パラダイムチェンジ

2003年02月28日(金) 小さな事からコツコツと

さて、早いもので今年もはや3月となってしまった。
仕事がそこそこ忙しかったせいもあるけれど、2月はなんかあっという
間に過ぎていったような気がする。
いやー、一体何をしていたことやら。

今年の初めに、一年の抱負なんぞを書いてはみたが、今年も半ば近くに
なると、別の野望?なんていうのもわいてきたりもする。
まあ、これは今年に限らず、自分の人生の野望?なのかもしれないが。

さて、私の人生の野望。
それは今年こそ、小さなことをコツコツとやる、という野望である。

何を当たり前のことを、なんて思われるかもしれないけれど、
小さなことをコツコツとやるのって、結構難しかったりするのだ。
なぜなら、私はとても飽きっぽい性格だから。

でもね。なんでそんな飽きっぽさを自認する私がことさらに小さなこと
からコツコツと何かを始めようと思ったのか。
その根拠は、やはりこの本を読んだことがきっかけだったのである。


糸井 ここではわかりやすいように、仮に、単なる暗記(意味記憶)を
   「暗記メモリー」と呼んで、自分で試してはじめてわかることで
   生まれたノウハウのような記憶(方法記憶)を「経験メモリー」と
   呼んでいいですか?

池谷  いいですよ。そのふたつで言うと、ぼくは「暗記メモリー」より
   も「経験メモリー」の方を重視しています。三十代から頭のはたら
   きがよくなるとぼくが言っているのも、「脳が経験メモリー同士の
   似た点を探すと、『つながりの発見』が起こって、急に爆発的に頭
   のはたらきがよくなっていく」ということだと捉えているからなの
   です。

糸井  そうだとすると、野球のバッターの打ち方や、困った時の対処法
   だとか、アイデアの生み出し方とか、文字だけでは伝えにくいもの
   も経験メモリーですね。実際にトライした人には、確かに深く記憶
   として残るでしょう。

池谷  ええ、やった人にしか、残らないです。

糸井  その経験メモリーの蓄積が三〇歳を超えると爆発的になるという
   のは、数字で言うとどのくらいですか?

池谷  最初のチカラを一としますと、べき乗(たとえば二の何乗)で成
   長していきます。(略)
    
    一の次は二。二の次は四。四の次は八。八の次は十六…。
    
    十六のチカラの時には、1000なんて絶対に到達できない
   ように見える。しかし、そこから六回くりかえせばできてしまう
   んです。二の十乗は、1024ですから。

糸井  すごい差だね。四回目で十六なのに、10回目で1024。

池谷  そのままあきらめずにくりかえしていると、二の二〇乗まで行っ
   たとしますよね。

    10回目で1024だったチカラは、二〇回目には、いくつに
   なっていると思いますか?

    …1048576。100万を超えています。

糸井  うわぁ!

池谷  凡人と天才の差よりも、天才どうしの差のほうがずっと大きいと
   いうのは、こうやって方法を学んでいく学び方の進行が「べき乗」
   で起こり、やればやるほど飛躍的に経験メモリーのつながり方が
   緊密になっていくからなのですよ。

糸井  いやぁ、それはかっこいい。

    16の人は1024の人を天才だと思うだろうけど、1024の
   人が10回やっているところをもう10回増やしている人は100
   万かぁ。

池谷  脳で起こる反応は、直線グラフでは表されないのです。

糸井 「ひとつのことを毎日、10年くらいくりかえしさえすれば、才能
   があろうがなかろうがモノになる」という言葉があるけど、やっぱ
   りそれは正しい。

池谷  脳の組み合わせ能力の発展のすごさを考えると、10年やり続け
   れば、経験メモリーどうしの組み合わせは能力を飛躍的に増すでし
   ょう。

糸井  目指す位置が遠く見えても「ほんとは遠くはないんだ」と思って
   いたほうがいいくらいですね。

池谷  ええ。案外近いんです。脳の組み合わせ能力というのは自分の予
   想以上に発展するので、今現在自分より上の人をことさらすごいと
   思う必要もありません。

糸井  バカだと思われるぐらいに楽観的になったほうがいいくらいだ。

    64の時に「もうすぐ1000だ」とか言うヤツは、きっとバカ
   扱いされるでしょう。でも実際は、そのバカの予想がすぐ当たるこ
   とになるんだ……。利口に立ちまわるよりは、ずっと「バカな成長
   予測」をしているほうがいいのでしょう。利口なら、64のあとは
   70だとか刻みそうだけど、それは自分の能力を過小評価すること
   になる。

    バカかもしれないけれども自分の将来の飛躍的成長を夢見る
   ことって、言わば「ストッパーをはずすということ」と一緒に
   思えます。

池谷  ええ。やってみることの経験。続ければいかに身になるかです
   よ。こうしたことは実は、習いごとをしていた人は、本能的に理
   解している種類のものなのでしょうね。(以下略)


「海馬―脳はつかれない―」 糸井重里・池谷裕二著


何かを始めようと思うとき、大体最初のうちって面白くはない。
自分の成長に対して、周りはもっと進んでいるような気がすると、
自分のなけなしのプライドが発動したりして、結局はやめてしまったり。

でも、やめるまでに何かを始めていれば、実はその場所は0ではなく、
2だったり、4だったりするわけだ。
で、4で一切のことをやめてしまえば、その人が8や16の場所で見える
風景って言うのは、決して見ることはできない。
そこからもう少しだけ、前進すれば実はもっといい風景が見えるものなの
かもしれないのに。

これは、実は仕事上でも経験があるのだ。
それは以前、病院でリハビリの仕事をしていた時の話。

一回のリハビリの時間って、実は結構短かったりする。
急性期の患者さんならともかく、慢性期の患者さんだったり、骨折など
整形外科疾患の患者さんの場合、リハビリ技師が直接触れるのは、大体
20分程度。

入院はもちろん、外来で通院する人も、一定期間の間は毎日だったり
週に何回か、リハビリに来るのが一般的な形だろうと思う。

で、例えば脳卒中や脊椎損傷などの重篤な疾患を除けば、実は人間の
機能回復のスピードって、一時曲線ではなく、二次曲線を描くことが
多かったような気がする。

どういうことかと言えば、たとえ、一回あたりリハビリにかける時間が
同じでも、リハビリ開始直後と、しばらく経った後では、その回復の
スピードは、しばらく経った方が断然早いのだ。

個人的な推測で言えば、それはその患者さんの脳と身体のリンクが
より強固になっているので、脳と身体の間の電気信号の交通量がやはり
増えたからなんじゃないかなあ、って思うのだ。

つまりは今までダイアルアップだったのが、ブロードバンドに変わった
おかげで、より容量の大きいものでも送れるようになったというか。


もちろん、その人のモチベーションというか、リハビリに対する取り組み
の姿勢もあるだろうし、元々の怪我の状態によっても左右されると思う
けれど、基本的にその患者さんのモチベーションが高ければ高いほど、
老若男女を問わず、回復のスピードは加速していた気がする。

だからリハビリで言えば、患者さんのやる気を引き出してあげる
リハビリ技師のほうがやはり治療成績っていいような気がするのだ。

最近、コーチングって言葉を耳にすることも増えてきている。
コーチングに関しては、またいつか触れたいと思うが、コーチングで
重要なことも、やはりその人のやる気を引き出してあげることだと思
うし。


んで、冒頭の自分の野望?に戻れば、懇切丁寧に自分のやる気を引き出
してくれる第三者がいるわけではないので、結局は自分でモチベーション
を高くもつ工夫をしなきゃいけないわけだ。

今まではそこでくじけたことも多かった訳だけど、それが自分のやりたい
事であるならば、結局はルビコン川を渡る決心をして渡る以外に方法は
ないわけで。

反対側の川岸を眺めていたからといって、向こうからボートや白馬に
のった王子様がやってくる訳でもないし。

というわけで。
結局は小さなことからコツコツとやるしかない、と今年こそは思うわけ
である。

んで、何をコツコツとやるのか。
英語と料理とダンスとWEB作成と仕事の勉強と…
って、なんか多すぎるんですけど。

まあ、終わりの決まった旅ではなし、地道にやって、まだ見ぬ未知の風景
が見えるようになってきたらいいなあ。
今年の年末には、一体どんな風景が私を待ち受けているんだろうか。



2003年02月27日(木) 新パソコン

実は、少し前に仕事場のパソコンを買い換えた。
買ったパソコンはシャープのノートブック。

今までの仕事場で使っていたパソコンはやはりシャープのパソコンで
B5サイズのモバイルパソコンだった。
ただ、B5型のモバイルパソコン、画面が11.5インチ、XGAだと
やっぱりちょっと狭い感じがするのだ。

