さて、責任をとるということに関して、内田樹がBlogでこういうエント リーを書いていた。
要所だけ引用すると
これらのニュースに共通するひとつの「文型」があることに気づかれただろうか。 それは「お前が責任を取れ」という声だけがあって、「私が責任を取り ます」という声を発する人がいないということである。 私たちの社会はいまそういう人たちがマジョリティを占めるようになっ てきた。 トラブルが起きるたびに「誰の責任か?」という他責的な語法で問題を論じることが、政治的に正しいソリューションだと人々は信じているようである。 前から申し上げているように、私はこのソリューションの有効性に対して懐疑的である。 「責任者を出せ」ということばづかいをする人間はその発語の瞬間に、その出来事を説明する重要なひとつの可能性を脳裏から消しているからである。 それは「もし、この件について自分にも責任があるとしたら、それは何か」という問いへむかう可能性である。(略)
私は「私ひとりのせいじゃない。責任は〈あいつら〉にもある」というようなことを言いたいわけではない。 「責任を取る」というのは「そういうこと」だと申し上げているのである。 「ひやり」とした経験から、私をそのような状況へと追い込んだ他のドライバーたちに対する呪詛を吐き出すよりも、自分の運転の仕方についての反省点を見出す方が生産的だというふうに私は考える。
「責任を取る」というのは、端的に言えば、「失敗から学ぶ」ということである。 「責任を取らせる」というのは、「失敗から学ばない」ということである。 失敗から学ぶ人間はしだいにトラブルに巻き込まれる可能性を減じてゆくことができる。 失敗から学ばない人間がトラブルに巻き込まれる可能性はたいていの場合増大してゆく。 そういうタイプの人間は、80%自分が悪い場合でも、残り20%の有責者を探して責め立てるようなソリューションにしがみつくようになる。 だが、他責的な人間が社会的な承認や敬意や愛情を持続的に確保することはむずかしい。 そして、周囲からの支援を持たない人間は、リスク社会においては、ほとんど継続的にトラブルに巻き込まれ、やがて背負い切れないほどの責任を取らされることになるのである。 「失敗から学ぶ」ことは「成功から学ぶ」ことよりも生存戦略上はるかに有利なことであると私は思っている。 しかし、現代日本ではこの意見に同意してくれる人は日ごとに減少している。 なぜ、人々は自分が「より生きる上で不利になる」方向に進んで向かってゆくのか。 私にはうまく理解できない。
うん、そうだよなあ、と私も思う。 別の言い方をすれば、「他に責任がある」という文型は、子供的であり、 「自分にも責任がある(かもしれない)」というのは、大人的であるような 気がする。 だって、他に責任がある、という言い方をするというのは、自分には 責任者能力がありません、と言っているようなものだし。
ただし、そこでいう「私にも責任がある」というのは、全面的に、100% の責任を個人が被れ、という事ではないと思う。 そうではなく、もしも何か避けがたい事態が起きたときに、自分にも 何らかの落ち度があったのか、とか何が失敗だったのか、という事を 自分の問題として考えられる人間の方が、社会的な信用も含めて、より よい人生を送れるような気がするのだ。
例えばね、今回のマンションの構造書偽造の問題にしたって、もしも 万が一、事が発覚した時に自分がこうむる代償の大きさを考えたのなら マンションの構造を犯罪的なレベルまで落としたりはしないだろう。
つまり、責任を取るというのはもう一方では、最悪の事態になった場合に 自分で対処できるという最低限のリスクはおさえておくって事のような 気がするのである。
そして私はその事について、病院に勤務している時に学んだような気が している。 医療事故というのが、起きてもおかしくはない現場であるからこそ、 まずはそういう危険の起きる芽を先につんでおく事が重要になるし、 今現在、ひんぱんに起こっているとされる医療事故の大半だって、そこに いる医療スタッフの数であるとか、一人一人がもう少し仕事に対して余裕 のとれる環境が整えば、随分と減るんじゃないかな、という気がするし。
それに医療現場って、それこそ責任者出て来い、の文型で真っ先に槍玉に あげられる場所だからこそ、それぞれの医療スタッフに限らず、例えば 医療事務の人だって、責任感やプロ意識みたいなものは否応なく持たされ たりするもので。 でも、今の私が、仕事の面で多少なりともマシになっているとすれば、 そういう責任感というか危機管理の意識を持っていたからだと思うので ある。
そしてそれは、今現在、自営になっても同様であり。多分フリーで様々な 仕事をしている人たちにも、共通しているんじゃないのかな。
でね、自分が自分のマンションの管理組合の理事長という、(一応)偉い 立場になって、外部の企業や管理会社とお付き合いをするようになって 一番驚いたのは、それが不動産系の会社組織の特徴なのかどうなのかは わからないけれど、基本的には、責任の所在って言うのはぼやかす方向で 話が進められる、という事だった。
