2005年07月31日(日) |
050731_三日遅れの土用の丑 |
一応今日も夏らしくほどよい暑さの一日。久しぶりに西瓜を買って夏を堪能です。
さて今日は、 ■土用の丑の食べ損ね の1本です。
【土用の丑の食べ損ね】 夕ご飯を何にしようかという話になって、そういえば先週の28日が土用の丑の日だった事を思い出して、「うなぎが食べたい」と言うと、うちの奥さんが申し訳なさそうに「お父さんが出張中の28日に私たちは食べました…」と言う。
なにー!くそー、おやじのいぬ間に美味しい思いをしていたとは。
ところで土用の丑の日にウナギを食べるようになったのは、江戸時代に発明で有名な平賀源内がウナギ屋からコピーライトを頼まれて「土用の丑にウナギを食べよう」というキャッチコピーを作ったことが最初、という説が有力。
夏の暑い時期にビタミンが豊富なウナギを食べてスタミナをつけるのはなかなかに生活の知恵である。
ところで「土用の丑」と言われながら案外知られていないのが「土用」の方。
夏休みに海水浴場へ行くとよく「土用波が立つともう泳いじゃダメ」などと言われたもので、なんとなく夏だけの様な気がするが、実は春夏秋冬が立つまえの18〜19日(つまり各季節の最後の18〜19日でもある)は全部土用というのだ。
これは陰陽五行説から来ていて、物質は全て木火土金水の五つの要素からなっていると説明する考え方がベースになっている。
この考え方では四季を五つの要素に当てはめようとして、春を木、夏を火、秋を金、冬を水にあてている。しかし季節は突然に春が夏に、夏が秋になるわけではなく、その中間に変化をする時があるのであって、それが土用というわけである。
土の気の重要なところは、一方で万物を土に還す作用と他方で万物をはぐくみ育てる季節という作用があって、殺すと生かす・育てるという両方の性質を持っていると考えられたのである。
そこで、季節の変わり目に土の気をあてて、過ぎ去る季節を殺し、来るべき季節をはぐくみ育てるのが土用、というわけ。
だから四季の循環の変わり目には必ず土用があるのだが、今ではもっぱら夏の土用しか生活の中で関心を呼ばなくなり、土用の期間の間の丑の日にウナギを食べる事くらいしか生活の中には登場しなくなったのだ。
俳句でも「土用」はもう夏の季語として定着していて、そういう面からももう「四季全部にあるのですよ」と言っても無理なのかも知れないね。
でもまあそんなわけで、夜にはしっかり鰻を食べて元気もりもりなのでありました。
土用鰻息子を呼んで食はせけり 草間時彦
* * * * そうそう、上述の木火土金水という順番は「もく・か・ど・こん・すい」と覚えておくといろいろと暦を読む上で役立ちます。
子、丑、寅…の十二支の他に十干というのがあって、甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き)の十個の漢字を充てる。
昔の通信簿は甲乙丙丁戊でつけられていたのを知っているのはもうだいぶお年寄りかな。
今でも年号はこの十干と十二支の組み合わせで60年に一度の年回りを示している。十干はコウ、オツ、ヘイ…という読み方の他に、キノエ、キノト…という読み方もあって、ちなみに今年は乙酉(きのととり)というわけ。
十干の読み方が分からないという方は、木火土金水のそれぞれに「兄(え)」と「弟(と)」をつけると読み方になる。
つまり、甲は「木の兄」で「きのえ」、乙は「木の弟」で「きのと」と読むという法則がある。これさえ覚えれば、丙は(ひのえうまの)「ひのえ」、丁は「ひのと」…と続くというだけのこと。
問題は「木火土金水」という順番と「甲乙丙丁戊…」という漢字が覚えられない事。
これだけはちょっとだけ努力をする必要があるかも知れないけれど、これを覚えているだけで、甲子園が作られた大正13年8月1日が、奇しくも、十干、十二支のそれぞれ最初の「甲(きのえ)」と「子(ね)」が60年ぶりに出合う年で、そのおめでたさをこういう形で伝えたのだ、なんてことも分かったりする。
鰻を食べるとすこしは頭も冴えるかもよ。{/hiyob_hat/}
2005年07月30日(土) |
050730_真夏に雪を思う「遊雪館」 |
そろそろ夏らしく暑くなってきました。大通りの遊雪館は明日までですが行きましたか?
さて今日は、 ■遊雪館の見学 の1本です。
【遊雪館の見学】 札幌ファクトリーで映画を見た帰りに、大通りで開かれている「真夏の遊雪館」へ行ってみた。 この施設は札幌商工会議所がスポンサーとなって、真夏に行を楽しんでもらうアトラクションとして開設されているものである。
中は長さ15メートル、高さ3メートルのトンネルとなっていて、内部の気温はマイナス5℃というから、外の30℃から見ると気温差35℃にもなる。
内部には札幌国際スキー場から運んだといわれる雪が張られていて、まさに雪のトンネルとなっている。氷の彫刻や雪だるまが迎えてくれて、楽しい雰囲気だ。
実はこの施設は、今回我々が雪氷輸送物流システム検討調査でお世話になっている室蘭工業大学の媚山(こびやま)先生の協力の下で作られたもので、媚山先生からも「是非行ってみてください!」と言われていたものである。
開設期間が明日の31日までと聞いて、「今日行かなくては!」と思った次第。
北海道が雪や氷を楽しめば外からのお客さんももっとうらやましがるに違いない。
雪まつりや氷まつりなどは数あるけれど、観光に特化する以前に道民自身が雪や氷をもっと楽しむような取り組みが広まって、それらが相互に連携して行けばよいのにと思う。
私もおもしろがって氷のツリーや、クリスタルドームなどを作っている知人とアイディアを出し合っているが、これこそが内地との絶対的な違いであり、差別化のキーワードの一つには間違いない。
夏に冬の楽しみを考えさせてくれる遊雪館でありました。
2005年07月29日(金) |
050729_コンセントは抜けるか? |
今日は、8月25日に東京で開催予定の雪氷輸送システムシンポジウムのコーディネーターをお願いしている木元教子さんに、いろいろな説明を行う事にしているのである。
今日は、 ■コンセントはまめに抜きましょう…? の1本です。
【コンセントはまめに抜きましょう…?】 今回のシンポジウムのコーディネーターをお願いした木元教子さんは、実は北海道の苫小牧生まれ。
お父さんが王子製紙にお勤めだったそうで、その関係で満州へ渡ったのだそうだ。幸い、「戦争が始まる少し前に帰国できたので、終戦の悲惨さは味わわずに済んだのよ」とおっしゃるが、そのときに中国にいた人たちの三分の一は殺された、というから悲惨さの度合いが違う。
今では国の原子力委員会を始め、エネルギー問題に造詣の深い立場で活躍しておられる方だ。 テレビでは月曜日の「朝ズバ!」に出ているから、見た事のある人も多いだろう。
さて、今日はそんなわけでシンポジウム当日の流れや、パネルディスカッションでの各パネラーの発言順や発言内容を打ち合わせたのだが、この木元さんはなかなか愉快な方で、我々の脱線にもノリが良く付き合ってくださって、げらげら笑いながらの楽しい打ち合わせとなった。
なかでも傑作だったのは「環境省がチームマイナス6%を作ったのはご存じ?」という話。
「この中の6つのアクションプランというのがあるのよ。それの6番目が『コンセントはまめに抜きましょう』というのがあるの。あなた達、何か変だと思わない?」とおっしゃるのだが、こちらはなにが変なのか分からない。
すると一人が「コンセント…は抜けるんですかね?」と言い出して、やっと一同「なるほど、抜くのはプラグなんですね?」と言って「そうなのよ!」と正解を出す事ができた。
「コンセントって和製英語みたいで、外国ではアウトレットとか言うみたいね。でも日本語の辞書を引いても、抜けるものとは出ていないのよ」と言う。
なるほど、試しに私もインターネットで三省堂の大辞林を引いてみると『〔和 concentric+plug〕電気の配線器具の一。電気器具のコードを配線に接続するため、壁などに設けるプラグの差し込み口』と出た。
「結構みんな気にしないものなのよね」と言われると、お恥ずかしい限り。
そんなわけで、ではチームマイナス6%のホームページはどうなっているかと調べてみると、なんとしっかり直っていて、「コンセントからこまめに抜こう」になっているではないか!
この言い方を本当に過去に間違っていたのかどうかはもう分からないのだが、「チームマイナス6%」で検索した他のホームページを見ると、例えば環境省の4月の記者発表資料でも「六つのアクション紹介」としていながら、6番目に「コンセントをこまめに抜こう(電気の使い方で減らそう)」と書かれているので、4月時点では間違っていたんだな、きっと。
しかし別に表現が間違っていたからと言って、その主張の価値が下がるものではない。表現の正誤はともかく、省エネ・環境問題への取り組みに協力して、良い環境を次世代にバトンタッチしたいものだ。
単語のミスは、この運動を知らせるエピソードとして広まれば、それはそれで意味があるかも知れない。日本には珍しいジョークをまぶした記者発表である。{/hiyo_do/}
2005年07月28日(木) |
050728_築地市場を見学する |
今日から明日に掛けて一泊二日で東京出張。暑い東京で雪と氷を語るのです。
今日は、 ■築地市場を視察する の1本です。
【築地市場を視察する】 今日は雪氷輸送システム調査の利用システム部門の会議を東京で行う事として、その前段で築地市場を見学するのである。
ところで、築地といえばなんと言ってもまずは場外市場の食堂街でマグロ丼を食べたいものと、少し早めに築地に到着して良さそうなお店を物色。
…と言ってもその数も半端ではないし、値段はどこでも大体同じなので適当なところでお店に入って空いているイスに座るとマグロいくら丼を注文。
なるほど、ほいと出される丼のうまい事! 日本中のマグロがまずは東京へ来るというのだから無理もないか。これで800円が高いか安いかは感動の具合によるかも。 私は十分に堪能しました。
* * * *
さて、築地市場である。
東京の市場の歴史は、江戸に幕府を開いた徳川家康が場内の台所をまかなうために、現在の大阪市佃町から漁師たちを呼び寄せて、魚を幕府に納めさせる一方で、日本橋のたもとで売る事を許可したのが始まりとされているのだそうである。
今では築地と言えば卸売市場の代名詞と言える存在になっているが、ここの敷地面積は約23haで、業務を始めたのは昭和10年2月とのこと。
大正12年の関東大震災で民営市場が壊滅的に打撃を受けた事で、計画を前倒しして建設が進められたのだという。
築地市場は、上からの図を見るとよく分かるのだが、建物がアルファベットのJの字のようにカーブしているのだが、これはなぜかというと、様々な品物の輸送に鉄道を想定していて、かつての新橋駅から引き込み線で貨車が着けるようにしたからなのだそうだ。
ところが次第に物流が自動車になるにつれて、貨物列車による物流は少なくなり、今では引き込み線も廃止されすっかり車による荷の出し入れがされるようになっている。
ところがそうなると元々車の動線計画がしっかりとなされていたわけではないので、いろいろと不都合も生じてきて、様々な要因はあるだろうけれど、都としては7年後の平成24年にはこの築地市場を閉鎖して、豊洲市場に移設する計画を進めているのだそうだ。
早くしないと場外市場もどうなるのか分からない状態である。行くなら早めがよろしいようですよ。
* * * *
この日はさらにビルを水蓄熱冷房で行っている芝浦アークビルの見学も行った。
夜間に水や氷を作って昼に建物内の冷房をするというのは電気利用のピークカットをする意味では有効だが、ヒートアイランド現象から見ると夜も都市を冷やさない形になるので、いただけないことになってしまう。
都市に住むという利便が生む負の部分を解消しようと言うのはなかなかに難しいものだ。
2005年07月27日(水) |
050727_まちの差別化を考える |
掛川市議会のメンバーが道内視察です。久しぶりに旧交を温めました。
今日は、 ■北海道のまちがうらやましい
【北海道のまちがうらやましい】 掛川市議会の総務委員会が道内視察の二日目で今日は札幌宿泊だという。「会えますか?」というお誘いがあって会合に参加させていただいた。
掛川は合併して、一市二町による新しい市になったのだが、4月の末に市長選挙と同時に市議会選挙も行い、それまで総勢54人だった市議、町議の数が新市の議員数は30人になったのである。
その結果、元の市議、町議の多くが再び議員として当選し市議会議員として活躍をしているのだが、私にしてみれば合併協議会で様々な会合を繰り返してきた町議の皆さんとも十分に親しくて、新市の市議会議員というよりも、昔懐かしい戦友に会ったような気持ちだった。
今日は主に札幌近傍の市や町を訪ねて情報を交換したようだが、掛川の議員さんは一様に「北海道のまちが羨ましい」と半分皮肉をこめて言う。
その心は?と尋ねると、「人口に比べて職員数が多い印象だ。人口が多かった時代の職員規模を改善出来ていないようだ」「財政力指数が小さくても、まちは下水道がほぼ完備している(ちなみに掛川は下水道整備率がまだ8%ほどなのだ)」「道路が広い」という感想が帰ってきた。
「ある市では市立病院の赤字解消に年間30億円を投入しているそうですが、掛川ではせいぜい数億円でなんとかがんばっている」という反応も。
私が見ても、道内の市町村は行政と市民の距離感が遠い印象で、あまり真剣に市民に対して窮状や現状を説明してはいないように思える。
それは「説明をしても無駄」と思っているのか、説明をする能力がないのか、説明をして市民の怒りを買うのが怖いのか…、など様々な理由があるのだろうけれど、いずれにしても、説明が少ないようだ。
地方交付税という国からのお金の性質も、財政力指数が0.2のところでは自治体ががんばって一億円の支出を削減したとしても、8千万円は国の金が来なくなるだけで、実質市民税などが節約出来たのは2千万円にとどまるのだ。
それならば、2千万円出せば市として1億円使えるのだから節約しない方が市としてはやりたいことがやれる、と思うのも無理はない。 どちらを真に「もったいない」と思うか、という考え方次第であろう。
以前にカーシェアリングを進めようとしている方を紹介した事があったが、そのときの車に対する考え方として「持っているのだから使わないともったいない」というものと「持っていなければ使うのがもったいない」という相反する思考になるのだ、という話を聞いて、なるほど、同じ「もったいない」でも考え方には消費を助長する方向と抑制する方向の二つがあり得るのだと思ったのだった。
北海道は面積が広く、人口密度は希薄、おまけに冬は雪が降り除雪にお金がかかるという条件不利地域ではあるが、その「あたりまえ」をあたりまえと思わずに、どう改善出来るかという知恵や将来への備えが必要なのだろうと思う。
除雪の問題にしても、根本的な都市構造や都市施設との組み合わせで費用が軽減されるような手だてはないものかといつも思うのだが、なかなか良い知恵も出ないものだ。
雪を遠くまで運ばずにすます技術の開発や、季節を超えた冷熱エネルギーとしてもっと利活用がされても良いように思う。
そういうことがあたりまえになったときに、北海道のライフスタイルは本州と異なった異国情緒が誕生するような気もする。