キーボードは、自分のような左手の小指を使わない、変則的な
ブラインドタッチにはちょうどいいサイズだったんだけど。
ただし小指は使わないから、左の小指はなぜかピンと立っている
おかまちゃんスタイルの入力になっちゃうんだけど。

また、手がホームポジションにちゃんと置かれていないから、タッチ
パッドが、勝手に反応してしまい、文字があらぬところに入力して
しまったりもしていたのだ。
他の、モバイルパソコンを使っている人はそんなことはないんだろうか?
しょうがないから外付けのマウスとキーボードを使ったりしたことも
あったりした。

思えば、そのモバイルパソコンには、色々と悩まされたんだった。
元々が、アウトレット品として、某家電量販店で安く買ったんだけど、
今から考えれば、一階のしかも甲州街道のそば!で表に店晒しされている
ようなパソコンだったので、最初からどこか調子が悪かったり。

でもって再インストールをしようと思って、外付けのCD−ROMを買った
んだけど、メーカー純正品じゃないからか、なぜかPC側で認識してくれ
なかったりとか。
ついでにすぐにメーカーに問い合わせればいいものを、だったら、と
思って、当時はまだあまりなかった外付けのCD-Rを、しかもCD-ROMと
同じメーカーで買っちゃったり。
同じメーカーだったら、問題は一緒だろうっつうの<俺。
しかも、結局はメーカー純正品の方が安くなってるし。

結局は、CD-ROMメーカーに問い合わせをしたら、対処法も含めて丁寧に
教えてくれて、FAXまで送ってもらえたので、ちゃんとつなぐことが
できたんだった。
やっぱり、聞くは一時の恥、だったわけだ。

まあそんなこんなで、紆余曲折もありながら、長年?愛用していたパソ
コンだったんだけど、私が買い換えようと思ったきっかけは、スキャナー
を買い、とりこんだ画像にOCRをかけた時だった。

とりあえず、死ぬほど遅いのである。
いや、マジでへそで茶をわかせるかと思ったほど。
とりあえず、仕事上どうしても資料をデジタル化しないといけなかった
ので、買い替えを決意したわけだ。

そこそこの値段で、できれば二度と外付けのCD-ROMに悩まされず、
大画面で、CPUのスピードもあって、ついでにUSB2.0でつなげる
という、わがままなリクエストに応えてくれるパソコン。

春モデルとの端境期?だったこともあって、これが限られた選択の中で
個人的な要求を満たしてくれるパソコンだったわけだ。
ちょうど値下がりした所だったし。

ということで、新しいパソコンを使い出して、早一ヶ月くらい経った。
で、使ってみた感触で言うと、これがまたいいのである。

まあ、問題が何もなかったわけではなく、買った早々、デフォルトで
パーティションでわけられた、Dドライブが認識しなかったせいで、
再インストールを延々とさせられたりもしたんだけど。

WINDOWS XPは、今までの98やMeと操作法が違っているんで慣れにくい、
って聞いていて、確かに最初のうちは使いにくかったんだけど、
パソコン雑誌に載っている、カスタマイズ法、なんてのを試している
内に慣れてきてしまったし。

USB2.0でつなげるはずのスキャナは、なぜか最初のうちは認識せず、
どうしようと思っていたら、コンセントの抜き差しをしている内に
なぜか認識しちゃったし。

XPになって一番便利なのは、周辺機器との接続だろう。
自分の場合、自宅パソコンとのデータのやりとりは、スマートメディア
を通して行っているんだけど、このパソコンの場合、スマートメディアや
デジカメをつないだ瞬間、エクスプローラでも開けるようにメッセージが
出てくるのだ。

また、旧パソコンからの様々な設定の移植も、「ファイルと設定の
引越しウィザード」を使えばできるし。
ってXPユーザーの人には、何をいまさらって話だとは思うが。

ある意味、自分みたいな初心者に毛が生えたような文系ユーザーには、
ようやく使いやすいOSになったと言えるのかもしれない。

で、本来?の目的だったスキャナの画像取り込みも、全然問題なし。
そんなに画像を取り込むのが面倒くさくないから、プライベートの
データベース用に雑誌の切抜きを、スキャナで取ってPDF化したりも
しているし。
HDDも、TVやビデオの画像を保存しておくにはちょっと心もとないけど、
静止画像だったら、全然問題ない容量があるし。

仕事の合間?にDVD見ながらテキスト打っていても、DVDのコマ落ちは
ないし、画面がある程度広いから、窓がかぶらずにテキスト打てるし。
CDをWMA形式で保存するにしても、以前と比べれば全然時間がかからない
から、英語のCDを取り込んで、英語の学習にも使えるし。
音質も、仕事場で使う以上、ヘッドホンを使っている分にはそんなに
文句はないし。

でも考えてみると、これってようやくパソコンを書斎として使えるように
なったって事なんじゃないかなあ、とも思うのだ。

今までだと、HDDの容量やら、CPUのスピードやら、動作の不安定さ
(システムのリソース不足など)で、快適にできなかった事が、
そんなに高いコストを払わずにできるようになったって事なのかも
しれない。

ただし、うちの仕事場の場合、問題がないわけじゃあないのだ。
インターネット接続環境が、仕事上の理由でなぜかまだ、ISDNの、
無線環境なんだけど、このルータが、98/Me専用で、XPは認識しない
のである。
だからしょうがなく、仕事場からインターネットにどうしても
つながなきゃいけないときは、電話機を外して、ダイアルアップで接続
しなきゃならなかったりするのだ。しかも28.8k。

まあ個人的な見解としては、やたらめったらなWINDOWS UPDATEは、
調子を崩すだけだから、このまま繋がずにいるのもいいかなあ、なんて
思ったりもするわけだけど。

ちなみに、以前の仕事場パソコンだったら、ISDNで128kで繋げるんだけど
ここへ来て、なぜかセーフモードでしか立ち上がらなくなってしまった。
別に拗ねたわけでもないだろうけど。
んで再インストールしようとしたら、また問題のCD-ROMドライブを
認識しなくなってしまった。
おーい。

まだまだ、このパソコンにはしばらくは振り回されそうだ。



2003年02月19日(水) もののけ姫の時代

もののけ姫を劇場公開以来、久々に見てみて、その内容の意外な
濃さにびっくりした。
私が初めて見たときには気がつかなかった事がいろいろとあったのだ。

考えを整理してみようと、もののけ姫でWEB検索をしてみたんだけど、
その内容も賛否両論に別れているようだ。
はっきりと、失敗作だとけなしている意見もあれば、いや、これこそが
宮崎アニメとして一番好きだという意見もあって面白かった。


さてもののけ姫、個人的に一言で言うとすると、スゴイの一言である。

というか、この作品が、もちろん日テレの宣伝合戦や、宮崎アニメの
ブランド力もあっただろうが、国内空前の大ヒットをしたという事が
すごいと思うのだ。

だって、一つのエンターテイメントとして売れる内容としては、
あまりに過剰な、というか重いテーマを扱っていると思う。
逆に言えば、この作品をエンターテイメントとして、流通させ、
あまつさえディズニー通じて世界配給をさせてしまうことに、
ブランドとしての宮崎アニメの力があるのかもしれない。


それでは個人的にどの辺にすごさや過剰さを感じたのか。
第一点は、物語のボリュームだろう。

この前見た「千と千尋〜」でもそう思ったんだけど、2時間強の
一本の映画としては、考えられないくらいの物語のボリュームだと
思うのだ。
変な話、この1本で2、3本の映画ができる位の量があるんじゃ
ないだろうか?