それは理事長である私にせよ、会社にせよ、誰がどう意思決定をして、 その結果どのような責任を負うのか、という事が、問題にならない様に あらかじめ問題が処理されていく、というか。
もちろん、その場合であっても、お互いが責任を取るような事態が起こる 事を避けるため、事前の下準備というか、危険の芽は先に摘まれる形で 処理をされていたので、その事が問題になる事はなかったし、少なくとも 私が理事長を務めている間は、管理会社の人たちの仕事ぶりにあからさま な不快感を感じることはなかった。
ただどこに責任があるのか、ということを曖昧にした結果として、 なあなあというか、一種の思考停止に陥ってしまう可能性は否めない様な 気がする。
そしてその場合、今回の事件のような想定外の事態が起こった場合に、 責任を感じている人と、責任は他者にあって自分にはないと考えている 人では、自ずと所作振舞いに有意な差が生まれてしまうような気がするし 危機管理という意味では、自分に多少の責任はあるのだ、と考える人の 方が切り抜けられるんじゃないのかな、なんて思うのである。
2005年11月28日(月) |
責任はゼロか100しかないのか |
先々週の土曜日、自分の住んでいるマンションの総会があった。 実はその総会までの2年間、管理組合の理事長を務めていたのである。
管理組合とは何ぞや?といえば、そのマンションの住民を代表する 町内会みたいなもので、理事長はいわば町内会長みたいなものである。 普通は社会的にももっと経験を積んだ人がなるんだろうけど、私の場合 はひょんなきっかけで、33歳(当時)独身の若造がなってしまったわけ ですね。
うちのマンションの場合、100世帯とやや大きいので、管理会社に大体 の事務やら管理業務は任せる形になっている。だから多分、町内会長 よりは仕事は楽である。
でもその分、理事長として意思決定はしなきゃいけない場面も時々 やってくるし、管理会社や外部の会社の担当者とも会わなきゃいけな かったりする。
私の任期の間にも実は様々なことが起こり。 隣地の建替え問題や土地境界確定問題が2件あったり、はたまたうちの マンションの駐車場が外資の手に渡り、仮登記されてあやうく第三者に 売り飛ばされそうになったりとか。
えー、なんでそんな事が?みたいな事も色々と起こり、その度に貴重な 体験を積ませていただいたわけですね。 弁護士のところに法律相談に行ったりもしたし。 まあ、ほとんどの事案については事無きを得て、無事任期を務め上げ られた訳である。
そのおかげでマンション管理の実態とか、管理会社との付き合い方、 考え方なんていうことを知ることができたのは、自分にとっては大きな 財産だと思う。
で、そういう元管理組合の理事長としては、今回の姉歯設計事務所の 耐震構造書の偽造問題は、どうしても住民の立場で考えてしまう。 で考えてみると、本当に出口がないよなあ、と思うのである。
もしも自分が住んでいるマンションにそういう違反が見つかったら、 と考えたら、やっぱり真っ先に販売業者に対して、買取りをお願い したい所だろう。 慰謝料やら、引越しの料金やら、次の住居が決まるまでの費用も重ねて お願いしたい(というか、駄目元でも一応言ってみるかもしれない)が もしもローンを抱えている場合で考えても、少なくとも契約違反の部分 に関しては、その料金はキッチリと返されてしかるべきである。
でもねー、それが返ってこない可能性がすでに見えてしまっていると いうのがやりきれないというか。
今、マスコミでは、どうやら標的をヒューザーの社長に絞ったようで ある。 いわゆる悪人顔だし、色々とうかつな発言のメモが出回ってくるように なったし。 わかりやすい構図を求めるマスメディアにとっては、格好の標的なんだ ろう、と思うのである。
姉歯建築士の方は、あまりに飄々としてて、人々がうまく怒りをぶつけ られないあたりが得をしているのかもしれないし、彼をつるし上げても 自分たちのお金が返ってくるとは思えないあたりも、標的にはなりえて いないような気がする。
でもさ、住民としては、自分の資産の価値を損なわないで返してもらえ る(もしくは、たとえ何割かであっても確実に手にすることができる) 事が重要なんだと思うんだよね。
その意味でいえば、ヒューザーだけが100%の責任を負えばいいのか、 といえばそんな事はないわけで。 今、マスメディアでは誰に責任があるのか、という文脈で責任を追及 している訳だけど、そういう犯人探しに終始する限り、多分100%の 責任を取れる人はどこにもいないし、その犯人探しもいつの間にか うやむやになってしまう事もあるわけで。
もし仮に私がその問題の物件の住民だとしたら、これに関係した 販売会社、建設会社、書類の認可を下したイーホームズにそれぞれ 何割の責任があるのかを下して責任をとってほしいと思うかもしれな い。 多分それが現実的に一番お金が返ってくる条件のような気がするし。
常に責任がゼロか100かで論じられるのは、ちょっとおかしいと思うの である。
ただね、だからといって武部幹事長が言及したように、今のまま犯人 探しを続けていたら、不動産会社、マンション業者ともつぶれる所が 出てきて景気が後退してしまう、という意見には与することはできな い。
