あお日記

2002年12月20日(金) _/_/_/ お知らせ _/_/_/


 近頃この日記を放置しっぱなしである。それはネットに対する興味の低下に起因してもいるし、単に仕事が多忙で更新意欲が湧かないせいもある。が、モチベーションを必要としなくなったことがその最たる理由だろう。過去に自分を探す作業を私自身が欲しなくなった。

 思えばこの日記の発端は、今いる私の彼女さんと付き合い始めた頃に書き始めたものであり、そういった状況で私は自分なりに先を急ぎたかった、その衝動が私に筆を走らせたと理解している。そう、私は彼女に自分の全てを知ってほしかった。後ろ暗く思っていたあまり自慢にもならない自分の過去であっても私は彼女に知ってもらいたかった。

 あらためて振り返ってみると、実はけっこう色々なことがあったことに気付く。若い頃はどうということもなく過ぎていった人間関係のひとつひとつを楽しむ余裕は私にはなかったが、変わりにこの日記を書くことで十分その恩恵にあずかったように思う。加えて、私が思うこの日記のオイシイ場面はすでに語ってしまったのだろう(笑)。

 私が過去を語らずとも、彼女は十分なくらい私のことを知ってくれている。これ以上の幸福を望むに私の筆は必要ない。



 ...まあ、勝手に打ち切ると怒る人がいるかもしれないので(笑)、この日記はこれからかなり端折って綴るのでヨロシク。




2002年12月19日(木) 温泉旅行

 お気に入りの自動車を前にご機嫌だった私は、突然の明の来訪に苦笑しつつも、その状態を切り上げる気にもならず彼女の発するだろう言葉を甘んじて受け入れられるくらい心が広がっていた(笑)。
 話を聞くほうが得意な私にとって明のように自己主張を明確に持っている人間の話を聞くことはひとつの楽しみでもあった。その態度が明にとっても楽だったようで、彼女を横に座らせてひなたぼっこがてら、小一時間くらい話し込んでいたと思う。彼女の話しにつられていつもより饒舌になっている自分がこの春の陽気と相まってとても新鮮だった。

 思えば彼女とこんなに話をするのは初めてだった。時間が経つにつれてそれを楽しんでいる自分を自覚していたし、どちらからともなく提供されるとめどない話題が続くことをありがたく思った。だが、我々の持ち時間は限られていた。駅前に電ちゃんの姿を認めて、明との話を切り上げねばならない必要を感じた。相変わらず強い春の日差しに気付き、かぶっていた帽子を彼女に返した。それと同時に目配せをして彼女の気を駅前に向けた。

 程なくして駅前に集合した我々はそのまま電車で帰途についた。





2002年12月18日(水) 温泉旅行

 起床と共に、前日まで感じていた熱っぽさは冷めたようだった。逆に打って変わって天気は晴朗、チェックアウトをして宿を出ると多少早めの春が陽射しから感じられた。夜中まで延々と喋り続けていたのが隣の部屋まで聞こえたと明に指摘されて苦笑した。そんな折に明のかぶっていた帽子が気に入って借りた。

 最寄の街へ乗り継いできた頃には正午近くになっていたように思う。街の散策を提案したミルに明が難色を示した。彼女としては予定に無い行動は眼中になく、そのまま帰宅の途につくつもりだったようだ。ミルが何とかなだめて1時間ほど自由行動にすることで話がついた。私としても一人で行動したほうが気楽な心境になっていたので明の口上をありがたく思っていた。

 特に目的地があるわけではないが、なるべく仲間たちがお互いに視界に入らない反対方向へ歩を進めた。といっても小さい街なので周遊にも限度があった。程なくして解散した駅前のロータリーに戻ってきた。

 当時私が購入を考えつつもまだ現実的でない、若い自分には憧れのような存在の車があったのだが、マイナー好きの私に見初められたその車を街中で見かけることはほとんど無かった。その時たまたまロータリーに停まっており、それを見つけた私は自由行動の大部分をその車の観察に割いた(笑)。最後には建物を背もたれにして腰掛け、日向ぼっこをしつつ長いことその車を眺めていた。身近な人間で例えるなら明のように癖が強くて(笑)、スタイリッシュで目がきれいな車だった。それまで感じていたそんなことを思い返しつつしばらく我を忘れて見入っていたが、現実としてすぐそばに明が存在することに気がついた。それは彼女の歩がまっすぐ私に向かって伸びていることに横目で気がついたからだろう(笑)。偶然という小悪魔が私の琴線を揺るがした。