例えば、最初の蝦夷の村の生活から、タタリ神が乱入して、退治する
だけでも一本の作品はできるだろうし、タタラ場の生活と、侍との戦い
だけでも一本の作品ができるんじゃないだろうかって気がするのだ。

それだけの内容を、2時間強の一本の作品にぎゅうぎゅうに押し詰めて
いるから、まるでダイジェスト版のように感じるのかもしれない。
なんかちょっともったいない気はするけど、でもこれが劇場用公開
作品じゃなかったら、これだけのクオリティは維持できないような
気もするし。


そしてもう一点、私が感じたすごさというのは、あえて物語を複雑に
していることだ。
この作品、主人公アシタカの呪いを解く旅として描くだけなら、
もっと簡単な話にできると思う。

例えばタタラ場の主人、エボシを単なる悪役として描き、シシ神に
首を返し、そしてサンと最後は結ばれ、森か自分の村に帰って幸せに
暮らしている。
そんな話のほうが、観客のカタルシスというか、満足感は高かった
のかもしれない。

例えば、「風の谷のナウシカ」や「ラピュタ」、そして「未来少年
コナン」なんかは、そんな大団円が待っていたような気がするのだ。

でも、宮崎駿はそんなありきたりのカタルシスをここでは拒否する。
もちろん今までの宮崎作品でもそうではあったんだけど、ここでは
明確な正義や敵、という概念を突き崩しているような気がするのだ。

この作品の中で、宮崎駿は登場人物の誰をも否定をしていない。

例えば、タタラ場を、自然環境を壊すもののけ達の敵である、と規定
してしまうのは簡単なんだけど、そこには、暮らしている人々がおり
生きるための基盤としての生活がある。

エボシは、もののけたちを殺し、シシ神の命を狙う人ではあるけれど
その一方では、女たちや呪われた人たちを拾って人として養っている
人でもある。

そしてもののけ達はもののけ達それぞれの理由で、生きようと、
タタラ場の人間たちとせめぎあっているし、唯一敵として、憎めそうな
存在であるジコ坊にしたって、結局は誰かの使いまわしでしかない。

タタラ場や、もののけ、どれか一方の立場に立てば、もう一方を憎む
事はできるけれど、この作品ではそういう立場はとらず、ただひたすら
もののけと人間、そしてタタラ場と侍の対立を描いているのだ。

すなわちそれぞれの立場にそれぞれの正義があり、
それがせめぎあっている事が観客に単純な感情移入と、そして
カタルシスに浸ることを拒んでいるのかもしれない。

この作品では宮崎作品としてはめずらしく?人の手が切れたり首が
飛んだりもするわけだけど、そうした過剰さも含めてこの作品では
人間の、というか生き物の業の深さを描いていると思うのだ。


宮崎駿がもののけ姫の制作中、亡くなる直前の司馬遼太郎と
対談した内容にこんな文章がある。


平安時代のアニメーションも作ろうとしたことがあるんです。舞台は
築地塀の中にある貴族の館で、外で疫病がはやったり飢饉が起きても、
築地塀の中は平和。ところがある日、築地塀が壊れてしまうという話
でした。

しかし地震が起きたり、オウムが出現したりで、現実に築地塀に
亀裂が入りました。いざ壊れると、どうしていいかわからない
ものですね。以前に司馬さんは「人間というのもは度し難いもの
ですね」とおっしゃっていました。そのとおりだと思って気を引き
締めていたつもりなんですが、ときどきふっと気が緩む。
そして事件にであってあたふたする。しかし備えようもないですね。

宮崎駿『出発点1979−1996』 徳間書店


ここでいう、築地塀とは、「もののけ姫」が制作された時期を
考えれば、まさしくオウムであり、阪神の大震災であろうと思う。
でも彼にとっての一番の築地塀の崩壊とは、「ユーゴスラビア内戦」
であったのかもしれない。

今まで同じ国民として暮らしていた人々が、殺し合いを繰り広げて
しまう世界。
人がどんな英知を絞っても、人の憎しみや呪いを無くす事は
できない世界。
人間は生きていく限り、業を背負って生きていかなければなら
ないからこそ「度し難い」のかもしれない。

そして例えば阪神大震災が起きて、築地塀が壊れたとしても
そこで何かがリセットされるわけではない。
マンションが壊れたとしても、人はそこで生きていかなければ
ならない。

この作品の中の、築地塀の崩壊、は「シシ神殺し」だろう。
最後、シシ神の「荒ぶる神」は首を返すことでおさまるが、
果たしてシシ神の森にシシ神が復活したかどうかはわからない。

でも、たとえシシ神がいなくなり、タタラ場は繁みに覆われたと
しても、人は、そしてもののけ達はそこで生きていく。

物語の中盤、モロがアシタカにお前にサンが癒せるのか、と言い放つ。
物語の最後、アシタカはサンを運命を引き受ける事で、彼女を癒す
覚悟を決めたような気がするのだ。

だからこそ、アシタカはタタラ場から去らず、そこで生きていく。
なぜなら、人は人との関わりを捨てては生きてはいけない存在だから。



この作品は、余計な解釈などいらない、ただもう、生きろ、という
映画のコピーに向かって疾走していく映画なのだと思う。

コダマも、シシ神も、そして主人公たちも含めて全てはその事を
伝えるための舞台装置でしかない。

ただしこの「生きろ」という言葉は生半可な意味ではなく、
これだけの覚悟をしてでも、生きなさい、という宮崎駿の
強烈なメッセージだったような気がする。
別の言い方をすれば、それはどんなに絶望的な状況であろうとも、
今を肯定していこうというメッセージなのかもしれない。

公開当初、この作品で引退をするといっていた宮崎駿のアナウンスが
余計そう思わせるのかもしれないが。


売れるための作品と、個人的に伝えたいことがある作品と、
世の中には二種類の作品があると思う。
個人的に伝えたいメッセージが、そのまま売れる作品であったなら、
そのクリエイターは幸せであると思う。

でも、もしもそれが違ってしまったら。
売れる話の流れを捨てて、自分が伝えたいことにこだわった結果、
売れることなく、そのまま消えていったクリエイターは、数多くいる
と思う。

鴻上尚史がよくいう言葉に、
今の観客には、分かりやすい作品を求める祈りのようなものを感じる、
という言葉がある。
こういう時代だからこそ、人はせめて作品には、分かりやすさを求めて
いるんだと。

でももしそうだとしても、そんな時代に一見わかりにくい作品をぶつけ
そしてそれを大ヒットさせてしまったエネルギーはすごいと思う。

この作品が、見る人全てに受けるかどうかはわからない。
でも、その伝えたかった事も含めて、とても勇気に満ちた作品だと
今の私は思うのだ。


最後に、宮崎駿のこんな言葉を引用して締めにしたいと思う。

「もう『もののけ姫』では、ストーリーはどうでもいいっていう気分
になってますね、感じでわかるだろうって。ストーリーができたから
って映画なんて全然できないんだって(笑)」

―だからこそストーリーもちゃんと作られていきますよね。

「というよりも、まあハリウッドでも散々言われていることですけど、
うんとシンプルでストロングなストーリーで端的明瞭っていうのが
映画では一番いいんだっていうのは、ほんとそのとおりだと思うんです
よ。でも、そのとおりなんだけど、それだけでやってしまうと、この
現代の世界は取りこぼしてしまうんですよね。

だから、今というのは、シンプルでストロングなストーリーをどう
やって実現するのかっていうのが、ものすごく問われているんだと
思うんです。それは、今の複雑さをシンプルにしようってことでは
ないんだと思うんですよ。

僕は人間の持ってる根源的なものをシンプルに強く訴えるっていうのは
非常に意味のあることだと思っていて、僕らが衰弱してるせいで、そこ
までなんかこう突き抜けることができなかっただけなんだと思うんです。
だから、『もののけ姫』っていうのが複雑にならざるを得なかったのは、
やっぱり自分たちがそこまで到達できてなかったってことだと思います。
(略)

おそらく次は2004年の夏です。たぶん2004年の夏っていうのは、
今の混迷した世の中がもっと混迷してるはずですから、そのときに
『これが私たちの答えです』っていうふうにね、もっとすっきりした
シンプルな形で作品を作ることができるかどうか問われているんだと
思います。」

宮崎駿  『風の帰る場所』 インタビュアー:渋谷陽一



2003年02月17日(月) ぶらりケータイの旅

昼間、仕事の関係で早めの昼ごはんをオシャレに池袋のカフェなんぞ
という場所で食べて、仕事場に帰ってきたら、携帯を忘れてきたこと
に気がついた。

ありゃりゃと思いつつも、まずは目の前の仕事を済ませて、もう一度
件のカフェに戻ってみると、携帯の忘れ物はないという。
ええっ?って事は俺の携帯は誰かが持ち去ったかどこかで
落としたって事?
と、そこで頭に血が上ってしまった。

自分の携帯は、今流行りのカメラ付きだとか折りたたみ式とか、
そういうオシャレな機種ではなく、2年位前のGショックっぽい外観の
携帯で、今となっては文字変換効率も悪いんだけど、お気に入りの
携帯だったのだ。

とりあえず、勝手に通話されちゃったらやだなあ、と悪い想像力が
働いてしまったので、そこから一番近いauショップに駆け込み、
とりあえず通話ストップしてくださいとお願いする。