本州と違うあたりまえの自分をどう表現し、磨いて行くか。 これから先を地域が生き抜いて行くためには、他との差別化を図らなくてはならないのだ。歴史性など差別化のための資源があるところは幸いである。ないところはこれから作らなくてはいけないのだから。
しかしその差別化は良い方向でやられなくては。どちらがよりひどいまちかを比べるようにはなって欲しくないものである。
明日と明後日は東京出張です。雪氷輸送の会合に出てきます。
2005年07月26日(火) |
050726_フランス流エスプリ |
台風が本土直撃か。今日から明日は緊張です
今日は、 ■エスプリ ■本をいただく の2本です。
【エスプリ】 石原都知事が「フランス語は数を数えるのに不便なので国際語として失格」と発言して、フランス語関係者から提訴されるという騒動になっているが、明治大学の有志が都知事にフランス語学習セットをプレゼントしたという記事があった。
何か問題になるような発言があったときに、すぐ反対者は提訴するということが非常に増えて、何かというとすぐに法律に訴える社会になりつつあるが、このようなしゃれっ気のある不満の表明の仕方は気が利いていて良い。
批判に対してそれをさらりとかわしつつ、反論を世間に印象的に示すというやり方にはまさにフランスのエスプリを感じさせる。
世の中をぎすぎすさせない大人の社会ってこういうことではないか、と思わせる爽快な対応でした。
【本をいただく】 帯広で北の屋台を大ヒットさせた坂本和昭さんから新著の「北の屋台繁盛記」を送っていただいた。
以前から「今度本ができるので差し上げますよ」と言われていたもので、サイン入りの謹呈である。
208ページの中には、屋台の発想からいろいろなハードルをクリアした経緯が述べられていて、推進に当たってのいろいろな苦労談が明るく語られている。
ぜひご一読をお薦めします。
「北の屋台繁盛記」 発売は株式会社メタ・ブレーン 204P 定価1800円
2005年07月25日(月) |
050725_懇親会の意味 |
このブログを読んでくださっている方から「ブログの左側にいろいろとついているのは何ですか」という質問があった。 そういえば説明していませんでしたかねえ。
今日は、 ■ブログの見方 ■「マインド」のありか の2本です。
【ブログの見方】 私はgooというプロバイダのものを使わせてもらっている。
画面の左側には英語でなにやら書かれているが、触った事もない、という方も多いようなので少しだけ説明をしておきたいと思います。
まずEDITと書かれているのは、ブログ本体への書き込みですが、私はここへの書き込み方法を公開してはいませんので、基本的には皆さんには関係ありません。
つぎのCATEGORYは、私の日々の日記の分類です。三つだけ登録したのですが、読書感想などのようなものも分類出来るかも知れませんね。 読者の興味ある分野だけを取り出す事ができます。私はあまり使ってません。
ENTRY ARCHIVEは、月単位で過去のブログにジャンプ出来ます。まだ3ヶ月しか続いていないのよね。
RECENT ENTRYは直近過去の10編が出てきます。毎日読んでいない方はここをクリックして、読んでいないタイトルに飛び込みましょう。
RECENT COMMENTは、私のブログに対して寄せられた読者からの最近の感想文が出てきます。熱心に読み込んで真剣な感想を寄せてくださる方もいるので、こちらも真剣に応答しなくてはいけません。 私の文章を読んで「そうそう!」と言う方も「そうじゃねーんだよなあ!」と言う方も、感想を寄せていただければ幸いです。
コメントの仕方は簡単で、その日の文章の一番下にCOMMENTと書かれていてその横にかっこの中に数字がありますが、この数字をクリックしていただけると、コメントを打ち込むシートが出てきますので、そこに文字を書き入れてくださればよいのです。
名前は匿名で結構ですし、URLというホームページのアドレスを打ち込むようになっているところは空欄で構いません。自分が誰であるかを明かす必要は全くありませんし、誰が 書き込んだかを追跡するシステムもありませんので、安心して書き込んでください。
ただし、あまりにひどい誹謗中傷と判断されるときは管理者である私の権限で削除する事もあります。ごく普通に書き込んでいる場合は全く問題はないのですがね。
次のRECENT TRACKBACKというのは、私のブログと関連するような他のブログを繋ぐ事ができるのです。ブログを上手に使う人はこうして自分のアクセス数を増やす事ができますよ。
BOOKMARK以下はあまり使わないので省略しますが、読者からのコメントだけはチェックしてみてくださいね。真面目なご意見も多いですよ。
【「マインド」のありか】 職場で全道の担当者に一同に集まってもらう会議があった。
日中は上部機関から降りてくる様々な事業や制度の説明に終始することにして、それはそれで大事な時間だが、同じくらい肝心なのは夜になってからの懇親会である。
こういう形でもっと互いに胸襟を開いておかないと、スムースな業務運びができないのであるから、顔と名前が一致するくらいの親近感を持つためにはとにかくコミュニケーションを図る事が大事なのである。
我々の仕事のいくらかは、上から作業依頼として降りてくるものが多く、それらをスムースに下部機関に伝えて、現場の最前線から上がってくる情報や状況を上手にコントロールして上部機関の期待に応えられるような成果をあげる、というのが我々の重要な使命である。
しかし中には「○○への応募団体を探して欲しい」というような、いかにも応募の少ないようなものを探せ、という無理難題な作業依頼もあったりして、下におろすのも気が引けるようなことがあるのだが、案外そういうときに現場ががんばってくれて、無理と思った案件の期待に応えてくれることもあったりする。 こういうときの思いは感謝感激で「良くやってくれた!」と担当者としては感激をするものだ。
ところが中には逆に、「これくらいは簡単にできるのでは」と思うような案件にも関わらず現場が拒否反応を示して動いてくれない、ということもときどきある。
その原因は依頼が通り一遍のメールだけだったりして、こちらからの作業依頼の意味が正しく、または熱意を持って先方に繋がっていないという事が多いようだ。
そういうときには「できません」「該当ありません」といった回答そのものもそっけなかったりして、互いにメールのやりとり陰で「何を考えているんだ!?」と憤慨したりしているものである。
そういうときにこそ互いに「どういうことかもう少し詳しく教えてくれる?」という電話一本があれば良いのだが、それを気安くさせる雰囲気がお互いにあるかどうか、上下関係ではなく「司司(つかさつかさ)で仕事をしているという」気安い関係を保てているかどうかがその瞬間に仕事を無事にこなせるかどうか、のポイントになるのだ。
だから電話の向こうの顔が頭に浮かんでいるかどうかは重要なポイントで、そういう観点からすると、懇親会で自分の席にどっかりと座り続けて知らない人のところへ行って話しかけないというのは損だと思わなくてはならない。
「自分はたいしたことがない」という謙遜はよして、「この一瞬に知らない人と仲良くなる事が仕事をスムースに行う上で、職務上重要なことなのだ」と思う気持ちが重要なのである。
会議の場では、向こうが自分を知っていればよいのではなく、自分が向こうを知らなくてはならないのだ、という気持ちが大事なのだ。 私が偉そうにやたらにでかい(私費で買った)名札をつけて歩いて いるのも、少しでも自分を印象づけるツールだし、その気持ちはとにかく知らない人がいたら話しかけてみるという行動で示さなくてはならない。
そういう意味では昨日はやや時間配分を間違えて、半分しか回れなかったのは私自身失敗だった。反省と自戒をこめて次はもっと立派に対応したいと思う。
実は少し前に作業依頼を出したところ、消極的な答えが約半分の現場から帰ってきたということがあって、どういうことかをじっくりと意見交換してみたかったのだが、若手に「自分の地域を愛していますか?」「自分の地域を応援したくならないきゃ」と言っても、あまりピンと来ていなかったようで、ややそのあたりのマインドを伝えるには時間が足りなかったようだ。
まあ次の宿題にしようと思うけれど、上部機関の事情、我々の事情、それを伝える現場の事情を背景としつつ、成果にまとめ上げるための考えを上は下へ的確に伝え続けなくてはならないのだ。
さぼる気持ちが見受けられたら、その事はすぐに指摘しないと「それで上も納得したのだ」というサインになってしまうから。
そんな言いづらい事をばんばん言い合う関係の構築がある意味では先に重要になるのであって、懇親会という意味は大きいものがある。
ただ酒を飲んで自分が楽しむのは「飲み会」と言う。懇親会とは「知らない人と互いに懇親を図る」という重要な仕事が含まれた時間である事を自覚しなくては。
こんなことも言う上司が少なくなっているんだな、昨今は。うーむ。
2005年07月24日(日) |
050724_地震の備えはできてますか? |
天気は良し。少し家の中を片づけようと思ったが、なかなか作業がはかどらない。まったく。
今日は、 ■日本は地震大国 の1本です。
【日本は地震大国】 関東地方で震度5という比較的大きな地震があってびっくり。知人の多い掛川にメールで「大丈夫ですか?」と打ってみたところ、「全然気づきませんでした」という返事が返ってきたくらいなので、たいしたことはないのだろう。まずは良かった。
私が掛川で助役をしていた三年間で一番恐ろしかったのが「今来てもおかしくない」と言われた東海大地震である。
これは昭和51年に発表されたもので、マントルの上に置かれたプレートがマントルの対流に伴って沈降と乗り上げる部分でひずみを解消するときに大地震になると言う説である。
過去の文献を調べてみると日本列島の太平洋側を伊豆半島から遠くは四国までの広い範囲でほぼ定期的に大地震が発生している事が分かっている。
伊豆半島以西の太平洋側は大体三つのブロックで考えられている。それは、東の伊豆半島から浜松市あたりまでの東海地震ブロック、浜松から紀伊半島串本町くらいまでの盗難開示心ブロック、そして紀伊半島の半分から西側の南海地震ブロックの三つで、これらがある時はほぼ同時に、あるときはブロック単位で大きな地震を繰り返しているのである。
このあたりで歴史上有名な大地震が安政の大地震で、これのおかげで掛川城も石垣が崩れて天守閣もなくなってしまったのだが、このときの被害状況を表す図面が幕府に提出されていたおかげで天守閣の存在が証明され、復元のための大変有効な資料になったというのは皮肉な話である。
さてこの安政の大地震は、上記の三つのブロックがほぼ同時に動いてエネルギーを放出した大地震だったのだが、その次はと見てみると南海地震は昭和21年にM8級の地震を起こしている。
またまだ大東亜戦争真っ盛りの昭和19年12月には東南海区域でM7.9の地震が発生しているのだが、その後の調査でこのときのエネルギー解放は東南海区域にとどまっていて、掛川を含む東海ブロックは安政の大地震以来150年以上もエネルギーを解放せずため込む一方で推移しているのである。
このあたりの地震は約100年ごとに発生していて、最近で一番離れたときで1707年から1854年までの147年が最長という事になっていて、今や東海地震の区域はこれまでの最長記録を日々伸ばしている状況なのである。
このことが世に知られるようになった昭和53年(1978)に政府は大規模地震対策特別措置法を施行し、静岡県等を地震防災対策強化地域に指定し、観測の強化や監視の充実を行うとともに、判定組織を作る事にしたのである。
とは言いながら、その後そのような準備をしていない日本各地で断層型の大地震が数多く発生して、突然来る大災害の恐ろしさをまざまざと見せつけているのだが、こういった断層型地震と違って、東海地震だけは事前に発生の予測ができるのではないかと言われているのである。
その可能性を支える観測事実が実は掛川にある。
それは、昭和19年(1944)12月7日13時35分に発生した東南海地震の前日の午 後と当日の午前に、掛川からその北西の三倉への水準路線の一部が軍部によって偶然往復で測定されており、このときに水準測量が合わなかったという事実が記録されているのである。
このときの往路と復路の差からは、700mで約4mmの海側が隆起する地殻変動を生じたと推定されている。
つまり東海地震のようなプレート型の地震であれば急激に歪みを解消する大地震の前に予兆減少として沈み込んだプレートがゆっくりと跳ね上がる現象が見られるのではないかと考えられているのである。
たったいちどの観測結果に一縷の望みを掛けているような状況なのだが、事前に予知出来るのなら十分に研究する値はあると言えるだろう。
しかし何分、十分な観測網ができあがってからはまだ一度も大きな地震が起きていないので、地震学者もその予想を確かめられずにいるのである。
我々とすれば、予想ができるかも知れない東海地震の行方を見守るよりは、この瞬間にも起きるかも知れない断層型の地震に備えて、三日間だけは救援なしで生きられるだけの水や食料を用意して防災意識を持ち続けたいものだ。
防災は自助、共助、公助の順なのであって、まずは自分や家族の命は自分たちで守る強い気持ちが大事なのだ。
災害は忘れた頃にやってくるのである。
2005年07月23日(土) |
050723_町内会から始めよう |
天気は良し。少し家の中を片づけようと思ったが、なかなか作業がはかどらない。まったく。
今日は、 ■町内会力 の1本です。
【町内会力】 私の住んでいる地区は第23町内会ということになっていて、そのために毎月23日は廃品回収の日と決めて、業者さんが来てくれて町内会役員を中心に地区の中をスピーカーで呼びかけながら古新聞や段ボール類を集めて回るのである。
23日と日を決められてしまうと平日に当たる事が多く、なかなか手伝いにも出られないのだが、今日は幸い休みの日だったのでトラックについて回る事にした。
今まで参加した事がなかったのでちょっと気恥ずかしかったのだが、まあ何事にも最初と言う事があるものなので、転校生の気分を味わいながら、途中から一団に加わらせてもらった。
庁内をぐるぐると回りながら、玄関先に置いてくれている廃品を持ち上げては車の荷台に積み込む。車の上には業者さんの若い人と役員が乗っていて荷台に効率的に積み込みながら次の来るのを待っている。
こちらは車と共に歩きながら積み込む作業をするのだが、こうやって実際にやってみると、上手に紐で縛られているものと、ちょっとルーズなものとがあるのに気がつく。
こうしてみて自分自身が作業に参加して、初めて「自分が出すときは持ちやすいようにしてあげなくては」とやっとのことで思うのだから、なかなか人間というのは想像力が働かないものだ。
荷を求めて先を走っていると「あまり無理しなくて良いよ」と後ろから声がかかる。
無理と言われても、参加者の役員の平均年齢はざっとみただけで70歳以上。これじゃ一番若い自分が動かなくてはならない、と思うのだが、どうしてどうして、皆手慣れている事もあって、要領よくほいほいと動いているから馬鹿にはできないのである。
回収に歩く事小一時間で大体集め尽くして終了。
