールの仕事ですから、経営管理で理屈で がんじがらめにするのが商売なのではなく、毎日お買い物をしてくださる お客様は愛だとか信頼だとか、店員が優しく声をおかけしてハッピーに なれるという世界なんです。ところが、本部で経営を進めていこうとする ときの戦略は、全然違う議論になってしまう。私はそれは本当におかしい と思います。お客様商売、物を売るという会社なんですから、もっとそう いうお客様の気持ちを肌で感じる、心で感じながら議論しなきゃだめよね と考えていますし、社内で話しています。最近はダイエーもそういうこと もノーではない会議になってまいりました。期待してくださいね」
でもダイエーの林文子会長と、ホリエモンのビジネス哲学は対極なのか なあ、と思うのだ。 ダイエーに関してはまだまだ再建途中はあるけれど、でもおそらくは うまくいきそうな感じもする。
それは多分、こういう人がトップだったら、社員は働き甲斐があるだろう なあ、と思うからである。 対してライブドアの会社に、果たしてホリエモンのために骨を埋めよう と思って働き甲斐を感じている社員がどれだけいるのかを私は知らない。 それは、ライブドアの今後を見ていれば自ずと明らかになるのだろう。
でも例えば、林会長にせよ、また日産のカルロス・ゴーンにせよ、共通し ているように感じるのは、現場の人間が視野に入っていて、部下・顧客と の信頼関係があるという事なのかもしれない。
多分人に対してだましたり、カモだとしか思えないトップと、人の事を 信頼できるトップでは、短期ではそんなに違いはなくても、長期では おそらく有意な差が表われてくるのかも。 ビジネスって言うのは、それこそLOHASではないけれど、長期に維持可能 (sustainable)なことも重要だと思うし。
それはこの年末・年始にポイント騒動を起こした楽天についても言える と思うのだが、果たしてこっちはどうなるんだろうか。
今回は映画ネタ。見てきたのは「キングコング」 この映画を一言でいうと、「ジャック・ブラックが怪しすぎ」である。
当初の予算をオーバーしてしまったため、監督であるピーター・ジャク ソンが私財を投じてまで完成したらしいこの映画。 その甲斐もあって、ピーター・ジャクソンのこの作品にかける愛情だけ でなく、3時間という時間があっという間に過ぎ去るほどの良質のフィ クションを心ゆくまで堪能した、という感じなのだ。
映画は1930年代、世界大恐慌のさなかのニューヨークから始まる。 ナオミ・ワッツ演じる、コメディ女優のアンは、出演していた劇場が閉鎖 の憂き目にあい、職もなく食べ物にも不自由している時に、映画のプロ デューサーであるジャック・ブラック演じるカールに出会い、映画の出演 と、撮影のための船旅に誘われる。
で、この出だしの不況下のニューヨークの有り様から手を抜いていない、 というかデティールの細かさにどんどんと引き込まれてしまうのだ。 キングコングという怪獣映画にとっては、キングコングのいる骸骨島 での冒険や、クライマックスでのニューヨークでの大暴れが一番の力を 入れるところだと思うんだけど、その巨大な怪物が1930年代のNYに現れる というフィクションをよりリアルに見せるためには、当時の時代背景や、 はたまた細かなデティールをご都合主義にはしない、というピーター・ ジャクソンの意思が表れているようでもあり。
それは、物語前半の舞台となる謎の島、キングコングの住む骸骨島につい ても同様であり。 原住民のくだりに関しては、さすがにご愛嬌というか、あれはオリジナル 通りだと思うんだけど、その他の島の中での冒険は、本当に世界のどこか にはまだ、こんな島が実在するんじゃないかな、と思わせる説得力にあふ れているのだ。 やっぱり細部に神は宿るのかもしれない。
それは「ロード・オブ・ザ・リング」同様にCGとニュージーランドの大自然 の合作の賜物といえるのかも。 恐竜なんかも、実際に人間と共演したんじゃないか、と思うくらいのリア ルさだったし。 島に棲んでいる巨大昆虫なんて、本当に身の毛もよだつ感じだったし。