2002年12月17日(火) 温泉旅行

 チェックインは夕方の5時を過ぎてしまった。部屋に荷物を置いて早速温泉につかることになり夕食の待ち合わせをしてから向かった。とりあえず地面に落ち着きたかった私は宿泊する部屋が意外と大きい和室だったので何か得をしたような気分になったいわゆる庶民だ(笑)。一通り部屋を物色している間に女性陣の弾んだ声が我々の部屋の前を通過して行ったが、風呂につかるのが苦手な私はいつまでも部屋に残って一眠りしたいくらいだった。ミルには先に行ってもらってひとり畳の上に寝転がって目を閉じた。が、ここまできてグループの和を乱すこともあるまいと思い直して浴場へ足を向けた。


 最後に到着した私を待って夕食と相成った。ミルが気を利かせたのか、食卓には結構な具材が並んだ鍋で、メインはイノブタらしかった。年齢に不相応なくらい家事をこなせる電ちゃんや自称料理好きの明に鍋奉行を任せて私はただ眺めているだけでよかったのだが、少し食べたら満腹になってしまった。1人分の割り当てはかなりの量で当然まだ不自然なくらい残っている。こういったところで無理をしてみても食べ物は喉を通過しない。なるべく通過しやすいこんにゃくや豆腐を食しつつ「いかがなものか」と思案していたが、他の3人もすぐに空腹は満たされてしまったようだった。私にとってはこの場から開放されるのが最も喜ばしいことだったろう(笑)。


 その後は就寝まで自由であった。隣の部屋の2人の嬉々とした声が長く続くことはなく、すぐに床へ納まったようだ。毎度のことだが、私とミルは話しこむといつまでも長い。途中で共同トイレに向かったが、部屋の前の廊下で風呂帰りの明とばったり出くわした。私にしてはごく当たり前の若者同士の会話をしているなぁと思いつつ用を足しながらひとつため息をついた(と思うんだが/笑)。それは楽しいのかそんな場合じゃないのか、自分でもよく分からない。夜の帳は私を冷静にさせる。この日は湯気の見えそうな乙女の浴衣姿を見たわけでは無いだろうが、旅行の夜に相応しい熱っぽさをささやかに感じていた。




2002年12月16日(月) 温泉旅行

 一通りダム湖を周遊し終えて多少小腹が空き始めたので時間を確認すると午後の1時を過ぎていたと思う。といっても美味いメシを食わせるような店などあるわけもない山奥なのと参加者全員燃費がよかったのでそのまましばらく周遊することになった。

 ここでミルが提案したのが近場の尾根の上にあるそこそこ名のある神社に行くことであった。方法としてはダム湖から伸びている車道沿いに徒歩で登るのがひとつ、川沿いを多少逆戻りして登山口付近にあるロープウェイを利用するのがもうひとつの手段だった。関西方面に一人旅をした際に軽装で山に挑み苦い思いをした私はその経験もあってか後者を選んだのだが、あとの3人は「時間がある」という理由で徒歩、有無を言わさぬ多数決でボヤいた私の言葉に数時間後の女性陣は納得しただろう(笑)。ミルだけは中学の頃登山部ではるかに高い山々に登った経験があるのでハイキング程度のこの時はなんでもなかったようだ。

 1時間半ほどかかって神社に辿り着いた頃はミル以外は見るからに無口でヘロヘロであったが、神社仏閣好きな明の興味のおかげで散策らしい体裁は保ったようだ。下山はさすがにロープウェイ、登ってきた苦労がウソみたいにあっという間で降りてきた。それからバスを乗り継いで目的の国民宿舎を目指したのだが、引き続き無口だった女性陣はさすがに空腹が堪えたようだ。

 山の冷たい小雨がより一層、温泉への渇望を駆り立てたに違いない。演出としてはとてもよいものだったが普段会っている時の我々でしかないことに気付きつつ、揺れるバスの車窓と彼女らの後ろ姿を交互に眺めていた。




2002年12月15日(日) 温泉旅行

 高校の部活で知り合ったとはいっても、我々4人は学校を基点にまったく別方向から通っていたような格好だったので、当日の待ち合わせはミルの調べた時刻の列車に3人が乗り合わせてから乗り換え、最も田舎に住んでいる私がその単線列車に乗り込む形になった。目的地が山の中なので必然と使う路線がローカルで、そのくせ特急列車を設定している私鉄だったので、旅行にありがちな対面シートを3人でわいわい話しながらやってくるかと思いきや、空いている車内に何故か女性陣に取り残された格好で椅子を回転させることも無くミルが座っていたので、のっけから違和感を感じる旅行だった(笑)。目的が温泉に入ることなので、それさえ達成されれば良いのである。そう考えるだろう4人だったので特に衝突も無かったが、これにハマちゃんが加わっていれば輪が生まれる。彼女はそういう子だと車窓をぼんやり見つめながら考えた。私にその代わりをやれというのは荷の重いオプションだった。


