店主雑感
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2002年05月18日(土) 本当の個性

 「赤毛のアン」はカナダ人作家によって、
1908年にアメリカの出版社から発行され
た長編小説である。
 以来、世界中で広く読まれ、圧倒的多数の
読者を獲得してきた。

 この二十世紀初頭のベストセラーの背景に
ある社会は、まだ十分に健全さを残しており、
個性豊かな作中人物の失敗や成長の物語にす
っかり魅了される一方で、良識に裏打された
実社会を揺るぎのないものとして感じとるこ
とができていた。

 ロマンティックな空想癖があって、しばし
ば、軽率な行動から妙な事件を引き起こす少
女も、本当はいい子であると見抜く目が周囲
の人々にあるからアンは愛と友情に恵まれ、
美しい田園の中でのびのびと育つことができ
るのである。

 同様に世間を避けるように兄妹で陰気に暮
らしている気むずかしい老人達に対しても、
根は正直で気のいい人間であると分かってい
るから、世間も彼等を受け入れるのである。

 決して、「少しくらい様子がおかしいから
といって、それで人間を判断してはいけない」
などという陳腐な教訓は含まれていない。

 軽はずみでお転婆な事自体は少しも褒めら
れたことではない。
 同様に老人になるまで兄妹揃って独身で、
同じ家にひっそり暮らしているのは、極めて
不自然で気味の悪いことである。

 いずれも世間の側に彼等を理解するだけの
懐の深さがあったから救われるという話しで、
むしろ様子がおかしいこと自体は大いに誤解
のもとになると言っている。

 しかし今日では、「旧弊な因習に囚われ、
平凡で退屈な生活を送っていた田舎の人々が、
一人の型破りでチャーミングな少女によって、
徐々に、すばらしい輝きと興奮に満ちた広い
世界へと目を向けることを教えられ、ついに
は真に生きる歓びを分かち合うまでに…」と
いったところが、ごく一般的な読まれ方で、
(好き嫌いは別にして)これを奇異に感じる
人は非常に少ないのではないか。

 いつの頃からか、世間とは、平凡で、退屈
な俗物共が、個性や独自性を大切にする人間
を疎外し、圧殺する愚劣なもの、憎むべきも
の、否定すべきものという図式が定着してし
まった。

 愚かで、啓蒙されるべきは常に世間の側で
あって、そこへゆくと常識に囚われず、個性
を尊ぶあなたは「愚かな一般大衆とはちょっ
と違う」と自尊心をくすぐってやるのが、い
まや、商業資本の大衆操作における基本戦略
である。

 大多数の愚かな人間はこう言っておだてれ
ば、いくらでも金を使ってくれるということ
に他ならない。

 「赤毛のアン」を素直に読めば、世間とは、
一見、偽善的な俗物ばかりに見えて、案外、
ちゃんと見るべきところは見ているし、押さ
えるべきところは押さえている。そう捨てた
ものでもないと読めるはずだ。

 無節操に子供ばかり生んで、孤児を奴隷の
ようにこき使う強欲な夫婦、女生徒を好色な
目で見る破廉恥教師、ギルバートにお熱で、
意地の悪い軽薄娘、お節介で、ワイドショー
的覗き見趣味の隣人といった、いかにも世間
にありがちな俗物を配して、これを皮肉るの
は、読者へのサービスに過ぎない。

 べつに、世間がその程度のくだらないもの
だといっているわけではない。

 それどころか、真の個性とは、実は大袈裟
な物言いや突飛な行動からは余程遠いものだ
ということをアン自身が成長と供に世間から
学んでいく物語である。



2002年05月17日(金) 見当違いな理解と寛容の安売り

 子供の頃、「たった一度の過ちが、生涯つ
いてまわる」と教わった覚えがある。

 教会の神父に乱暴して銀の燭台を盗み、警
察に捕まった男が、神父の嘘の証言で救われ
るというお話は、「たった一度の…」という
前提が社会の側にあってこそはじめて成立す
る物語である。

 現代の小学校は神父さんの人間愛ばかりを
強調して、前科者に白い目を向けるのはいけ
ないことであるかのような誤解を子供達に植
え付けている。

 人を殺した人間に更正してもらう必要は社
会の側にはない。

 更正の必要は人を殺したあとも生きて社会
に留まろうと願う本人の側にだけある。

 過去に人を殺した人間を危険視し、警戒す
るのは当然なことである。

 過去に人の物を盗んだ人間に大事な仕事は
任せられない。

 どんなにかっとしても、また、どんなに切
羽詰まっても、皆が皆、殺人や盗みに走るわ
けではない。

 子供に向って、こういう当然すぎることを
教えないでいて、「過去の行いで、その人の
現在を見てはいけない」などと言うのは、そ
れを口にしている大人の自己満足でしかない。

 どうしてもヒューマニストぶりたいと言う
なら、「たしかに、ごくまれには過去の行い
で、その人の現在をはかれない場合もある」
「だからといって、過去の過ちをきれいさっ
ぱり拭い去ることはできない」「そして、そ
れは誰よりもその本人が一番よく知っていな
ければならない」「その上でこそ、現在の信
頼が成り立つ」と教えるべきだ。