この映画の主役、キングコングもこれが着ぐるみだったらこういう感じに はならなかったろうしなあ。 そう思うとこの映画、CG技術が熟成してきた今だからこそ、これだけの 迫力になったのかもしれない。
それに映画を見ていて面白いな、と思ったのはコングの表情の豊かさに よって、見ているこっちが共感する、というか引き込まれるのである。 大道芸人でもある女優、アンの仕草に興味がひかれたり、はたまた知らん ぷりだったりするあたりが妙におかしくて。 物語の後半、ひとりぼっちでしょぼーんとしているキングコングは、 なんかかわいいというか、萌え〜って感じだし。
また、その恋?の相手であるヒロイン、アンもなんかこう悲劇のヒロイン って感じがしないんだよね。 私が以前見た、キングコングの映画は'77年版だと思うんだけど、その時 の方が、悲壮感が漂っているような気がして。 それはナオミ・ワッツの存在感がそう感じさせるのかもしれないけれど。
でもこれって何かに似ているなあ、と思ったら、「オペラ座の怪人」の ファントムとヒロインの関係に似ているんだ、と思ったのである。 彼らのツーショットのバックに「Angel of Music」が流れていても違和感 がないというか。
それだけヒロインのアンがコングに魅了されていくのが、不自然じゃなく 描かれていて。 そう、この映画ってコングとアンの恋の物語なのかもしれない。
また、その悲劇の恋の仕掛け人にあたる映画プロデューサー役のジャック ブラックが怪演をしていると思う。 この役回りって、手塚マンガでいえば、「アセチレン・ランプ」にあたる役 だと思うんだけど、ジャック・ブラックが演じていると、何というか、 あまりいやらしく感じないのである。
色々と危ない橋を渡り、人をだましているんだけど、何となく憎めないと いうか。 ジャック・ブラックが演じると、目に宿る狂気が全ては映画の完成の為 なのだ、という感じがして。
でもって、私の勝手な思い込みでいえば、そのプロデューサー役と この映画の監督、ピーター・ジャクソンが重なるんだよね。 もしもピーター・ジャクソンが同じ状況にいたとしたら、多分同じ事を したんじゃないかなあ、というか。
彼が初めて見た映画だったか、初めて買ったフィルムが'33年版のオリジ ナルの「キングコング」だったらしいけれど、多分この映画の中で、彼は 一人の登場人物として、その映画の世界の中を旅したかったというのが、 この映画を作った動機なんじゃないのかな。
そんな事を考えてしまう位、作品に対する愛情があふれた映画でした。 もう手放しでオススメの作品である。
今回は演劇ネタ。金曜日、NODAMAPの「贋作・罪と罰」を見てきた。 これまた偶然、友達の友達がチケットの処分に困っていたらしく、 私にお鉢が回ってきたである。 ありがとう、友人と、友人の友人。 やっぱり、簡単にはあきらめないって事が肝心なのかも。
さて、見てきた感想はというと、ただ一言「脱帽」である。 こういう作品というか、舞台を作り上げることのできる野田秀樹って、 やっぱりすげえな、という感じ。
物語は、ドエトフスキーの「罪と罰」をベースにしている。 だがしかし、私も他聞にもれず、原作の「罪と罰」は読んだことがなく。 おぼろげに、貧乏な青年が金貸しの老婆を殺す話だというのは知って いたけれど、この舞台がどれだけ原作を元にしているのかはわからな かったので、家に帰って Wikipediaで調べたところ、松たか子演じる 主人公のくだりに関しては、物語の構造がほぼそのままだったようで。
主人公が「天才は凡人に対して何をしても許される」という高邁な?思想 の持ち主だったこととか、妹が裕福な地主と結納を交わすこととか、 はたまた、主人公が警察?に問い詰められている時に、冤罪でつかまった 左官屋が自白してしまうところなども。
