この間スタバへひとりで行ったとき、高校時代にずっと片想いしていた人にそっくりな人を見かけた。他県に移り住んでいるはずだから、似ている別人に違いないはずなのだけど。そのときの動揺ったらもう半端ない。
片想いで終わった恋はいくつもあるけど、終わらないまま時が過ぎてしまったのは高校のときの恋だけだ。たぶん今会ってもドキドキするのだろうし、もしかしたらまだ片想いをしているのかもしれない。わたし自身も気付かないような心の隅で。
最後に会ったのは、うすいさんと結婚することが決まってすぐの事。仕事場である紅茶屋にひょっこり現れた。少し話をして、彼はメールアドレスを置いて帰っていった。 「なぜ今なんだ!?」と、おそろしく動揺した事は今でも鮮明に覚えてる。「何かに試されている!」とも思った。
結局メールはしなかった。うすいさんにも話した。 あのときメールをしていたのなら、もしかしたら運命が大きく変わっていたかもしれない。わたしは今ここにいないかもしれない。
でも、今わたしはここにいて、何の変哲もない平和な日々を過ごしていて、それはとても幸せなことだと思う。あのとき揺れ動いた心を鎮めて、決めた道をまっすぐ歩いてきて良かったと思う。
まあ、たかがメールだったんだけどね。でもメールをしてしまったら、高校のときの想いが溢れてきてしまって、うすいさんに対する気持ちに自信が持てなくなってしまったかもしれない。過去は過去、今は今、と割り切れるほどわたしは器用じゃないから。
あの人も、今どこかで幸せに笑っていてくれたらいいな。メールも放棄しておいてそんな事思うなんて自分勝手なのだろうけれども。
すぐに人を羨ましがる癖、性根から叩き直さないと、たぶん一生直らない。「気を付けなきゃな〜」とか「マイペースにがんばろう!」とか生温い事言ってる間は直らないだろうなあ。
羨む心がプラスに働いて「この人のここが素敵だと思うから見習いたい」とか「あの人のこういうところを真似してみよう」とか思えればいいんだけど。「いいなあ。あの人はわたしにないものをたくさん持っていて・・・。それに比べてわたしは何てみすぼらしいんだ!」みたいな気持ちになるだけ。何だろうね。「努力をしてもたかが知れている」と自分を見限ってしまうのかな。まあ実際、高が知れているだろうけど・・・。 心が荒んでいるときは妬みやひがみに近い感情にさえなってしまうから、本当に自分が嫌になる。
眩しいくらいに輝いているような人間になりたいわけではないけど、自分なりの魅力を持てる人間にはなりたいなあ。
わたしの魅力ってなんだろうか・・・。 今のわたし、たぶん人生で一番ダメな状態かもしれない。ダラダラ生きてる気がするよ。目標とか目指すものがないもの。
2009年11月19日(木) |
森とは関係ありません |
わたし、森ガール恐怖症になりつつあるかもしれない。 mixiのコミュニティをのぞいてみて、森ガールの条件(?)みたいなものに該当するところがいくつかあった。でもそれは森ガールになる為に好きになったり興味を持ったりしたわけじゃなくて、もっと前からそうであっただけ。森ガールとは一切関係ないよ!と叫びたい。
最近は、森ガールが行きそうだなあ、と思う雑貨屋やカフェに行くのもちょっと躊躇う(行きたい気持ちはあるけど)。そして森ガールっぽい人を見かけると「この人森ガールかな」とか思ってしまう。さらに「わたしも『この人似合いもしないのに森ガール気取りで恥ずかしい!』とか思われてるのかもしれない」なんて考えてしまって、そわそわしてしまう。自意識過剰だけど。
森には住めないよ。たぶん。北欧の森でしょ?寒過ぎる。マングローブのほうが合ってるかな。寒くないし。
2009年11月18日(水) |
馴染みのもの・とっておきのもの |
ほとんどの場合、紅茶でもウーロン茶でも日本茶でもコーヒーでもココアでも、同じマグカップで飲んでいる。クオリティシーズンのダージリンだったとしても同じ。 紅茶にはティーカップを、コーヒーにはコーヒーカップを使ったほうがきっともっとそれらを「味わっている」という気持ちになるだろうし、心を豊かにしれくれるのだろうと思う。でもわたしにはそこまで「特別なもの」ではないのだよね。特に紅茶は。
生活の一部に溶け込んでいる「紅茶やコーヒーを飲むこと」をわざわざ「特別」にするのも変な感じなので、もう何年も使っている手に馴染んだマグカップで飲む。そういうのもありかな、と思っている。 その代わり淹れ方はなるべくきちんとする(ように心掛けつつ、そうでないときもあるので、これは今後の改善点)。
もちろんカップには色々なデザインや柄があって、気分によって使い分け、カップを含めて楽しむ人もたくさんいるし、本当はそれが正しいのかもしれない。