参加者の皆さんは、以前町内会の総会に参加したときにこちらは見ているので大体顔は見覚えがあるのだが、役員の皆さんにしてみれば見慣れない小僧が混じっているという印象。
「あのうどちらの方でしたっけ?」と言われたので 「6班のTさんの隣の小松です」と答えると、「あー、あの黄色い家ね」と言われる。
こうして町内を回る機会が多ければ、どんな家かぐらいは分かるのだろう。またお隣のTさんも有力な町内の役員活動を続けている方だから、ということもあるのだろうけれど。
「平日だとなかなか手伝えずにすみません」と言うと「休みだけでも結構ですよ。平均年齢を下げてくださってありがとう」とおっしゃる。なかなか粋な答えだ。
お母さん方には「公園デビュー」という言葉があると聞いた事があるが、町内会デビューというのは無いのだろうか。
そういえば、昨日の講演会でも会場の地方自治体出向経験のある人から質問があって「私が地方自治体にいたときに、『開発局の官舎街は誰も出ないんですよ』と言われた事がありますが、どう思いますか」ときつい質問が出されたのを思い出した。
なるほど、「地域の皆さんと共に地域作りをしましょう」と言っていながら、地域とはそういう関わりでしかない、ということも多いのだろう。
転勤が多く、地域に短期間しかいることのできない運命と言い訳もできそうだが、そういう一つ一つの事に存在を見せてこつこつ積み上げれば、さらに信頼もされるのだがなあと思う。
地域の住民の皆さんと接する機会も増えつつある昨今、どういう関係を地域と作る事ができるのか、ということは仕事を進める上で実に重要な事になりつつある。
「こうしたらもっと地域に顔を見せる事ができるのではないか」と思う事も多いのだが、組織として対応するのはなかなか容易ではない。
人に会う事が得意な人と苦手な人もいるだろう。話をする事が得意だという人も苦手だという人もいるだろう。
そういう能力は練習すればきっと上手になるに違いない。でも本当に大事なのは、その地域に住んでいて自分の住んでいる地域を愛しているかどうか、好きかどうかということではないだろうか。
実は自分が住んでいる町が嫌いなのでは、良くしようとも思えないのじゃないだろうか。
好きになれるかどうか、そこが一番難しいんだな。好きじゃなくても一生懸命やってやれればよいのだけれど。
最近「マインド」という言葉を口にする事が多くなった。「意識」とか「意欲」といったような意味で自分自身使っているのである。
好きでも嫌いでも、まずやってみたらよいのじゃないかと思うのだけれど、これまた人によるのである。
人の心は濡れたろうそくの芯みたい。なかなか火がつかないんですよねえ、これが。うーん。
まずは町内会から始めて見てはどうかなあ。
2005年07月22日(金) |
050722_政治家の特質 |
天気はよいけれど、あまり暑くはならないよう。そろそろ学校は夏休みの時期です。もう少し暑くてもよさそうよ。
今日は、 ■生涯学習まちづくりのお話 の1本です。
【生涯学習まちづくりのお話】 夜に社団法人北海道開発技術センターの招きを受けて、会員を対象にした講演会の講師としてお話をする機会を得た。
掛川の生涯学習とは何だったのか?生涯学習のまちづくりとは何なのか?
「人と人、人と社会を繋げようとする努力が生涯学習だ」というのが私なりの一つの結論なのだが、今日的にはソーシャルキャピタルという言い方が、個人主義の国アメリカで言われ出していて、「繋がっている事は社会にとって善である」というごく当たり前の事が研究されているというのは面白い。
またその事を行政としてどう実現するか、という取り組みが掛川だったのだが、それはかなりの部分を首長というリーダーに負うところが大きく、これを一般化してなにか法則のようなものが見えるのだろうか、ということも興味深いポイントである。
結論から言うと、個人としての魅力が住民の信頼に繋がるというのが私なりの実感である。
故松下幸之助が生前、人から「政治家の持つべき特質とは何でしょうか」と問われたときに、彼は少し考えてから「そうですなあ、愛嬌でっしゃろなあ」と答えたと言われる。
そろそろ国では人事異動の季節。新しい職場でリーダーになるべき皆さんにお送りしたい言葉である。
2005年07月21日(木) |
050721_夏休みはキャンプへ行こう! |
国会の長期延長で、国会あけの人事異動の時期が定まらずやきもき。夏期休暇はいつ取れるのか、やきもきです。
今日は、 ■国際観光旅館連盟 ■キャンプへ行こう の2本です。
【国際観光旅館連盟】 午後に「国際観光旅館連盟北海道支部」の21世紀委員会という会合があって、そこでわが開発局の観光施策についてお話をする機会を得た。
国際観光旅館連盟(国観連)とは、一定の条件を具備した旅館の経営者および本連盟の趣旨に賛同する者を会員として組織され、外国人観光客に対する優秀宿泊施設の提供と国際観光事業推進を目的に、会員への指導・調査・連絡機関として幅広い活動を行っている団体である。
全国では1500もの旅館が加盟していて、北海道支部としては約100の旅館が加盟して、外国から来訪される観光客の皆さんに対して最高のサービスともてなしを目指して研鑽を積んでいるのである。
今日の集まりの本当の目的は「国観連の質をどう担保するか」という議題が中心だったのだが、割り込むような形でシーニック・バイウェイと生涯学習のまちづくりについてお話をしてきました。
今日は約8名というこぢんまりとした会議だったが、皆さん熱心に聞いてくださり、地域を代表する旅館として社会にどう貢献するかという問題意識が高い事を大いに感じた。
今日集まっていたのは、シーニック・バイウェイでも中枢となる代表的な旅館の経営者の皆さんたちなので、外国からの来客誘致と活力ある地域づくりを目指すシーニック・バイウェイへも関心が高い。
いよいよ開発局も地域作りにより一層力を尽くさなくては。
【キャンプへ行こう】 北海道では各地のオートキャンプ場をネットワークして、北海道全体で質の向上を図ると共に地域振興を目指そうという北海道オートリゾートネットワークという事業を行っている。
実はこれも私の課の仕事なのであって、「なんでもあり」の我が課の一面である。
北海道全体のオートキャンプ場の利用動向は北海道オートリゾート協会が調査事業としてフォローしていて、現在は加盟キャンプ場数も46となり、道内の年間利用者数も大体安定してきたようだ。 昨年度の利用結果を見ても、道内加盟キャンプ場利用者数は約32.5万人で、平成13年の34.1万人をピークにして大幅に増えも減りもしない状態になってきたようだ。
わが家も昔からこのオートリゾートに関わってきたということもあり、子供が小さいときは大いにキャンプに行ったものだが、掛川の三年間は残念ながら一度も家族キャンプができずにいて道具も車庫の中で埃まみれになっているに違いない。
久しぶりに北海道へ帰ってきたということだし、どこかへ行こうという家族の希望もあって夏休みにキャンプへ行く事にして、予約をする事にした。
このときには、前述のオートリゾート協会のホームページが便利である。各地の施設紹介に加えて、予約にどの程度空きがあるかを大まかに教えてくれる。
今回は道北で、中川町のナポートパークへ行ってみる事にした。
8月中旬という一番の混雑期で予約が取れるかどうか心配だったのだが、スタンダードサイトを予約する事ができた。
ここのウリの一つは天塩川カヌーが楽しめる事で、最長のコースでは思い切り上流まで連れて行ってくれると5時間コースだという。
さすがにこれは遠慮したが、次が4時間コース、3時間コース、1.5時間コースという4コースがあると聞かされて、3時間コースでお願いをした。天塩川でのカヌーは初めてなので、今から楽しみである。
北海道を思い切り遊ぶにはカヌー、自転車、登山のようなサイレントスポーツが良い。キャンプ場でのバーベキューも最高。家族が一つのテントで寝泊まりするのもいいのだけれど、昔と違って子供も大きくなったのでもうぎゅうぎゅう詰めに違いない。さてさて。
夏の道北が今から楽しみだ。{/
2005年07月19日(火) |
050719_シーニック・バイウェイのリソースセンター設立 |
やっぱり冷夏? 涼しい日が続きます。夏らしい夏は来るのかな。
今日は、 ■シーニック・バイウェイの夜明け の1本です。
【シーニック・バイウェイの夜明け】 北海道では全国に先駆けて、道をきっかけとして地域住民と行政が連携し、景観をはじめとした地域資源の保全・改善の取り組みを進めることで、美しい景観作りや魅力ある観光空間作りなどを図る「シーニック・バイウェイ北海道」に取り組んでいるところである。
2年にわたる地道な地域での活動を経て、平成17年3月にはシーニック・バイウェイ北海道推進協議会が設立され、同じく5月には第一回のルート指定も行われた。
今回は三つのルートが指定されたのだが、これらの地域では民間団体の皆さんが沿道植栽やイベント活動などを通じて地域の魅力を増すような多彩な活動を続けてくださっている。
また北海道内だけでなく全国でもシーニック・バイウェイへの期待は多くなる一方で、この取り組みをさらに広く展開するためには民間と行政との連携が不可欠であり、さらには専門的な観点からこの活動を下支えする組織が不可欠となってきたのである。
そこで今般、シーニック・バイウェイの理念の浸透や活動の活性化を図るため、またシーニック・バイウェイの活動を通じて、美しい景観作り、魅力ある観光空間作り、活力ある地域作りに貢献するものとして、シーニック・バイウェイ支援センター(略称:リソースセンター)を設立する事としたものである。
組織としては国土計画の第一人者である現政策研究大学院大学教授の森地茂先生を代表理事に迎え、センターの社員は社団法人北海道開発技術センターなどの職員が当たる事としている。
今日はその設立の日で、森地先生もわざわざこのために日帰りで東京から駆けつけてくださった。
長らく懸案だった、リソースセンターがついに立ち上がったわけで、いよいよこの活動が盛り上がる事だろう。
現実的に言えばセンターの運営事業も展開して行かなくてはならず、必ずしも平坦な道のりではないが、この活動の先に元気溢れる北海道の姿が見えるに違いない。
大きな一歩を踏み出して、さらに前に進もう。皆さんからの応援もよろしくお願いします。
2005年07月17日(日) |
050717_日本と東京を知る旅 |
昨日の同窓会の夜は東京泊まり。東京は暑いです!
今日は、 ■東京見物〜浅草編 ■東京見物〜上野編 の2本です。
【東京見物〜浅草編】 飛行機が夕方の便にしてあったので、それまでの時間で今まで言った事のない東京見物を決め込み、浅草へと向かう。東京に住んでいた割に、田舎者は東京を楽しむという事ができずにいたので、今になってなんとか見聞を広めたいと思ったのである。
映画「フーテンの寅さん」もあまり見た事がない私には浅草は初めてで、地下鉄駅から歩いて雷門の前に立つと、こういう賑わいが東京なのだな、と改めて感心する。
雷門から浅草寺までのメインストリートは仲見世通りで幅二間ほどの間口でおみやげ屋さんがずらりと並んでいる。周りは外人さんも多く、日本有数の観光地を楽しんでいるようだ。肝心の日本人である私の方が初めてだというのだから、まだまだ自分自身が日本を知らない、ということは情けない限りであった。
さてこの浅草寺、その縁起を訪ねると推古天皇36年(628)のある朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)の兄弟が江戸浦(現在の隅田川)で投網中に一体の仏像を拾い上げ、これを郷司であった土師中知(はじのなかとも)に見せたところ、「聖観世音菩薩」のお像であることを知り、以来この3人で深く帰依したというのが浅草寺、ということなのだそうだ。
長野の善光寺の縁起もやはり仏像を拾うという話から始まっているが、このころの仏教の布教の様子が知れて面白い。
もちろんその後も、鎌倉時代や江戸時代に時の政権が深くこれを認めたという事もあって一大民間信仰の拠点として今日に至っているのだ。
私はどちらかというと神社の方に興味があるので、大伽藍の右側にひっそりとある浅草神社の方にもしっかりとお参りをする。するとここには浅草神社(三社)
地元のホームページを見ると【土師氏の没後、舒明11年(639年)3月18日、その嫡子が観世音の夢告を蒙り、 「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、故に慈悲を万人に施し今日に及びしが、 その感得供養の力は賞すべきなり。即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守すべし。 名付けて三社権現と称し、祀り奉らば、その子孫土地と共に繁栄せしむべし」という 告示があり、ここに三社権現社が創建された】とあり、仏像を拾った事を感心に思い、神社を造れと指示したという、当時の神仏混淆の有様が伺えて実に面白い。
三社さんとは仏像を拾い上げた檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)の兄弟と、さらに土師中知(はじのなかとも)の三人をお祭りしたところから来た名称だという事を始めて知ったし、「明治の神仏分離令によって浅草神社とした」ということなので、それまでは一体だったのだろうな、とこれもまた面白いことだ。
今では掛川と合併した大須賀町には三熊野神社があって、「この略称を三社さんという」と思っていたら「三熊野神社は三社さんとは言いませんよ」と言われて、そうかと思っていたところなので、これでまた一つ私の中の理解が深まったわけだ。これもまたご縁である。
それにしても、なんでもありの民間信仰のスタイルで日本人のおおらかさが伺えるのだけれど、外人さんにこの文化を説明できるかということになると、神仏の違いやら神仏習合の時代やら、仏像とは何か、神社とは何かといった基本的な日本語の知識が必要で、(多くの日本人は、こういう信仰文化をきっと説明出来ないだろうなあ)と思うのである。 日本人の「宗教的おおらかさ」と言ってしまえばそれまでだけれど、「自国の文化」を表現する訓練の不足や、信仰や宗教に対してタブーを感じさせる風潮はなんとかしないといけないと思う。まあ「面白いなあ」と思うことが第一歩なのだけれど、日本の歴史を各時代ごとに輪切りにするのではなく、信仰史や宗教史などの一本筋の通った見方で見てみると、本当に面白いと思うのだ。
原始神道は仏教的思想と融合しながら変化した変遷があるし、一方で仏教の側での日本人に好まれる要素取り入れて、本来のインド仏教からは姿形を変えた日本仏教という姿になっているのだ。死者を弔うときの四十九日なんて、なんと神道的なことかと思うね。お釈迦様はそんな事言ってないんだもの。
いろいろなことがあるけれど、確かに浅草は日本を感じる事のできる格好のスポットである事は間違いがない。皆さん、こぞって行きましょう。 * * * *
浅草寺見物を終えて(さて次に上野にはどう行こうかな)と、あるお店の前で手帳を見ながら地下鉄の接続を調べていたら、掃除機のフィルターをはたいていた店のおじさんと目があって、「大丈夫?分かる?」とにこにこと声を掛けてくれた。
私の出で立ちが、さもお上りさんという風に見えたのだろう。こういう会話が古き良き日本なんだな、と感じさせるところである。日本っていいな。
Yokoso Japan!