 前科を背負うことがどれほど不利なものか、
子供達が実感できる社会こそが健全なのであ
る。



2002年05月16日(木) 平和の中に見失ったもの

 人類の歴史はつい最近(一世代前)までの
大部分が戦争の歴史である。

 基本的には戦場で弾に当らない方法という
のはありえない。

 敵が機関銃を構えて待ち受ける陣地に向っ
て、いとも簡単に突撃命令は下る。

 どんないい奴でもあっけなく死ぬし、どん
な糞野郎でもしぶとく生き残ることもある。

 戦争を知っている世代というのは兵役経験
の有無にかぎらず、誰でもそのへんの不条理
はいやというほど承知している。にもかかわ
らずというか、だからこそというべきか、ど
うせ何をしても死ぬ時は死ぬのだから好き勝
手なことをしなきゃ損だという人間は今より
もずっと少ない。

 生まれた時から戦争の悲惨さと命の尊さを
教え込まれ、まちがっても徴兵をくらう心配
などない平和憲法と手厚い少年法の保護下に
育った少年犯罪者達。
 彼等の頭にあるのは、ひたすら己の権利だ
けである。

 これは戦争が人間に何を教えるかというこ
とではなくて、人間とはどういうふうに学習
するものであるかを戦争が端的に示している
ということである。

 紙切れ一枚で呼び出されて、即席の訓練を
受け、気がつけば最前線に身を置いている。
 上官は次々と命令を下し、新兵に一々気持
の準備ができているかとは聞いてくれない。
 飛び出した瞬間、死体になっているかもし
れないのに、人の命などその辺の石ころほど
にも思っていない気軽さで、突っ込めと命令
する。

 権利もへったくれもあったものではない。
 自分の命が石ころ以下に軽く扱われて、は
じめて、真に命の尊さを思い知るのである。

 そもそも、徴兵され、一月やそこら、娑婆
っ気を抜かれただけの召集兵が、何故それほ
どの脱落者も出さずに、死地に飛び込んでゆ
けるのか?

 それは、面前の敵に殺されるよりも、背後
の味方に殺される方が怖いからである。

 死そのものよりも敵前逃亡の汚名を着て死
ぬ事に本能的恐怖があるのである。

 殺されるというだけならば、どこをどう撃
たれるか分からぬ突撃より一瞬で片付く銃殺
の方がましともいえる。

 むずかしく考える必要はない。
 群れを作って、生きる、すべての生き物は、
仲間から相手にされなくなることを何より恐
れるようにできているのである。

 そうでなければ、戦争などできるわけがな
いし、どんな種類の社会も成り立ちはしない。

 どんなけちな小悪党にも、通さねばならぬ
仲間内の真義というものは存在する。

 それすらなくしてしまえば、もはやこの世
のどこにも、身の置き場がなくなることを知
っているからである。



2002年05月15日(水) ありのままの現実

 子供の頃から今日に到るまで常に不思議で
ならないのは何故子供に向って本当のことを
言う大人がもっといないのか、ということで
ある。

 おそらくは子供の理解力を配慮し、現実を
ありのままにつたえるのをあえて避ける、と
いうことであろう。
 大人になればいやでも自然に現実は見えて
くるのだから、なにも子供のうちから無理矢
理直視させる必要はない、という考え方だ。

 ところが今やどうも、大人になってもあり
のままの現実を認めることができない人間ば
かりが育ってしまったように見える。

 何故なら近頃では自分のみすぼらしい人生
が気に入らないで、いっそのこと下りてしま
おう、と考える場合、怖くて痛そうな物理的
自殺はパスし、とんまな有識者が犯行の動機
をもっともらしく分析してくれそうな社会的
自殺を選ぶ人間がやたらに多いからである。

 何でもいいから、なるべくショッキングな
事件を引き起こして、いったん社会人として
の自殺を遂げてしまえば、もはや第二の人生
には勝者も敗者もありはしない。

 それどころか、しおらしく更正の道を歩む
うちには手記を書くチャンスだって廻ってく
るかもしれない、なんてオイシイ…。

 まして、少年法の手厚い保護下で世の中を
なめきっている子供達がこの手を使わぬわけ
がない。

 彼等の場合しおらしいそぶりをしてみせる
必要すらない。
 拘束期間は短いし、出所後も家族はビビリ
まくっているから、シキルのはむしろ事件前
より容易い。

 だいいち、これで自分のことを平凡で退屈
な人間だと思う奴は誰一人いないだろう、と
思えば誇らしくさえある。

 もちろん、引き起こす事件の衝撃度が大き
ければ大きいほど効果的であるのは言うまで
もない。

 ホモの芸術家はノーマルで平凡な会社員よ
り偉い、と子供達が錯覚する様な世の中を半
世紀がかりで作り上げてしまった大人達の罪
は取り返しがつかぬほど重い。

 おかげで額に汗して働く正直者が一番えら
い、という単純な一事をこれから数世紀をか
けてまた子供達に教えなくてはいけない。

 最近の半世紀をのぞけば何千年もの間そう
してきたのである。
 それでいて人類の歴史は天才芸術家や天才
科学者、あるいは時代に先駆ける変革者にす
こしも不足していない。

 歴史上傑出した人物は皆、普通人の何十倍
も重荷を背負って生きた人ばかりである。
 しようと思ってできることではない。
 できる人間であったがゆえに思わぬ困難な
人生を往くことになった人々である。

 坂本竜馬はたしかに型破りな人間であった
かもしれない。

 しかし、坂本竜馬が「人と同じことを考え
ていてはだめだ」という場合、それは単に人
と違うだけではなく必ずそれ以上でなければ
ならぬといっているのと同義なのである。

 困難な局面において、おのずと自然にわき
起こる考えが何故かいつも人と違っていて、
しかもそのことごとくが人より優れている、
という類い稀な人間が「人と同じでは…」と
言っているにすぎない。