でもお願いしたお姉さんの手に持っていた電話機を見て、はたと
冷静に戻る。
考えてみたら、まだ携帯の通話は生きているわけで、電話やメール
してみれば、誰かが出る可能性があるってことに気がついたわけだ。
つうかそんな簡単な事に気がつかない位、舞い上がっていた訳ですね。

とりあえずなかなか人の話を聞いてくれなかったお姉さんに、理由を
話して通話ストップするのを止めてもらい(ややこしい)、近くの
公衆電話へ。

んで、電話をしてみると、出た人はJR有楽町駅の駅員さんだったので
ビックリしてしまったのである。
自分の携帯は知らないうちに池袋から有楽町まで、旅をしていたのだ。

携帯をとりに有楽町駅まで行くあいだ、こんなことを思い出した。

昔、TVでもやっていた話だけれど、アメリカのとある田舎の家から
何の変哲もない、かえるの置物が盗まれた。
かえるの置物を盗まれた、当の家族はひどいことをする人もいるねえ、
なんて話をしていたんだと思うけど、ある日、その家族の下に
一枚の絵葉書が届く。

そこには、なぜかNYの自由の女神と共に写っているかえるの置物が
いたのだ。
そしてその後家族の下には、世界中のあちこちから、かえるの置物が
旅をした記録の絵葉書が届いたのだ。

種を明かすと、誰かが持ち去ったかえるの置物は、わらしべ長者?の
ように次から次へと旅をする人たちに受け継がれて、世界のあちこちを
旅をしてきたらしい。

自分の携帯の場合は、お店で携帯を見つけた善意の第三者の人が、
おそらくはどこかで忘れ物として預けようと思って、たまたま
その人が有楽町で降りる時に、駅員さんに渡したからだと思う。

でも、もしも自分の携帯に意思があったとしたら、その短い旅の間、
どんなことを思っていたんだろう、なんて事を想像してみたのだ。
有楽町で再会した携帯は、そんなことは何にも感じさせてはくれな
かったけれど。

でもあの時、ふと冷静に戻っていなかったら、この携帯ともう一度
再会することはなかったかもしれない、と思うとちょっと愛着が
増したような気もする。
携帯って、いつも自分のそばにあるのが当たり前の存在だから、
普通の道具に比べても、愛着ってわきやすいような気もするのだ。

自分の頭脳ではすでに覚えていない情報が詰まっているわけだし、
自分のメールなんて、他人に見られると結構恥ずかしいもののような
気がするし。

携帯電話は、今後、定期券代わりになったり、レンタルビデオが
借りれたり、自動販売機でジュースが買えたり、ついにはクレジット
カードの代わりになったりもするらしい。

でも、そうなると益々携帯って落とせない存在になるし、万が一
落とした場合は、悪用されないようにすぐに機能を止めないと
いけない存在になっていくのかもしれない。
まあ、その頃には個人情報はSDカードとかですぐにバックアップが
取れるようにもなっているんだろうけど。

でも、そのことと個人的な携帯電話への愛着っていうものの間に
挟まれる感覚って言うのが生まれてくるような気もするのだ。

でもとりあえずは、携帯だけに詰まった内容のこまめなバックアップ
から始めないとね。



2003年02月16日(日) 反戦デモ

今日も短め。

2月14日〜15日にかけて全世界で反戦デモが繰り広げ
られたらしい。
何でも1千万人以上が参加したらしい。

日本で、そんなに盛り上がったようには見えないのは、
おそらくは、自分たちの隣人にアラブ人がいないから
なんじゃないかな、と考えた。

ヨーロッパの場合、地続きって事もあるとは思うけど、
おそらくアラブ人のコミュニティなんていうのが
街にあって、おそらく日常的にアラブの人たちと
接することが多いので、アラブ人との戦争に
反対する気になるんじゃないかな。

そこら辺の本当の皮膚感覚は、日本に住んでいる
限り、わからないものなのかも



2003年02月15日(土) 短い!

今日はただの思いつきだけ。

昨日のモテるって話に関連して、自分がモテる理由って、
相手にとって自分が相手を傷つけないでいる存在に一見思われるからだし、
自分が別れる理由って、でも実際の自分は相手を傷つけることもある
からなんだって気がした。

まあ、それだけが理由ではもちろんないんだけど。
この辺について、考えがもう少しふくらんだらもう一回書くかも?

<それだけかい!



2003年02月14日(金) バレンタイン・デイ

今日は、バレンタイン・デイ。
昔見た漫画で「バンアレン帯」の日ですか?なんて話があったけど、
基本的にはLover's Day。すなわち恋人たちの日。

本来的には、大量に義理チョコを配る日では決してない。

現在、アメリカから外国人の患者さんがやって来ていて、その人から
14日はやっぱり特別な準備とかするの?とかニコニコしながら
聞かれたので、いや〜日本では女の人が知っている人にチョコを渡す
日なんですよ、と言ったら結構驚いていた。

で、今日その人からはめでたく?チョコを頂いた。しかも手作り。

アメリカでは、かつての日本のクリスマスのように、この日恋人と
一緒に過ごせるかどうかが結構大きな問題だったりするみたいだ。
まあ、全てが敬虔なクリスチャンな訳はないけれど、やっぱりクリス
マスは家族やごく親しい友達たちと過ごす日らしい。

だからこの日に向かって?アメリカのデートサービスやら出会い系?
は、恋人を探そうという人で大盛況になるらしい。
向こうの場合は、ゲイの人もいるからなかなかいい出会いを見つける
のも大変らしい。

なんて事をもっともらしく書くわけは、今年は久しぶりに、全然
色気のないバレンタインデーだったからである。


昨年までは病院勤務だったおかげもあって、患者さんからもらう
義理チョコから、義理チョコか本命か定かではないチョコまで、
いろんなチョコを頂いていたのだ。
まあ、患者さんはおいておくとして、その分お返しはそれなりに
大変だったりするんだけど。

バレンタインデーということで、思い出ではないけれど思い出すこと
は、次のような事である。

かつて、まだ自分の自意識がとても巨大だった頃、実はバレンタイン
デーに沢山のチョコをもらう人がうらやましかったのを思い出した。
すなわち、せめて一回はモテモテ気分を味わいたい、などという
書くも恥ずかしい事を思っていたのを思い出すのだ。
いやー、マジで恥ずかしい。


モテるってことについて考えてみる。
人は、どんな風にモテたいと思うんだろうか。

題名もそのものズバリ、 「モテるための哲学」 という本がある。
著者はAV監督でもある二村ヒトシ。実はこの本を初めて読んだのは
5年前、まだこの本が新書版だった頃だった。

この本の中に人がモテたいと思う動機について、こんな文章がある。


 ところで、あなたやぼくが、女性に「モテたい」と思うのは(ある
いは「やりたい」と思うのは)どう考えても、ただたんに性欲だけの
せいじゃ、ないですよね。いや、それももちろんありますが。

きっと人間は、他人から「あなたは、そんなにキモチワルくないよ」
って、保証してほしいんです。「やらせてくれ」とか「ぼくとつきあ
ってくれ」って他人に言うのは、そういうことです。

あんまり浮世の義理がからまない、よく知らない女の子がやらせて
くれたら、それはあなたがキモチワルくなかったんだ、ってことに
なりますからね。

やりたい相手に「やらせて」とどうしても言えない人は、「言って、
誰もやらせてくれなかったら、どうしよう。オレはほんとにキモチワル
いことになっちゃう…」って恐れているんです。



かつての自分を思い出せば、結局は、誰か特定の人にモテたいという
よりは、自分自身がキモチワルくはないと誰かに証明してもらいたか
っただけかもなー、などと思ったりもする。

つまり、理想の自分の要求水準が高すぎて、それに現実の自分が
追いついていないもどかしさ、みたいな感じで、ただ漫然とモテたい
と思っていたんじゃないかなあ。

その病?はその後社会に出て、自分の自意識が徐々に削られる途中で
自然となくなっていったような気もする。
そして、その過剰な自意識がなくなってくると同時に、自然と少しは
モテるようになっていった気もするのだ。

でも逆にこうも思う、おそらくは自意識に悩まされていたあの頃も
もしかすると少しはモテていたのかもしれない。
でも、自意識の強さがその事に目を向けさせなかったのかもしれない
なあ、なんて事も思ったりもする。


モテるという話に戻すと、現在の私は、いちどきに沢山の人に
モテたいとは、実はあまり思わない。
だって、いちどきにたくさんの人にモテたって、その瞬間、付き合える
のはたった一人なのだから。