 滞りなく終点に着いたが、そこから更に鈍行で山奥に行く間に天候が怪しくなってきた。計画ではダム湖の周辺なぞを散策してから宿に向かう予定だったが、明にはその旨が伝わっておらず、不可解な表情を浮かべる彼女に「夕方にならないとチェックインできないんだよ」と諭すのが無害な私の役目だった(笑)。これじゃ騙して連れて来たみたいだと思いつつ、そうでもしないとこいつは来なかったかもしれないと納得も出来るのだった。

 難しい性質を持っていると思われがちな明だったが、あれはそういった類のものではなくて、感情が素直に表情に出るだけである。この1年でよく話をするようになった彼女に対して、少なくとも私はそう思っていた。独断専行と言われがちなその行動は、私の目の前では発揮されることはなかった。むしろ対人においては相手に合わせるのが明だった。ただ彼女自身の持つ人間の評価は辛い(笑)。それだけのことである。




2002年12月14日(土) 二十歳の誕生日


 当時の日記をひも解くと、どうやらハマちゃんのほうから私の誕生日に合わせて電話があったようだ。その時に彼女の大学合格のことや旅行のことなどについて話をしたと思われます。ただ、そういったターニングポイントになりうる彼女のささやかな気持ちに誠意を持って応える気など全く無い自分の内面が記してある日記の文面は、いよいよもって煮詰まってきた当時の自分に覚悟を迫るようなものに変化してきていた。

 それより1ヶ月ほど前、勝くんや幼なじみのFに成人式の参加に誘われたが、そういったものを祝う発想など無い当時の自分は「行ったほうがいいと思う」というFの言葉に妙に反発して尚更行く気を無くすのであった。

 そういった中で計画されたこの旅行について私は全く期待している向きが無かった。参加する人間がどういった環境に置かれているのかを考えていれば、旅行は私次第でもっと楽しいものになったように思う。そういった状況にならないためにも私は都合よくハマちゃんの明朗さに頼っていたかったのだ。

 そんな中、何か誘われ方に不満のある明もこの計画自体には賛同して二つ返事で参加を決めてくれたようだった。




2002年12月13日(金) 温泉旅行


 この旅行を計画中はまだ未成年の私も、計画を実行する頃ははれて二十歳になって彼女らの「保護者」ということになる。そういった社会状況は自分に関係のないものだとおもっていたが、その日が近くなるにつれて意識を変えなきゃと思う自分が滑稽だった。

 ハマちゃんの大学合格の報にふれて珍しく私のほうから彼女に電話したその折に、この旅行に参加できそうに無い旨を伝えられたように記憶している。とても残念そうだった彼女も実は私に負けず劣らず奥手(笑)。当然親御さんの許可も出ずそれが表向きの理由だったようだ。

 別の人間を探すことになったが、候補は1人しかいない。彼女らが高校3年になってやっと部室で顔を合わせる様になり、この1年でよく話をするようになった『明』だ。ややボーイッシュな彼女も年齢を重ねるに連れて大人の女性っぽくなってきたように思っていたが、本人はそれを信じていなかった(笑)。いまだに男の子と間違われるといって悩んでおり、とかく自分を「普通」と位置づけたがる人間だった。それは彼女の持つ個性を周囲が表現しきれないで「普通じゃない」と言って片付けていただけのように思う。実は私もその一人だったようだが(^^;; しっかりと彼女だけを見つめれば、自分次第でとても素敵な女性になると思いを馳せる未来が来るとはこの時点で気付く訳も無い。その個性ゆえに、久々に私の琴線にヒットしたのが明だったが、それはこの旅行後のことであり、話をしていてとても楽なハマちゃんと旅行に行きたいというのが本音だった。

 ハマちゃん世代について思い起こすと、当時の自分は人間関係について全くの無力だったことを思い知らされる。すでに守りに入っている受動的な私の態度は今思うと顔から火が出るくらい無責任で刹那的な対応しか出来ていなかった。だからこそ私はこの時期に友人たちと会う気にはならなかったのだろう。彼らにはそれが簡単に露見する。それを恐れる自分も分かっていて改善する気も無い自分も好きではなかった。