 こういう類いの人間はたとえ本人が生涯凡
夫たるべく必死に努めていたとしてもついに
は才能がそれを許さず、主人を波瀾の人生へ
と押し出してしまうのである。

 自然にわき起こる考えがいつも人と同じで
しかない普通の人間が無理をして人と違うこ
とを考え、行おう、とすれば当然人並み以下
の奇言奇行にはしる他はない。

 そもそも自分が担えるだけのものを背負っ
て確かな足取りで生きることが先ずは人とし
て最低限の責任である。

 そのために手を貸すのが親の務めであり、
教師の果たすべき役割である。

 親や教師は自分ができもしないくせに、
「人の考えない事を考え、人のやらない事を
やらなければ成功しない」などとしゃらくさ
いことを言うまえに、先ずは「人の考える事
くらいはお前も考えられなくてはいけない。
又、人のやる事くらいはお前もできなくては
いけない」と言うべきなのである。

 そこから先は本人に能力があれば親や教師
などは軽々と超えていくからよけいな心配は
しなくていい。

 最低限の責任を果たすべく努力した結果、
どうしても人に及ばないのなら責めても仕方
ないが、問題は人並みの能力を持ちながら無
理に人並み以上を狙うばかりで人並みの責任
すら果たそうとしない愚か者である。

 「最低限の責任が果たせないようではお前
自身はともかく、こちらが非常に迷惑なのだ」
と正直に言うべきである。

 決して「お前のために…」的な嘘は言わぬ
こと。
 子供を叱る場合、はっきりと大人の利害か
ら叱っていることを伝えるべきで、子供本人
の都合とは一切関係がないことを正直に言う
方が分かりやすいに決まっている。

 「頭ごなしにいうことをきかせるだけでは
子供らしさがなくなってしまうのでは…」そ
んな馬鹿なことをいったら、中世封建時代に
は世界中のどこを探しても生き生きとした子
供らしい子供は育たなかったことになる。

 むろんそんなはずはないので、今よりよほ
ど礼儀正しくて、自主独立自尊の気概に溢れ
た人物がたくさん育っているのは言うまでも
ない。

 大人が子供の叱り方に妙な気を使いはじめ
たのは近代に入ってからのことだが、変に子
供らしさのない子供が増えはじめたのも、や
はり近代に入ってからのことである。

 電車の中や飲食店で行儀が悪く、騒がしい
子供を満足に抑えられない両親にかぎって、
「子供は好奇心のかたまりだから仕方がない。
無理におとなしくさせて、ものごとに対する
新鮮な興味を奪ってしまうのはどんなものか」
などと知ったふうな口をきく。

 たかがお出かけの間、我慢させたからとい
って、それで干上がるほど子供の好奇心の泉
は浅くない。
 浅いのは親の頭の方である。
 こういうのにかぎって、家では子供を怒鳴
っていたりするから笑える。

 子供は国の宝であるという。
 本当であろう。

 いずれ社会を動かすようになる今の子供達
をこのままゲームや携帯を売りつけるターゲ
ットとしてしか見ないなら、二十一世紀を老
人として生きなくてはならぬ世代はよほどの
覚悟が必要になるだろう。



2002年05月14日(火) 多様性

 歴史に名を残すほどの人物には、とかく奇
矯な言動がつきものである。

 それはそれで一面の真実を現わしている、
ということもできよう。

 しかしそれを結果から逆に見て、人間は少
し奇矯なところがあるくらいでないと大事を
成すことは出来ぬ、などと勘違いする間抜け
が出てくるから迷惑する。

 おまけに凡庸な人間だと思われはしまいか、
とそればかり心配している愚劣な輩が個性や
独自性、といった言葉を無闇にありがたがっ
て、単なる奇行の主を稀代の傑物と勘違いし
たりするから益々厄介なことになる。

 しかし他人の行動や服装に関しては、たと
えそれがどれほど異様でも、うかつに厭な顔
をしたり、批難がましい態度をしようものな
ら、リベラリストと称して得意がっている連
中から猛烈な集中砲火を浴びせられるので、
ついつい良識人は沈黙し、不快な人間はいよ
いよ増える一方となる。

 極端なことを言えば、他人の身体財産を脅
かさない限り、何をしようが、どんな服装を
しようが、もちろん本人の勝手である。

 今日の日本やアメリカで、同性愛者が公民
権を制限されることはない。

 しかし法律下の扱いが性生活の形態に関わ
りなく公平であるのは、何も変態性欲者に対
する理解や好意が基礎になっているわけでは
ない。

 むしろ正反対で、性にかぎらず何事におい
ても、何が健全で何が不健全かは法律上のど
んな措置を構ずるまでもなく、国民みずから
が判断できるという前提が基礎になっている。

 時に、露骨な性描写や暴力描写があっても
表現の自由が保障されるのも、たとえ入信時
に全財産を寄付しろと説く宗教団体があって
も信教の自由が保証されるのも、やはり同じ
前提に拠っている。

 また、もし良識ある判断が下せない者がい
たとしてもそんな人間は少数で、しかも誰か
らも理解されず好意も持たれないので、社会
にとってはさしたる脅威にならぬであろう、
という楽観からである。