というより、村上ファンドにしろ、このマンション建設ラッシュにせよ 結局は、お金が効率的に儲かるところを求めている、今の過熱的状況 から来るんだろうし。
それによって一時的にお金が日本に集まったとしても、こういう信用を 根底から崩すことや、誰も責任を取らない(取りようがない)状況が続く のなら、いずれは日本からお金は流れて出て行ってしまうだろうと思う のである。
もしも建築主が本当に、コストダウンのために構造書に改変をしたの だとして、それで儲けられたほんの些細なお金だって、それが露呈して しまえば、もっと何倍もの大きな代償を支払うことになる訳で。
彼らの会社がそれによって信用を失って仮につぶれてしまうのは自業 自得だとしても、なけなしの金をつぎ込んだこっちまで巻き込まないで ほしい、というのが住民の気持ちだろう。
本当に、どこかでいい落とし所が見つかることを祈っておきます。
今回は映画ネタ。観てきたのは「TAKESHIS'」 この映画、前評判でやたら難解だった、とか聞いていたんで覚悟をしな がら見に行ったんだけど、そんなことはなく、とても面白かった。 というより今年観た中でも少なくとも3本の中には入ると思う。 (最近、あまりいい映画にめぐり合っていないからかもしれないが)
っていうかさ、この映画について監督の北野武本人に「この映画の 見所は?」とか聞いても意味無いだろう。 だってこの映画、おそらくは「2005年の北野武そのもの」なんだと思う からである。
一応売れない役者でフリーターをしている芸人北野武の物語(を、 白昼夢で見ている北野武本人の物語)という一つのストーリーはある ものの、この映画が見せたいものはそういうあらすじというか、 話の展開ではないような気がする。
むしろ、そういう話の展開というものを壊してしまったからこそ、 この作品のクリエイターである北野武の伝えたかったもの、物語が 立ち上がって来るような気がするし。
そしてそれは、最近の宮崎駿にも通じるものであり。 つまりは、一つ一つのシーン、エピソードはまるでジグソーパズルの ピースのようなものであり、その一つ一つのつながりやデティール ばかりに注目していたら、全体は見えてはこない。
むしろそれらが全部納まった全体の絵を見た時(つまり映画の全編を 観終わったときに)忽然と姿を現われてくるのが、北野武が伝えたい メッセージのような気がする。
大体、人が伝えたいと思うことが、整然とした物語の形にはなかなか ならなかったりするもので。 むしろそれがきちんとした物語の形になっている場合っていうのは、 無意識と意識の間にあるフィルターによって、編集されたものなのかも しれない。 そしてこの映画では、北野武が自分の無意識の世界まで、降りていった 映画のような気がするのだ。
だからかもしれないけれど、この映画を刻んでいるリズムは、北野武の 生理的なリズムになっているような気がする。 例えば、映像の途中にいきなり差し込まれるインサート映像は、彼独特 の肩をゆすったり、目のまばたきのリズムに近いような気がするのだ。 そしてもしかすると彼は実際に、まばたきをしている一瞬に、あんな 映像を見ているのかも。
また岸本加世子のいきなり叱り飛ばす役は、実際に彼の心の中にいて、 何をしていても、お見通しなんだよ、なんて言っているのかもしれない。 なんてことを想像しながらこの映画を見ていたら面白かったのである。
それにね、多分同様のモチーフで撮られた映画って、沢山あると思うん だけど、この作品についてすごいな、と思うのはその編集だろう。 だって、いかに編集でつなげようたって、肝心の素材がなければ駄目な わけで。 台本もなく、その場で撮っていくという彼のスタンスにも関わらず、 セリフとか、共通する場所が沢山あるのはちゃんと完成される作品を 予想しながら撮っていったって事なわけだし。
映画の最後、なかなか終わらないあたりとかは、多分どこで終わりに してもよかったんだろうけど、なんというか残尿感みたいな感じで、 すっきりと終われなかったのかもしれないし。その辺にも北野武の 生理的なリズムが色濃く残っているような気がするのだ。
なんてもし仮に本人が読んだら、「そんなんじゃねえよ、馬鹿野郎」と 言われてしまうのかもしれないが。
でも、この映画の中で、例えば主役のビートたけしをはじめとして、 一度撃たれた人間がまだ生きているのは、映画なんてお約束じゃねえか という気持ちもあるのかもしれないけれど、もう一方ではこんなんじゃ 死ねねえよ、と北野武本人が言っているようでもあり。
北野武本人は、この映画で一区切りを置くつもりである、なんて話も 事前のプロモーションで聞いていたんだけど、たとえこれで映画が 撮れなくなったって、生身の北野武本人は死なないよ、と言っている ような気がして。
次回、彼が再びメガホンを持ったときには、果たして本当に作風が 変わってしまうのか、それとも今までの延長で行くのか、それも含めて 次回作がちょっと楽しみになったのである。 多分、また観ると思います。
2005年11月24日(木) |
トランス エルダーバージョン |