 後輩たちの進路も無事決定して卒業を迎えた。旅行はその1週後くらいに実行された。




2002年12月12日(木) 温泉旅行


 ハマちゃんの世代もいよいよ受験シーズンへ突入した93年の2月あたりにミルの口から思いがけない提案があった。例によって電話マメな彼がハマちゃんと同級の電ちゃんと話した折にふと彼女がつぶやいた「温泉に行きたい」というフレーズに反応した結果だった。こういった彼のレスポンスの早さがどこから来るのか我々の仲間内での付き合い方を見ているととても想像できないのだった(笑)。

 それは唐突な話だった。いつもどおりミルを誘い出してブラブラと本屋やボウリングといったこれまたいつもどおりの休日を過ごし、馴染みになったファミレスに落ち着いた席上での話だったと思う。

「泊まりで温泉に行くって話があるんだけど」

と切り出す計画魔の彼の中ではすでにおおまかなビジョンが出来上がっていたことだろう。聞くと、ミルと電ちゃんでお互い一人を誘って近場の温泉宿に一泊で行きましょうということだったようだ。私には特に異論も無く、彼に一任して計画は進んでいくことになった。

 相変わらず我々はファミレスで長い時間話をして時間を過ごすイヤな客だった(笑)。ミルはなかなか博学であり私の知的好奇心に打って響く最も身近な存在だった。この頃から検討を始めた自家用車の購入にも彼との付き合いの影響が濃く出ていたように思う。私は私で、共感できる点は素直に受け入れるが「それは違う」と思う部分を受け流すのもまた上手だった。


 傾向は依然として鬱。心から笑うといった記憶はすでにあの夏に置き忘れて二度と手に入らないものだと思っていたし望んでもいなかった。その気持ちがより一層と思い出を美化して止まない。気持ちと共に停滞気味な人間関係で出来ることといえばたかが知れている。まあとりあえずは無事に電ちゃん世代の進路が決まって彼女らの高校卒業を迎えてからの話となる。




2002年12月11日(水) _/_/_/ 蜜月 _/_/_/

 今日から1泊2日で修学旅行のため娘さんが不在である。昨年あたりから漠然と考えていたのは娘さんの不在にかこつけて我々もどこかに旅行でもいこうかということだった。思えば出会った次の年の夏に伊豆へ行って以来、旅行らしいものは計画していない。毎日の電話でそんなことを空想して楽しむ時もあっただろうか。

 ただ現実として日が近くなると思うようにならない仕事の予定に目の前のスケジュールを空けるのが精一杯で、かなり私の中ではトーンダウンしてしまったと思う。


 言い訳、というわけではないのだろう。娘さんの旅行中、母親は万一のために家を空けないでいたほうがいいだろうと思っていた。口には出さなかったが、彼女さんもきっと同じことを感じていただろう。せめて私だけでも彼女さんの元へ行ければと思っていたが、連日の仕事の多忙さに支配されて思うように動けない状況がとてももどかしい。


 彼女さんとの付き合いは形の上では遠距離恋愛となっているが、そういった一般的な範疇内で自分の恋愛を語ろうとは思っていないし、私たちには私たちだけにしか具現できない恋愛をいま行っているのだと思っている。なので遠距離だからどうこうといった不安や恐れは感じていない。ただ、この恋愛を進めていく上で私が恐れていることがひとつだけある。

 私の存在で娘さんの心が傷つくようなことがあってはならないが、少なからず、すでに私は娘さんの気持ちを揺さぶる危険をはらんだ存在であると思う。私のことを受け入れてくれる未来はいくら成長の早い彼女とはいえ、全く想像がつかないほど先になりそうだ。そのことについては特に落胆も悲観もしていない。自分は大人として、人間として精一杯に生きてその姿を見てもらうしかないと思う。

 私の存在がいつか母娘の仲を裂いてしまうことにならないか、恐れているのはその点だけだ。あと半年もすれば娘さんは中学生になる。色々なことを想う気持ちが豊かになっていく年頃だ。彼女のその心根に、私という人間はどう映るのだろうか? それが楽しみでもあるし不安でもある。


 私は出会ったその日からすでに彼女さんが好きだったが、具体的にどれくらい続く恋愛になるのか考えも及ばなかった。その私の目の前に娘さんという人間が現れてやっとそれを考え始めたと思う。

 私の望む幸福は、娘さんなしではあり得ない。彼女さんと同様に、自分には娘さんの存在も大切なんだと分かったのは単純に彼女のことを好きになったからだろう。彼女さんが大切に育ててきた素直な娘さんだった。愛娘をひとりで育ててきた彼女さんの自負心を私は尊敬しているし、2人の間の信頼関係を信じている。それを思えば、私の入る余地が多少無くてもそれはそれで構わないだろう(笑)。2人の蜜月が、私にとっては何よりの潤滑油だ。




