Spilt Pieces
2009年08月08日(土)  愛情表現
のろけだと言われた。
母に、彼との会話を話したときのこと。


家族と離れる寂しさ、新しい土地での生活。
不安ばかりで、たまに昼間から泣きそうになる。
いわゆるマリッジブルーというやつなんだろうか。
やらなければならない問題集を机の脇に積みながら、
「何も手につかない」という状況にしばしば陥る。


昨日、高校の同窓会のお知らせが届いた。
卒業10年を記念して、学年みんなで集まろうという企画。
仲のいい友人たちとは今も個人的に会っているから、
行ったところで会えるのはほとんど微妙な人たちだと分かっている。
新たに会いたい人などというのは、正直、いないに等しい。
むしろ、苦手な人に再会してしまうかもしれないことが怖いくらい。


それでも、何となく、興味がある。
当時の私は、赤面症が恥ずかしかったのと、
思春期特有の異性に対する嫌悪感みたいなものが強く、
男性と話をすることが全くできなかった。
意識しすぎと言えばそれまでだが、転校するたび同級生の
男の子にからかわれたり絡まれたりしていた当時の私は、
高校に入る頃には、話をすることさえ嫌でたまらなくなっていた。


大学に入り、それを克服しようと最初は相当我慢して
男性とも話をするように心がけた。
男友達もできたし、小学生のときの初恋の人以来初めて好きな人もできた。
同性も異性も関係なく、人と話すのは楽しいと思えた。
22歳になって、夫となる人に出会い、友達の時間を経て、
泣いて笑って、別れて再会して、結婚することになった。
今の自分が、高校の人たちと会ったなら、どう思うだろう。
当時とは違う視点で、人と話せるんじゃないか。
見えてくるものも、きっと違う。
そう思ったら、少し恐ろしさはあるものの、
行ってみたいという好奇心の方が強くなった。


「あなたは、その明るさを周りに与えられる人です。
もっと自信を持って下さい」
机の上に置きっぱなしにしていた卒業アルバム。
寄せ書きの欄に、当時苦手だと思っていたクラスメイトからのコメント。
彼は、東京大学に進学した。
いつも賑やかな人だった。
頭はいいけど。
人の気持ちにずかずかと入ってくる人だなと思った。
あなたに私の何が分かる、と、言いたくなった。
今の私なら、迷うより先に言葉が出そうな気がする。


あまり人の名前を覚えない私が、そのせいで、
10年経った今もその人の名前は鮮明に覚えていた。
きっと、相手はそんなことを書いたことさえ覚えていないだろうが。
「同窓会のお知らせ」と書かれた葉書の一番下に、
幹事代表としてその人の名前があった。
今、何をしているのだろう。
「本当は好きだった」とか、そういう、少女マンガにありがちな
ふわふわしたエピソードは特にない。
でもだからこそ、普通に話をしてみたいと思った。
言われるばかりではなく、言い返せる自分になったから今だからこそ。


同窓会に行こうかどうしようか、
仲のいい友達にも尋ねてみてから返事をしようと思ったのだが、
悩む余地さえなかったなら少し悲しいなと思ったので、
昨夜彼に尋ねてみた。
同窓会は、地元にて。1月2日だという。
「結婚して初めてのお正月、あなたの実家にも行かなければ
ならないでしょうし、いきなり里帰りしたいなんて言ったら、
やっぱり反対でしょうか?
高校の同窓会があるらしいのですが…」
彼は、三男だけど、実家の跡継ぎ。
長男・次男は、地域の手伝いにさえほとんど出ない。
彼が家を継ぐということを、親戚はおろか地域の人たちさえ知っている。
その集落には住まないと公言しているにも関わらず、
「若い人が増えてよかった」と、周囲からは無言のプレッシャー。
そんな状況において、親戚皆が集まるようなお正月に、
実家に帰るようなことを、してもいいんだろうか。


きっと、若干渋りながらいいよと言ってくれるのではと思った。
そうしたら、期待をいい意味で裏切って、即答で、しかも快く、
「もちろん!同窓会なんて楽しそうだね。ゆっくりしておいで」
と言ってくれた。
「俺も高校の同窓会なんて大学入ってすぐの頃のクラス会程度しか
出たことがないから、ちょっと羨ましいな〜」と。