その「罪と罰」の物語の構造に、主人公の友人として、坂本竜馬こと才谷 梅太郎を持ってきて幕末の話にしたことで、物語は「罪と罰」をはるかに 超える面白さを持ったといえるのかもしれない。
主人公、英(はなぶさ)が、高邁な思想を元に金貸しの老婆を殺すことと、 「思想のために人を殺すなんていかん」といい、血ではなく金の力で無血 革命を成し遂げようとする古田新太演じる才谷梅太郎が、うまい具合に 対極の位置にはまり込んでいるのである。
そしてまた、英の父親の思想も何も持たない人が、思想によっていかに 自由を奪われ、思想によって殺されていくのか、という形になっている のもうまいなあ、と思うし。
イープラスに載っていた野田秀樹のインタビューを読むと、この作品には 学生運動の当時、それこそ高邁な思想のために、内ゲバによって身近で 人が死んだ、という野田秀樹自身の体験が元になっているらしく。
だから「思想のためなんかで人を殺すんじゃねえ」とか、「人を殺せ、殺せ なんていうが、自分で人を殺そうなんて覚悟があるのかい?」なんていう 坂本竜馬のセリフは、そのまんま野田秀樹の意見なのかもしれない。
そして、「偉そうな事ばかり言っている割に自分じゃ手を出せない腰抜け」 (とまでは言ってないか)の活動家たちというのは、何となく最近の「ネッ ト右翼」に対する揶揄のようにも聞こえたりして。
舞台自体は、観客席に挟まれた、通常より狭い舞台を上手く使っている なあ、という印象があり。 そこに出てくる役者さんたちが、皆実力があるので、見ていてちっとも 飽きなかったのである。
主人公の松たか子は、刀を手にした立ち居振る舞いがやっぱり堂に入って いるというか、様になっていてさすがという感じだったし。 坂本竜馬役の古田新太は、コミカルな演技もこなす一方で、シリアスな 場面でもちゃんとその場を引き受けられるのは、やっぱり脂がのっている 感じでさすがだな、と思うし。
警官役の段田安則による松たか子を追求するシーンは本当に息つまる様な シーンだったし、また野田秀樹は、なんでこう主人公の母親役というのを リアルなというか、おいしい役に出来るんだろう、と思うくらいやっぱり 上手いし。
でも、今回の舞台で一番の驚き(失礼)は、父親役を演じた中村まこと だったかもしれない。 最初、舞台に出てきたときは、この人の役がこんなに広がって、面白い 物になるとは全く想像できなかったし。 野田秀樹に対してちっとも負けてないというか、むしろ食ってしまう位に 面白かったのだ。
それが演出によるものなのか、それとも役者本人の実力によるものなのか はわからないけれど(おそらくその両方だろう)、この人がいることで、 この舞台が2倍も3倍も面白くなった気もする。
舞台って、やっぱり物語としての面白さだけでなく、それが生身の役者 さんを通すことで化学反応を起こして面白くなるのを、直接目の前で 見られるって事が一番の醍醐味なのかもしれないなあ。
3月にはWOWOWで放送するらしいので、それも楽しみにしようと思うので ある。
2006年01月11日(水) |
「功名が辻」と、いかにして男を落とすか |
今年は、久しぶりに大河ドラマを最初から見続けてみようかな、と思って いる。 一昨年の「新選組!」も見たんだけど、途中で一度挫折して、最後まで 見たのはレンタルでDVDを借りてからだったし。 昨年の「義経」も時々は見たけれど、ちゃんと通しては見なかったし。
というより私の場合、大河ドラマを1年通して見続ける、というのは、 かなりの根気のいる事なのかもしれないが。
そんな私が今回の大河ドラマを見てみようかな、と思ったのは、番組の 予告編で流れていた、主人公千代役の仲間由紀恵を見て、おお、と思った のである。 その演技が、司馬遼太郎の原作「功名が辻」の千代の描写に結構近いん じゃないかな、と思ったのだ。 ちなみに、その描写とはこんな感じである。
千代は、決してのん気なたちではない。彼女ののん気さは、母の法秀尼 から教えられた演技である。