例えば複数の人と付き合って、一人一人の女の子との思い出を薄く
してしまうよりは、一人の女の子と、濃い時間を過ごしたいと今は
痛切に思ったりもする。

たとえ沢山の人から「あなたはキモチワルくないよ」と言われたと
しても、たった一人、自分の好きな相手に「キモチワルイ」と思われる
よりは大げさな話、世界中を敵に回したとしてもたった一人、自分が
心底、惚れた相手に「キモチワルくないよ」といわれる人生の方が
いいと思うのだ。



2003年02月12日(水) ツッコミは愛

できれば、毎週欠かさずに見たいと思うTV番組の一つに
日テレの「行列のできる法律相談所」がある。

身近な問題を、法律としてはどう判断を下すのか、毎回
ドラマ仕立てになっていて、その判断を4人の弁護士が下す。
4人の判断が、微妙に食い違っていたり中には司法的な判断という
よりは、浪曲じみた判断になることも含めて、面白い番組だと思う。

でも私が一番楽しみにしているのは、島田紳助のツッコミである。
島田紳助のツッコミは元々好きなんだけど、この番組ではそれが
存分に見られるのがうれしかったりするのだ。

島田紳助のツッコミは、この番組の中でも時々、侮辱罪に相当するか
なんて特集をやっていて、立派に侮辱罪として成立する、なんて
法律判断が下されるくらい、結構キツイ事を言ってたりする。

まあ出演している芸能人も、自分がつっこまれることは期待?して
いる訳だけど、見た目には、どんなにキツイように見えるツッコミで
も、島田紳助が話しているとギリギリのところでシャレですんでいる
ように見える。
その力量ってすごいなあ、といつも感心しながら見ているのだ。


日常の私も、実はツッコミ型人間である。
そこにやや、天然ボケ気質も混じっているあたりで、話が難しくなる
というか、複雑な魅力を醸し出していると、本人は信じているので
あるが。

でも、ツッコミって思っているより、実は結構難しいものなのだ。

元々、私たちがツッコミとして広く認知?しているのは、ボケ役に
対してのツッコミ、すなわち受ける役回りだろう。
爆笑問題の田中しかり、さま〜ずの三村しかり、ナイナイの矢部や
そして、ダウンタウンの浜田など、基本的にボケ役がボケたことに
対して、そのズレを一種説明することで、お客さんから笑いをとる。

逆に言えば、ボケがボケた内容を上手く観客の立場で、しかも瞬時に
ツッコミを入れられなければ、上手いツッコミとはなかなか言えない。

そのボケをお客さんに共感してもらえるように上手く加工するのが
ツッコミの役割なわけだ。
その場合いち早くボケに対してツッコミを入れられるスピードこそ
が要求されているような気がする。

しかしながら、島田紳助の場合、今はピン芸であるから、わざわざ
わかりやすいボケを演じてくれる出演者がいるわけではない。
逆に普段どおりにしている出演者の中から、実はこの人こんなに
おかしいんでっせ、という観客でも共有できる構図のズレ、を見つけ
出して、それを観客に提供して笑いをとる。

多くの場合、そのズレは本人も気づいていないものだから、言われた
本人も苦笑いというか、思わず笑ってしまう状況になってしまう。
すなわち、島田紳助は笑いの創造と加工を行っているのだ。
なんて書くと、大げさすぎるかな。

この前見た「キスイヤ!」では、そんなに綺麗じゃねえだろ、と
おそらくは観客も思っている女の子(素人)に対して、
「そんなに綺麗じゃない私がなんで?とか思ってるでしょ?」と
堂々とツッコミをいれて笑いを取り、すかさず「失礼だろ!」と
その罪を共演者の熊谷真美になすりつけてフォローを入れる。

端から見るとずいぶんとひどいことをしているように見えるけど
ちゃんとその場は笑いとして成立しているのだ。


それでは、なぜそのツッコミが笑いとして成立しているんだろうか。
島田紳助の場合特に感じるのは、ツッコミの対象に対しての愛、
である。

彼は愛のないツッコミは、少なくとも番組上では見せないような
気がする。
彼がその対象に愛を感じない場合、おそらくはその存在を無視して
しまうような気がするのだ。

逆に言えば、対象に対して愛のないツッコミは、単なる誹謗中傷で
しかないわけだ。たとえ、そこで笑いが起こったとしても、ツッコミ
を入れられた方が、不快に思った場合はツッコミとしては失格なのかも
しれない。


私たちは、相手から発せられた言葉を額面どおり、そのまま受け取って
いる訳では、決してない。
例えば私が誰かに「馬鹿だなあ」と言ったとして、そこに含まれる
情報は、実は様々である。

本当に相手のことを馬鹿だと思って言ったのかもしれないし、
そうではなく、相手に対してある種の親愛の情を持って言ったのかも
しれない。

人が発した言葉は、その場の雰囲気や、言った人の表情やしぐさに
よって、実は正反対の意味にもなるわけだ。

逆に言えば、見ず知らずのしかも日本語が少しだけわかる外国人に
「馬鹿だなあ」と言ったとしても、その正確なニュアンスは通じずに
ただ単に相手の機嫌を損ねるだけ、かもしれない。

ツッコミにおける愛というのは、そのツッコミを入れる側の心情が
理解できるくらいの近しい関係であって初めて成立するもののような
気がするのだ。


ひるがえって、インターネット上の発言について考えてみる。
ネット上では、しばしば刺激的な表現を目にすることがある。
もしかすると本人は荒らすつもりはなかったとしても、その意図が
伝わるのは難しいような気もするのだ。

なぜならその発言を読んでいる私は、発言している人間が実はどんな
人間であるのか、知らなければその意図を正確に知ることは困難だと
思うからだ。

本人は、いつも身近な人に対してしているのと同様の、近しい人
モードで発言をしているだけのつもりでも、ネット上のマナーとして
は、それはただ単にその人自身の幼さというか、甘えているように
しか見えないことってあるのかもしれない。

そしてネット上のコミュニケーションの難しさって、こんな風に文字
だけでは伝わらないものもあるってことにあるのかもしれない。

だから、個人的にはインターネット上に書き込みをする時は、
その発言が成立するのかどうか、結構気をつかっていたりもするのだ。
ただし、気を使って洗練しすぎて、自分の言いたいことがボケてしま
ったりすることもあるんだけど。
でもよほど関係が親しくない限り、逆に言えば相手との距離を感じれば
感じるほど、最低限の礼儀は、やはり必要なのかもしれない。

まあ、でもだからといってやたらと四角四面の礼儀だけで中身の
ない発言なんてのは、見るだけで疲れてしまうわけだけど。


島田紳助の場合、その対象となる人にとって、どこまでが洒落として
許され、そしてどこまでが許されないのか、その見極めが抜群に
上手いんだと思う。

一見、ひどいことを勝手に言っているだけのように見えるけどそこには
精密な計算があるのかもしれない。
だから彼のツッコミの技は、目上の人間に向かうとき、抜群の冴えを
見せる。

彼がツッコミを与えることで、そのツッコミを入れられた相手は
その瞬間、その場でスポットライトを浴びることになる。
番組を見ていると、誰か特定の人だけをいじり倒しているのではなく
出来る限り、多くの出演者にそのスポットライトの当たる瞬間を
演出しているようにも思える。

そしてもしかするとそれは、このネット時代のいいコミュニケーション
の方法論なんじゃないかなあ。
なんて事をいつも考えて見ているわけでは決してないが。

ただ、ツッコミ型人間を自負?する自分としては、あまり相手を
不快にさせずに相手をも活かす、ツッコミの手法を日々磨きたいと
思っているわけだ。

といいつつも、普段私の暴言に悩まされている人たちはごめんなさい。
頼むから、訴えないでね。


P.S. 1月30日の日記 で、ズーニー山田さんのコラムの内容を
参考にしたんだけど、その後ズーニーさんに送ったメールの
内容が、 最新のコラム に取り上げられていて、ビックリした。

こういうのって、なんかちょっとうれしかったりもする。
ズーニー先生、ありがとうございました。



2003年02月09日(日)

疲れているからなのか、おかしな夢を見た。

なぜか私は学生で、大学の入学試験か、期末試験を受けるために
階段教室にいる。
そこではなぜか膨大な量の記述試験が待ち受けていて、いくら書いても
なかなか終わらない。
えー、このままじゃ俺は腱鞘炎だよー、と思ったところで目が覚めた。

目が覚めてみると、なぜか腕がしびれたように重い。
どうやら寝返りを打つうちに、失敗した腕枕のように、頭で腕の神経を
圧迫していたらしい。

逆に言えば脳は寝ている間に、なぜか知らないけれど腕が重くなって
いることに対して、それを頭の中で合理的な理由付けをするべく、
腱鞘炎になってもおかしくないような、かつての記憶を引っ張り出して
きたのかもしれない。

別のベタな例で言うと、昔の漫画なんかによくあったけど、
火事で水浸しの夢を見ると、実はおねしょをしていた、みたいな。
これなんかはもしかすると、なぜだか知らないけれど、身体が濡れて
いるよ、という身体からの信号に対して、身体を濡れていることの
合理的な言い訳を脳が考え出した結果なのかもしれない。

などと、夢について考えることの根拠は、糸井重里と池谷裕二が
対談した本、 「海馬−脳は疲れない−」 である。

池谷 糸井さんは、偶然から生まれる修正を、すごく大切にされて
   ますね。実は、脳のはたらきもほとんどの部分が無意識の動き
   です。無意識なうちに、いろいろなものごとをかなり適当に
   ランダムにくっつけています

糸井 試しにやってみる、みたいに?