【東京見物〜上野編】 その足で今度は上野の美術館、博物館を巡る。何か面白い催しはないものかと思って歩いていると、国立科学博物館では「縄文VS弥生」という企画展示が昨日から始まったばかりということを知って、早速行ってみた。
これまで弥生時代の始まりは土器と一緒に出る鏡のスタイルを中国のそれと比較して紀元前3世紀から紀元3世紀くらいと考えられていたのが、最近の科学の進歩の結果、弥生時代の土器に付着する耳かき一杯ほどのおコゲから炭素14による年代測定ができるようになり、その結果通説よりも500年ほども遡るということが分かってきたのだという。
また高知県には縄文時代の人々と弥生時代の人々が25kmくらいの距離で同時代に生きていたという遺稿が出ていて、文化的な融合が相当の時間を掛けて行われた事も分かってきたのだという。
弥生時代の遺稿から保存状態が良い形で発見されたという木製道具なども展示してあって、当時の人々の生活が次第に明らかになりつつあるようだ。
ところで弥生時代の「弥生」って、始めてこの特徴的な土器が見つかった東京大学農学部の地名だったって知っていましたか?
たまにはこういう知的興奮は良いものだ。やっぱり都会の良さだな。
2005年07月16日(土) |
050716_東京同窓会、これが青春だ |
朝から東京へ出発。今日の夕方から私が卒業した旭川東高校の東京同窓会が東京で行われるのです。
今日は、 ■旭東東京同窓会 の1本です。
【旭東東京同窓会】 朝9時の飛行機で東京へ向かう。今日は東京での高校同窓会があるのである。それも、わざわざ札幌から行くのは、私の卒業した旭東27期が当番で行う同窓会だからである。
昨年の会にも掛川から駆けつけて参加したのだが、昨年は26期が当番期で、直近下位の期は先輩の様子をサブで見せてもらう立場だったのである。
そこでの勉強を通じて、会の資金集めやら式の運営などを学び一年間かけて今日の当日を迎えたのである。
幸いというか、我が期には「趣味は同窓会」と自ら語るビンジと呼ばれる元生徒会長がいて、彼のリーダーシップの元で当時の生徒会メンバーを中心に幹事も集まり活動を続けてきたのである。
早めの資金集めと、五十数名という同期からの多数の参加を迎え、また会場を昨年までの中野サンプラザから新宿の京王プラザホテルに変更するという冒険も加え、我が期の思い入れが爆発した。 おかげで数年前の百周年のときの265人を超えて史上最高(280人程度)の参加者を迎える事が出来、先輩諸氏からは「伝説だね」という声もあったという。もっとも、逆に後輩からは「プレッシャーを感じています」という声もあり、少々がんばりすぎたのかも知れないが、どこか青春を思い出しながら2時間の企画を盛り上げたのだ。
秀逸だったのは、最後に全員でフォークダンス「マイムマイム」を踊った事。これぞ我が青春の嬉し懐かしパフォーマンスだったはず。好きな女子や男子と近づく胸ときめかすひとときだったはず。
正しいステップや手の動きなどは周りを見れば思い出すし、なにより体が覚えている。最後は体力がついて行かなくて、繰り返しを予定より早めに切り上げるという裏方の苦労もあったけれど、先輩の皆さんからも熱心に踊ってくださって、幹事冥利に尽きる事だったろう。
* * * *
物販コーナーでは今故郷旭川最大のウリである旭山動物園関連の書籍が用意され人気。さらには同期で画家として活躍中のサカイトシノリ君が即興で校歌の一節をイメージした水彩イラストを描きまくり売りまくるというパフォーマンスが大人気。
サカイ君は今回当番期全員着用の揃いのトレーナーのデザインも担当してくれて、美術周りは一手に引き受けてくれたのである。
こんなすごい奴が身近にいて、そいつが目の前でまっさらの色紙にさらさらと筆を走らせて世界にたった一点のオリジナルイラスト一丁上がり。これをスペシャル価格の一枚千円とは、本人も「今までやった事ないし、もう二度としないんじゃないかな」と苦笑いだし、後ろで描きたてのイラストをドライヤーで乾かしているのが旭川でも有名な会計事務所の経営者だし、それを笑ってみている北大最年少の医学部教授がいて、これがみんな同期だというのだからなんと面白い事だろう。
音響にも映像にもその手のプロが力を合わせ、そんな力の無い者はテーブルの間を先輩のおもてなしに走り回る。全員が一人一人何をすべきか考えながら、気持ちが一つになった2時間だった。 司会を担当したH君は「司会の席から会場を見ていて、トレーナー着たみんなが走り回っているのを見て感動した!」と興奮気味。
我らが高校の校訓は「シマレガンバレ」。この旗の下で25年ぶりの学園祭のの様な感じだったのかもしれない。中にはもう二度と会えない友もいることだろうけれど、きっと人生なんてそんなもの。会えるときには会えるし、会えないときには会えないものだ。
そして巡り会ったときにお互いにがんばっている自分でいたいものだ、と思う。そんな事を考えると、同窓会は互いが互いの期待を受けていることを思い出させてくれる良い機会なんだな、きっと。
幹事長のビンジ、そして幹事の皆さん、参加してくださった先輩後輩の皆さん、そして同期のみんな、楽しいひとときをありがとう。
これが青春だ!
2005年07月15日(金) |
050715_花火大会の夜 |
今日も北海道らしい爽やかな一日。絶好の花火日和です。
さて今日は、 ■道新花火大会 の1本です。
【道新花火大会】 夜に家族と待ち合わせて豊平川河畔で道新花火大会を見物。「高いビルから見えるのがよい」という人もいますが、私はやはり花火の破裂音が腹にドンと来るくらいの距離で見たい主義。
夜七時過ぎに地下鉄駅を降り立つともう黒山の人だかりが、土手の方へ向かって移動中。家族と無事合流を果たしてこちらも花火会場へと向かいます。
最近の若い人たちは浴衣姿が多く風情を感じます。花火大会だけでなく、日常でも着流せばよいのに。
さて、明日は東京で我が卒業期が幹事を行う東京同窓会です。このために東京在住の同級生たちが一年間幹事をつとめあげ、企画をつくり多くのOBに声を掛けてきました。
自分を振り返ってみると、高校時代はどこかニヒル(古い!)な感覚に溢れていて、あまり友人もいなかったような気がして、今になってなんとも寂しいというか残念な思いをしています。
袖すりあいそうになりながら、縁がなかった多くの昔の同期生たちとも最近会い始め、縁の深さを感じます。この年になってやはり友人ネットワークの中にいる事のすばらしさを改めて感じるのです。
* * * *
先輩を大事にするという事は後輩から大事にされる事を意味するのです。後輩を大事にするという事は先輩から大事にされる事を意味します。
我々の人生は先祖、親、自分、子、子孫という時間と世代の流れの中に漂う一個の鎖にしかすぎません。
少子化が進むのは「子育てにはお金や時間がかかり、苦労が多い」からという話を聞きます。それでは昔の子育ては簡単だったのでしょうか?お金や時間もかからず、苦労も少なかったのでしょうか?
そうではなかったかも知れないけれど、もっと祖父母や地域も含めた子育てを見守る目が多かったようには思います。
結局何かを育てるのにはそれだけの手間がかかるのであって、かけてもらえる手間が減ったという事はあるかも知れません。
子育てに絞って、その子育ての手間を社会化して保育所などを充実させることで解決するという事はよく言われますが、対症療法を行うと同時に、やはり地域社会のネットワークを強化するという漢方的なゆっくりした健全社会の実現を目指さなくてはならないと思います。
お隣さんに声をかける、お裾分けをする、そういうソフトな関係が大事なはずです。それをもう少しルール化したり強く働きかける事は個人主義の中では、不可能なのでしょうか。
地域の「あたりまえ」が崩壊しつつある今、「『仕方がない』と考えるあたりまえ」も崩さなくてはならないのではないでしょうか。
その萌芽は我々の世代が担っているような気がします。声を出せる世代、出さなくてはならない世代の登場が待たれます。
よーし、明日の同窓会は盛り上がるぞ!
2005年07月14日(木) |
050714_団塊世代は地方を救うのか |
今日も北海道らしい爽やかな一日。今週は連日飲み会が続くので体力が持つかどうか。
さて今日は、 ■団塊世代は地方を救うか の1本です。
【団塊世代は地方を救うか】 お昼に教育大学旭川分校のK先生が私を訪ねてきてくださった。
K先生とは私が4月に北海道へ戻ってきてから携わった土木学会の仕事でのおつきあいなのだが、実はまだお会いした事はなく、お互いに初対面。
しかし実際にお会いして話を伺うと実に熱心に教育とまちづくりについて造詣が深い事がすぐに分かった。特に現在は生涯学習教育に関わる仕事をされていて、一般に文科省の方が生涯学習を語るとすぐに習い事や本を読むということに特化されがちなのだが、K先生はご自身が土木出身という事もあって、まちづくりの理念としての生涯学習についてしっかりとした持論をお持ちで、それがまた掛川のいや榛村前市長の考えている事と一致していて、嬉しくなってくるのである。
生涯学習で自分の町を知り、郷土に興味を持ち故郷を愛するという課程の延長に始めて意識の高いまちづくりを我と我が事と思う市民が育つことにつながるのである。
現在教育大学は大幅に領域の再編を行っており、今後生涯学習教育部門がどこへ行くかも実は分からないのだと言うが、まちづくりに出て行く精神を持ち続けて意識の高い学生や教師の皆さんを育てて欲しいものだ。
私でできる事があれば協力は惜しみませんよ。
* * * *
夜は連日の飲み会ですが、今日は地方の町の著名なまちづくり家と一緒のお酒で、大いに楽しみな会に参加しました。
夜のお相手は、地方の小さな町作りを熱心に行っているAさん。Aさんに、「これからは団塊の世代が増えてきますけれど、こういう人たちを受け入れる事で活力ある地域作りができるでしょうか」と尋ねてみた。
すると「私はあまり希望を持っていません」と言う。 「それはなぜですか?」と訊くと 「私も東京などへ行くたびに、我が町出身の縁ある人たちを訪ねてどう考えているかを訊いてみる事があるのですが、その反応はひどいものですよ」
「ほう、それはどういうことですか」 「東京にいる人たちの全部とは言いませんが、多くの人から出る発言は『あなたの町だったら公営住宅もがらがらだろうから、二軒くらい取っておいてよ。私たちが行って住んであげるから』というものです。彼らには故郷を愛する気持ちよりも、施しをするような感覚ですよ」
「そういう人たちだったら来ない方が良いですか?」 「もちろんですよ。そういう思いで地方に来られたのでは地域社会をおかしくしてしまうと思いますよ。ただ団塊の世代を迎え入れて人口が増えれば地域が発展するなどと言う短絡的な発想は間違いです。もちろん良い人なら受け入れたいと思いますけど、多くはそういう人ではないという印象ですね」
団塊の世代とひとくくりにするのはこれもまたある種の間違いを含んでいるのかも知れないが、これからの消費の一大ターゲットでありながら、その精神がどこかバブル時代の思いを引きずっているのだとしたら、大いに考えなくてはならないところだろう。
経済的に恵まれて消費力があり、健康と時間にも恵まれた世代としての団塊の世代には経済を活性化する期待が大いに高まっているところである。
しかし一段高いところにいるという優位な存在を誇示するのではなく、いよいよ自分たちの力を慎ましく社会に貢献するという立場で行動をしてくれなくては逆に世代間の格差を見せつける結果にもなってしまうのでは無かろうか。
もちろん団塊の世代だけではなく、一人一人が社会から貪る性向を改めて、社会になにがしかのものを差し出す機運が育つ事を望むものである。
そのマインドの転換こそを社会が目指さなくては人心は安定しないだろう。
分をわきまえた、足を知ることが必要だ。
2005年07月13日(水) |
050713_小樽の夜を楽しむ |
今日も北海道らしい爽やかな一日。今日は小樽で打ち合わせです。
さて今日は、 ■小樽の夜を楽しむ の1本です。