「妻が陽気でなければ、夫は十分な働きはできませぬ。夫に叱言をいう ときでも、陰気な口から言えば、夫はもう心が萎え、男としての気おい こみをうしないます。同じ叱言でも、陽気な心でいえば、夫の心はかえっ て鼓舞されるものです。陽気になる秘訣は、あすはきっと良くなる、と 思い込んで暮らすことです」
「ごくせん」で中高生のハートをわしづかみにした仲間由紀恵が、今年は もしかすると、オヤジたちのハートをわしづかみにするのかもしれない。 オヤジ系週刊誌で、仲間由紀恵特集が組まれたりとか、その一方では あんな女現実にはいねえよ、とか話題になったら面白いかもしれない。
まあ、個人的には今年は仲間由紀恵演じる「千代」さんに癒されたら それだけでもうけもん、という感じで。
でも、ここで引用した話って、女性に限らず、私のような「接客業」の人間 にとっても大事な事なのかもしれないなあ、なんて思うのだ。 だから今年は「陽気な心」というのをちょっと意識してみようかな、と 思ってみたり。
あともう一つ、内田樹センセイのブログにて、「いかに男を篭絡するか」 というエントリがあったので、ここでご紹介。>>こちらから
一部を抜粋すると、
男が「弱い」ポイントは「才能」のひとことである。 「あなたには才能があるわ。他の人には見えなくても、私にはわかるの」 と上目遣い斜め45度の視線プラス「かなぴょんのポーズ」でまず80%の男は落ちると断言してよろしいであろう。(略)
「才能」で落ちない男も落ちるのは「ルックス」についての賞賛である。 すべての男は(驚くなかれ)、自分の容貌にある種の期待を抱いている。 「こういう顔が好き」という女性が世界のどこかにいるかもしれない・・・という儚い期待を胸にすることなしに男は一秒とて生きることのできない悲しい生き物なのである。 だから、「あなたには才能があると思うの・・・」で落ちなかった男も、「私、あなたのルックスが好きなの」にはあっというまに崩れ去る。(略)
「いい人だけど顔はイマイチ」と言われるのと「ワルモノだけどいい男」と言われるのと、男たちはどちらを選ぶか。 答えは明かである。 というわけで、配偶者をお求めの女性諸君には、標的とされた男性については、まず「隠れたる才能を評価し」ついで「ルックスを称える」という二段構えで攻略した場合、たいへんに高い確率で所期の成果を挙げうるということをご教示しておきたい。
いやー、正月そうそう笑わせていただきましたというか、案外その通り かも、と男性の私も思ってみたり。 そうなんだよね、モテとか、様々な高度な技術論が花盛りだけど、一番 キクのはシンプルにこういう事のような気がする。
男って、外見だとかやっぱり料理のウデで落とさなきゃ、という以前に、 自分が肯定されることの方がうれしかったりするような気もするし。
落としたい男性のいる方は、是非お試しあれ。
2006年01月08日(日) |
ザ・コーポレーション |
日曜日、映画を見に行ってきた。 見てきたのは「ザ・コーポレーション」2時間半に及ぶカナダのドキュ メンタリー映画である。
「企業を精神分析すると、完璧なサイコパス(人格障害)である」という キャッチコピーに惹かれてしまった訳ですね。 で、見てきた感想はというと、「うーん、一言ではまとめられそうに ないかも」と言う感じかも。 いや、何しろ中身が濃くて、簡単にはまとめられそうにない、という 感じなのだ。
この映画は、反資本主義、反グローバリズムの立場から描かれた映画 である。 よく、海外で開かれるサミットの場合に、サミット会場の外側では 活動家のデモとか抗議行動が、ニュースになったりするけれど、 そっちの立場から、企業、法人という擬似の人格を与えられた存在を 掘り下げている、という感じかも。
そこで主に取り上げられていることは主に二つ。 詳しい事例に関しては、公式サイトにも載っているので興味のある人は 参照していただくとして。