池谷 はい。すごくやっているんです。その典型が「夢」です。
   実は、夢は「記憶の再生」なんです。その証拠に、フランス語を
   喋れないぼくが、フランス語をペラペラとしゃべる夢を見ること
   は絶対にない。記憶がないから。
    
   夢には、「記憶にあるもの」しか出ない。
   ただ、いろいろな組み合わせをしているのです。トライとエラーの
   くりかえしですけど、無意識では常にそんなことをやっています。
   (略)


糸井 夢のあいだに起きていた時の記憶を引き出して、海馬はいったい
   何をしているんですか?

池谷 情報を整理しています。睡眠は、きちんと整理整頓できた情報を
   記憶しようという、取捨選択の重要なプロセスなのです。だから
   「夢を見ない」というか「眠らない」ということは、海馬に
   情報を整理する猶予を与えないことになります。つまり、その日
   に起きた出来事を整理して記憶できなくなってしまう。

   ですから、睡眠時間は最低でも六時間は要るといわれています。
   もちろん、個人差はあるのですが、6時間以下の睡眠だと脳の
   成績がすごく落ちるということは、ここ二年ぐらいのあいだに
   科学的な証明がなされました。(以下略)



自分自身の経験で言うと、TVをつけっ放しにしちゃったまま、寝ている
と、TVのタレントがなぜか自分の夢に出てきたりすることがあったり
する。

おそらくその時は脳が覚醒している睡眠状態で、目は開いていないけれど
耳が知覚した情報について、どう脳が折り合いをつけようかと言い訳を
考えた結果なのだと思う。

昔、自分の夢の中で、それまでそんなに好きなわけではなかった、
知り合いの女の子が、私の部屋の中で私を見つめているという
夢を見たことがあった。

おお、これがもしかすると正夢ってやつか?と思って、最初は結構
ドキドキして、好きになりかけたんだけど、残念ながら?
実際にそんな展開はなかったのである。

夢のすごい?所は、ただ単に合理的な映像を見せて納得させるために
五感とか、心理状態までそのシチュエーションを忠実に再現すること
だろう。

おかげで今日の場合は、昔のテストにせっぱ詰まっていた、あのいやー
な気分まで思い出してしまった訳だ。
あー、しんど。



2003年02月08日(土) おつかれ

今週は普段より仕事で頭を使うことが多かったせいか、疲れが残って
いたりする。

身体が疲れていると、思考もうまくは回転しなかったりする。
今週の日記を読み直してみると、その辺が如実にわかってしまうのが
面白い。
もちろん、プロだったら疲れていようがなんだろうが、ある一定の基準
は、満たすんだろうけど。

日記を読み返してみると、先週演劇を見て以来、最近の私はどうやら
肉体に関心が行っているらしい。
いや、やらしい意味でなく。というか、やらしい意味でも別に
いいんだけど。

元々職業柄、人の身体に対して興味はある訳だが、人の身体そのもの
よりも、人が肉体を使って表現することに今は関心があるようだ。

この辺のことについてちょっと考えてみようかな、とも思うんだけど
何しろ頭の回転がちょっと鈍っているので、しばらくはなんか気の抜けた
日記になると思います。

疲れているときに考えても、下手な考え休むに似たりだし。



2003年02月06日(木) アメリカvsイラク

アメリカ合衆国の大統領は、いよいよイラクを攻撃するつもりらしい。
彼を見ていると裸の王様というか、こんな光景を考えてしまう。

今回の一連の話の流れを見ていると、まるで大店の若旦那が、イラクの
石油利権に目がくらんで、花魁に入れあげたはよかったが、そこは
駆け引き上手な花魁。なかなか言うことを聞いてくれない。

でも、熱を上げてしまった若旦那としては、周囲の番頭さんやら
幇間もちがいさめても、どうすれば一度あげてしまった手を下ろして
いいのやら、わからない。
うーん、あんまり上手いたとえ話ではなかったか。

まあ、よく考えてみると今までアメリカ合衆国が世界平和の安定のために
動いたこと自体が極めて稀である訳で。

かつては国際連盟に加盟しなかったし、ドルの金本位制は勝手にやめるし
最近では、京都議定書は批准しないし、国連の分担金?は払おうとしない。

第二次世界大戦後、一見世界秩序の安定に動いているように見えるのは
旧ソ連などの共産主義政権との、冷戦という名の武力衝突のない緊張状態
が続いていたからであって。

冷戦がなくなりゃ、あとはやりたい放題。
どこかでアメリカはジャイアンであると書いていたのを見たけど
まさに言いえて妙だと思う。

ただ個人的に気になることは、成功したにしろ失敗したにしろ、イラク
攻撃の、その後の問題である。

仮に、イラクのフセイン政権を打倒して、親米政権を作ったとしても
それがすなわち、アメリカの不景気の改善に結びつくのかどうかは
わからない。

また勝手に誰かから襲われるんじゃないかという、猜疑心と恐怖心に
とらわれて、次の仮想敵を作り出さないとも限らない。

逆に、フセイン政権打倒が不首尾に終わった場合。
その場合ブッシュがいくら戦争を続けたいと思っても、アメリカ経済の
後退が起こって、戦争を続けたくても続けられない状態になることも
考えられる。

もともとが、米国内の経済政策の失敗を覆い隠すつもりで始めたような
戦争なんだし。

その場合、戦争で勝てなかったショックで、国内に関心を集中させてしまう
国際的引きこもり状態になるかもしれないし、
また江戸の敵を長崎で討つ、じゃないけど、武力を行使して勝てなかった
事に対する米国民の不満を、経済的な仮想敵を作ることではらそうと
する可能性もある。

要は、勝手に敵作れば国内で指さされる事はない、という自転車操業の
ような政権運営になるわけだ。
あれ?どっかで見たような気もするのは気のせいか。

などと、ちょっと好き勝手なことを考えてみた。



2003年02月05日(水) 「夜を賭けて」

今日は月に一度の映画ファン感謝デー。
仕事の都合上、レイトショーしか見られなかったので、新宿武蔵野館にて
鑑賞。

この映画、一言でいうと、どこか懐かしい感じのする映画だった。

舞台は第二次大戦後の復興期の大阪。
空襲された後、野ざらしのまま放置されている兵器工場に、
金に換えるために鉄を拾いに行く男たちと、それを捕まえようとする
警察。そしてそんな男たちを陰で支える女たち。

この映画は、人々がそんな風にがむしゃらに生きていた時代の物語。

原作は梁石日。監督は「新宿梁山泊」の金守珍。
新宿梁山泊は、さすがに観たことはないんだけど、唐十郎劇団などと
共に小劇場ブームの前、テント公演を行っていたらしい演劇集団。

だからという訳でもないのだろうが、この映画はとても演劇的な匂いに
満ちた作品となっている。
例えば音楽の入り方とか、廃工場を逃げるシーンとか。

この映画は在日朝鮮人達が主役の映画で、日本を舞台にしているん
だけど、驚くほど日本人は出てこない。
出てくるのは警察権力として、彼らを差別し追い詰める存在として
だけである。
その辺の切り取り方というか、構図の作り方も非常に演劇っぽいと思う。

でもその演劇的な匂いが、この作品の魅力を引き立てていると思う。
まるで、スクリーンの上なのに関わらず、まるで目の前で役者さん達が
芝居をしているような、そんな迫力があるのだ。

この映画が、役者の肉体にこだわっているのも、その理由の一つ
かもしれない。
例えば役者同士が喧嘩をする時、ただ単なる型どおりの殺陣ではなく、
そこに役者の身体の躍動が見えるからこそ、その演技の説得力を
増しているのかもしれない。