【小樽の夜を楽しむ】 今日の午後は小樽で打ち合わせ。開発局では観光交流空間モデル事業というのを実施していたのだが、この進み方について後志支庁、小樽市、小樽開発建設部を交えて打ち合わせをしたのである。
国土交通省が進めるこの観光支援事業は、現在「観光地域作り実践プラン」と名を変えて、モデル事業段階から進化して地域の観光施策を公共事業で支援する政策に姿を変えているのだが、過去に進めた事業についてのフォローアップも当然必要で、その現状を伺いに来たのである。
打ち合わせが終わって、席を変えて懇親会に移ろうとするときに東京の知人から電話が来て「今はどこですか?」と言う。「今は小樽です。これから町へ繰り出してお酒でも飲もうと思っています。今の気温は20℃で涼しいですよ」と言うと、相手は電話口でたいそう悔しがって「あー、いいですねえ。小樽ですかあ、羨ましいなあ」と叫んでいる。
そうなのだ。東京の人が今時暑い都会でふうふう言いながら仕事をしているのに比べると、小樽という歴史情緒溢れる町で涼しい思いをしながら酒を飲んでいるなどと言うのは羨ましくて仕方がないはずなのだ。
地域に暮らしてしまうと、外の人が感じるうらやましさが分からなくなってしまって、アラばかり目立ち無い物ねだりをしては、不遇をかこつことになってしまいがちなのである。
もっと都会のうらやましさを誇るマインドをもつことで自分たちの故郷を愛し、もっと外の人間をうらやましがらせる町にすればよいのだ。
まちづくりには三種類の人間が必要で、それはよそ者、若者、馬鹿者であると言われる。しかしこの三種類の人間が持つ視点、馬力のようなものを持っていればよいのであって、つまり「外の視点、日常に埋没しない新鮮な感覚、物事を推し進める馬力」という三つの力があればよいのだ。
昨日までの自分を変えるならば、こういう視点で考えるのがよい。
* * * *
夜は小樽在住の観光カリスマ小川原格さんのお店「藪半」で楽しいひとときを過ごす。
観光カリスマは北海道には7人いるのだが、小川原さんはその一人。かつて小樽運河保存運動を熱心に行って、現在の運河を生かした観光地づくりに果たした貢献が認められたのである。
お会いするのは5年ぶりくらいだが、話をしているうちに思い出してくださったようだ。相変わらずのべらんめえ調でぽんぽんと辛辣な発言が出るが、まあ楽しい方だ。
話がやおら、そば粉の話になりこちらも思わず耳をそばだててしまう。
「去年札幌の山加製粉がそば粉の不当表示で処分を受けた事があったんですよ」「はいはい、私もネットで拝見しました」
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2005-17,GGLD:ja&q=%E5%B1%B1%E5%8A%A0%E8%A3%BD%E7%B2%89
「あれもね、現実をあまりにも知らない処分だと思いましたよ」 「どういうことですか?」
「今の国内産のそば粉は北早生という種類がほとんどで、これは実が落ちないし、倒れづらいというので非常に増えているのですが、心ある蕎麦屋はその前の『ボタン種』というそば粉の方が味が良いというのでこちらの方を好むのです」 「はい」
「ところが蕎麦は虫媒花で虫が花粉をつけるときに、ボタン種と北早生を一緒に植えているとボタン種に北早生の花粉がつくと北早生の実になってしまうというので、山加製粉ではボタン種の種をアメリカへ持って行って、そこで純粋のボタン種を作り、それを北海道へ持ってきて北早生とブレンドして美味しい粉として提供してくれていたんですよ」 「へえ、そうだったんですか」
「それを『道内産粉』と表示してしまったので、一見すれば不当表示のように見えて、それを一部マスコミがトレーサビリティの延長で批判したんですな」 「そうとは知りませんでした。てっきり儲けるための商売のように印象を受けましたよ」
「あのときは日本中の蕎麦屋から激励の手紙が山加製粉に行ったし、蕎麦屋が買い支えもしたんですよ。山加を潰すな、ってね」
狂牛病に端を発したトレーサビリティの話題も今はどうなった事やら。
原産地を表示でありがたがってよしとしてしまい、本当に美味いかどうかが実は分からないという消費者の眼力にも問題がありそうだが、本当に美味いものを提供しようという志に光が当たれば良かったのにとも思う。
正直とは何で事実はどこにあるのかを掘り下げてみないと、真実にはなかなかたどり着かないものだ。
藪半の蕎麦を大盛りでいただいて蕎麦が打ちたくなった。
北海道の蕎麦は美味いわ。
2005年07月12日(火) |
050712_対話力を考える |
雨は上がって爽やかな一日。気温はここのところ低めで推移しています。梅雨前線が過ぎればきっと暑くなる事でしょう。
さて今日は、 ■是か非か程度か の1本です。
【是か非か程度か】 駅の北口の広範なエリアが7月1日から自転車路上駐輪全面禁止となり、歩道の上もだいぶすっきりしてきた。
駐輪禁止となった1日には、市役所の道路管理課を中心に撤去作業を行ってテレビなども注目して映像を流していたが、のど元を過ぎればもうニュース性はなく今ではもうテレビに出る事もない。
自転車に乗る側の方は一時はちりぢりに逃げていたのだが、一台が路上に停めてそれが撤去されないと分かるやすぐに十数台が「みんなで停めれば怖くない」的に連なって歩道の上を占拠している。
それでも6月までの無法状態から比べると遙かにマシで、停める側も以前のような傍若無人の振る舞いからどこかに申し訳なさそうな雰囲気が感じられる。
結局、それらは法律や条令で「良いか悪いか」を決めるような事柄ではなくて、「少しなら良いが度を超すと問題だ」という「程度の問題」であることがよく分かる。 問題なのは、この「程度の問題」に対する許容の範囲が人それぞれであるところで、それも価値観がばらばらになると、ある人は「これはとんでもないことだ、許せない」と言うかも知れないし、別な人は「それくらいは良いのじゃないか」と思っているのである。
昔ならば、大人らしい人が「ダメなものはダメだ!」と一括すればそれが良いとダメの境になったのかも知れないが、今日日、だれも「おれがアンパイアだ!」と言い張る人がいるはずもなく、ある人は気にもせず、またある人は顔をしかめながら無秩序の町を歩いている。
もちろん、大人としての自己責任の範囲で行えばよいものも多く、個人の自己責任で行う行動を認める「あそび」の部分がなくては社会全体がどんどん息苦しいものになって行くということに、良識ある人々は気付かなくてはならない。
日本の場合は、この程度の問題が現場の判断に降りていないか、現場が主体的に判断をしないために、物事を決めるかなり上流で細かな事までが決められていすぎるのである。
アメリカ映画などを見ていると、よく警察官が登場するが、犯人とおぼしきものと対峙するときは「自分こそがここでは正義なのだ」という最前線の現場での判断権限を持たされていると思われるシーンに良く出くわす。 これこそが現場の感覚であり、同時に一度悪意に用いられると収拾がつかなくなるところでもある。
物事には時の常識に判断の基準をゆだねておく方が運用がうまくいく事が多いのだが、法律などで違反行為を明確に定めてしまうと、法律では時の流れを的確に内容に反映出来ずにおかしな決めごとが跳梁跋扈するということも多いのだ。
しかし世の中の多くの人たちは、その場その場でお互いの価値観に照らして議論をして結果を出す、などというあほらしいことはせずに、「良いのか悪いのか決めて欲しい」という行動に出がちなのである。
そしてその結果、法律は常に少しずつ厳しめに設定されて、私も含む小市民はそれを申し訳なさそうに破りながら日常生活を営み、取り締まる側はいつでも取り締まれる権限を持ちつつ、日常が破られない限りは見逃すという力関係になったところで社会が安定するという仕掛けになっている。
我々に必要なのは、周りが安定する考え方へ意見を集約してコンセンサスを得るという対話力なのだ。そして、対話で物事を解決しようと思えば、まず周囲の人間に話しかけることができなくてはならない。
次に、相手の警戒心を解いて理を尽くして主張をして相手の理解を得るという作業が必要となり、当然そのための能力も必要となる。
すれ違う人たちはもちろん、朝職場の警備員さんが「おはようございます!」と言うのにも無言で過ぎる人たちを見ていると、もう今の日本人にはそんな力は残っていないようにも思えて残念な限りである。
* * * *
知人から教えてもらったのだが、「おはよう」というのは仏教の修行なのだそうだ。目上の者が目下の者に対して「おはよう」と声を掛け、それに対する反応の仕方で相手の修行がどれくらいまで来ているかを推し量るのだそうだ。
「おはようございます」と声を掛けて、返事が返ってこないというのは修行の緒にもついていないという事なのかもしれないね。うーん。
2005年07月11日(月) |
050711_かわいい子には旅をさせよ |
午前中の雨が午後には上がったものの気温は低い日が続きます。
さて今日は、 ■京都とアジア最貧国 ■掛川つながり の2本です。
【京都とアジア最貧国】 大学の先生を交えて懇親会で一杯飲んだ。大学のA先生は京都大学にお勤めで、いろいろと京都事情を教えてくださる。
「京都の御茶屋さんって『一見の客は入れない』っていうでしょ。でもね、『京都大学の教授ですが』って言うと『ようございます』って言ってくれるんですよ」とのこと。 「もっともまけてくれるという事はありませんがね」とも。京都では一流のお店は入れてもらえるだけでありがたいと思わないといけないのかも。
「でもね、何代も京都大学の先生をしているっていう家系の人もいて、そういう人たちは何というか、立ち居振る舞いというか店の女主人との会話の仕方も違うんですよ。やっぱり御茶屋で遊ぶというのにも伝統が必要なんですなあ」
一方、アジアの最貧国の一つに勤務経験のある友人の方は、「アジアもアフリカも貧しいけれど、アフリカの人たちが亡くなるのは食べ物がない飢餓で死ぬんです。でもアジアは米も穫れるし果物も豊富です。それで死ぬのは洪水のあとの汚い水を飲んで、下痢で死ぬんです。あのあたりには下痢を研究する国連の機関もあるくらいですよ」とのこと。
「そういうところは日本人が行くと、大抵は下痢で悩むんでしょうね」 「案外人によるところがあって、平気な人は平気なものですが、私はダメでしたね。心配になって医者にかかると『コレラかな〜、チフスかな〜』って脅かされるんですよ」
「大丈夫だったんですか?」 「日本人は大抵普段からの栄養状態が良いから、コレラでも死ぬ事はほとんど無いのだそうです。でも脱水症状は危険なのでトイレに行ったらその分、イオン飲料や砂糖と塩を混ぜた水を飲め、と言われましたよ」
「それで慣れるものですか?」 「現地の菌に慣れると今度は日本に帰ってきたときに東京の水で下したりもしちゃうんですよ。なかには『大腸菌が入れ替わるのが分かるんだ』という人もいて、大腸菌が戦って入れ替わるときがひどい事になるらしいですよ」
本当かなあ?それにしてもいろいろな経験を若いうちにした方が勝ちなんだな、やっぱり。「かわいい子には旅をさせ」とも言うし、いろいろな土地、いろいろな立場を経験する事で成長するという事だろう。
【掛川つながり】 丸瀬布町役場に勤める中学校の友人が訪ねてきた。31年ぶりの再会であるが、見た瞬間にお互いに思い出すものだ。
丸瀬布町は現在人口が2,030人とのことで、十月には遠軽町、生田原町、白滝村と合併して人口2万4千人、面積1,332平方キロメートルの新しい遠軽町になるのだそうだ。
林業の町丸瀬布からは、私の第二のふるさと掛川へピアノの材料が運ばれているという。こんなところで縁が繋がるとはね。
* * * *
「今度伊藤隆道さんという芸術家をご紹介したいのですが」というメールをちょうだいしたので、「よろしくお願いします」と返事をした。
「彼のホームページをご覧ください」となっていたので、見てみると登場したのは掛川の資生堂美術館に飾られている「五月のリング」という作品ではないか!