2002年12月10日(火) 2台目


 私としてはそれほどパソコンにのめりこんでいた訳でもないし今ほど使える編集機器ではなかったため、ゲーム機以外の用途を認められずにいた認識をどうにか改めようと画策するタケダの呪術にまたもやはまってしまった私(笑)。

 友さんの影響でMacのユーザーとなったタケダの賛辞が事あるごとに耳につくようになって、余分な資金もあるせいか、つい電気屋に行って衝動買いをしてしまったのがPerforma520だったように思う。17万円くらいしたように思うが、当時としては破格に安かったモデルだ。まだWindowsが未完成でMS-DOSのはしりでしかなかった頃のことなので、多少心得のあるタケダにとってMacのシステムのシンプルさにはえらく感銘を受けたようだ。

 それと同時にニフティーサーブのIDを取得してタケダの家でチャットを楽しんだりもしていた。今でこそネットが普及して普通にコミュニケーションのツールと認識されているが、当時は全くもってオタクの遊び場然としていたように思う(笑)。どうもタケダはそういったことは気にしない性質で自分が楽しければそれでいいという人間だ。誘われた私もIDを取得したが、チャットのような不特定多数の人間が集まる場所は嫌いだし、おまけに相手の顔も見えないツールを喜んで使うわけも無く、月に210円だったかのID分の課金を延々繰り返しただけで有効に使った覚えは全くない。確かにタケダのやっているものを横から覗いている分には楽しかったが、私としては彼の購入した三国志のゲームのほうが興味があったわけだ(笑)。

 このように今後もタケダが私のトレンドリーダー(笑)になっていくわけだが、そのうちそれが周さんに変わっていくのである。それは単に会って話をする回数に比例していただけだと思うが、タケダと仲の良かったこの頃はまだ周さんとは疎遠で、周さんと仲良くなったと思ったらタケダが失踪中と、この2人と同時に過ごした思い出は高校卒業以後は皆無といってよかった。私としてはどちらも私に対して非常に影響力のある人間だと思っている。あまり相容れない感じの2人だが、いずれの性格も生き方も選択した手段も私は容認できるし、余り考えたことはないのだが、私は彼ら2人を男として尊敬していると思う。それはまあこの後の日記で書くことにしますか。




2002年12月09日(月) 『1992』


 高校を卒業して望んだわけでもないプー太郎時代を1年続けた後に父の仕事を手伝い始めたのがこの年の特徴的な出来事だ。プライベートでは日記を再開して以前のように考え落ちしていく時期にまた突入したようだった。その中で特に自分でも意外だったのが、いっちゃんよりも圧倒的に多くの名を記したのが嶋さんのほうだったことだ。空しい嶋さん賛歌を心の内で続けながら、社会参加したにもかかわらず私は自分のことしか考えられずに相変わらず殻の中にいた。

 周囲の人間たちと目に見えて疎遠になっていったのもこの年のことだ。仕事を始めたのが大きな原因だが、それを言い訳にして数々の誘いを断っていたと思う。偽りを書くとこの日記の意味がなくなるので書いてしまうが、正直言って人間との交わりは苦痛だった。それが友人との面会の時はさらにその気持ちを加速させる。近しい人間との交流でさえ拒絶したい自分をあえて彼らの前にさらすのは大きな苦痛であった。嶋さんに対する後悔をしていたこの年、私はそれを繰り返そうとしていたようだ。私は彼らに私自身を見限ってもらいたかった。それが出来るようなヤワな関係じゃなかったもんで今現在でも交流があるのだろうよ(笑)。

 来るはずのない嶋さんの返信を求め帰宅時は必ずポストを覗く。そして溜息をつく日々がしばらく続いた。




2002年12月08日(日) 禁断の遊び?


 原チャリを購入してからふた月に1度くらいはタケダの新婚生活の邪魔をしにいった覚えがある(笑)。そのほとんどがタケダ自身の誘いなので週末を利用して泊り込んだものだ。ちょうどラザの恋愛の時期に重なったので、この時期の彼の印象は低く、1度くらいは一緒にタケダの家へ訪問したかといった程度。彼は恋愛中は連絡をよこさない傾向にあって、仲間内ではよくそれを嘆いていたものだ。もっとも、今の自分がそうなので何も言えないが(笑)。

 この年の秋頃に珍しくタケダ家に電車で訪問した。その週末は嫁さんである友さんの弟と専門学校の友人がやってくる手はずで、私もそれにお呼ばれした。最寄の駅から彼らのアパートまでほぼ1本道。20分くらいの道程で向かう方向も同じ。微妙な間隔を空けて歩いていた前の中学生が弟クンで、後ろにいたのがお友達だった。それを原チャリで迎えに来たタケダが満面の笑み、それが3人が同じ電車だったことを告げた。