一つは、アメリカ企業をはじめとして、「グローバル企業」が発展 途上国に住む人たちの人権や生活権をないがしろにして、利益を 上げているのか、ということ。
例えばボリビアでは、水道会社が民営化された結果として、アメリカの 企業、ベクテルによって1日2ドルしか稼げない住民から収入の25%を 水道料金として徴収し、尚かつ雨水を集めることさえ禁止したりとか。
ちなみにこの企業は確かフィリピンでも同じ事をして、フィリピンでは 勝手に水道管に穴をあけてしまう住民が続発していたはずである。
また、例えばナイキや、KマートやGAPの発展途上国の工場で働く労働者 たちが、いかに低賃金で働かされているか、ということ。 例えば、14ドルのブラウス1着を作った労働者に対して支払われる賃金は 1ドル未満、確か8セント?であるということ。
では、その分の差額はどこに行くのか。 その全てが企業の利益になるのではなく、宣伝広告費、または有能な 弁護士を雇うことにも費やされている。
その結果として消費者はイメージに踊らされ、またメディアはスポンサー からのCM料金が入らないことを恐れて、真実の報道をためらっている。 このように現代の社会を支配しているのが、「人格障害」である企業なの だ。というのが、この映画の伝えたいことだと思う。
うん、それはその通りかもしれない、と思いつつ、でもじゃあ企業活動 全てを否定すればいいのか、と言われるとちょっと違う気もして。
それは、私自身が日本という、市場経済の発達した社会での生活にドップ リと浸かり、企業中心の資本主義に虐げられているというよりはその利点 を享受する事の方が多い立場にいるからなのかもしれないけれど。
GAPの服が手ごろな値段で手に入れられるのも、一方では中国やその他 の発展途上国の人件費が安いからだともいえるわけで。
例えば、人権に限らず、例えば全ての生き物、もしくは家畜動物の生きる 権利を主張すれば、人間は厳格なベジタリアンになる他はない。 実際、そういう主張をしている人も海外の知り合いには結構多い。
でも私自身は、そこまで行き着くことは多分出来ないと思う。 逆にいえば、それだったら自分という生き物一匹が快適に生活をするため に、一体どれだけの地球資源や環境を犠牲にし、また他の動植物の犠牲 なしには生きていけないのか、という事を自覚して、謙虚さを持ちながら 生きていたいと思ったりする。
そして目の前に出された食べ物は、出来るだけおいしく食べていたいと 思ったりする。 その一方で中国で経験したガサガサのトイレットペーパーよりは、最高級 品でなくても、日本のトイレットペーパーが使えて幸せだな、と思う。
つまり、人間が今の時代にある程度幸福な生き方をすること自体、罪深い 事なのかもしれない。
ただし、だからといってこの映画が問題提起している問題に対して、 全て無視しても構わない、と思っているわけでもない。 結局、物には程度というか、分のわきまえみたいなものが必要なのだ、と 思うのである。 Desire(欲望)を持つのはしょうがなくても、それをGreed(強欲)にしない 方がいいというか。
例えばね、アメリカのグローバル企業の場合、彼らが費やす広告宣伝費の 数%でも、例えば発展途上国に建設した工場で働く人たちに還元したり、 もしくは高いギャランティーを要求する弁護士の経費が安く出来たとする ならば、私たちはもっと安いコストで自分たちの生活を維持できるのかも しれない。
日本と、アメリカの企業一番の違いって、やっぱり弁護士とか訴訟費用や 例えば企業防衛に対して支払わなければならないコストのバカ高さの様な 気がするし。 もっとも、日本も段々とそうならざるを得なくなっている気もするが。
でも例えば、企業の社会責任であるとか、エコロジーであるとか、この 映画にも出てきた人たちの様々な告発や活動によって、企業のあり方も 変わっていくのだと思うし、むしろそういう活動も大切なんだよな、と 思ったりする。 だから、意識の片隅にでも、こういう問題がある事は忘れないように したいと思ったりする。