「私がお話しを始めるのは、たぶん、偶然で、でもそれを人は運命と呼ぶ のかもしれません。事実は存在しない。ただ、解釈だけが存在するという 古い歌がありました。私は、今、何からお話すればいいのか戸惑っていま す。あの、順番に、私達の再会から始めてもいいでしょうか。そうするこ とが、私の真実をわかっていただく一番の近道だと思うのです。私は何が 正常で何が異常かを分類することはできます。ですが、何が妄想で何が 真実かを分ける方法を知らないのです」
24日の金曜日、舞台「トランス」を見に行ってきた。 作・演出、鴻上尚史、出演は松たか子のお姉さんの松本紀保、みのすけ、 猪野学。
トランスは93年に初演された舞台であり、私にとっては再び劇場に足を 運ぶようになった、思い出のある舞台である。 また、おそらくはこの舞台を見たことで、人の心理とか関係性という事に 素人ながら興味を持つようになったきっかけの作品でもある。
物語の概要は、高校時代の親友3人が、ひょんなことで再会をする。 一人は精神科医、一人はその患者、そしてもう一人はオカマとして。 やがて、患者のフリーライターは統合失調性の妄想により、自分が天皇で ある、妄想の世界を生きるようになってしまい・・・という話。
患者役のみのすけは、とても優しさを兼ね備えた男性役を演じていたし、 またオカマ役の猪野学は、本当に2丁目のショーパブにいそうなオカマ 役を好演しており。 そして精神科医の女医役である松本紀保は、ギャグの部分や身体のキレは さすがにちょっとつらいものの、その分、女医役の精神的な深みという ものを上手く演じていると思った。
今回の舞台には、20代の役者が演じるユースバージョンと、30代の役者に よるエルダーバージョンの2パターンの舞台を交互に演じるためか、エル ダーバージョンの方は、初演に比べてもよりシリアスな舞台になっていた ようだけど、その分この舞台の物語に深く入り込めたという感じかもしれ ない。
この作品には、実は一つの仕掛けがある。 それは、同級生の患者を治療しているはずの精神科医の女医が、実は患者 で、実は自分が精神科医である、という妄想を生きているのだ、という 全く逆の立場にある瞬間入れ替わる、という演劇的な仕掛けである。
それが、この作品をちょっとわかりにくくしている部分ではあるんだけど 今回はその入れ替わりの部分がよりわかりやすい演出になっていたと思う。 そして、松本紀保とみのすけのコンビは、その関係の危うさを上手く演じ ていたと思うし、猪野学演じるオカマは、いくら相手の事を好きになって も振り向いてはもらえない切なさが、こっちによく伝わってきたと思う。 だから今回、ある場面では思わず泣いてしまった。
また今回、改めてこの舞台を見て気がついたのは、ああ、この作品って 関係性を題材にしていたんだなあ、と思ったのである。 女医の紅谷先生とオカマの参蔵はそれぞれ、自分の愛する人との関係に 悩み、患者役の雅人は、自分との関係性に悩んでいる。
この作品が初演された当時位から、「自分探し」ということが流行った。 でも、「自分探し」で本当の自分が見つけられた人はいいけれど、この 患者役の雅人のように、「自分探し」を続けたあげくに、「本当の自分」 なんてどこにもいないことに気がつき、自分が何者でもないことに 耐えられなくなってしまったり、また、紅谷先生のように新興宗教に 取り込まれてしまう人たちも多かったのかもしれない。
この作品の中で語られる、治療者と患者の関係というのは、今から見る とカウンセリングとしてはやってはいけないことを多々やってしまって いるように見える。 (逆説的だが、それが紅谷先生が本当の医者ではない、というもう一つの 可能性についての裏づけにもなっているように見える)
だからこの作品の中では、患者役である雅人が治るきっかけになるのは、 治療者ー患者の関係を超えた(トランスした)、個人的な関係性によって 治っていった様に見える。
そして、実は「関係性こそが人を治す肝なのだ」というのは、臨床心理学者 の河合隼雄の持論でもあり。 ただ、この劇中での関係性による解決方法は、治療者としては、やはり 間違っているのかもしれないけれど。
でも、鴻上尚史の戯曲には、同じくカウンセリングを扱った作品として 「ハルシオン・デイズ」という作品があり、こちらも面白く、またカウンセ リングの方法としては、より現実に近そうな内容になっているんだけど、 観た後の感想としては、実はこちらの「トランス」の方が、より心に響いて 来るような気がする。
それはこの作品のほうが、物語としては少し破綻していても、登場人物 同士の距離が近いように感じるからかもしれない。
この「トランス」は鴻上尚史によれば、発表以来、1000回以上、様々な人 たちによって上演をされてきたらしい。 それは、登場人物が3人で済むことや、特別なセットがいらない事も理由 の一つなんだと思うけど、この作品の持つ距離感といったものが、それだ け多くの人に選ばれた理由のような気もするのである。
この戯曲は、鴻上尚史の作品の中では、ウェルメイドというか、物語性が 高い作品である、という評価が下されることが多いと思う。 そして、鴻上尚史自身は、「物語」というタームを忌避するきらいがある。
でもね、この作品に限らず、鴻上尚史の作品って、ストーリーというより も、彼と劇団員・出演者との距離感や、観客との距離感を物語として提出 しているんじゃないのかな、と思ったのである。