 この日集まった目的はタケダの昔の趣味であるテーブルトーキングのRPGを楽しむためだった。中学時代にかなりマニアックに遊んだタケダの残していったグッズの数々、主にメタルフィギアのゴブリンやガーゴイルなどが友さんにとってもウケが悪く(笑)、タケダとしてはなんとかこのゲームの面白さを分かって欲しかったようだ。高2の夏に初めてD&DというRPGを仲間内でしぶしぶ開催したが、個人的にはとても面白かった。ただシナリオを終えるのに時間がかかりすぎて、次にメンバーが揃うとは限らないことが難点だった。おまけにアメリカ人好みの大げさでキツいゲームシステムや挿絵だけでラザは参加もしてくれなかった(笑)。


 友さんの友人は女性にしてはすらっと背が高くスリムなジーンズを着こなしていて、まず私の周囲には存在しないタイプの女性だった。初対面の同い年であれほど気さくに楽しんだ人間も私の中では珍しい。それもこれも一夜限りの禁断の遊びでパーティを組んだおかげである(笑)。ついでに友さんの弟クンとも仲良くなった。




2002年12月07日(土) 変化


 帰りの切符を買ったのはいいが、その列車に乗るまでかなりの待ち時間があった。わざわざ寝台車を選ぶあたり、当時の自分の心持ちをよく現していると思う。不特定多数の人間と極力交わりたくない私が選択した旅程は見事なくらい人影の薄いものだった。帰りは米原駅からの乗車だったのでそこまで移動してからはただひたすら待ち続けようと思った。ただ考えるよりもずっと退屈だった。自分でもよくやったと思うが、午後の4時あたりから11時過ぎまで駅から離れずに何をしていたんだか(笑)。米原駅はとてもローカルな新幹線の駅だ。相まって寂しい街並みは日が暮れると照明の少なさで容易に想像がつく。それでいて駅のつくりはとても巨大だった。乗車券で入退場を繰り返しながら、その散策でかなりの時間を潰せたように思う。

 さすがにやることがなくなった。人がいない場所を探すのも難しいが、古い駅にはそれなりの良さがある。ここもそのひとつで、ホームの端っこに乗車待ちの出来る待合室が設置されていたので、午後8時以降はそこに腰を落ち着けた。他の乗客は数人が入ってきただけでほとんど無人だった。なので考える時間はかなりあった。おもむろに手帳を取り出してこの旅について綴った。


 私がこの旅で最も強く感じたことは自分でもとても意外なもので、その戸惑いが当時書いた自分の文章から読み取れる。
『それは自分に対する押し付けなんじゃないか』自殺を前提に生きている自分の内面に対する疑問。
『こうして一人で遠くにいるとやはりこの私でもさみしいのだろうか』脳みそが正直に欲する感情は当時の自分の抱いていた感覚と矛盾するものだった。


 今思うとこれらは明らかにそれまでの私にはない、自分の中に現れた『変化』だった。ただ私はそこに全く気付かなかった。実際これを書いていてはじめて気付いて本人が驚いているくらいだ。なるほどねぇ〜って感じ(笑)。ただ現在私が思うのは、そういった昔の自分を客観視してはいないということだ。それは同時に若かった頃の私を受け入れられる、そういう人間になったということだ。ここから先の日記は、そんな自分に辿り着くまでの過程を綴っていくことになる。ただ相変わらず、先は長い(笑)。




2002年12月06日(金) ハイキング


 宿泊のことなど何も考えていなかった割に荷物はボストンバッグ1つくらいあって、それを肩にかけて動き回るのは著しく体力の消耗を招いた。山の麓にその大名に縁のある古びた神社があったのでそこで荷物を預かってもらうことにした。もっとも、早朝ということもあってか人影が見当たらないので境内にそのまま置いてきただけだ(笑)。

 その山はある程度上までは車でも上がれるので車道に沿ってジグザグに昇っていった。場所によってはそのジグザグを直線的にショートカットできるのだが、城跡というのは元来マツの木を意図して植え込んであるので、400年を経た現代ではすっかりマツタケ山と化していた(笑)。なのでヘタに奥地に無断で侵入すると罰せられる恐れがあった。仕方がないので決められた登山コースをそのまま登っていった。

 山の中腹辺りで西側に視界が開けた。天気も良好で秋の空気も澄んで、湖の真ん中に浮かぶ小さな島を際立たせた。2,3歩進んでつかめば届くような感覚だ(実際は10キロ程距離がある/笑)。今現在でもその風景は忘れていない。殺し合いの果てにも情緒を楽しむ刹那はあっただろうか。