それにしても、アメリカやカナダのドキュメンタリーって、「ボーリング フォーコロンバイン」にしても、「スーパーサイズミー」にしても、映像や アニメーションの使い方が上手いよなあ、と思う。 こればっかりは日本にはない感覚というか。
あと、この映画の中で言っていた、2025年には世界の人口の2/3には、 飲み水が不足する、という話のほうがショックだったりするのだが。 ちなみに本も出ているそうです。
今回は映画ネタ。見てきたのは「ロードオブウォー」 この映画を一言でいうと、「悲しいけどこれが現実なのよね」である。
この映画、実際の話をベースにした作品らしく、ニコラス・ケイジ演じる 武器商人が、ソ連崩壊に基づく冷戦の終了と、その後世界各地で頻発した 内戦の陰で、暗躍するさまを描いた作品である。 セックスとコカインと火薬。 なんて書くと男根主義的なプレイボーイ誌っぽいというか、落合信彦 っぽいというか(読んだことないんだけど)。
一本の映画としては、ニコラス・ケイジの作品に大外れなし、という私の 持論に今回の映画もあてはまっていて、構成というか脚本がしっかりした 映画だと思う。
題材として、もっと陰惨でやりきれない内容になったり、お涙頂戴の映画 になってもおかしくないのに、ニコラス・ケイジのモノローグと併せて、 物語は淡々と、そして時としてユーモラスに進んでいく。 とりわけ、ニコラス・ケイジを追いかける捜査官との攻防は、まるで ルパン三世の世界の様でもある。
もう一つ、この映画を見ていて上手いな、と思うのは、主人公に対比する 人物として、当初一緒に仕事をするイケメンの弟をおいた事だろう。 彼は、自分が扱っている商品、銃によって人の命が失われていく、という 良心の呵責にさいなまれて、やがてコカインに依存していってしまう。
その兄弟の会話の内容が、この映画を端的に表わしていると思う。 うろ覚えながらここに書いてみると、ニコラスケイジが、自分の妻に 自分の仕事の内容を話していないことに対して、弟はすごいな、と つぶやく。 それに対してニコラス・ケイジはこういう。
「お前は銃が人の命を奪うというが、車だって飛行機だって人の命を奪う 事もある。車のセールスマンが、そのことを家庭で話すか?それに銃より も、もっと沢山の人間が車で死んでいるんだ」
また、図らずも虐殺の現場を見てしまい、止めようとした弟に対しては、 こう言い放つ。 「関わるな」
これらは詭弁である。でも、そこで割り切れるのかどうかで、兄と弟の 生き方は分かれていく。弟はドラッグにのめり込み、兄は黒いビジネスに のめり込んでいく。
妻に武器の闇取引の事を感づかれてしまい、その妻から「その仕事を やめて」と言われたニコラス・ケイジはやめられないんだ、と言った後 こうつぶやく。 "I'm good at."(字幕では、「才能があるんだ」)
ニコラス・ケイジ演じるユーリが、セックスにもドラッグにも溺れず、 またアフリカや各地で、狂気の沙汰の中でも正気をたもっていられた のは、彼がビジネスでの成功という、麻薬にとりつかれていたからなの かもしれない。
そしてこの映画を見ていて、実はホリエモンやムラカミファンドの事を 思ったのである。 案外彼らも、自分の事を"good at"だと思いながら生きているんじゃない のかな。
物語には最後、一つ大きなどんでん返し?がある。 それは映画を見て確認してほしいなあ、と思う。
この映画は武器商人、死の商人という、闇の世界を描いた作品なんだけど 事実を基にしたことで、その内容の説得力とともに、本当の悪人というか 闇の世界というのも、実はサバサバというか淡々としたものなのかもしれ ないな、と思わせる映画だった。
そしてその現状を皮肉たっぷりに、エンターテイメントとして成立させた スタッフに敬意を表したいと思う。