 繰り返し言うが、どんな様子をしようと、
どんな趣味嗜好を持とうと、完全に個人の自
由である。

 しかしそれは、どんな様子で、どんな趣味
嗜好の人間であっても、これを理解するよう
努めたり、認めるべきだ、という意味では決
してない。

 そもそも多様性というのは、創造主がその
被造物にあらかじめ与えた属性であり、人間
ごときが心配する性質のものではない。

 人間はただ各々の価値観に基づき、自分と
様子が違い、趣味嗜好や考え方を異にする、
他者とは慎重に距離を置けば良い。
 そうすることで、むしろ多様性が保たれる。

 頽廃や衰退を共にしない、ことこそが多様
性の真の意義である。

 自分と違う価値観の人間を攻撃する必要も
ないが、無理に理解しようと努める必要もな
い。

 「既成の価値観を共有していては、画一化
された人間ばかりになる」というのは現代人
が用意したじつに卑怯な言訳にすぎない。

 自分の非才を嘆く場合には、既成の価値観
しか認めようとしない、親や社会に画一化さ
れたせいだと言い、自分の愚行を正当化する
場合は、画一化されたくなかったからだと言
えば良い。
 何とも都合のよいことである。

 たしかに転換期の歴史を大きく旋回させる
には、既成の枠を踏み越えた大器の出現が必
要であるかもしれない。

 しかし心配しなくても、世界中どこのいつ
の時代でも、その変革期には必ずといってよ
いほど、人材は雲が湧くようにして、現れて
くるもので、なにも常日頃からユニークな人
材の育成に心掛けなくとも、人類が滅ぶ気づ
かいはない。
 反対に様子のおかしい隣人を怪しむこと、
奇言奇行の輩を相手にせず黙殺すること、こ
そが必要なのである。


2002年05月13日(月) 天才不要論

 心がけずとも柔軟な発想は、できる人には
できるし、できない者にはどう心がけたって
金輪際できはしない。

 また、柔軟な発想などは、できる人だけに
させておけば良いのであって、大多数の人々
は既存の価値観と常識に安んじていればいい
のである。

 同様に本物の才能であれば放っておいても
勝手に溢れ出てしまうものであって、見い出
してやらねば埋もれてしまう様な才能なら、
埋もれるままにしておく方がどれほど人類に
とって幸福であるかわからない。

 あらゆる人間すべてが人類に進歩をもたら
したり、芸術的刺激や興奮を与えたりする特
別な才能を秘めており、各人それを掘り起こ
し、引き出すのが人生本来のあり方である、
と考えるのは愚かを通りこして狂気の沙汰で
ある。

 教育者の使命は子供達の才能を発掘し、育
てることではない。
 子供達が既存の価値観と常識をきちんと身
につけて、健全な社会生活をおくれるように
することにある。
 そして、それが既成概念を打ち破る発想な
り、発見の妨げになる、ということは断じて
ない。

 人類文明の進歩発展、ということなら百年
に数人の天才が現れるだけでも多すぎるぐら
いのもので、あとの数十億人はアインシュタ
インやモーツァルトである必要はない。

 アインシュタインやモーツァルトにしたっ
て、どうしても必要というわけではない。

 文明の進歩などは数百年遅れたところでい
っこうに構わない。

 蒸気機関発明以前の人間が現代人よりもみ
じめな人生を送っていたわけではない。

 モーツァルトの音楽はたしかに人類の宝物
であり、もしなかったとすると、いかにも惜
しい。
 しかし、惜しいことは惜しいが必要不可欠
ではない。

 幸運にも今日、モーツァルトの作品が残っ
ていることに、感謝するだけで良い。

 人間が生きていく上で本当に必要なのは、
天才科学者でも、天才音楽家でもなく、ごく
あたりまえの良識を備えた安心できる隣人で
ある。

 非凡ではあるが、小さな子供に性的悪戯を
するような気味の悪い人間が、隣人にごろご
ろしている社会は、どう見ても健全であるは
ずがない。

 ところが始末の悪いことに、不健全である
ことが、現代人のうりでもあるから情けない。

 「様々なストレスにさらされることの多い
現代人には、癒しが必要…」といったふうな
キャッチコピーは、いたるところに氾濫し、
現代人の精神生活が危機に瀕しているという
ことは、もはや全世界的諒解事項と言っても
良い。

 我が子をタレント養成スクールへ通わせ、
アイドルに仕立てようと躍起になる、脳天気
な母親ですら、笑止千万なことに、現代人は
ムンクの「叫び」の様な不安に晒されている、
と信じている。

 クラスメートに向かって、簡単に銃を発射
するのも、近所に住む小学生の首をノコギリ
でひいて、口を切り裂き、そこへメッセージ
を書いた紙を詰め込んだりするのも、すべて
は現代社会が犯行者の心を抑圧した結果であ
る、と言う。

 はたして彼等の心に負った傷がどれほどの
ものかは知らない。
 しかし、かつて身分制度が絶対であった時
代、少年が地面に額を擦りつけさせられたり、
少女が親兄弟の都合で好きでもない男の妻妾
にさせられたりしたのと比べ、現代の頭の悪
い子供達が、猟奇殺人を犯し、売春行為に走
る、どんな妥当な理由があるというのか。

 説明できる人があれば、是非教えて欲しい
ものだ。

 ストレスにさらされるのは現代人の専売特
許ではない。
 過去よりも現代が不健全である納得のゆく
理由など、じつは一つもないのである。

 すべては、我が子すら満足に躾けることが
できない現代人の、いいわけがましい自己憐
憫にすぎない。

 コンコルドが大西洋を3時間45分で飛ぶ
事と、6才の子供が気に食わない女の子を撃
ち殺してしまう事とは、何の関連もない。

 少年犯罪が年々激化し、低年齢化するのも、
怪し気な新興宗教がはびこるのも、決して技
術文明が進むことによって、人間の心に潤い
がなくなったとか、未来への不安が増幅され
たとか、そんな事が原因ではない。