すなわちこの作品は、ある意味で鴻上尚史自身の物語、ともいえるんじゃ ないのかな。 だからこそ、「完成した物語など犬に食われろ」→自分自身が完成すること なんてない、と言っているのかもしれないし。
でも、逆に言うと、彼と出演者、そして観客との距離感が、そのまんま その舞台の出来不出来に直結しているともいえるような気がするのだ。
'93年以降、第三舞台や彼の舞台を続けて見てきて、今感じるのは2001年 に劇団が活動を休止するまでの間に、彼と劇団員である俳優や観客との 距離感の変化である。
なんというか、時代を追っていくと、段々とその距離が開いていったんだ なあ、というのがわかってしまうのだ。
このトランスの初演当時は、1年間の活動休止の後、10年間つきあってきた 役者、長野里美、小須田康人が出ているからかもしれないけれど、演出家 と役者の距離も近かった気がするし、また観客である私たちもそういう 演出家と出演者の、そして観客との距離を楽しんでいたような気がする。
そして、それは彼らが立ち上げ以来、気の遠くなるような時間を練習に あて、様々なエチュードを繰り返し行なってきた、という関係性の濃さ から来る、一つの劇団の関係性を観るのも、第三舞台の観劇の楽しみの 一つだったように思うのだ。
で、あるならば、表現者・鴻上尚史に必要なのは、また一緒に気が遠く なるほどの時間を一緒に過ごす、劇団員なんじゃないのかな、という 気がする。
それは旧第三舞台のキャストたちが集まって行なう、というよりは また新たに若い人たちもしくは同い年位の無名の人たちと組んで、汗水 たらしてやっていくことのような気がするのだ。
ただし、彼が元々持っていた、例えば学生運動に対する憧れなんていう ものは、今はもう若い観客に共感を得ることは難しいと思うけど。 それは、ただ単に、わかりやすい演劇を観客が求めている、という鴻上 自身のタームでは、本質を隠してしまうもののような気がする。
個人的には、何年たってもいいから、鴻上尚史×筧利夫主演の、師弟の 舞台、なんていうのを一番見たいな、と思ったりするんだけど。
2005年11月11日(金) |
レオナルドダビンチ展 |
金曜日、13日まで六本木ヒルズの森アートギャラリーで公開されていた レオナルドダビンチ展に行ってきた。
この展覧会?は、レスター手稿と言う、一般人ではただ一人、ビルゲイ ツが所有しているレオナルドダビンチ直筆のノートを、年に1回1ヶ国で 公開されているものであるらしい。
レオナルドダビンチについては、まだ読んではいないけれど近々映画も 公開されるらしい「ダビンチコード」の絡みもあり、直筆の字が読める なら、行ってみっか、というミーハー気分で行ったのである。
で、肝心の直筆の書簡に関しては、どうやら照射時間が決まっている らしく、薄暗い中での公開でよくは読めなかったんだけど、A3位の 大きさの紙にビッチリと細かい字で書いてあって、ダビンチが生きた 500年前は紙が貴重品だったんだなあ、と思っていたんだけど、それよ りビックリしたのは、彼の文字が全て鏡文字というか、左右逆に記され ていた事だった。
いや、彼の書いた書簡には、鏡文字で書かれた「秘密の」文書がどうやら あるらしい、というのは知っていたけれど、彼の書いた文書の大半が 鏡文字であるというのは知らなかった事であり。
どうやって書いたのか、とかそもそも彼はあんなに小さな鏡文字を果た して読めるのか、と思ってみたり。 だってさ、500年前のヨーロッパだったら、照明だって現代ほど明るく はないわけで。
よくもまあ、あんなに小さく文字を逆さまに書いていたよなあ、と ビックリしたのである。
そしてもう一つビックリというか、感心させられたのはその内容で。 今となっては、その後科学的に実証されたことも、逆に違うと否定され たこともその文書の中には載っているんだけど、500年前にその当時、 誰もそうは思わなかったことに対して、実証はできなくても論理的に 推論を重ねているのがすごいなあ、と思ったのである。
何となくね、レオナルドダビンチっていうと、天才の一言で片付けて しまいがちなんだけど、その天才たる理由が彼の直筆のノートから 伝わってくるというか。
どう考えたってその当時、彼の話が完璧にわかった人っていないんだろ うし、そう考えるとその独創的な考えを持ちながらも、当時の人々に さえ、天才と認めさせた彼の実績というのもすごかったんだろうな、 と思うし。
なんて事を考えながら、会場の100インチ位のプロジェクターによって 映し出される、おそらくはハイビジョンで撮影された絵画作品の数々を 眺めていると、今までとは彼の絵画に対する見方もちょっと変わって きたりして。
すばらしい技術に裏打ちされているだけでなく、それが一つの作品とし て心を打つような、鮮やかな色彩で彩られているのが、今まで以上に 美しく見えるというか。
などと、500年前の一人の人間の偉業なんてものをほとほと感心させら れた展覧会?でございました。
2005年11月08日(火) |
仮面ライダー The First |