今日はやたらと、掛川を思い出させてくれる日となった。
2005年07月10日(日) |
050710_おやじの会の歓迎会 |
今日は加入している「おやじの会」の焼き肉大会。予報では昼前から雨との事。大丈夫かなあ。
さて今日は、 ■おやじの会の新入会員歓迎会 の1本です。
【おやじの会の新入会員歓迎会】 今日は私が現在副会長を務めている「琴似中学校平成おやじの会」の新入会員歓迎焼き肉大会である。
このおやじの会は平成11年11月に家庭・地域・学校の教育力向上を願い、父親たちの意識高揚を図ることを目的として誕生してから活動を続けており、今年で足かけ7年目に入ろうとしている。
学校にはPTAがあって、学校と生徒の親との関わりは一応そこで担保されてはいるものの、実際のPTAは母親に任せる事が多くなってしまい、父親が所定の枠組みの中で学校と関わりを持つ事は難しい。
その一方で、子供たちや学校と父親の関わりが少なくなる事は問題で、もっと父親が教育に関わるべきだ、という声はますます大きくなりつつある。またPTAだと、親も子供が学校を卒業すると同時に学校との関わりを失ってしまい、親同士の付き合いも一過性のものに終わりがちである。
さらに、幼稚園や小学校でのおやじの会は父親の年齢も若い事もあって活動している会も数多く聞くのだが、こと中学校ともなると父親も人生で一番忙しい時期になるし、子供も思春期で難しい年頃となり次第に親から離れたがる時期とも重なって、父親としては存在感の薄くなる時期でもある。
この会の特徴は、ひとつには中学校を媒介にしてできあがっている父親の会である事と、二つ目には子供が学校を卒業した後もOB会員として会に残る事ができる事である。
私は現在その会の副会長の一人として役を仰せつかっていて、今日はその会の新入会員との懇親会のための野外焼き肉パーティなのである。
おとといまでの天気予報では「日曜日は晴れのち曇り」だったはずなのが、昨日からまさに雲行きが怪しくなって札幌は「曇りのち昼前から雨」という予報。
もう肉も道具も注文してしまったので、あとは実行するだけで、天気の成り行きを祈るばかりである。
* * * *
会場は例年の通り中学校学区の近くの琴似発寒川のほとりである。今年は焼き肉道具や炭、ジンギスカン、野菜などを用意してくれる業者さんがいるというので試みにそこに頼んでみた。
今回の参加者は26名と少し寂しいものとなったが、参加者はみなイスやテーブル、自分の飲み物を持参で三々五々現地集合。
ガムテープに自分の名前を書いて服に貼るのはいつもの習わし。こうしないとお互いに名前が分からないのだ。
業者さんには三台の炭焼きグリルとジンギスカン、それに野菜を注文。あとは焼きそばと焼き鳥を買ってきて、自分たちで焼いて楽しむのだ。
おやじの中のハウス食品の方には塩・コショー、海苔の大森園の方には青のりの試供品の提供を受ける。父親の仕事も多様なのが良いね。
業者さんが道具を持ってきてくれたのが10時半で、雨を気にしながらジンギスカンと焼き鳥、焼きそばに舌鼓を打つ。
当初は11時半くらいから始めるつもりであったが、雨の心配もあって到着すぐに火起こしで素早く料理開始。三台のグリルにあっという間に火が着いた。こういうときのおやじは頼りになる。
実際は年に数回しか会わない人も多いのだが、普段からメーリングリストで情報交換をしていると、こうしたときにみんなすぐに仲良く話ができるのが良い。
食材が一通り無くなって、お腹もいっぱいになったところで記念写真を撮って歓迎会の終了。
琴似中学校には家庭数が約800あるのだが、現役で参加してくれている父親は二十数名にとどまっている。それにOBおやじが参加しての約40名という会員規模というのは、やはり少し少ないなあという印象である。
全く普段の仕事の延長では付き合う事もない父親同士が仲良く話ができて、何事かを一緒にするということはすばらしい地域力だ。
家の近くを歩いていて、知り合いとすれ違って「やあ、こんにちは」と挨拶ができる社会というのはなんとすばらしいところだろう。私たちはそういう社会の良さをただ貪るように享受するだけでなく、そう言う社会を自らの参加で守り維持し、次の世代に繋いでいくのが「カッコイイ」と思うのだが、どうかな。
800家庭もあるのだったら、せめて現役で80人くらいの父親が揃うと、もっと地域のネットワーク力が出てくると思うよ。
そしてこういう中に、公務員が私一人しかいないというのはいかにも残念だ。仲間も地域には多いはずなのだが皆何に忙しいのだろうかねえ。
さてさて、そんな歓迎会。雨をしのいで昼過ぎに終わり、家でシャワーを浴びていたら午後一時過ぎに強く降ってきた。
我が会には前会長のSさんというすばらしい晴れ男がいるので、心強い限りである。
さて、秋になると今度は父親と体育会系クラブとの対抗スポーツ大会がある。父親の力を見せつけるのと、子供の成長を見せつけられる力の対決。
これが案外やめられない。お父さん、もっと社会に参加しましょうよ。
2005年07月09日(土) |
050709_草むしりで考える |
今日も好天に恵まれて涼しい一日。ドライブも楽しいですぞ。
さて今日は、 ■専門用語について考える の1本です。
【専門用語について考える】 家を建てるのと同時に掛川へ行ってしまった私には、4月からこの家との生活がやっと始まったのである。
家の外を見ていて、犬走りの砂利とその外側の土の部分が緑色にふわっとしているのに気がついていたが、近寄ってよく見るとそれはスギナの群落。要は雑草である。
「つくし誰の子すぎなの子…」という童謡があったような気がしたのだが、インターネットの検索でも題名が分からなかった。ちょっと残念。
スギナは雑草の中でも質の悪い代表格で、上部の栄養茎を取り去っても地下茎で生きながらえて、翌年になるとまた姿を現しなかなか除去出来ないのだ。
これでは自分の家だけでなくお隣の手入れの行き届いた庭にも迷惑になると思い、草むしりを実行。我が家で初めての敷地のお手入れである。
いざスギナだけでも取ろうと思ったが、砂利の中からは他の雑草も生えていてなかなか容易ならざる戦いになってしまった。
雑草を取り始めると、一番多いのはスギナだが他にもアカザやオオバコ、タデの仲間、マツヨイグサなども結構ある。
この土地を譲っていただいたときに、前の所有者は家の周りに結構花をたくさん植えていて、多くは家の工事の際になくなってしまったが、隣地との境界付近にはそのときの名残の花々が残っている。 雑草と、あってもよい植物を見分けるのはこうしてみると結構大変で、植えた人ならば分かるのだろうが、後から見てみるとスギナの大群に覆われてハーブが出てきたりして、取らずに置くべきかの判断に迷うものもある。
昭和天皇のお言葉に「雑草という植物はありません」というのがあって、確かに雑草という名前の植物はないが、そこに生えて欲しくはない植物が生えていればそれはすなわち『雑草』というわけで、目的植物以外の植物が雑草なのである。
一応農学部で植物を勉強した私としてはある程度の事は分かるものの、狭い敷地での植物の分類となるとなかなか手に負えないものだ。
そこで考えたのは、「植物を勉強した」と言っていながら、自分は一体いくつくらい植物を見分けられるのだろうか、ということ。
自分の専門の事柄を知っているという事は、専門用語を知っているという事である。私の植物の専門用語辞典と言えば植物事典であるはずだが、考えてみると牧野富太郎さんの「牧野日本植物図鑑」も持っていないしなあ。やっぱり不真面目な植物の生徒である。
牧野富太郎博士ほどにならなくても、専門分野と呼べるものを持っている人はどれくらいの数の専門用語を知っているのだろうか。医者だったら病気とその症状をどれくらいの数、知っているのだろうか。
薬剤師だったらどれくらいの数の薬を知っているのだろう。
役人という人は一体どれくらいの数の専門用語を知っていて、それらを駆使した仕事をしているのだろう。
「単語を知っている」ということは全ての分野の基礎である。
前掲の牧野富太郎博士の実績を今に伝える、高知県立牧野植物園のホームページには、牧野博士の勉強の精神が「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」として伝えられている。
学ぶという事、それも権威に寄らずに学ぶということは大変な事だ。
草むしりも結構哲学的なものだ。
2005年07月08日(金) |
050708_ロンドンのテロ事件を憂う |
今日は昨日までのうっとうしい天気とはうってかわっての晴天。しかも気温はそれほど上がらずに涼しい風が。
北海道の一番好きな季節です。
さて今日は、 ■七月七日という日は の1本です。
【七月七日という日は】 ロンドンで同時多発テロが発生。死者が50人を超えたという報道もなされて、再び世情は騒然としている。なんとも言うべき言葉が見つからない。なくなられた方のご冥福を祈ると共に、負傷者の回復を祈るばかりである。
こういうときに良くありがちなのが、テロを防げなかった警察や当局を批判したり政権を批判する態度であるが、それこそがテロリストたちが思うつぼなのだ。こういうときだからこそ、真の敵はテロリストなのであって、それだけが絶対悪であるという事実を肝に銘じて、我々は反テロリストで団結をしなくてはならないのだ。
テロリスト以外に批判の目を向けさせようとする論調は、人々のショックと悲しみに乗じながら敵を利していると言う事に気づかなくてはなるまい。
世界中がこのことに関しては結託して、テロという非道を許さないという姿勢を示して欲しいものである。
* * * *
愛用の自転車のタイヤのエアが少なくなってしまったのだが、家にある空気入れでは空気が入らない。
困った末に変速器のパーツを注文している通い慣れた自転車屋さんに持って行くと、顔を見る前に自転車を見て「パーツは来週入荷でーす!」と言ってくれる。
よほどメルクスが印象的なんだな。「それはそれとして、タイヤに空気が入らないのですが」と言うと「このタイヤは高圧のタイヤなので、普通の空気入れではだめで、高圧用の空気入れじゃないと入らないんですよ。まあ持ってきてください、機械で入れますから」と言われる。
「2週間に一度は空気を入れた方が良いですよ」と言われてびっくり。そんなに頻繁に入れないといけないらしい。これは専用の空気入れを買わなくちゃダメかなあ。
タイヤを元気でいっぱいにすると、漕ぐペダルも軽くなった。
今日は一日霧雨です。どうやら明日からは晴れるようで、週末の催しも大丈夫のようです。
さて今日は、 ■七月七日という日は の1本です。
【七月七日という日は】 今日は七月七日。一般的には七夕(たなばた)といって織り姫星と牽牛星が一年に一度出会う日、とされている。
まあこれは中国の伝説であって、実際に星同士が近づいたりする事がないのは言うまでもない。
織り姫星は星座では琴座にある一等星で英名はベガと言い、見かけの明るさは0.03等ということになっている。一方の牽牛星はわし座のアルタイルというやはり一等星で、見かけの明るさは0.93等ということで、夜空を見上げていると、織り姫星の方が力強く明るく見える。 女性の方が力強いのはこういうところにも現れているようだ。
日本では今日の七月七日は五節句の一つとされている。五節句というのは案外日本人でも知らない人が多いけれど、人日・上巳・端午・七夕・重陽の五つの日である。
人日は1月7日、上巳は3月3日、端午は5月5日、七夕は7月7日、重陽は9月9日のことで、江戸幕府の初期の頃にこの日には上長の家に祝賀に行くべきものと定められたのだそうだ。
節句は「句」という字を当てる事が多いが、もともとは「節供」と書くのが正しい、と柳田国男さんの「年中行事覚書」には書かれている。「供」と書くからにはお供えをするという気持ちだったのであって、この日は目上の人の家に行き同じものを皆で分かち合って食する事でお互いの関係性を高めるという古い信仰があったのだろうと言われる。
お互いが同じものを分かち合って飲んだり食べたりしなくては気持ちが一つにならないというのは、誰から教えられたわけでもないけれど、サラリーマンが徳利で酒を差しつ差されつすることでコミュニケーションが高まる事をどこか期待するという心根として今でも残っている様な気がする。
民俗学的に言うと節供は、これらのような一つところに集まって同じものを食べるという行動を年中行事として定め、ある意味では習わしとして強制するようなものだったらしい。
一説によると、幕府が各藩の様子を調べたときに人日と七夕だけは地方ごとに風習がバラバラであまりにも統一が取れなかったので、逆にこの日に決めてしまったという話も伝わっているようである。
節供は「めでたい」もので、なぜ「めでたい」かと言うと、もともと「めでたい」というのは、「好ましい、人々が一同に集まってイワイ(この場合は神を祀る厳粛な気持ち)をしている状態を互いに言い表す言葉だったから」である。
「おれにはめでたくない」という主観的なものではなく、そう言う状態をめでたいといったのだから、正月や節供はやはりめでたかったということのようである。
* * * *
自分の属する組織の祝い事や行事に参加をしないと言う事は、このようなめでたさを共有出来ないという事を意味していて、やはり協調性という価値観をどこかで共有できていることが組織としての強さなのだろうと思う。
周辺の人たちの協力がなくては何もできなかった昔だからこその価値観でもあるのだろうが、今は欲しい協力をお金で買えるような経済が肩代わりをする時代になってしまった。
しかしそれで自分のまかなえるお金でそういう協力サービスが変える時代はまだ良かったが、これがまかなえない人が増えてきたために行政として「社会化」してしまい、行政サービスに組み込んできてしまった。
介護、子育てなども、自分でもできずお金でも買いきれない高いサービスとなってしまったが、そのツケが結局は国と地方をあげての借金なのであって、自分でできる事を自分でやり、地域ができる事は地域が助け合って行うという共助の精神も今ではすっかり廃れてしまった。
そういう社会にあっては、協力をしなくては協力をしてもらえない関係であったので、地域の中での関係性が極めて重要だったのだ。
今ではそれらをお金がそれらを媒介しているが、金ではあがないきれない社会になっているという社会の風向きの変化を感じなくてはいけないんだろうな。
人に嫌われて平気でいられない自分というのは、とにかく強い生き方をしていないのか、社会ネットワークを信じているのかのどちらかなのではないかと思っている。 社会の力が信じられますか?