 ただ単にこの半世紀の間、猫も杓子も自ら
を非凡な人間に見せようと腐心するあまり、
不快な隣人が増えることに鈍感でありすぎた
結果である。

 不快な隣人を嫌悪し、軽蔑することは健全
な社会を維持するためには、むしろ必要なこ
とである。

 法整備は本来、起きてしまった不幸な事件
に対処するものであって、事件を未然に防ぐ
効果を期待することはできない。

 そこで必要になるのは、不快な人物を犯罪
の「機会」と「犠牲者」になるべく到達させ
ない努力である。

 難しいことは少しもない。

 不快な隣人に対しては嫌悪感と不信感を抱
き、常に警戒を怠らない様にするだけで充分
なのである。
 嫌悪感と不信感を抱かれ、常に警戒されて
いる人間は、無力な存在であり、その上更に、
無用の攻撃を加える必要はまったくない。

 現代人は他人に干渉することを極度に嫌う
が、隣人に対する無関心は、不快な人間が機
会と犠牲者に到達するのを容易にしてしまう。

 不正な薬事行政に関わって、HIVという
名の死を無差別に大勢の人々にばらまいても、
一向に恥じる様子のない不快な連中、彼等と
て、最初っから厚顔無恥な大人だったわけで
はない。

 彼等だって幼稚園の砂場では、ただの可愛
げのない幼児に過ぎなかったはずである。

 可愛げのない幼児も、凶悪犯罪者も、同じ
不快な人間であることに変りはない。
 大人にくらべ、他者に対する影響力が小さ
い、というだけである。

 本質的には、くずで最低の人間であっても、
戦場では勇敢で、信頼できる戦友たりうる。
 何故なら、戦場では自己の生存を、周りの
戦友達と、強く相互に依存しあっているから
である。

 社会規範など、屁とも思わぬようなチンピ
ラが仲間内では妙に、上下関係に敏感で礼儀
正しかったりするのも、やはり同じメカニズ
ムによる。

 背信行為というのは、そうした方が確実に
有利な場合にのみ、意味があるのである。

 健全な社会とは、自分の生活が他者との相
互依存によって成り立っている、ということ
を実感できる社会である。

 つまり、戦場ほど極端ではないにせよ、周
囲の人間に不信感や嫌悪感を持たれることが
自分にとって、非常に不利になるような社会
である。

 幼稚園の砂場は、みんなと仲良くする場所
ではなく、どんなふうに振る舞うとみんなに
嫌われるかを学ぶ場所でなくてはならない。

 そして、みんなに嫌われるとどんなに不利
かを学ぶ場所でなくてはならない。

 しかし今の子供達は、砂場での好き嫌いと
は関係なく、危機に際して命は誰でも公平に
助けてもらう権利がある、と信じ込んでいる。

 現在の教育は、やたらに命の尊さを強調す
るあまり、反って、命というものを抽象的に
してしまっている。

 子供にとって、最も分かりやすい具体的な
命は、自分の命にほかならない。

 自分の命も状況次第では保障されない、と
いうことを知らなければ、本当に命の尊さが
分るはずはない。

 現代の子供達はたとえ人を殺しても、自分
の命は法律が守ってくれると確信できるので
ある。

 こんなばかな話はない。

 逆説でも、何でもなく、命の重さは具体的
に量れる、ということを示す必要がある。

 嫌いな人間より好きな人の命が優先する。

 見ず知らずの他人より家族の命の方が普通
は重い。

 現時点での人質の命より将来の犠牲者を増
やさない事の方が大切なのである。

 遭難者の命より二次遭難者を出さない事の
方が大事だから天候が回復するまで救助活動
を控えるのである。

 ましてや、簡単にキレて人を殺すような子
供の命に、重さなどありはしない。

 殺される側にとっては、加害者が大人だろ
うと、子供だろうと、おんなじことである。



2002年05月12日(日) 自由

 頭の悪い子供達の望みというのは一様に
「束縛」されない「自由」で「自分らしい生
き方」であるが、そもそも人間は誰でも自由
で自分らしい生き方しかできないのであって、
現に誰だってそうしているのである。

 勉強をしたくはないが親や教師がうるさい
から仕方なく勉強する、という子供はまさに
自分らしく生きているのだ。

 あくまでも親や教師に反抗して勉強しない。
 あるいは勉強するふりだけして適当にごま
かす。
 選択肢ならいくらでもあるが、どんな子供
も自分なりにそれぞれ結果を予測した上で、
もしくは予測するだけの頭がなくて、一番自
分らしい道を自由意志で選んでいるのにほか
ならない。

 人は誰でも自由意志によって、置かれた状
況の中で自分なりに最善と思われる選択を不
断に行って生きていくほかはない。

 どういう状況下に産まれ落ちるかは誰にも
選べないが、いったん生まれたからには不断
の選択を死ぬ迄続ける以外にどんな道もあり
はしない。

 誰も強制してくれないし、誰も自分に替わ
って決めてくれないことこそが人生の本当に
辛いところである。

 銃や剣で脅されるなら、抵抗して死ぬにせ
よ、屈従して堪え忍ぶにせよ、自分らしく運
命を決する、という点では納得もいく。

 しかし、平和ぼけした先進国の中流家庭に
あって容姿、才能、共に見るべきものを持た
ない子供達が勉強机に向かって、ぼんやりと
人生を思う時、束縛されず自由であることは
むしろ堪え難い拷問でしかない。