今回は映画ネタ。見てきたのは「仮面ライダー The First」 うちの近所では、渋谷Toeiのレイトショーとモーニングショーでしか 見られないこの映画、案の定というか一緒に観た観客の20代〜30代男性 率が無茶苦茶高い。いわば、オタク映画である。 いやあ、久々に見たよ。これだけのオタク。 といいつつ、この映画を見ているあたり、自分もれっきとしたオタク なのかもしれないが。
こういう言い方はあまり好きではないのだが、私は「仮面ライダー世代」 である。 やっぱり、小さい頃の変身ヒーローとして、一番印象に残っているの って、「仮面ライダー」だし。 仮面ライダーの本放送時、まだ2歳だか3歳なので、同い年の連中と 懐かしいTV番組話をすると、皆仮面ライダーよりは、「V3」の方が印象に 残っている人が多いんだけど、個人的に一番好きだったというか、印象 に残っているのは、仮面ライダー2号なのだ。
多分ね、再放送(昔はこういう子供番組の再放送が頻繁に行なわれてい たような気がする)で見たと思うんだけど、仮面ライダー2号の登場シー ンとか、ちゃんと覚えていたし。
この映画は新しいタイプの仮面ライダーの映画ではなく、その頃の 「仮面ライダー1号2号」のリメイク作品なのである。 だから本郷猛役も、藤岡弘、ではなくイケメンの黄川田将也が演じて いるし。 また、ライダー2号が最初は1号ライダーの刺客として登場するという あたりも、石ノ森正太郎の原作漫画の設定通りになっている、らしい。
というあたりまでの話を聞いて、個人的には結構楽しみに、でも予算的 なことも考えてドキドキしながら見に行った訳ですね。 で、肝心の感想はというと・・・ うーん、なんかもったいないなあって感じかも。
オープニングでは、TVシリーズのオープニングミュージックがかかって 気分が盛り上がるし、また仮面ライダーの初登場シーンは、改造人間の ものすごい能力をちゃんと画にしていて、説得力あるし。
その後の改造人間となってしまった本郷猛の、有り余る自分の力と うまく付き合えないあたりとか、そのための孤独な感じとか、お約束の ベタな展開とはいえ、やっぱり昭和の仮面ライダーっぽいし。
ライダーアクションにしても、ワイヤーアクションを上手く取り入れる ことで、バッタ人間ぽさというか、迫力のある格闘シーンになっている とは思うし、ダブルライダーキックとか、あれはおそらくはライダー きりもみシュート?とか、往年のライダーを思わせる必殺技も出てくる し、変身シーンのライダーアクションも見せてくれるし、何より仮面ラ イダーは格好いいし。
んじゃ、何がそんなにもったいないのか、というと、全体の物語の運び というか、構成がもったいないなあ、って気がするのである。 すなわち、オタク心、かつてのライダー少年心をくすぐってくれる、 フェティッシュな部分でのサービスはあっても、1本の映画作品として は、ちょっと厳しい気がする。
多分ね、今回の新作を作るにあたり、できればマニアや子供だけでは なく、一般の大人の鑑賞にも耐える作品を、というのが今回の映画の コンセプトだったと思うんだよね。
でも、残念ながらその思いが空回りしている感じというか。 だって、見事に映画館には成人男性しかいないし。 自分もこの映画は面白かったよー、と普通の?友達に薦められるか、 というと微妙だし。 かといってオタク心を刺激してくれるほどのカルト作品にはなって いないし。
おそらくは編集か、製作の段階で予算が足りなくなったのか、当初の 予定から若干の時間の短縮か、構成の変更があったんじゃないのかな。 でないとすれば、あまりに脚本がお粗末な感じというか、邦画のチープ さが出てしまったというか。 何かもったいないなあ、って感じなのだ。
だから何となく、心に引っかからないというか、多分流して見て消費 されてしまう、って感じなのかも。 例えば、ティム・バートン版のバットマンは、個人的にあまり好きな 作品ではないけれど、監督の思い入れというか、マッドサイエンティ フィックな愛情みたいなものがあるので、一つの映画作品として、 印象に残りやすいと思う。
で、この仮面ライダーには、そういう博士の歪んだ愛情みたいなものが フェティッシュな方向にしか行ってないのが何となく、惜しいのだ。 だから映画館で高い金を払うのではなく、レンタルDVDで借りてみたな らば、おっ、懐かしいというか意外と面白く見えるのかもしれないけれ ど、仮面ライダーというソフトの力としては、もったいないというか。 仮面ライダーとか、キカイダーは、うまくいけばバットマンに匹敵する 魅力のあるキャラクターのような気がするし。
なんて、まとまりもないまま、個人的な思い入れをたっぷりと書いて しまっているあたりが、ちょっとオタクっぽくて個人的にはなんだか なあ、って感じなんだけど。
まあついでに書いてしまえば、もしも次回作があるのだとすれば、 次回はV3とは言わず、できれば本郷猛のライバルでショッカー怪人に 自ら志願しちゃった人とか、立花藤兵衛との地獄の特訓とか、ダブル ライダーVS13人ライダーとかやってくれたら、多分また劇場に足を 運んでしまうかも。東映さん、よろしくお願いいたします。
あと、久々にオタクの人たちを大勢見て気がついたんだけど、オタク の人って、もみ上げを綺麗に剃っている人の割合が、結構高くない っすかね?