 山頂付近で一通りの散策を終えて下山する頃には、さすがに燃費の良い私の腹も空腹感に襲われた。朝から飲まず食わずで歩き通して脚にもかなりの疲労感がある。再び最寄の駅に戻ったのは午後3時ごろだったと思う。そこからターミナル駅まで行って帰りの切符を買った。




2002年12月05日(木) 山の麓まで


 ローカル線を乗り継いで辿り着いた駅は想像した以上に静かな場所で、駅舎は雨よけの屋根があるだけ。列車の乗員がその駅で降りる人間の切符を受け取ってから発車するような感じの無人駅だった。私はといえば、明らかに場違いな所に間違った服装でやってきた、浮いた旅行者だったろう。目的地はその駅から徒歩で3キロ余り歩いた先にあるとある戦国大名の居城である。といってもそこは日本でも有数の山城なので、麓から山頂まで500m余りある。スカしたジャケットと多少ダボついたスラックスで訪れるような場所ではない(笑)。要は甘く見ていたわけだが、その山を見上げて、己の小ささに絶句したものだ。
 
 ただそれが目的達成のモチベーションに全く影響を及ぼさなかったのは、私にとってこの地が自分の理想の場所だと訪れる前から強く感じていたからだ。端的に言えば、私は死に場所が欲しかった。そういうものを求めて実際に行動するようなこの時期が私の最も停滞していた年月であり、奇しくもそれは仲間たちの関係においても同様で、私に限らず人間の行き来の最も薄い時間が始まったようだった。


 沈んだ気持ちとは裏腹に、なんだかんだ史跡探訪を楽しんでいる自分がいた(笑)。周囲はとてものどかな平野で農家が多く、大きな人工物といえば高速道路くらいで視界をさえぎるものが極めて少ない。なので前もって調べ上げた本城と支城の位置関係や街道の機能性なんかを考えながら歩くのはかなり面白いものだったように記憶している。




2002年12月04日(水)


 高校の頃から戦国時代について興味があり、いつかはそれを題材に文章を書いてみたいと漠然と考えていた。私が目をつけたのが関西方面に拠点を置くある戦国武将であった。そしてこの秋に連休を利用して取材がてら旅行に出かけた。

 どうやらこの頃の私は「変化」を求めていたようだ。長いこと進歩のない自分を変化させたい衝動だろうか。自分の気持ちに踏ん切りがつかないもどかしさだろうか。そういう意味でこの旅が私に「変化」をもたらしてくれると期待する向きがあった。


 旅好きなミルの話を参考にして計画を立てた。旅行とはいってもどこかに宿泊する意思などまるでない。気ままといえば体は良いが、ただ投げやりなだけである。
 使える小遣いはふんだんにあったのだが、昔から金を使うのは嫌いだったようだ(笑)。なので東京駅から出発する鈍行の大垣行きに乗車することにした。深夜前に出発するこの列車は同じような境遇の金のない大学生やらに人気があって、休祭日前はかなり前から順番待ちをしなければならないとミルに聞いた。まあ発車の3時間くらい前に着けばいいだろうと思いつつ、買って間もない緑色のブレザーを羽織って家を出た。
 案の定、ホームはすでに学生たちの荷物で占拠されている状態であった。その直後に自分の荷物を置いて落ち着こうと思ったのだが、心配性の私は結局そこから離れることが出来なかった。幸い列車の座席に座ることが出来たと思う。次の日の7時前には終点に着くだろう。堅い椅子の上、腕を組みながらうつむいて、その朝を待った。




2002年12月03日(火) 天体観測


 嶋さんと私を結びつけたこの星空を2人で見上げるという約束は叶わなかった。当時の私はそういったことを思ってくれる彼女の気持ちや立場になって考えてみたことなど無かったに違いない。それは彼女だけでなく、私を取り巻く家族や友人たちも同じだったのだろう。今でこそそれは「若かった」といった一言で笑っていられることかもしれないが、同時にそれはいつまで経っても自分を締め上げる事実であることに変わりはない。確かに私は今現在においても未成熟で欠点だらけの人間である。だが、それを受け止める器くらいは大きくなった。それでもなお過去の自分を苦々しく思うのは、それが単純に度を越していたからだろう。そういった後悔の気持ちがあるから今の自分は存在しているのだ。


 当時の自分は別の面で後悔をしていた。再開した日記と天体観測は必然的に嶋さんを思い起こさせたようで、要約すれば、約束を果たせなかった自分自身の変化を悔いている。若いとはいえ、ここまでくるとバカである(笑)。