2005年07月06日(水) |
05706_部分最適と全体最適 |
今日も一日雨。それに加えて気温が低い。今日の最高気温は20℃くらいでしょうか。とにかく最近は寒暖や乾湿の差が激しすぎますね。 さて今日は、 ■部分最適と全体最適 の1本です。
【部分最適と全体最適】 さて、昨日行われた雪氷輸送物流システム検討調査委員会であるが、全面公開という事もあって、多くの記者さんが興味を示して基本的には好意的に書いてくださった記事が多かった。ありがとうございました。
今日も今朝の朝刊には載せきれなかったマスコミの記者の何人かから問い合わせがあった。道新さんは今日の夕刊に載せてくださったし、明日の朝刊でも書いてくれそうなところがあるようだ。
世間の注目に答える結果目指して、総力を挙げてがんばりたいものだ。
さて、今回のこの調査は三つの部会に分かれて具体的な検討を進める事にしている。三つの部会とは氷をつくる産地部会、氷を運ぶ輸送部会、氷を使う利用部会の三つである。
それらにはそれぞれ大学の先生を部会長としてお願いをしており、とにかく安価でこのシステムがまとまるように検討をお願いしている。しかし一つ気をつけなくてはならない事がある。それが「部分最適と全体最適」の問題である。
今回調査の目的はあくまでも全体として氷を作り、運び、利用するのに一番安価で確実な方法を探り当てる事なのだが、氷だけがただただとにかく安くできあがっても(部分最適)、その氷では運ぶのにコストが高くなったりして、利用まで含めたトータルで高上がりにつくような事があってはならないのである。
だから三つの部会での検討を踏まえて、常にその情報と検討結果は全体での調整会議に諮り、全体としての最適化が図られているかどうかをチェックしなくてはならないのである。
以前6月27日版のなかでご紹介した「合成の誤謬」も似たような事だろう。ともすると自分の目の前のことだけを完璧に行えば、仕事は達成したかのように錯覚する事が多いが、一段高いところにいる誰かが全体を見極めていなくては高度なシステムが最高のパフォーマンスを発揮する事はできないのである。
* * * * かつてアメリカの自動車産業などは個別のパーツづくりを効率化最速化すれば早く自動車ができると考えていたが、それではどうしても日本にかなわない事にやがて気がついたという。
日本の場合は各パートがそれぞれの前後に対してより効率化するための情報を提供、共有するというマインドがあって、それがトータルとしての生産性を向上させていたというのである。
トヨタ自動車の「カイゼン運動」などはそれをシステム化したものだが、面白いのはカイゼンのアイディアは理論をつきつめてできあがったものではなくて、どうやら「やってみて良かった」といった具合に創発的に達成されたものが多かったのだという。
だから社会システムの変革も、あまり予見的、確信的、絶対善的に行われるのではなく、一定期間の社会実験的なトライアルを繰り返して始めて明らかになるという手続きを経た方が社会もそれを納得しやすいように思われる。
郵政民営化法案は衆議院を通過したのであるが、特区的に民営化して安くなったり効率化されたり、あるいは不便になるのかということを事前にやってみるとスムースな移行や反省による改善もあるのかもしれないのに、と思うのである。
役人が法律を作るのでも、「絶対に間違いがない」という確信を持たなくては自分たちも耐えられないものだが、もう少し社会の変革は緩やかで良いという風潮が欲しいような気もする。
世の中成果を求めるサイクルが早すぎる。そういうところはスローライフで良いのではないかと思うのですがねえ。
2005年07月05日(火) |
050705_雪氷輸送物流システム第一回委員会 |
晴れが続きすぎると雨が欲しくなりますねえ、などと軽口をたたいたとたんに雨。やっぱり晴れがいいです さて今日は、 ■雪氷輸送物流システム調査検討委員会 の1本です。
【雪氷輸送物流システム調査検討委員会】 今日は今担当しているうちで一番時間をかけているプロジェクトの委員会が開かれた。そのプロジェクトの名は「雪氷輸送物流システム調査」である。
この調査は首都圏と北海道の間の物流の特徴となっている「片荷問題」と環境問題の両方に貢献しようという壮大なもので、マスコミも注目のプロジェクトなのである。
今日は時間帯が夜になってしまったのだが、夜6時から札幌市内のホテルでその第一回の委員会が開かれたのである。この委員会、当初は頭撮りという最初の方だけを撮影可能にして委員会は非公開で行おうと考えたのだが、マスコミ各社から「公開として欲しい」という要望が出され、それを尊重して完全公開としたものである。
我が開発局からは吉田局長自らが挨拶をしてくださり、力が入っている事が理解された事だろう。
* * * *
さて調査の内容について少し説明をしておこう。
まず片荷問題とは、首都圏から北海道へは多くの荷物を積んだトレーラーが来るのに、帰りに北海道から持って変える荷物がなくて泣く泣く帰りは空で帰るトレーラーが多いという問題である。
北海道の場合、秋から冬にかけては農産物や水産物を出せるのだが、春から夏にかけては帰りに持ってかえってもらう荷物が少ないのである。それは北海道の製造業が弱いということを端的に言い表しているが、同時にそれは片荷のために帰りのトレーラー代を持ってくるときに上乗せしてしまうということで、運賃が高上がりについているということとワンセットなのである。
だから、北海道に荷物を運んで変えるときにいくらかでもお金になる何かを持って行く事ができれば、これまでの物流コストの改善につながるだろうという発想である。
そこで目をつけたのが北海道の寒さである。
雪や氷の冷たさは平成14年に新エネルギー法で「冷熱エネルギー」として位置づけられ、立派にエネルギーとしての地位を確立している。 北海道でもこの雪を冬の最後に大きな倉庫に貯めて、この冷たさでジャガイモやタマネギ、米などの食料を保存する技術がすでに確立していて、志の高い農協や自治体などではすでに実用化されている。
こうすることで、穫れたらすぐに高い運賃を掛けて内地の高い倉庫に保管するよりも、北海道で安く保管しておいて帰り荷のない時に安く運んでもらえば良いのに、とする発想があって、先駆的な取り組みが数多くなされているのである。
今回の雪氷輸送は農産物の備蓄ということからは離れるが、帰り荷として冬に作り長期に保管された氷を持って行ってもらおうとするもので、そのことで首都圏が電気を使って冷房をする頃に電気を使わない冷熱エネルギーとしての氷を供給しようというのである。
* * * *
このときのポイントは、東京にはすでに商品名でエコアイスと呼ばれる深夜電力を利用して夜に安く氷を作り、日中は電気を使わずに夜に作った氷の冷熱エネルギーで建物を冷やすという技術が確立していて、しかも単独のビルだけではなく、地域再開発などでは新しいビル数棟をまとめて冷暖房するという地域冷暖房システムも数多くできあがっているということなのである。
だから氷を受け入れる素地はできあがっているという事と、かならずしも供給される氷に全てを頼る事もないという共生関係ができる可能性も大きいのである。
今回のプロジェクトの最大のハードルはなんと言ってもコストである。
東京のエコアイスが一トンの氷を作るのにいくらかかるか、というのがライバルとなる価格で、それより高ければ苦しいが、とんとんか安ければ検討の対象にはなるだろう。
まだ調査途中だが、上記の値段は百数十円〜千円くらいという幅の試算がなされているところで、要はこの値段で氷一トンを運べれば良いのである。
もちろん氷を作って保管して、運搬して…というトータルの道筋がぴたっとはまらなくてはトータルとしてのシステムが完成という事にはならないだろう。
しかし単純な値段以上に、深夜電力であっても夜間に外に熱を発する事で氷ができているわけだから、都市は夜も冷えないヒートアイランド現象が年々ひどくなっているのであって、外に熱を出さずに冷房をするというシステムは長期的に見ればやはり大都会の環境問題に貢献はするはずである。
今年の調査では、氷の作り方は保管の仕方を8月頃をめどに一定の方向を出して、冬には早速氷を作って保管する実証実験も行う事としている。
そして来年度には実際にそれらを首都圏まで運んでみようと考えていて、その実験を通じて多くあるであろうハードルの数やそれらの高さを調べてみようと思っている。
* * * *
今日の委員会はその第一回で、そういった調査をするに至った考え方などを説明して今後の委員会の進め方をご了承いただき、意見交換を行ったのである。
かつては石炭を内地に送り込んで我が国のエネルギー産業の寵児だったはずの北海道が今度は「白いダイヤである」氷を内地に送り込んで内地のエネルギー問題に貢献しようという壮大なプロジェクトである。
北海道は我が国に貢献出来るのだろうか?そのことが試されているのである。
2005年07月04日(月) |
050704_今日は昨日の続きの話 |
週の始まりはいろいろあわただしいですねえ。皆様いかがお過ごしですか。
さて今日は、 ■片山知事を囲んで飲んだ続きのお話 の1本です。
【片山知事を囲んで飲んだ続きのお話】 昨日の続きでお時間をいただきます。
片山知事を迎えてそのまま近くの飲み屋へ30人ほどでなだれ込んで、そこからは参加者同士も含めた懇親会に早変わり。会いたかった方にもやっとのことで挨拶ができたりして嬉しかった。
そんな一人にニセコの逢坂町長がいた。自己紹介をしてから「静岡県の掛川にいました」と言うと、「榛村さんには以前にはいろいろと教えていただいたものです」と言う。
実は逢坂町長は北大薬学部出身で年次は一期下。今では期待される首長ベストランキングの上位には必ず顔を出す有名人で、志も高く気概も十分。お話をしていて実に楽しい時間でありました。
「榛村さんはどうして落選したのですか」と単刀直入に聞いてくるので「長かったと言ってしまえばそれまでですが、合併した相手の町の問題やらなにやらがいろいろですね」と答えた。なかなか一言では言えないものだ。
是非またお会いしたいものです。そのときもよろしくお願いします。
* * * *
続いて席を移って片山知事の前に座らせていただいて、聞けなかった他のお話も伺う。
「三重県の改革が北川知事が替わった後でまた揺り戻しているという噂を聞きましたが」と向けると「彼自身が改革にダブルスタンダードなところがあったかもしれないですね。最後にシャープの工場を誘致したときも、事前に公開せずに決めてから議会にかけるような形でしたから、それでは公開とは言いませんよ」と厳しい。
「職員との意思疎通はいかがですか」と質問すると「ある県へ秘書を連れて訪ねていったときに、秘書同士が車の中で意見交換をしているんです。私も含めてわいわいやっていたら、あとで秘書から『知事、さっき車の中で一緒だった秘書の方から、なぜあなたは知事とそんなに話ができるのですかって聞かれました』と言うんですよ。『どういうこと?』と聞き返すとその県では秘書課長ならいざ知らず、一般の秘書課職員は知事とはとても話ができるような関係ではなかったらしいんですよ。それってやはり異常だと思わなくちゃダメですね」
「そういう職員は鳥取県にはいませんか」 「ある幹部なのですが、その部屋にはいるときに職員は最敬礼をしてから入らないといけなかったんだそうですよ。それを何人もの職員に聞いて確かめて、やはり本当だと言う事になって替わってもらいましたけどね。替わってから職員に『どうだい?』と訊くと『最敬礼はなくなりました』と言っていましたよ(笑)。上に立つものはともすると周りがイエスマンになりがちだし、話が上がってきているのかどうかを常にチェックしなくてはダメなのですよ。」 片山知事の場合は秘書課職員が「○○課長は知事室にはいるときに深呼吸をしてから入っていますよ」と教えてくれるのだそうだ。 やはり上に立つものの心構えが大事なんだな。
* * * *
「ところで知事さん、私は掛川で榛村市長に三年間仕えていました」と言うと「そうそう、落選したというので驚きましたよ。何期だったのですか?」と問い返された。 「7期やって、8期目が新市の一期目でした」と言うと「ああ…、長いなあ…。やはりせいぜい3期ですよ。権力というのはそのくらいなものですよ」と言われた。
この二次会には、いくつかのまだ三十代の若手市議会議員も数名参加していて、存じている方も多かったので楽しく話が弾んだ。
北海道もまだまだ捨てたものではない…、というよりもこういう人たちがどんどん育っているのだという実感を感じる。
こういう人たちがもっと声を発して、新しい世の中の方向を指し示してくれなくてはならないのだ。その萌芽を感じるからこそ、先輩たる我々も日々の実践の中から、よりよい社会づくりに力を尽くしたいものだ。
昨日はまだまだ多くの話題があるのだが、今日はここまで。
あ〜、久しぶりに楽しかった〜。
2005年07月03日(日) |
050703_鳥取県の片山知事のお話を聞く |
札幌は今日も快晴。涼しいなあ
さて今日は、 ■「改革とは公開ですよ」 の1本です。
【「改革とは公開ですよ」】 知人からお誘いがあって、「鳥取県の片山知事が月曜日のシンポジウムのために来道されるのですが、前日の日曜日に札幌に入られるので、囲む会に参加しませんか」と言う。
おもしろそうだなあ、と思って参加する事にした。会場は北大のなかの校舎の一角。
夜六時からと言う事だったが、この会合を聞きつけて道内各地の首長さん、市議会議員、役場の職員、マスコミ関係者など総勢40人ほどの会合となった。
司会は北大法学部教授の山口二郎さんで、片山知事とは同じ岡山県の出身で、なおかつ親同士が教員仲間だったというエピソードを紹介して始まった。
冒頭も何も、片山知事からの話題提供もなく山口教授から「会場の皆さんからの質疑応答で進めましょう」とのこと。
こういう場合は最初に質問をするのが良い、と思っているので真っ先に手を挙げて質問をした。すなわち「県くらいの人口ではマニフェストのようなわかりやすい指標を掲げなくてはならないと思いますが、人口10万人くらいまでの小さな市町村であれば、首長の熱心な説明をすれば良く、マニフェストはいらないと思うのですがいかがでしょうか」というもの。
これに対して知事からは「小さな町になると、かえって特定の団体へ行けばそこの団体に受ける事を言い、別な団体ではそこに良い事を言うような事があるのではないでしょうか。『公共事業をやる』と言う一方で『公共事業を抑えて財政改革をする』というような矛盾のある事も平気でいうかも知れません。そういうパーツごとに共感を呼ぶような姿勢ではなく、トータルのパッケージとして提示するという事が必要なのだと思います。それがマニフェストの意味なのではないでしょうか」とのこと。なるほど…。
そこから先は質問の嵐であった。
某自治体職員からは「うちの場合は首長が市民対話を一生懸命やっているが、議会との折り合いが悪く議会対応がうまくいっていない。鳥取県の状況はどうですか」という質問があれば、 「鳥取県の場合は与野党がありません。多数派や少数派と結ぶとやれないと思っています。信念に基づいて議案を提出して『決定権は議会にあって、判断は議会の見識ですよ』と言えば、議会もそう簡単に反対のための反対はできないものです。密室の罠から抜け出してご覧なさい。ただし、そう言う場合に首長や当局側から提案するその中身は、まっとうなものでなくてはならないのは当然で、それが私利私欲に走るようなものであれば、そのしっぺ返しは必ず自分に降ってきます。身を律する覚悟が必要です」
「他に改革派の知事はいますか?」 「私も知事会では浮いているんですよ。鳥取では3年前に大きな地震があって倒壊家屋が続出したんですが、そのときに民間の家の再建に税金を投入するということをやりました。政府は公費を民間に与えるという事に極めて反対だったのですが、多くの知事に私の考えを話していたら、大体十数人は私の言う事に『そうだそうだ』と言ってくれていたんです」
「なるほど」 「ところがいざ知事会でそのことを政府に要望しようとしたら、すでに根回しが入っていて1対46で完全に私だけが孤立しちゃいました。『そんなものか』と思っていたら、その年の夏に日本海側で豪雨被害でやはり民間住宅がたくさん被害にあって私に『どうしたらいいだろう?』って泣きついてくるんですよ。『あなた達が反対したからでしょ?』と言いたかったけれど、そこから巻き返したら私への賛同者がどんどん出てきました。だから勇気を持って正しいと思う信念を言い続けなくちゃならないんですよ」
ある首長からは「国からの財政援助も厳しくなってきて、中長期的に正しい自治体経営をしようと思えば思うほど、値上げ、サービスカット、増税などをしてゆかなくてはならなくなる。やればやるほど評価が下がってしまうんですがどうしたらよいでしょうか」という切実な問い。 すると「正しい事が住民から不興を買うのであればそれまでですね(笑)。自分の良心に従った政策や主張が自分の意図に反して市民が思うところから離れてしまっていれば、それはもう辞めた方が良いのだと思います。私はこの立場を去って一市民になったときに幸せになれる行政は何だろうか、いうことを目指してやっているつもりです」
また別な首長からは「かつて片山知事は『マニフェストなんて眉唾だ』という意味の発言をされましたが、その真意は何ですか」と言う質問。 「マニフェストは、自己を律する事のできる人が作って始めて意味をなすもので、いまのマニフェストを進める会もずいぶんうさんくさい人が入っているんですよ(笑)。『なんであの人が入ってるの?』という人がね。そう言う人は(マニフェストと言えば、格好良くって選挙に有利だ)と思っているのでしょうね。そう言う意味で眉唾だと言っているのです。マニフェストは志が高くて市民に立脚したような、市民が共感出来る人が作るから意味があるのであって、作ればよいというものではないのです」きびしー!