 そこで彼等は無理にも自分は何ものかによ
って束縛され、自由を奪われている、と思い
込もうとする。

 だから自分はいまだに真価を発揮すること
ができないのだ。

 そう思えば俄然そんな気がしてむかついて
くる。

 自分が望むものが何かすらつかめない不安
定なティーンエイジャーの焦躁、というテー
マは映画などでも好んで取り上げるところで、
必ず観客の共感を得られる。

 現代ではティーンエイジャーに限らずいい
歳をした大人がある日、ふと、「自分を見失
っていたことに気付いた」と称して自分探し
の旅に出る。
 或いは破局に向かって破れかぶれに突っ走
る、といった主題が大流行りである。

 長い人類の歴史の大部分は気紛れな大自然
の脅威から心細い命を守ることであり、ごく
近代においては強国の植民地支配に抵抗する
ことであったりと、ほぼ99・9…%までが
命がけの闘争の連続といっていい。

 その気の遠くなるほど膨大な時間と流血の
はてに、ようやく到達した現代のたかだか数
十年間で、大の大人までが自由を持てあまし、
ニキビ面の憂鬱に恥ずかし気もなくうつつを
ぬかす。これではあまりに情けなくはないか。

 そして、そういう情けない大人達がさも得
意げに口にする言葉が個性とか独自性なので
ある。

 曰く、既存の価値観に囚われることなく、
柔軟な発想をしろ。
 まずは常識を疑ってかかれ。
 人と違うことを恐れるな。



2002年05月11日(土) 個性

 現代社会の最大の過ちは、自由、独立、個
性、といった言葉の濫用にある。

 神がお造りになったのかどうかはひとまず
置くとして、人間も含めてすべての生き物は
本来自由で独立しているものであって、改め
てこれに目覚める必要はさらさらない。

 すべての生き物には個性や多様性は本来備
わっているものであって、改めてこれを心配
したり、育てたりしなくても良いし、まして
やこれを奪ったりすることは創造主以外には
出来っこないのである。

 「現代は個性を尊重し、独創性を育て、多
様性を容認する時代」

 一体なんのつもりでこんなばかげたことを
言うのか。

 こんなお気楽なことを言い出したのは、せ
いぜい、20世紀の後半に入ってからのこと
ではないかと思うが、19世紀以前にくらべ
て20世紀の後半にどれほどの天才が出現し
たというのか。

 考えてみるまでもない、じつにお寒い限り
である。

 何故だろう、人間の数は飛躍的に増えてい
るし、経済状態も良くなって、未来の芸術家
達に対する社会の理解や寛容度も比較になら
ぬ程進んでいるはずである。

 人類が人口20億に達したのは1930年
のことで、およそ15万年かかっているそう
だが、次の20億人が増えるのには、その後
たった45年しか要していない。
 更に20億増えるのに必要な時間は、20
数年という予測である。
 これでは今頃は、天才だらけになっている
はずなのだが。

 優れた音楽家が、それまで常識とされてき
たバッハ解釈を覆すような演奏をして聴衆に
感動を与えたり、一流のスポーツマンが、常
識を超えた発想の練習法や運動理論によって
輝かしい記録をうちたてる事と、日常の生活
感覚や立ち居振る舞いが、普通人と違って奇
矯である事との間には、何の関係もない。

 ここを勘違いして奇異に振る舞うことが、
才能ある証拠であるかの様に、未来の天才を
気取る俗物どもが後を絶たないのには、うん
ざりさせられる。

 愚にもつかない個性尊重教育の弊害である。



2002年05月10日(金) 人間の値打

 頭脳も容姿もぱっとしない子供が、必ずし
もスポーツや絵の才能を秘めているわけでは
ない、だからといって、少しも怪しむにはあ
たらない、むしろ欠点を補ってあまりある美
点が、どこかにきっと隠されているはずだ、
と考える方がよっぽど不健全で怪しい。

 二人の人間がいれば、必ず、優劣美醜の差
は存在する。
 主観的相違くらいでは、とうていごまかし
きれないほど、人間一人一人には遥かに大き
な客観的相違が存在している。
 人間の値打には、能力や容姿もふくめて、
大きな差があるのがあたりまえで、そんなこ
とは子供の目にも明らかで、隠しようがない。

 危険な非加熱血液製剤を市場へ放置するこ
とが、何をもたらすか充分に認識していなが
ら、企業利益の優先を計り、ことが露見する
に及んでは、ただもうひたすら己の保身しか
考えない学者や役人などは、どう見ても援助
交際で小遣いを稼ぐ頭の足りない少女達以下
の存在であろう。

 人間にもピンからキリまであるという事で、
こんなあたりまえな事を慎重に避けて通ろう
とするから子供に何も教えることができなく
なる。

 世の中にはあきれるほど高潔に生きている
人もあれば、人間のくずとしか言い様のない
最低の連中までがいる。

 夏目漱石はこう言っている。
 「総括すれば快不快の二文字に帰着致しま
す。好悪の二字に落ちて参ります。即ち善に
逢って善を好み、悪を見て悪を憎み、美に接
して美を愛し、醜に近づいて醜を忌み、壮を
仰いで壮を慕い、弱を目して弱を賎しむの類
であります」