私が卒業した高校は進学校だったため、
東大卒も、既に司法試験に受かった人や税理士をやっている人もいる。
目の前にある試験勉強が手につかないとウダウダ言っている私は、
高校の頃から机に向かうことがとても苦手で、
だから学年での成績も後ろから数えた方が早いくらいだった。
今の仕事はパート、同窓会に出る頃は、きっと無職。
ちょっと気後れするなと少しだけぼやいたら、
「じゃあ、自分で自分を嫌にならないように、できることを
精一杯やっていればいいんじゃないかな。
学歴や仕事じゃ何も決まらないし、満足できていればいいんだよ」
彼は、いつも優しい。
私のありのままを受け入れようとしてくれる。


「束縛することが愛情だとは思わない」
それを、ことさら主張してきたわけでもないのに、
彼は、いつも絶妙な距離感で私のそばにいてくれる。
行動を規制することもなく、だけど放置もしない。
私が「勉強やる気しない」と言えば、「しなさい」とは言うけれど、
その理由も、「自分で決めたことをできないと、さとは自己嫌悪しそうだから」。
私が、自分に満足できている状況において、よく笑うのを彼は知っている。
資格を取って稼いでくれと冗談を言ったこともあるけれど、
だけどもし私が途中で全部諦めて仕事をしたくないと言ったなら、
じゃあその間は家の中をお任せしますねと言うだけのことだろうなと思う。
朝、起きられなくて、昼頃まで寝てしまって。
ああ私駄目だなあ結婚してもこうだったらどうしようと言うと、
別に寝ていることが悪いとは思わないけど、
あんまり横になっているのは健康のためによくないから、
もう少し早く起きられるように頑張ろうねと言って、
モーニングコールをかけてくれた。


押しつけがましい愛情の示し方を、彼はしない。
でも、私が寂しいと泣く日には、何時まででも電話に付き合ってくれる。
不眠に悩んでいる時期には、電話をしたまま眠ってくれる日さえある。
地元を離れることの辛さを、親から遠いところへ行く罪悪感や寂しさを、
あなたに分かるはずがないと言ってひどい言葉をぶつけたら、
完全に分かることはできないけれど、少しでも痛みを共有できるように、
少しでもさとの心が軽くなるように、分かる努力はするし、話も聞くから、
一人で抱えずに言いなさい、と、優しく包んでくれた。
基本的に不安定な私にとって、彼の安定した雰囲気・考え方は、
革命的でさえあり、本当に、魅力だと思う。


私は、彼にどんな風に、何を返せるだろう。
今はまだ分からないけれど。
同窓会に行って、この若さでとんでもない肩書きを持っている人も
きっとたくさんいるのだろう。
私には、社会的に見てステータスと呼べるようなものはない。
でも、愛情いっぱいに包んでくれる夫がいて、
高校生のときのような、いつも誰かに、いつもどこかに、
コンプレックスを抱いていた頃とは違うと思えば、
それは、立派に胸を張れることなのだろうなと思う。
あなたに出会えてよかった。
いつも、ありがとう。
2009年08月06日(木)  格言
たまに、「自己啓発」というジャンルに属するような本を買う。
大抵、書店で立ち読みをして、首を縦に振る箇所が多いようなもの。
買ってきた当日若しくは翌日くらいまでは手元すぐそばに。
その後は、いつの間にやら本棚の隅の方に。
隙間を探そうとするとき、前にも似たような本を買っていたと気づく。
気づいても、また買ってしまう。
気持ちがぶれているときに。
何となく、弱っているときに。
手に取るジャンルが似ているのだから、そろそろ気づけと自分に言いたい。
それでも、そんなとき、きっと思考回路はある一定の枠を抜けられないのだと思う。


好みの装丁。
好みの文章。
好みの言葉。
押しつけがましくなくて、いつも人の目を気にしてしまう私が抵抗なくレジへ持っていけるような、ごく「一般的な」雰囲気の本。
本は、中身が表紙と裏表紙に挟まれていると、結構忘れてしまう。
そんなことを言って、たまにワードで気に入った言葉を書き出す。
机の前のコルクボードに貼る。
【「そのうちやる」「いつかやる」と言う人に、「いつか」は決してやってこない】
色んなところで聞いたような言葉が、一年くらいそのままになっている。
見ては、目を伏せる。
自覚をしている。
それでも、見たくない。
見られない。
かといって、剥がすほどには諦められない。
そんな微妙な私の気持ちを表すかのように、紙が少し丸まってきた。