知事が県民と約束したのは「とにかく情報を公開します」という一点だったとか。そのために最初はやはり今までとのやり方の違いにとまどい反対する職員も多かったのだが、やがてそれが当たり前になれば、次第に着いてくる者も増えたそうだ。 「なんでも公開するから、県職員の処分がしょっちゅう出されるんですよ」でも最近は県民が怒らないんです。逆に「市町村もそれくらいやれ!」という論調になってくるようになりました。信頼感が生まれてきているのだと思います。
「片山知事さんのマニフェストの成果の公表はどのようにしていますか」には「私は自分で県民との約束の点検はしません。全部マスコミが勝手にやってくれますから、それを見るだけですね。新聞を見て『ああ、もう少し雇用対策をしないとダメかな〜』なんてね」
最後に「お手本になるような知事はいますか」との問いには「知事ではいませんね。でも政治家で、ということなら大臣秘書官として梶山静六さんに仕えたときに、『尊敬出来る人だな』と思いましたよ。いつも『強い奴と弱い奴がいたら弱い奴に焦点を合わせろ』と言われたものですし、それでいて『生活は質素にしなくちゃいかん』と言って本当に質素でしたよ」との事だった。
噂に違わず、自分というものとあるべき政治の姿をしっかりともたれている方だなあと感心したものでありました。
今日も良い出会いができました。こういうところへ誘ってくださる友がいるのがまた良い。感謝感謝。
2005年07月02日(土) |
050702_光ファイバー導入 |
札幌は今日も快晴。涼しいなあ
さて今日は、 ■光の国から僕らのために〜♪ の1本です。
【光の国から僕らのために〜♪】 兼ねてから懸案だった我が家のブロードバンド化を図る事にして、ついに今日の午後に光ケーブルにしてもらうことにした。
実は我が家のブロードバンド化には苦い思い出があって、3年前に一度ADSLにしてもらおうとNTTにお願いをして契約をしたのだが、そのときはうまくいかなかったのである。
ADSLは基地局からの距離が遠いと信号の減衰が激しいという、安定性や通信速度が保障されないという欠点があるのだが、それでも安く高速通信ができる手段として光ファイバー化の手前の技術として世間で用いられている。
我が家の場合は、基地局からの距離が直線で2kmということで、事前の調査では「ぎりぎり大丈夫ではないでしょうか」ということだったのだが、実際に契約して使ってみたところ、繋がったときは確かに早かったのだが、全く繋がらない状態になる事も多く、安定性が極めて悪かったのだ。
そのためわざわざISDNに戻して、64kbpsという通信環境に甘んじてきたわけである。
* * * *
この間、光ファイバーによる通信環境も改善してきて幹線の通信はほぼ全て光ファイバー化も大幅に進んでは来たものの、FTTH(Fiber to the Home)と言われる各家庭までの光ファイバーの引き込みにはまだ多くのユーザーが二の足を踏んでいた。
それはそれほどの通信環境を必要ではなく、支払う金額に見合ってはいないとない感じているユーザーが多いからである。
我が家へも何度も「今なら工事費が無料になりますがいかがですか?」という営業が来て、これまではお断りをしていたのだが、ここへきてついに光ファイバーを入れる事を決断した。
決断のポイントは光電話の登場で、光ファイバーを引き込んでひかり電話というオプションを選択すれば、インターネットつなぎ放題の費用と電話にかかる費用との合計でみるとほとんど変わらないという料金体系になった事である。 光ファイバーによるBフレッツ回線と回線終端装置利用料、屋内配線利用料で大体5000円という価格は、電話の基本料金とつなぎ放題サービスの合計とほとんど変わらないのである。
そんなわけで工事日を今日の佳き日と定めたのである。
* * * *
家を建てるときに電話回線の引き込みに、将来の光ファイバーのための予備艦を入れてあったこともあって家への引き込み工事はそれほど苦労もなく終了。そして引き込んでからパソコンと電話へ引き込むためには光情報をLANに変換しなくてはならずそのために回線終端装置というのが必要となる。
工事に来てくれた方の作業を見ていると、光ファイバーの被覆を剥がした後にアルコールで消毒をしている。「お医者さんみたいな事をするなあ」と思って訊いてみた。
「なぜアルコール消毒をするのですか?」すると 「終端装置の側にも迎えの光ファイバーがあるのですが、これとつなぐときにこうしないとファイバーが曇ってしまって通信効率が下がるんです」とのこと。
「昔と言っても3年くらい前までははこのファイバー同士を繋ぐのに、両方のファイバーを溶かして一体化させるという『溶融』というやり方をしていたんです。ところがその機械は一台300万円くらいするし、重いし充電式なので効率は悪いし、冬は温度が上がらずに作業時間がかかるなどで、大変な手間だったんですよ」 「最近は改善されたのですか」
「そうなんです。今手元にある工具箱一式でできるようになりました。これは先ほどのファイバーを消毒してこのキットに装着してファイバー同士をカプセルみたいなもので包んで潰すのです。そうしたらカプセルのにジェルがあって、これで互いを一体化出来るようになりました。これで早くなりましたね」
聞けば今日来てくださっているのもNTTとは別の配線専門の業者さんとの事。
「NTTさんはもうそういう部門を自社の中には抱えずに、どんどん外注でだすようになりましたからね。でもその分、外注先の我々は最新の技術がどんどん降ってくるのでついて行くのも本当に大変ですよ」 「お年寄りの方なんかは大変じゃないでしょうか」
「NTTさんが光ファイバー化をするので施工業者を集めたのが3年くらい前の事です。そうしてこの光ファイバーの工事について講習をしてくれたのですが、私も2ヶ月通いましたね。でもそれまで電線工事でずっと来た先輩の人たちには辞めていく人が大勢いましたよ」 「やはりついて行けないのでしょうね」
「今お見せしますけど、通信が完了して望む値が出ているかどうかをチェックするのにもパソコンが必要なのです。電線工事にパソコンが使えないとダメという時点でもうついて行けない人が続出しましたね」
そう言って作業員の方は必要な結線を終えると、回線終端装置と持参したパソコンをLANケーブルを繋いで速度チェック用のソフトを立ち上げて回線スピードをチェックし始めた。
「81.3…、82…、84…、84…大丈夫ですね。回線は完了です」 「いまの84ってなんですか?」
「84Mbpsです。回線としてはそれだけの情報通信ができますが、インターネットの場合はプロバイダさんが50Mくらいに抑えているので、そのサービスは大丈夫というわけです。そのうちプロバイダさんも100Mのサービスを始めるでしょうけどね」
なるほど、今までは64Kbpsだったので回線で1300倍の早さに、実行でも800倍の早さになるわけだ。すごいねまったく。
* * * *
さて、終端装置まで来たのは分かったが、そこから今度はパソコンと電話の設定である。これはサービスを頼んでいないので、自分でやらなくてはならない。
ここのところでちょっとLAN接続に苦労したのと、そこから今までの電話線による通信から切り替えた機械に合わせたプロバイダへの接続にちょっと手間取ってしまった。ほんの手間の一つが食い違っても繋がらないのがパソコンの世界とは知りつつ、その融通の利かなさに頭に来る。
それでもなんとかやっとのことでインターネット環境の構築に成功して、家族分のメールやインターネット設定を変更して完了。やっとのことで光Bフレッツ環境でのインターネットである。
正直に言って「は、早い」というその一言である。サイト接続の時間待ちストレスがほとんどなくなった。サイトの接続は瞬時だし、動画での映画の予告編を見るのでも数秒で始まってくれる。
パソコン内でチェックしてみると実行で40Mbpsが出ているよう。これでも今までの600倍以上の実行速度である。
今まではダウンロードを躊躇していた大きなファイルの無料ソフトを読み込んでみたところ、2.8MBの分量のソフトが1分半でダウンロード完了。いままでなら1時間以上かかっていたところで、改めてその早さに感動した。
いよいよ通信環境は整った。もたもたと原稿を書いてアップするのにイライラしていた時代は終わり、いよいよ原稿書きだけが早さを決めるようになったのだ。
いつの世も最後に一番遅いのは人間の部分になるのですなあ。自分は機械じゃないんだなあ、ということを実感する瞬間ではあるけれど。
2005年07月01日(金) |
050701_フィルムコミッションと組織を考える |
ここのところへ来て、気温が低めになる。天気は晴れているが、一時のように暑くはなくて涼しいくらい。
今日から7月。もう一年の半分が過ぎたんですね。もたもたしていると、あっという間にまた年末になりそうです。
さて今日は、 ■フィルムコミッションと民営化 の1本です。
【フィルムコミッションと民営化】 ある役場に勤める知人のAさんと夜飲む事になって、いろいろとお互いの近況などを語り合った。
このTさんとは本当に親しく飲むのは4年ぶりくらいなのだが、仕事以外でも地域活動に情熱を傾けている方で、役人という幅にとらわれずに活動する様子は、私など地にも及ばずある意味ではあこがれの存在である。
このAさんと久しぶりに飲めるというので、活動の裏話なども聞こうと思い随分楽しみにしていたのである。
Tさんは一時フィルムコミッションに力を入れていたのだそうだ。フィルムコミッションというのは、映画撮影の誘致をすることで自慢の風景を映画に使ってもらって観光振興や地域振興につなげて行こうというものである。
最近では「世界の中心で愛を叫ぶ(略して『セカチュー』と言われ2004年にヒットした邦画)」で、撮影舞台となった香川県庵治町では主人公が愛を語るシーンにもう一度触れたくて、【ここ→】多くのカップルが訪れてくるようになったという。
また、わざわざ外の例を引くまでもなく人気テレビシリーズ「北の国から」で富良野の名前と憧れは一気に高まったのであって、自分たちのふるさとがメディアに使われる事は地域間競争にあって極めて有効なのである。
そう言えば掛川にいたときも、テレビドラマの「ウォーターボーイズ2」では掛川の商店街にあった(アンデルセンという)パン屋さんが使われていたり、最後の別れのシーンではたった一両の汽車に主人公が乗って去るのを仲間が平行する農道から追いかけるというシーンが涙を誘ったが、これには掛川市内の天竜浜名湖鉄道が使われたのだった。
掛川の方はもう少し上手に観光振興につなげれば良かったのだが、合併やら何やらでそこまで対応が仕切れなくてちょっと残念であった。
* * * *
そんなわけでのフィルムコミッションなのである。大いに進めるべきだし、地域にとってやりがいのある活動ではないだろうか。Tさんは北海道でのその先駆者の一人なのである。
「Aさん、最近のフィルムコミッションはどうですか?」と訊いてみた。 するとAさんは「うーん、あまり良くないですね」と言う。
「どうしてですか?」 「フィルムコミッションって、すごく制作側とのつながりが大事で、しかも素早く提案をまとめて出せるようなこちら側のネットワークも大事なんですよ」
「北海道は最初の頃は対応が早かったと聞きましたけど」 「横浜だとか神戸などは外郭団体に対応組織を作ったのですが、道庁は道庁の中に対応組織を作ったんです。そのことは当時随分注目されたのですが、担当職員が人事異動で替わってしまうというシステムにはなじまないのではないでしょうか」
「やはり人と人とのつながりが大事だということですか?」 「それももちろんですけど、映画を作るということが分かっていなければ、向こう側のニーズに応えられませんよね。撮影ポイントを探す事をロケーションハンティングと言いますけれど、フィルムコミッションというと、ロケハンに対応する事だと思っていませんか?」
「そう思っていますが違うんですか?そのときに『こういう良い風景がありますよ』という情報を提供するのでしょう?」 「映画はまず企画があって、次にシナリオを書くのですが、そのときにシナリオハンティング、略してシナハンと言うのですが、シナリオに合う風景があるかどうかも重要なのです。だから映画化するときにはまず原作があれば原作のイメージする風景を頭に入れて、そのうえでそれを脚本化するときにイメージできる風景が先にあれば、シナリオも変わるんですよ」
「へえ、シナリオの段階から今ある風景を売り込む事ができるという事なんですか」 「そうです。だから出来るだけ前の段階で質の高い情報を提供できれば、それと地元の協力体制が組めれば、うまく行きやすいんです」
「やっぱり役人には難しいですか」 「例えば流氷のシーンを取りたいとするでしょう。そのときに流氷が接岸するようなところで、なおかつ地元が協力してくれそうなところはどこかな?と思うわけです。そのときに、流氷が接岸する自治体全部に声を掛けて、『協力体制が取れますか?条件は…』なんて説明をしているわけにはいかないんですよ。『それなら○○町の町長に頼んじゃえ!』といった、素早い対応が必要なのですよ」
「自治体とのネットワークならば役人の世界でのつながりもありそうな気がしますが、そこまで気の利いた人がその担当になってくれるかどうかというのは難しそうですね」 「だからそう言う意味では、そういうことをしっかりとやれる団体にやってもらうのが一番でしょうね」
なるほど、人材と社会のニーズをマッチングさせる術が役人の世界にはないというのだろうか。
担当する組織を作るだけではなくて、そこにどういう人がいるかというもう一歩踏み込んだ組織的対応がなくては、さまざまなる戦争には勝てないのかも知れない。
自らの中に競争原理がなくては組織自身は向上しようとはしないのだ、という悲しい見方がそこにはあるのだろう。
そして組織的向上を促すのが民営化だというふうに理解すると、いまの郵政民営化の問題もなんとなく理解出来そうである。
「郵便局を民営化して何になるのか」と地域へのサービスを原点に据えて民営化に反対されている議員の方も多いが、郵政民営化の後に見えているものがさらなる行政改革なのだとしたら、「いえいえ、民営化などしなくてもこれだけ内部の意識が高くなっていますよ」ということを説明しなくてはならないシーンが来そうな気がする。
日本人は外圧がなければ動きづらい民族と言われる。組織は自ら変革ができるのだろうか。
その前にやれるのは自分を変革する事なのかも知れないけれど。
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