 現代人の最大の勘違いは、善を好み、美を
愛し、壮を慕うのは、まあいいとしても、悪
を憎み、醜を忌み、弱を賎しむ、という後の
半分は、ちょっといけないことのように感じ
てしまう点である。

 今日の小学校では、人を軽蔑するのはいけ
ないことであるかのような誤解を子供に植え
つけている。
 人を尊敬することがある以上、軽蔑するこ
とがあるのは当然である。
 いけないのは、間違った人物を尊敬するこ
とであり、間違った人物を軽蔑してしまうこ
とである。

 腰の退けた教師達は言う。
 「何が善で何が悪か、何が美で何が醜か、
などとは、一概に言い切れるものではない」
 「過去の時代に尊敬された人物でも、今日
少しも評価されなくなった例、またその逆の
例もたくさんある」
 「何事によらず、先入主を持ってのぞむの
はよろしくない」

 そうだろうか、人間が生きていく上で、人
や物事に対し、快不快、好悪の感情を抱くの
は当然なことで、むしろいつもニュートラル
な状態でいるように努める、という方が極め
て不自然であろう。

 生きるに値しない軽蔑すべき人間なら、い
くらでもいる。
 ただ、むやみに危害を加えていいはずがな
いのは、秩序の問題であって、軽蔑すること
自体が悪いわけではない。

 軽蔑すべきは、腹の底から軽蔑することを
教えないで、いくら子供達に愛だの優しさだ
のと言ってもはじまらない。


2002年05月09日(木) 間違った権利意識と平等感

 何事にせよ、「する」権利などはなくて、
「しない」権利だけがある。

 どんなに好きでも、つきまとう権利はない。
 反対に、どんなに好かれようと相手にしな
い権利がある。

 今日の教育が決定的に間違っている点は、
「誰にでも人を好きになる権利はあるはず」、
と思い込ませてしまうところにある。

 人を好きになるのはとめられない。
 また、とめる必要もない。
 だからといって、権利ではない。
 相手が拒めば、いつでも引き下がらなくて
はならない。
 権利は拒む側にこそある。

 何と思われようと己の志に純粋、といえば
きこえはいいが、それはただのエゴイズムに
すぎない。

 たしかに相手の思惑を気にしすぎるのは俗
物であろうが、それをうかつに頭の悪い子供
達の前で言ってはいけない。

 何故なら、人の思惑など一切顧慮せぬのが
偉大な人間である、と勘違いして孤高の一匹
狼を気取るばかが増えるだけだからだ。

 頭の悪い子供に間違った権利意識と平等感
を吹き込み、常識を蔑むことが自由で柔軟な
発想につながる、かのような誤解を与えた場
合、どんな人間ができあがるかは、ちょっと
周囲を見回せばわかる。

 誰にでもやさしいのが健全な社会ではない。
 人間は他者からの援助や協力なしには生き
られない。
 単独では非常に無力な存在である。
 特にその幼児期にあっては、快不快のすべ
てを周囲に依存しきっている。
 人間でも動物でもこの時期に身につけた行
動の仕方が、その後の生涯を支配する。

 「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場
で学んだ」という題の本が大分以前にあった
が、現在では大切なことを何ひとつ身につけ
ないで砂場から出てきたような不快な人間が
社会のあらゆる階層に増えている。

 就学児童にまず最初に教えるべきことは、
「この自由な日本という国では、本人が望ま
ないことは、何人といえども、これを強制す
ることはできない、つまり、たとえ親や教師
であっても、学校へ来たくない子供を無理に
学校へ来させることはできない」、という事
実である。

 そして就学児童の親達に伝えるべきことは、
「人並みの教育を受ける権利、などというも
のはなくて、あるのは、人並みの教育を受け
る機会だけだ」、ということである。
 しかもこの機会は、親にではなく子供本人
対して与えられたものである。

 教育にかぎらず民主主義が保障する権利と
は、与えられた機会に対して、本人自身がこ
れを拒否する権利だけである。
 与えられた機会を受け取るためには、様々
な制約が伴うし、それらの制約をみずから進
んで受け入れる覚悟が必要である。

 すなわち、人並みの教育を受け、人並みの
生活を送りたい、と願う者は、誰でも、人並
みに社会の現行ルールを守らなければならな
い、ということである。
 教室での最低限のルールが守れない者に、
授業を受ける資格はない。
 学校へ来ることを拒む権利が、本人に保障
されている以上、教室にいる生徒は、全員が、
自ら望んでそこにいる、ということである。

 分かりにくいところは少しもない。
 小学生にでも、ゆっくり説明すれば充分に
理解できる。

 そもそも、主義や制度以前に、生きる権利、
などというものが、誰にもないのであって、
この世に生をうける、というのは、単に生き
る機会を与えられたにすぎない。
 神によってかどうかは知らないが、その機
会ですら、必ずしも一律に与えられているわ
けではない。
 生まれつき心臓に欠陥を抱えて、不安な人
生を送る人もいる。

 生きるという事は、極めて不公平で無原則
な生存競争に参加する、という事である。
 大会ルールに文句をつけてもはじまらない。
 どうしても気に入らなければ棄権するほか
ないが、他の参加者に迷惑がかからぬよう、
しずかに退場しなければいけない。


2002年05月08日(水) 2002年就職戦線

 以下は昔知っていた大工さんから聴いた話
しである。

 「近頃じゃ自分のような者でも名人と言っ
て、おだててくれる人もある。ありがたいこ
とだが、じつは、本当の名人上手にかかっち
ゃ、自分などまるで形無しだから情けない」