とは言え、ひとつは持っておきたいなあ、とは思っている。真っ白のシンプルな、でもきちんと作られているもの。柄はね、しっくりくるものに今まで出会ったことがない。「どう考えてもわたしには合わないだろ!?」と心の中でつっこんでしまうようなものばかりで・・・・。 もっと年を重ねて心が落ち着いたら、じぶんにぴったりのものが見つかるかなあ。
静かで穏やかで、でもちょっと間の抜けた日常の日記が読みたいし書きたい。
過度に顔文字や装飾をほどこしてあるのではなくて、書く人の人となりがにじみ出ていたり気の利いた表現を用いていたり、文章だからこそ読むのが楽しいというような日記。
言葉の乱れって、いつの時代も「今時の若者は・・・」みたいに言われてきているけど、本来の日本語が一片の乱れもなく使われてきていたのなら「古文」なんて存在していないはず。だから今使われ始めている「なんだこりゃ」と思うような言葉も、何百年かしたら普通に辞書に載っているのかもしれない。今わたしたちが使っている言葉が「古文」になっているかもしれない。 だとしても、なるべくなら今まで日本語として使われてきた素敵な言葉たちを使っていけたらいいなあ、とわたしは思う。
とはいえ、そんなに流暢に日本語を使いこなせるわけではないのだけど。勘違いも多いし。使い慣れない慣用句の意味を調べてみると、意外と間違って覚えていたりする。
そういえば中学生のとき「雰囲気」という漢字の読み方について国語の先生とクラスの生徒全員で真っ向から争ったことがあったなあ。国語の先生なのだから間違っているはずないのにね。みんなで「ふいんき」だと鼻息荒くしていたなあ。漢字を一つひとつ見てみれば「ふん・い・き」だって分かるのにね。でも実際大人でも「ふんいき」と言えてない人が結構いる。感覚で覚えてしまっているのだよね。
ちょっと浮上した気がする(心が)。 すぐに内に溜め込むのはよくない。でもたぶん一生直らない。そういう風にしか生きられないし。
ところで名前の話。 本名じゃなくてね。ハンドルネーム(て今でも言うのかな?)のこと。たくさんの人がブログを書くこの頃。育児ブログを見てると「○○ママ」とか「○○ちゃんLOVE」みたいな名前が多い気がする。わたしが見かけるブログがたまたまそうだっただけなのかな。謎。名前なのに、と思う。
10年くらいネット上でBBSに書き込みしたり日記書いたりサイト運営したりして、名前もいくつか使ったけど。本当の名前ではないとは言え自分が名乗る名前だし、ものすごく悩んで付けた思い入れのある名前ばかりだった。今の名前は・・・ちょっと紆余曲折あったけど。でもすごく自分らしくしっくりくる名前で気に入ってる。ある意味本名より自分らしい。
育児ブログと銘打ってるから「○○ママ」でいいのかな。寧ろ普通なのかな。本当に我が子が可愛くて仕方がないのだろうなあ。 わたしはそこまで母親になりきれないから無理だー。というか、子が大きくなったとき、方々から「○○くんのお母さん」と呼ばれるのも、やだな。わがまま?
わたしが最初につけたハンドルネーム、黒蜜糖だったなあ。甘いね。
暗いなあ。わたしの心。
暗い事を考えれば考えるほどにどんどん深い闇に堕ちていくのはわかっているのになあ。抜け出せない。誰かわたしに光を灯してください。蝋燭ほどの小さな光でいいから。そうしたら、そこへ向かって歩いていける。
未だに「うすいさんはどうしてわたしと結婚したのだろうなあ」とか「そもそもわたしに興味を持つ、という事自体が不可解だ」とか思ってしまう。うすいさんの職場は女子率が異様に高いし、仲の良い女子たちは可愛い子ばかり。美人は3日で飽きるけど・・・というやつなのかな。
最初、わたしはうすいさんのことをこれっぽっちも好きじゃなかったのになあ。いつの間にか情が移って離れられなくなってしまった(お菓子をよく差し入れしてくれていたから、餌付けされたんだと思う)。わたしの想像をことごとく裏切ってくれたしなあ。 わたしの想像→福島出身・父はすでに他界・1人暮らしの母を気遣って休日は実家へ帰る・運動は苦手・パソコンが得意・インドア派 実際→栃木出身・両親はとても若くて元気・実家暮らし・陸上部インターハイ出場経験あり・パソコンに一切興味なし・退勤後夜通し車を走らせスノーボードをしに行くつわもの
福島の銘菓をよくくれたので、福島の実家に頻繁に帰る人なんだと思ったら、スノーボードのついでにお土産として買っていただけだった。勘違いも甚だしいね。
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