彼ら武器商人が大量にばら撒いた弾薬によって(それこそ本当に「大量」 破壊兵器である)、アフリカで起きた事を逆の立場で描いた、「ホテル ルワンダ」を見るときの参考にもなるかもしれない。 結構オススメである。
うちの年末〜正月にかけての大掃除での一大イベントというか、 一番大変なのが、本棚の整理である。 とにかく、気がつくと本棚に本があふれかえってしまうのだ。 本のエンゲル係数?が高いというか。
ということで、写真は今年処分した本の数々。大体50冊くらい。 本当は処分したくない思い出の本もあるけれど、これを処分しないと 本棚に納まらないのでしょうがない。
私が本を処分するときの判断基準は、 1)一回読んで、もう読み返さないだろうな、と満足してしまった本 ベストセラー本とか、新書など。
2)現在文庫化された本が手に入る本 次にもし読みたくなった場合には、文庫で買えば省スペースになるし。
3)図書館に行けば借りられる本
4)読みかけで終わってしまったけど、多分もう読まないだろうな、と 思われる本
という感じ。
これにあと、本棚の奥にあってしばらく読んでなかったので、とりあえず もう1回読んでみたいと思われる本を本棚の前の方に移動して、作業終了。 これで本棚も少しはスッキリしたかも(←そうでもない)。
今年の年末には、今年自分が買った本でも写真で撮ってみようかな。
2006年01月03日(火) |
開かれている・閉じている |
新年は、圧倒的に暇な時間が多いということで、まとまらないままに 結構いろんな事を思いついたりする。 という事で、とりとめもなく、思いついたことを書いてみる。
昨日、ラクーアの温泉に入った後、身体がぽかぽかして、自分の身体が ほのかに温泉から出た後の残り香に包まれていた時、本当にちょっと 幸せな気分だったんだけど、同時に温泉に入る前と比べると、あ〜、 今の自分の身体って、開いているんだなあ、なんて思ったのである。
北風と太陽のたとえではないけれど、寒風吹きすさぶの中を歩いて いる時っていうのは、やっぱり閉じているというか、身体は小さく 縮こまっていると思うし。
でもそれって、寒風の中で凍てついている間には、結構わからなかった りするんだよね。 温泉のたっぷりとした温かいお湯の中であ〜、気持ちいい、っていう 心地よさを味わって初めて気付かされるというか。
でもって、これって普段の日常生活の中でもあることのような気が するのだ。 特に、私のように一人暮らし歴が長いと、知らず知らずのうちに、 自分では閉じてしまっているとは気づかずに、閉じちゃっている 場合ってあるのかもしれない。
例えば、ニュース番組で陰惨な話や、先行きの暗い話をずーっと 聞かされているだけでも、自然と身体や心は、寒風の中にいるよう に閉じていってしまったりするのかも。 かといって、そういったものから全く目を背けていればいいのか、 といえばそれはそれで閉じてしまっている気がするし。 だから、今は寒風吹きすさぶ世の中なのはしょうがない、という 覚悟みたいなものも必要なのかもしれない。
寒風の中の温泉にあたるものが、日常生活では何になるのかは 一概には言えないと思うけど、でも時々はそうやって、温泉に 入るように自分自身を開いてみたり、また自分が閉じているか どうかを気付かされることって、大切なんじゃないのかな、と 思ったのである。
でもたとえば、温泉につかって、あ〜気持ちいい、と幸福感にひたる だけでも、おそらく脳の中ではドーパミンとか、幸福感を増す神経 伝達物質は出ているんだろうし。 でもそれが当たり前だ、なんて思っていると、ドーパミンが出る量も 少なくなったり、感度が低くなってしまったりするのかも。
逆にいえば、やはり大きな幸福感がドーンと1回だけ来て後は不幸、 よりは、小さな幸福感が積み重なっていく方が個人的には好みなん だろうなあ。