 この年の秋は土星が見ごろで、以前に叔父からもらった天体望遠鏡を持ち出し、ミルの自宅付近の河川敷でよく星を眺めたものだった。当時はまだマイカーなど持っていなかったので、出かける時は天体観測だろうがボウリングだろうが軽トラであった(笑)。私がミルと仲が良かったのは、趣味や趣向の一致による所が大きい。感じ方の方向は同じでも、考え方に決定的な隔たりがあった。その隔たりこそが彼と仲間たちを分かつものであり、徐々に私も彼の弁護に回る気持ちが薄れていったように思う。


 屈折望遠鏡の7センチではアンドロメダ大星雲の確認は困難であったが、土星の観測には十分だった。中学生の時に校庭で双眼鏡を覗いた時に感じた真新しさというか懐かしさが、土星の輪の向こうに見えているものだ。この時の私は、嶋さんの不在を彼女との接点であるこういったもので補えないかと思っていた。いつまでたっても忘れないのは新しい出会いがないだけのことであって、問題があるとすれば人間のほうではなくて、そういった環境に自分を置いていることだ。ただ残念ながら、私は自分の置かれた環境を変化させる気持ちはなかったし、そういった私を変える外圧を期待する気持ちも薄くなってきていた。


 そんなことを思っていたある日の夜、一匹の犬が我々のところに迷いこんできた。子犬ではあるが産み落とされてから人の手で育てられた感じがあり、すでに離乳くらいは済んでいる大きさだった。首輪は無く、おそらくは河川敷に捨てられたのだろう。

 直感的に私は自分がこいつを引き取ることになると思った。人の手をベロベロ舐めまくって離れようとしないこの犬を軽トラの助手席に乗せて持って帰った。あの時から現在まで、相変わらず車の中ではおすわりの出来ないままである(笑)。




2002年12月02日(月) 原稿用紙


 この年の7月付けで日記を再開したと少し前に書いたのだが、それより前の春あたりからそういった文を書きたい衝動があったようだ。私小説から始まった私の文書きは、高3の文化祭で発表した『秋』から急速にモチベーションの低下を招いた。それまでは自分の幼い体験を基にした情景が余りに多く、必然的にネタ切れという羽目にあった(笑)。それに加えて自分の書き方に対する姿勢の問題があった。要は自分の考え方を周囲にひけらかして満足を得るそれまでの手法にウンザリしていたからだ。そういったものは日記に書けば十分なのであって、安易に近い人間にふれさせて賛同を得るものでもないと考えるようになったからだろう。

 そう思ってからずっと書けなくなっていた私に、とりあえず日記を再開するきっかけになったと思われる文章が原稿用紙に書きなぐってあった。それがこの年の4月から書き始めたものである。内容は日記と思って疑いがないものだが、どうして原稿用紙に書いたのか我ながらとても理解できない(笑)。


 その冒頭に登場するのはいっちゃんだ。昔感じた彼女の文書きの手法に対する批判と自分のそれが実は同次元のものだったという自分批判を例にあげて、要は政治的だと感じている周囲の状況に同化している自分を嘆いているようだ。

 断続的な日時に書かれたそれは4節で終わっているのだが、1節は上に書いたとおりで、2節は仲間内にみる自分の理想とされる位置について。3節目はこの秋に関西方面に旅行に行くのだが、その直前に書いた。我々の小さな社会の中にみる意見の相違と妥協点を模索もできないで建設的な関係の構築が為せない我々をあきらめ気味に書いてみせている。その中には自嘲といった救いもなく、まさに第三者的な物言いが、私が社会の中で置かれている位置である。そこから脱却する建設的な意思が欠けている自分を真綿で締めるように囲い込んでいったのかもしれない。


 上とは趣きも変わって書いている同じような文章が、ほぼ同時期に別つづりで書かれている。何度も書いて恐縮だが(笑)、それは相変わらず消えない嶋さんの存在についてである。そんなことを思っている時期に、私は今いる愛犬と出会った。物事は色々と繋がって移りかわっていることをあらためて感じる。次回はこのことについて書こうと思う。




2002年12月01日(日) _/_/_/ 筋トレ _/_/_/

 決心してから10日以上続いていた筋トレを今日はすることができなかった。珍しく続いていただけにとても悔しい。残業だから仕方がないけどとても悔しい。

 海まではなんとか続けようと思うので、明日は今日の分もやろうと思う。
 

 気休めなのは分かっているが、それだけ自分が楽しみにしている証拠だ。きっとしばらくは3人揃って海に行く機会もなくなるだろうから。青い水着もすでに用意している(笑)。


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