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2005年04月21日(木) 信仰について

 二十一世紀の今日まだ神の名をとなえる者
が大勢いるらしい。ローマン・カトリックの
信徒だけでも十億を超えているという。

 本来他人の自由に干渉しないかぎり、信仰
はその人間自身の問題である。

 しかし秘蹟や神託に基づいた宗教は、例外
なくいかがわしい。
 たとえローマ教皇といえども、神を取次ぐ
者ではありえない。

 神の実在を信ずるのはいい。
 しかし神について本当のことを語れる人間
など存在するはずがない。

 全宇宙の創造者たるものが、ある特定の人
間にだけその姿や声をお示しになり、他の何
十億という人々に対しては君たちがよろしく
導くように、などと言うだろうか。

 この世界には、人智を超えた神の法が存在
しているはずだ、と考えるのはすこしもおか
しくない。
 しかし人智の及ばぬ神の法について何かを
語れると思うのは非常におかしい。

 自己の行動規範に対する信念を表明するの
はかまわない。
 しかしその場合に言えるのは、こう生きる
のがきっと神の法にもかなうと自分は思うが、
神と神の法について本当のところは誰にもわ
かりっこないのだから、すべては死んでから
のおたのしみ、ということだけである。

 以下は、不可知である神にたいして人間の
とりうる唯一の姿勢を簡潔に記した二十世紀
屈指の名著から要約。

 実践は難しいが、その理想とは、こういう
ものです…
「最後の審判の日に、神に向かって、『わた
しは、あなたを信じてはいませんでしたが、
とてもいい人間でした』と言えるように生き
よ」

地上の教会で多くの時間を震えながら過ごし
た人々に向かっては、こう言ってやりたいも
のです…
「わたしは神を喜ばすとか怒らすとかについ
て気をもんだことは全然ないね。神を計算に
入れたことなんてただのいちどもない」

しかし、いつか人生の最後を迎えるとき…
「わたしはとどのつまり、若いころから考え
ていたとおりであったことに気づくでしょう。
わたしは神に会うこともないし、天国も、最
後の審判もありはしない、ということを決定
的に確信するでしょう」

「パームサンデー」カート・ヴォネガット著
 より


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