まあもっとも、開いている方がよくて閉じている方が一概に悪いとは いえないと思うけど、なんとなく今年は、たとえ小さな事でもいい から、幸福感を発見していけたら、自然と開かれた感じになったり するのかな、なんて思うのだ。
さて、大晦日〜お正月にかけては、私も他聞にもれず、TV番組を 見ながら過ごしている。 といっても、今年はそんなに見ているわけでもないんだけど。
でも、大晦日のPRIDE、Dynamite、そして紅白歌合戦の争いは、 結構いい所取りをできたような気がする。 うちのTVは、2画面で表示できるので、時々ザッピングしながら 裏番組を見られるのである。
紅白に関しては、氣志團、グループ魂(阿部サダヲ、宮藤官九郎の バンド)はちゃんと見られたし。 氣志團は、曙とか、小川×吉田とか、何故か花田兄弟のそっくり さんが大挙舞台に上がっているのを楽しめたし、グループ魂の方は 阿部サダヲが、琴欧州関にCMで出演しているヨーグルトの名前は? と質問して、「ブルガリア」とか答えさせていたし。
うーん、でもねえ、紅白は本当に久しぶりに見たんだけど、そう いうキワモノの演出がなければ話題にもならないほど、なんていう か追い詰められているというか、国民的娯楽という立場からは 降りているんじゃないのかな。 倖田来未の演出法とか見ても、NHK必死だなって感じだったし、 衣装もレコ大の付け乳首?の方が印象に残ったし←こっちも必死 な感じだったが。 個人的には山崎まさよしの歌が聞けてよかったなあ、とは思うけど。
PRIDEと、Dynamiteの格闘技対決に関しては、対戦カードについて は、PRIDEの方がやっぱり層も厚くて面白かったと思う。 でも、過去の映像とか流しすぎというか、時間が長すぎる気がする けど。
私が格闘技モノを見るとき、試合開始直前の両者が目を合わせた時 の印象で、どちらが勝つかを予想してみる、なんて事をしている。 もちろん、素人なんで当たるも八卦、当たらぬも八卦、みたいなもの なんだけど。
でもその印象で言えば、金子賢はやっぱり負けるような気がしたし、 小川×吉田とか、五味×桜井では、どっちが勝つかはわからなかった けど、小川とかは、目を伏せている気がしたし。って完全な後出し ジャンケンですな。
でも、大晦日の闘いの中で、一番最高に目力があるような気がした のは、Dynamiteの山本KIDだった。 というより、彼の身体のキレは今まで見た中でも最高だったと思うし 気迫も素晴らしかったと思う。
最近、フィットネスクラブでボクササイズにハマっている事もある けれど、彼の身体の動きは、本当に1匹の野生獣を思わせる感じだっ た。 個人的には、須藤元気がどんな風に彼を攻略していくのか、にも 興味はあったんだけど、あの状態の山本KIDには、かなわなかった んだろうな、なんて思うのである。 二人の対戦は、また見てみたいと思う。 いや、いいものを見せていただきました。
年が明けて、元日は、思ったほどTVは見ずに、部屋の片づけしたり していたんだけど、一つだけ印象に残ったのは、「大笑点」での、 TOKIOの長瀬の落語だった。
これまた、落語をしている時の、長瀬の目の輝きがよかったんだよ ね。昨年、「タイガー&ドラゴン」に出ていたから、というだけで なく、いい意味でプロの噺家さんにはない勢いというか、楽しい 感じが伝わってくるのがよかったと思う。
たまたまつけていたというか、チャンネルを変えた時にこういう 瞬間に出会えることが、正月TV番組を見ていて贅沢な事なのかも しれない。
今日はこの後、ラクーアに行って、初温泉を楽しんでこようと 思っている。 今日は雨降って寒いし。
あけましておめでとうございます。 今年こそ、いいかげんそろそろ飛躍したい年頃では ございますが、はたして今年はどうなるでしょうか。 本年もなにとぞ温かい目で、よろしくお願いいたします。
2006年元旦
写真は、昨年のアメリカでの空港での夜明けです。
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