 「くやしいが、どう逆立ちしたって足下に
も及ばないのだから、しょうがない」

 「それと反対に、いくら厳しく仕込んでも、
本人がどんなに一生懸命頑張っても、どうに
も、一人前にできないというのもいる」

 「世の中、一割の天才と、一割の鈍才がい
て、これはもう、最初っから問題にならない」

 「問題はあずかって仕込めばものになる八
割の凡才で、努力の次第によっては、いつか、
人から名人上手とおだててもらえるようにも
なる」

 「でも大抵は、辛い下仕事が辛抱できない
か、すぐに名人を気取って身を持ち崩すかで、
いなくなってしまう」

 2002年の初夏、就職活動に駆け廻る碌
に社会経験も持たない20代の娘を相手に、
つまらない駆け引きのようなまねをして、帰
りの電車の中で涙ぐませることが、本当に人
材を得る途であると信じているなら、今日の
企業には、ただあきれるばかりである。

 この不況下、求職者に対して採用数が極端
に少ないのはわかる。
 しかし、一割のダイヤモンドの原石だけが
狙いのような選考の仕方はばかげている。

 新卒者全員が、自分こそ磨けば光るダイヤ
の原石であると、その証拠提出を求められて
いるようなものだ。
 これでは、うそでもはったりでもいいから、
とにかく自分らしさをアピールし、何が何で
もキラリと光って見せなければならない。

 トレンド企業の人事部長に大工の棟梁のぼ
やきを真似る資格はない。


2002年05月01日(水) 戦後教育が生んだ誤解

 昭和25年(1950年)生まれの団塊世
代はちょうど50歳で、二十世紀が幕を降ろ
すのを見た。
 この年代は第二次大戦直後数年間のベビー
ブームに生まれた子供達で、やたら数が多い。

 そしてその親達の大半は、敗戦を大人への
成長過程で迎え、戦後社会が価値観の180
度転倒、という曲芸の様なまねを見せる中、
成人し、やがて自分達の子供を持つにいたっ
た世代である。

 そのせいかどうか躾に関しては、定見を持
てぬまま、これを義務教育に委ねてしまった
感がある。

 とにかく昭和20年代の子供達は、いわゆ
る戦後の民主教育を自明の事として受けた最
初の世代である。

 親や教師達が受けた全体主義教育がどんな
ものかはよく知らない。
 しかし戦後の民主教育というものも、これ
はこれでそうとうに胡散臭い。

 「人はすべて平等に造られており、人間と
しての尊厳に変わりはない」

 そうだろうか、子供の目から見ても人間一
人一人の尊厳はずいぶん違っているように見
える。

 天皇陛下の名のもとに何万の二等兵の命を
投げだせ、というのも無茶だが、誰でも彼で
も同じ、というのもやはり無理があるだろう。

 公民権上の平等はわかるが、人間存在にま
でへんに平等を強調し過ぎるのは、反って不
自然な誤解を生むことになる。

 人間としての尊厳は一人一人違っている。
 もちろん、肌の色の違いによってではなく、
その生き方によってであり、生まれ(出自)
によってではなく、その育ち方によってであ
る。

 子供の世界にもちゃんと尊敬や軽蔑はあり、
一々大人から教わるまでもない。
 相手が大人であれ、子供であれ、公正で勇
気のある者は一目置かれるし、ずるくて臆病
な者は嫌われる。

 子供というのは大抵の場合、親の顔つきを
受け継ぐのと同じ割合いで、親のずるさをも
受け継いでいるから、幼稚園の砂場にして、
早くもその振る舞い方で、人間性の違いはは
っきり見えてくる。

 10歳から12歳くらいまでの子供という
のは、案外物事の本質が直感的にわかってい
る、むしろ成長するにつれ、認めたくない事
実から目をそらす術を教わる、といって良い。

 自分が子供だった昭和35年頃までの大人
は、現実の世界がいかに不条理に満ちていよ
うが、「それがどうした、騒ぐほどのことか」
と片付けるだけの懐の深さがあった。

 また子供の方でも、「算数はできなくても
駆けっこの速い子がいるように、人各々に得
意不得意がある」といった言い方をされて、
それを真に受けるほどばかではなかった。

 「もちろん、どんなに努力しても及ばぬ壁
はある、しかし安易に敗北主義に走るのは、
単に努力するのが嫌なだけの怠け者である、
さがせば誰にでも取り柄のひとつやふたつは
あるかもしれない、そのくらいの気持で頑張
れ」、と翻訳して聞くことができた。

 ところが現在では、「駆けっこ」を「スポ
ーツの才能」や「芸術的感性」、といった言
葉で置き換えてやれば、子供どころか親達の
中にも、何の疑いも持たず鵜呑みにしてしま
うのが大勢いる。

 こういうとんでもなく見当違いな自尊心を
抱いてしまう人間は、自分の漠然とした潜在
能力はやたら過大評価したがるくせに、それ
を具体的に顕在化する努力はしたがらない。
 努力は保留したままで、人間的価値はどこ
のだれにもひけをとらない、と勝手に決め込
んでしまう。

 何のことはない、へたに努力して、結果が
人より劣っていたら気にくわないからである。

 自信はないくせに、意地だけは一人前以上
に張りたがる。
 こういう人間は、人から嫌われれば嫌われ
るほど、反対につきまとわずにはいられない。

 じつになさけないストーカー心理、という
べきで、自分が相手にあいそをつかすのはい
いが、相手が自分にあいそをつかすのは断じ
て我慢がならない。


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