例えば、主演の山本太郎が、わき目も振らず全力疾走している姿は
それだけで映像として説得力があった。
なぜなら、それが本当に全力疾走しているようにしか見えないから。

主演の山本太郎だけでなく、実はこっちが主役なんじゃと思うくらいの
活躍をする六平直政。いつの間にか復活していてコミカルな演技が
印象的だった仁科貴、風吹ジュン、樹木希林、唐十郎、そしてこれが
遺作となってしまった清川虹子など、個性派の役者さんが所狭しと
駆けずり回っている姿は、格好いい。


そしてもう一つ、私がこの映画を懐かしいと思う理由。
それは、空き地の思い出かもしれない。

私が子供だった頃、住んでいた世田谷でも沢山の空き地があった。
昔は、家を壊した後、しばらくは更地のまま放置している場所が
少なくなかったような気がする。

空き地の原風景っていうのは、今だとドラえもんの世界、すなわち
雑草が生えていて、なぜか土管が3本並んでいる風景だろう。
直接、空き地で遊んだことのない今の子供でも、この風景にどこか
懐かしさを覚える人は多いかもしれない。

でも私が子供の頃、空き地に置いてあった物は土管だけではなかった。
そこには、様々な遊びの道具になり得るものが落ちていたことを
思い出すのだ。
雨でしわしわになったエロ本だけじゃなくてね。

例えば、丸いタイルが大量に落ちているのを見れば、それは次の日から
学校でおはじきの道具や景品になったし、今は使われていない工場跡で
見たこともない、メーターが沢山ついた機械が捨ててあるのを見つければ
それは、空想の中の宇宙船の操作パネルになったりした。

ファミコンが流行るまでは、そんな感じで想像の羽を広げて遊んでいた
ような気がする。
これは大昔のことではなくたかだか20年前まではよく見られた光景
だった気がするのだ。

そして、そんな空き地や廃工場に忍び込むとき、必ず気にしたのは
大人の目だった。
つまり、大人に見つかったら怒られてしまうかもしれないから、いかに
大人にばれないように忍び込み、そして自分だけの秘密の道具を
持ち出すか。
そんなことにドキドキしていた、昔の思い出をこの映画は思い出させて
くれたようだ。


この映画の中で、今まで一緒に盗みを働いた仲間たちが、北朝鮮の
「帰国運動」で北朝鮮に向かうシーンがある。
日本での貧しい生活から、北朝鮮に夢を抱いて、北の大地を目指す人々。

今となっては、その事を馬鹿だなあ、と思うかもしれない。
でも、あの当時の人たちにとっては、行くも地獄、残るも地獄、の心境
だったのかもしれない。

でも、たとえどんな状況でも人は生き続けていける。
今の世の中、私たちが、いや少なくとも私が忘れがちなのは、
そんなシンプルなことなのかもしれない。

生きていく元気のほしい人と、タワケ先輩(謎)の活躍を見たい人に
おススメの映画である。
いや、マジで格好よかった。

「夜を賭けて」公式サイト



2003年02月04日(火) 痛み

月曜日、久々に六本木に行ってきた。
行ったのはサルサカリベ、というラテンバー。
以前はよく、ここのサルサのレッスンクラスに顔を出していた。
今回、久しぶりに行ってみたら、なんと先生が変わっていた。
去るものは日々に疎し。

サルサってなんじゃい?って人のためにちょっとだけ解説すると、
古くはマンボと呼ばれた、男女一組になって踊るペアダンスのこと。

もともとはキューバの踊り?だったのが、アメリカに渡り、
プエルトリカンや、メキシコ系のラテンな人々に広まり、今では
全世界?に普及したダンス。

ちなみに映画「サルサ!」はフランスのお話だし、「ダンスウィズミー」
はアメリカのお話。
日本でも、2年前くらいに結構ブームになっていて、自分がサルサを
踊り始めたのは、そのブームの尻馬に乗ったからである。

さて、というわけで久々のサルサ。
結構忘れている事が多いので、初心者クラスから踊り始めたんだけど
これで正解。

リズムには乗れるんだけど、結構肝心な事は忘れているんだよね。
その中で、同じく初心者クラスにいた女の子で、踊りやすい子を発見。
全くの初心者なのに、聞けば社交ダンス経験者らしい。どおりで
踊りやすいはずである。

これは久々の出会いか?なんてね。
大体においてサルサでの出会いなんて淡白なものなので、
次会ったらまた踊りましょうね〜、などといいつつ別れる。

問題は、調子に乗って踊り続けた翌日の今日だった。
いや〜、マジで筋肉痛なのである。
もう、下肢の筋肉がパンパン。
久々に使った筋肉が早速音を上げたのだった。

どうやら、身体もそこそこなまっていたようだ。
でもこの感覚、結構好きだったりするのだ。
全身の筋肉が音を上げていること、それは逆に言えば、全身の筋肉が
存在を主張しているって事でもあるわけで。

筋肉痛って、ある意味では全身の筋肉とのコミュニケーションなのかも
しれない。


突然話は変わるが、仕事が終わった後、たまたまつけたフジTVの
新番組のワイドショー?で、竹中平蔵金融大臣が、こんなことを
言っていた。

80年代、毎年4%〜5%伸びていた国民の所得は、バブル崩壊後の
90年代では1%程度の伸びにとどまっている。
でも、同じくバブルのはじけた韓国では、国民の所得は一気に10%
もダウンした。
だから、まだまだ日本経済には力があるんだと。

うーん、でも実は目に見えない形で痛みが進んでいる今のほうが、
私たちの危機意識を目覚めさせないという意味では、問題なんじゃ
ないだろうか。
もしも、国民一人当たり10%の収入が減ります、という明確な
アナウンスがあった方が、実は解決は早かったような気もするのだ。



2003年02月03日(月) ザ・スクープ

今日の話題は、日曜の昼間に放映された 「ザ・スクープ」
ジャーナリスト鳥越俊太郎が、というより個人的には
「あのくさこればい」 の鳥越さんがキャスターを務めるこの番組。
結構昔からファンだった。

最近でも覚えているのは、真紀子人気まっさかりの時に、あえて
田中真紀子は嘘つき、という番組を放送して抗議の電話殺到してたり
仙台の病院の筋弛緩薬投入事件では、容疑者の冤罪を番組で検証したり。

朝日系の放送局なのに結構昔から北朝鮮問題にも取り組むなど、普通の
報道番組とは一味違うスタンスが個人的に好きな番組なのだ。

元々は土曜の夕方や深夜帯に全国ネットで放送してたのに、よせば
いいのに?拡大路線をとり、日曜のゴールデンに進出。
しかし視聴率がとれず、もしくはスポンサー的に問題があったのか?
ゴールデン撤退。責任を取らされるかのように、土曜午前のローカルに
移動するなど、様々な紆余曲折の多い番組だった。

そして惜しまれつつも、昨年9月でレギュラー番組打ち切り。
年5回程度のスペシャル番組として、現在でも続いている番組である。
ある意味では、あの日テレのTVドラマ「ストレートニュース」や、その
原作の漫画「ラストニュース」を地で行っている番組と言えるかも
しれない。

でも番組打ち切りの後、ザ・スクープのあった時間帯、なんか
やってもいなくてもいいようなぬるいバラエティ番組とか、再放送とか
流しているようなんですけどTV朝日さん。
番組編成的になんかおかしくはないっすか?