2005年11月06日(日) |
何かに出会うということ |
日曜日夜10時からフジテレビで放送されているニュースワイドショー、 「スタ☆メン」で、爆笑問題の太田光が、精神科医の名越康文と、あの タリウムによる母親毒殺未遂事件について、討論をしていた。 もっとも、今現在容疑者の女子高生が否認をしている以上、母親殺人 未遂事件という言い方も、正しくはないのかもしれないが。
この番組の中で、大田光と名越康文が言っていた事をちゃんと録画した わけではないので、不正確な記述になってしまうが、その中で太田光が 言っていたことがとても印象に残ったのである。
一つには、私たちは彼女が書いたものとされるブログの内容や、また その中でイギリスの毒殺犯に彼女が傾倒していった事を取り上げて、 だからインターネットは危険なんだ、とか彼女が犯行に至った(とされ る)理由について、心の闇と称して、簡単でわかりやすい物語として 抽出しようとするけれど、それは間違っているのではないのか、という 事。
そして、もう一つの方がより、印象に残ったんだけど、 彼女や、同様の犯行を行なってしまう人(その中には連続放火犯のNHK 職員も含まれると思うが)に対して、あなたたちのやっている事はそん なに特別で偉いことではなく、レベルの低い事なんだ、とわからせて あげないといけないのだ、そしてもっと違った芸術に出会えなかった 事が、彼女にとっての不幸だったのではないのか、という発言だった。
この発言を聞いて、でも、うん、そうかもなあと思ったのである。 その正確なニュアンスはもしかしたら違うのかもしれないけれど。
彼らに対してよく言われるのは、犯行動機として自己顕示欲が原因なの だ、と言う意見が聞かれることもあるし、個人的には必ずしもそれだけ が原因だとは思わないのだけれど、もしも、そういう1面が彼らの心に あったのだとしたら、それが建設的な方向に向かえば、確かに問題は なかった訳で。
名越康文が言っていたことで、もしも彼女が犯人だったとして、彼女 位化学の知識がある人なら、例えば薬の開発とか、人工心臓の発明と いう方向にその知識を生かそうと思う人もいれば、逆にその知識を使っ て、人の命を奪ってみたいと思う人もいる。そして、人の命を奪って しまうことの方が、実は簡単なのだ、という事を言っていた。
そうして、人の命を自分で簡単に扱えることで、全能感を味わえる人も いるのかもしれないが、それは太田光に言わせれば、レベルが低いとい う事な訳で。
この話を聞いていて思い出したのは、ジョンレノン殺人犯の事だった。 確か彼はジョンレノンを殺すことで、自分が歴史に名を残すと考えて (妄想して)、ジョンレノン殺害に至ったんじゃなかったっけ?(もし かすると違うかもしれない)。
確かに彼の名は、事件当時は大々的に報道されたのだろうし、また、 ジョンレノンの生涯を語るとき、彼の名前は記録としては残るのかも しれない。 でも、私はジョンレノンの名前や彼の作品は知っていても、その殺人犯 の名前まで記憶に残そうとは思わない。
また、ジョンレノンの作品の価値というのものは、その殺人犯に殺害 されたからといって、何か特別な価値が加わる訳でもない。 むしろ、彼が死んだことで、その後ビートルズの再結成話が流れて しまったり、彼の新たな作品ができなくなってしまったことの方を 残念に思う気持ちの方が強い。
果たして、件の女子高生が、本当にそういう理由で、劇薬であるタリウ ムを扱っていたのかは私は知らない。 でももしも彼女が、そういうイギリスの殺人犯だけでなく、他の事にも 美的感覚を持っていたとしたら、こういう事件は起きなかったのかも、 しれない。
それはもちろん、他人が強制するものではない。 そうではなく、もしも彼女がそういう美意識を持つことができたので あれば、彼女の人生は、もっと違ったものになったのかもしれないなあ と思ったのである。
そしてその意見は、高校時代友達がおらず、学校ではほとんど口を開か なかったとされる太田光の口から聞かれるからこそ、私にとっては 説得力のある意見として心に響いてきたのかもしれない。 おそらくはその間、太田光は落語や黒沢映画や、様々なものに出会って これたからこそ、今の彼があるのだろうし。
なんかうまくはまとまらないのだが、そんな事を考えた日曜の夜だった。
芸術の秋だから、という訳でもないのだが、金曜日に上野国立博物館に 葛飾北斎展を見に行ってきた。 上野の博物館・美術館は金曜日の夜だけ、8時までやっている所が多く 仕事帰りにでも行きやすいのである。 ただし、日が暮れた後の上野の森はけっこう真っ暗で、一人で歩くのは ちょっとこわかったりもするのだが。
ついでながら、芸術の秋といっても、秋の長雨の時には、あまり芸術 って気分にならないのも不思議である。 やっぱり、カラッと晴れて小春日和というか、日がぽかぽかと差して いる時にならないと、芸術にしても食欲にしても調子が出ないという か。