ずっと、言葉は、受け取るタイミングによっては胸に響き、または通り過ぎていくものなのだと思っていた。
だから、本を買う瞬間は、多少悩みはしても「今の私には言葉を受け入れるだけの余裕がある」若しくは「外からの言葉がないと自分を鼓舞できない」と思っているか、どちらかの状態にあるのだろう。
つまり、自分にとって、響くと信じたタイミング。
意識的か、無意識的にかはともかくとして。


だけど…と、思う。
本の著者と自分とでは、当然のことながら経験や生き方ばかりではなく、本当に、何もかもが違う。
周りにいる誰かと同じだと思うことがないのと同じく。
ある人があることに気づく瞬間。
その場所と、経験と、流れた時間と、何もかもが、違うのに。
言葉だけを受け入れられると思うだなんて、なかなかどうして。
どういうことだ。
言葉の通りに実行できない自分を責めるだなんて、さらにおかしい。


何もかもを経験することなどできやしない。
私という人間は、私という生き方以外したことがない。
だから、時々は、結果を先に見て、それに辿り着けるように思考回路を変えていく試みをするのも悪くない。
それでも結局のところ、自分の心の中にあって、自分を支配し、動かしているのは、丸まったコルクボードの上にある紙ではなくて、本棚に溜まっていく誰かの言葉をまとめた書物でもなくて、どこにも記すことのない、自分の中にある気持ちや考え方。
実感を伴って得るものなどそうそうあるものではないから、当然のこと、30年近く生きてきても、もしかしたらたった30分で読めるかもしれない本に書いてあることの数分の一しか、分かっていないのではないかと思う。
それでも、何よりも強く、自分を動かすのは、私自身が得た言葉。
誰かが得た言葉を、言葉だけで分かったつもりになっても、普段の生活の中で私には何の意味もないのだなと思う。


かつて、どうしても伝えたい気持ちがある相手がいた。
傷ついていたその人には、何を言っても駄目だった。
無駄なのではと思って、諦めようとしていたら、他の誰かが、「何年も先に、伝わればいいことなんじゃないか。もしくは、一生伝わらないとしても、伝える意味のあることなんだと思う。本当に大切なことは?」と、穏やかに私を責めた。
責めてくれた。
そのとき、私は、その人の言葉を心の底から実感していたわけではなかった。
むしろ、何を言っているんだろうと思った。
それでも、他になす術のなかった私は、信じたフリをして、とりあえず粘ることにした。
何度もへこたれながら。
これが私のしたいことなのだろうかと繰り返し迷いながら。


言葉を、実感したのは、幸いにして一生が終わる頃ではなかった。
ほんの数年後だった。
生きてくれと言った相手、泣きながら私を責めた相手が、「あの頃、諦めないでくれて、ありがとう」と、言ってくれた。
だから私は、もしも同じような立場の人を見かけたなら、当時友人が言ってくれたように、「何年も先に、伝わるかもしれない。それでいい」と、言うだろう。
でも、きっと相手は、当時の私のように、何を言っているんだろうと思うに違いない。
その場では、納得した顔をしながら。


使い古されたフレーズかもしれない言葉を、自分の実感として得ることが、どれほど大変なことだろう。
それをようやく得て、誰かに伝えたところで、「ふーん」と言われるのがきっと関の山。
それでも、何かを得たフリをするよりも、自分で得た方が、ずっと尊い。
感じることの、なんと難しいことだろう。
言葉にすると、悲しいほど陳腐なことも、多いのに。


もっともらしい言葉を、さらさらと言うとき。
自分は、あまり何も考えていないのではないか。
そんな疑惑さえ生じる。
全てを感じることも、それを全て言葉にすることも。
不可能だということは勿論分かっていることだけど。
そんなにのんびりも生きられないこの性格だから、やっぱり、実感していない言葉をもっともらしく発して暮らすことの方が多いのかもしれない。


そうは言っても、やはり。
何かを決意するたび、同じような本ばかり集める癖は、どうもよくない。
それだけは、思う。
それでも買ってしまうのは、私の弱さなのか。
秀逸なコピーライターがいるからなのか。
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