さて実際の番組の内容、実はインターネット上で無料のストリーミング
放送を行なっているので、興味のある人は見てほしい。

今回の白眉は、冒頭の「少年10人冤罪事件」だった。
これが下手なドラマ見るより興味深かったのだ。


2001年9月、ある少女に、少年10人がわいせつな行為を働いたと
して逮捕された。
彼らは少女に対して、親に電話で適当な口実を言わせ、そしてその後
彼女を連行、わいせつな行為を働いたらしい。
たまたま少女が、加害者の一人を実名で名指ししたため、警察は少年を
逮捕。彼の友人および先輩関係から、残りの9人も相次いで逮捕された。

しかし、ここから事件は違った様相を見せる。少年たちは次々と、警察の
言うがままの自白を強要されたと主張。事件は冤罪である可能性も
出てきた。

しかしながら、少年犯罪であるにも関わらず、刑事裁判となった少年3人
は保釈されず、親との接見も許されない。
そんな異常とも思える状況の中、加害者とされる少年たちの親たちは
次々と少年たちのアリバイを証明し、そしてもう一つ重大なあることに
気がつく。
それは、被害者である少女の携帯電話の通話記録だった…。


ここから後の展開は、できればストリーミング放送で見れる人は
見てほしいと思う。
本当にサスペンス映画でもよもや、という意外な展開になるのだ。

番組の構成上、独善的な文法になりやすい点や、この検証が加害者と
される少年たちの側に一方的に立っているかもしれない、という問題を
差し置いても、番組上これだけ検察・警察側の証拠が崩されるのは
珍しいことだと思う。というか思いたい。

そして、本来であれば推定無罪の立場を貫くべきであるはずの
裁判所のスタンスについても。
なんか絶対日本で刑事事件の被告とかになりたくないなあ、と
しみじみと思う内容だった。

ついでに言えばこういう番組、2〜3ヶ月に一回じゃなく、せめて
一月に一回くらいできませんかね?>TV朝日の編成局さん



2003年02月02日(日) スペースシャトル墜落

スペースシャトルが墜落してしまった。
様々な要因が考えられているみたいだけど、今のところ有力なのは
発射時、外部燃料タンクの外壁が欠落し、それが左翼に当たったことで
はないかと考えられているようだ。

どれくらいの破片が、どのくらいの衝撃で、左翼に当たったのかは
判らないけれど、そのダメージは、再び大気との摩擦には耐えられ
なかったのかもしれない。

でも大気圏突入前に、そこに不具合があることが判っていたとしても、
現状では代わりのシャトルを飛ばすことも、そして船外活動で修理を
行うことも難しかったと思うから、その事を知っている人は、どうか
無事に地上に降りてくれることだけを願っていたんじゃないかと思う。

この前、たまたま昼間見たドラマ「まんてん」の中で、宇宙飛行士の
採用試験を受けた藤井隆が、「宇宙飛行士になるってことは、お前は
宇宙で死ねる覚悟があるかってことなんだと思ったわ」って台詞を
言っていたのを思い出した。

7人の宇宙飛行士と、その家族、そしてその関係者の人に哀悼の意を
表したい。

今回の背景として、様々な人がNASAの予算削減を挙げていた。
宇宙に人を上げること。それはいかに国家プロジェクトとは言っても
莫大な予算がかかるものらしい。

大げさに言えば人類史上、有人ロケットを打ち上げたのは、アメリカと
ソ連/ロシアしかないのだ。
今現在、中国も計画はしているみたいだけど。

スペースシャトルが出来た20年前、その飛行機然とした外観から
いつかは簡単に宇宙に行けるような、そんな期待を感じさせてくれた
ような気がする。
例えば「2001年宇宙の旅」の冒頭、PAN-AMのスペースシャトルが
人を軌道ステーションまで運んでたように。

でも実際問題として、人が住めるような環境を地球外に作ること、
そして、そのために宇宙と地上を、往復すること。
それがいかに大変なことなのか、今回の事故は教えてくれたような
気がするのだ。

スペースシャトルは少なくとも50回〜100回の再使用に耐えられる
ように設計されていた。
ただし、いまだかつて50回の使用に耐えた機体があったわけではない。
事故を起こしたコロンビア号が、その記録を伸ばし続けてきていたのだ。
その耐用性が実際どれくらいなのかは、机上の計算では結局わからない
ものだったのかもしれない。

スペースシャトルに耐用年数があるように、私たちが普段利用している
ジャンボジェットにも当然、耐用年数はある。
ただし、普段私たちがそうしたことを考えなくていいのは、多くは
耐用年数を経る前に機種変更が行えるからだ。

スペースシャトルの場合、減価償却が見込めるほど、商業的ベースに
乗っかっているわけではない。
スペースシャトル一機の建造およびそのランニングコストとマンパワーに
どのくらいかかるのかは知らないが、おそらくは計り知れない金額
なんだと思う。

もちろん、NASAとしては将来的にそれこそジャンボ旅客機や、
貨物輸送機のように、商業ベースに乗せることを考えていると思う。

でも、人一人を宇宙に上げるために多大のコストが払われる限り、
人々が気軽に宇宙を旅することが出来る時代が来るのはまだまだ
先なのかもしれない。

そして逆に言えば、それだけ我々生物が地球という環境、すなわち
水と空気と大地、に守られているか、ということなのかもしれない。
我々は1Gという重力に生きるのに最も適した構造をしているんだとも
思うし。
ただし、これは人類が宇宙を目指す意味がないと言っている訳ではない。

宇宙は人類最後のフロンティアである、とよく言われる。
かつて鳥が大空を羽ばたく姿を見て、人が飛行機を発明したように、
そこに未知の世界があれば、それを目指すのが人という存在だと思う。

それは氷河期、ユーラシア大陸の東の果てまで来た人々が、更なる大地を
求めて、氷の海を渡り、アメリカ大陸を目指したように。
または、アメリカの開拓時代、ゴールドラッシュもあったにせよ、人々が
こぞって、西海岸を目指したように。

果たして宇宙に、金塊が眠っているのかどうかはわからない。
かつてのフロンティアは、人類にとっての発展のきっかけであったと
同時に、数多くの名もなき人々によって築き上げられたものだと思う。

今回の事故を、貴重な犠牲であると一概に言うことは出来ないと思う。
でも問題はこの事故という最悪の結果から、私たちが何を学ぶかなんじゃ
ないかな、とも思うのだ。



2003年02月01日(土) 同一の遺伝子は同じ夢を果たして見るのか

クローンベイビー、なんと今度は日本人の親から生まれるらしい。
事の真偽はともかくとして、これを発表した宗教団体としては、
また、新たな信者を獲得することには成功しそうな勢いだ。

しかし、幼くしてこの世を去った子供の遺伝子を使って、
クローンの子供を作るとは、よくぞ考えたものだ。
それが技術的にどんなに問題があり、それを行うことにどんなに
お金がかかろうとも、突如として失ってしまった子供を甦らせる
事ができるなら、惜しくはないと思う親は多いかもしれない。

あのホラー映画「リング」の続編で「らせん」という作品がある。
ホラー作品としてはあんまり怖かった印象はないんだけど、
この小説の中に同様の話があったことを思い出した。

自分の不注意から、子供を死なせてしまった主人公に、
復活した貞子が甘い誘惑をかける。
前作の最後で死んでしまった高山竜二を復活させるかわりに
あなたの子供も生き返らせてあげますよ、と。

まさにフィクションと同様の事が行われる時代になってしまった。

さてクローン技術、実は大いに問題のある技術であるらしい。
生まれてきた赤ちゃんが、病気に罹りやすかったり、母体にも
悪影響が出やすかったり。
ただ、私が問題にしたいのは、もっと別の問題である。

クローン技術とは、要するに遺伝子をコピーするわけだから、
生まれてくる子供は同一の遺伝子を持っていることになる。
でも、同一の遺伝子を持っている=同一の人格になるわけでは
ない、という事が見過ごされている気がするのだ。

なぜなら、何もクローン技術に頼らなくても日常の世界で同一の
遺伝子を持った人間に出会うことはできるからである。

答えは双子。
一卵性双生児は実は全く同一の遺伝子を持っているらしい。

でもたとえば有名な双子、おすぎとピーコを見ても判るとおり
彼らは全く同一の人格をしているわけではないし、全く同じ病気に
かかる訳でもない。

二人に類似する点は多くあるだろうけど、顔の作りや性格だって
どこか微妙に異なっている。
もちろん同じ人格が同じ環境にいたから、お互いに影響しあって
そうなるんだ、という意見もあるかもしれない。

でも逆に言えば同じ遺伝子を持っていたとしても、それだけ
人は環境に左右される部分が大きく、まったく同じになるのは
難しいということだ。

再度、鉄腕アトムの話をすれば、交通事故で愛する子供を失って
しまった天馬博士は息子そっくりのロボットを作り上げる。
でも、姿かたちがそっくりでも一向に身長の伸びないロボットに
対して、最後はお前は私の息子じゃない、とサーカスに
売り飛ばしてしまう。

全く同じでなくても、似てる誰かなら、果たして人は変わらぬ
愛情を注げるものなのだろうか。
むしろ似ている部分より異なる部分に対して、より激しい嫌悪
の感情をつのらせてしまうもののような気がするのだ。

そしてもう一つ、亡くした子供と全く同じ子供を生み出せたと
しても、それは逆に亡くした子供との時間と思い出を、
なくしてしまうことになるんじゃないだろうか。

そして実はその時間こそが最も大切なもののような気がするのに。

ここからはただの冗談だけど、もしもクローン技術が確立された
として親が子供に、もうお前なんかいらない、遺伝子だけ取って
もう一度生み直してやる、とまるでTVゲームのリセットのような
事態が頻繁に起きる世の中になったら嫌だなあ。


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