葛飾北斎展に関しては、ほぼ日刊イトイ新聞の特集ページが詳しいので 興味のある方はそちらも見ていただくとして。 ざっと簡単に書くと、葛飾北斎の生涯にわたって書かれた浮世絵、肉筆 画など、約500点が揃った展覧会なのである。
葛飾北斎というと、やっぱり「富嶽三十六景」とか「北斎漫画」などの 浮世絵が有名なんだけど、それらの作品は彼が70代の頃に書かれた 作品であるらしく。 北斎は90歳まで生きた人なので、その70代の時期に限らず10代から 死ぬ直前まで、膨大な数の作品を残した人であるらしい。
で、それらの作品が時系列に眺められるのがとても面白いのだが、 それよりも面白い、というか興味深かったのは、彼の画の中にエッチン グや、遠近法などの西洋美術の影響が現れているという解説を読んだ事 である。
だってさ、その時期って日本はまだ鎖国している時代な訳で(開国は 大体その4〜50年後)。 もちろん、オランダ貿易を通じてそれらの画が日本に入ってきていた とは思うんだけど、それが単なる町人である葛飾北斎の手にまで行き 渡った、というのがすごいなあ、と思うのだ。
日本の浮世絵が西洋の印象派に影響を与えたのと同様に、日本の浮世絵 師にも影響を西洋美術が影響を与えていたんだなあ、と思うと世界は 狭いんだなあ、というか面白くて。
また、沢山の北斎の浮世絵の本物が見られたのもうれしかったのだが、 個人的にそれより印象に残ったのは、彼の肉筆画の方だった。 こっちの迫力が、なんというか凄いのである。 まるで本当に画面から飛び出してきそう、というと大袈裟だけど。
でも、一枚の単なる平面のキャンパスから、着物の立体感というか、 そういう線や面を書けるのって本当に凄いな、と思うのだ。 なんというか、日本の画って平面的ってイメージがあるじゃないすか。 でも、そんな事はないんだなあ、というのを知って目からウロコが 落ちた感じだったのである。
葛飾北斎展は12月4日まで開かれているそうなので、興味を持った方は 是非どうぞ。 個人的には、ミュージアムショップで売っていた、富嶽三十六景の 複製品(多分同じ版木で、現代の浮世絵師によって新たに印刷された 奴)が、ちょっと欲しくなってしまったり。でも2万くらいするんだよ ねえ・・・
2005年11月02日(水) |
まだまだあぶない刑事 |
今回は久々の映画ネタ。見てきたのは「まだまだあぶない刑事」 この映画を一言でいうなら、「予想していたより、あぶ刑事っぽくて、 面白く楽しめた」である。
「あぶない刑事」が、TVドラマとして放送されたのが約20年前。 そのころちょうど高校生〜大学生だった私および、私の周囲には、 「あぶ刑事」ファンが結構多かった。 日曜9時には、TVの前に座っていたし、港301こと、日産レパードの、 2ドアクーペに憧れたし。 名前に「タカ」が入っている奴は、「タカ」と言われていたし。決して 加藤鷹のタカや、ガタルカナルの「タカ」ではなく。
その後、あぶない刑事は何度か映画化もされたんだけど、それを当時 見た印象は、正直うーん、って感じだった。 その中で強いて言えば、個人的には「もっともあぶない刑事」が面白かっ たかなあ、という程度。 なんか、映画だからっていうので、スタッフの人の意気込みが空回りし ている感じが否めなかったんだよね。
だから今回も、正直期待しないで見に行ったんだけど、いやいやそれが どうして、結構面白かったのである。
それもそのはず、今回の映画の監督は、「あぶない刑事」の元助監督 だったらしく。 だからなのか、あの当時のあぶない刑事の空気感を、うまく再現して いるような気がするのだ。
それは例えば、柴田恭兵が自分の歌に合わせて犯人を追って走るシーン とか、舘ひろしが、ノーヘルでハーレーに乗って走るシーンであるとか。 やりすぎとも思える浅野温子のコスプレシーンにしても(一切脚本では 支持されてなくて浅野温子の暴走らしい)、今回は署長にまで出世した 木の実ナナのシーンにしても、これぞあぶない刑事のお約束、って感じ で。
これで故中条静夫の課長役が揃えば完璧、だと思っていたらそれは今回 課長にまで出世した仲村トオルが、近藤課長をちゃんとほうふつとさせ てくれていて。 それに加えて、今回新参加だった、水川あさみや、佐藤隆太や、窪塚弟 も、しっくりと港署に溶け込んでいて。
なんか本当に、スタッフ、キャスト含めていい感じで力が抜けている だけでなく、各キャストの魅力が素直に引き出される内容になっていた ので、かつてのあぶない刑事ファンには、問題なくオススメできる内容 になっていると思う。 特に仲村トオルは、本当に、成長したなあ、っていうか彼の余裕が、 いい感じにこの映画の魅力を増しているんじゃないかな。
物語自体は、落ちというか、ラストを含めて、正直ツッコミどころ満載 なんだけど、それも含めてあぶ刑事らしいといえば、らしいし。 いや、マジで面白かったです。
個人的には最近の「踊る大捜査線シリーズ」の映画よりは勝っているん じゃないかな。 そのうち続編作ってくれたら、また見に行きたいと思います。
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