Spilt Pieces
2003年11月14日(金)  結果
結果ばかりを考えていたら、先へなど進めない。
そのことを、頭では分かっているのに心はそううまくいかない。
いつだって、先に理由を考えてしまうのだ。
それが自分の悪癖なのだと、半ば諦めそうにもなる。
だけど、何もなくてもいいのかな。
自信も、力も、証拠もないものを信じるのは時折怖くなるけれど。
最初からどこにもない答えを探していたら、きっと、今という時間が流れて終わってしまう。
天性の無鉄砲さを持たない私。
だから、いつだって無理に「考えない」を実践しようとする。
足がすくんで動かなくなることは、悲しい。
自分が怖がりだと自覚しているから、「頑張って目を閉じる」ことが必要にもなる。
そう、思う。


サンタを主人公に描いた絵本を見つけた。
ほのぼのと優しいタッチで、ある女性に恋をしてしまったサンタの物語が綴られている。
「誰かを愛してはいけないのに」と悩む彼は、結局サンタの仕事をやめてただの「おじさん」になってしまう。
そしてその女性に愛の告白をするのだが、そこで物語は終了。
「サンタだったおじさん」の恋が叶うのかどうかは分からない。


想いを伝えたいというただそれだけのために、彼は仕事を失い人生を変えた。
ひょっとしたら、その女性には既に夫がいるかもしれない。
ふられてしまうかもしれない。
だけどサンタは、その結果など気にしていない。
誰かを愛するというその気持ちだけを大切にしている。
そのことがすごく、胸に痛かった。
彼はきっと、叶っても叶わなくても、確実に成長している。


自分だったら、何だかんだと言い訳をつけて無理に諦めてしまうだろう。
大好きだった人に彼女ができたとき、「おめでとう」と笑って言った。
その後、部屋で一人で泣いているのがやたら虚しかった。
気になる人に自分の友人のことが好きなのだと打ち明けられたとき、「応援するよ、頑張れ」と励ましていた。
やっぱりその後、何やってるんだろうと言って泣いた。
あの頃の私は、自分の気持ちを打ち明ける勇気もないくせに、自分は潔いのだと、相手のことを思いやっているのだと、言い訳ばかりを並べてた。
結果の分かっていることをするのは怖い。
「いい人」ばかり演じて、結局私は自分にとってのいい人にはなれなかった。
だけど所詮は「演じている」。
本心じゃない。
だからいつも、泣きたくなるのだ。


サンタは、それまでの生活も仕事への思いも全て捨てて、それでも叶うか分からない愛を願った。
これはあくまでも絵本の中の世界だから、現実はそうできる場合ばかりとも限らない。
だけど、結果やその先のことばかりを考えていては、自分が本当に望むことを逃してしまう気がする。
傷つくことを恐れるのは誰でも同じで、全く怖くない人なんてきっと殆どいないだろう。
でも、だからこそ、実現できる人を素敵だと思う。
言葉も、理論も、方法論も、小さな勇気には勝てないから。


場に合わせて自分の感情をコントロールできる人に憧れる。
それと同時に、大人になっても自分の感情に素直になれる人に憧れる。
ずっと、自分がどちらの人間になりたいと思っているのかを考えてきたけれど。
結局、どちらがあっても不十分なのだろう。
社会に向けるための顔を持つことは必要だけど、それが全てでは自分がいなくなってしまう。
かといって、自分の感情を剥き出しにするばかりではうまく生きていけない。
上手にバランスを取って、きちんと自分の望みを叶えていくための方法を探す必要があるのかもしれない。


予測は必要だ。
引き下がることもまた勇気。
そして自分と社会との折り合いのつけ方も大切だけど。
でも、結果を想定することはあくまでも先に進むためのものであって、足を止めることを目的とするのはあまり好ましくない気がする。
それが意図的であるにせよ、非意図的であるにせよ。
物理的な危険を感じたときに逃げることと、心理的に逃げることとは種類が違う。
理由や言い訳を並べることが、絶対的に必要とは言い難い。
ましてや実行をする前に。


今はただ、自分の将来も不透明で、他人と違う道を選ぼうとしていることを怖くも思う。
でも、できればもう言い訳をしたくない。
だから近頃考えなくなった。
「とりあえず先へ進もう」「その後のことは、また後で考える」
他人は、親は、私のことを行き当たりばったりだと言った。
だけど、元々じっくり考えてからしか動けなかった自分にとっては、その「行き当たりばったり」こそが大切のような気がした。
人が言うように生きて失敗しても、責任など誰も取れるはずがない。
ずっと「考えないで楽に生きるよりは、苦しくても考えて生きていく方がいい」と思っていたけれど、最近、選択肢はそれだけじゃないのかもしれないと考えるようになった。
「敢えて考えないことで踏み出す一歩」が必要なときもある。
だって、結果ばかり考えていたら、どこへも行けない。進めない。


私は、ずっと、自分の弱さを自覚したくなかった。
そして自覚した後は、開き直ってそれを言い訳にすることばかりしていた気がする。
言い訳をしていることに気づいて、認められるようになるまで長い時間がかかったけれど、そこから先は、とりあえず前に進む方法を見つけていきたい。
今はそれしか願えない。


サンタの想いは、叶っただろうか。
叶わなくても彼はきっと、絶望はしないんだろうな。
理由も言い訳も、何もなくていい。
心との喋り方を、いつの間にか忘れてしまっていた。
自分の望みさえ誤魔化してきた。
今はまだ、先に何があるのかなんて見えないけれど。
絵本の中のサンタのように、進んでいけたなら。


理由も言い訳も、何もなくていい。
最近、そんな生き方をしたいと、初めて本気で思うようになった。
ガムシャラに、歩いていきたいんだ。
2003年11月13日(木)  日常
息が詰まりそうな空間だ、と思った。
庭に埋め込まれた人工の小さな池では金魚が泳いでいる。
水と一緒に流れ消えてしまいそうだった頼りなさは、もうない。
厚く頭上に広がる白い綿が、解けては少しずつ降り注ぐ。
何てことない日常。
金魚は、それ以外の場所を知らずにいて、だから今日も滑らかに体を反して泳ぐ。
私は時折、しゃがみこんでは遠い目をしてしまう。
ふと、水をぶちまけたいという衝動が襲うほどに。


ちぎれた雲が、ポツリポツリと点在していた。
柔らかなその絨毯は、触れた瞬間にするりと抜け落ちてしまうだろう。
「乗れるような気がしますね」
後輩が、大きな雲を見つけて無邪気に言った。
「山に登ったら、そんなこと思わなくなるよ」
彼女の笑顔に気圧されて、思わず冷たい声になる。
「でも、ここは山じゃないからいいんです」
ほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべて。
握っても抱き寄せても零れてしまう、泡のような幻のような現実。
「無茶言うね」
そう答えながら、嬉しいと思っている自分がいた。
彼女のような答えを堂々と言えたなら、と思う。


ふっと息をかければ消えてしまいそうな空は、ふわふわ漂っては肌にぶつかっていった。
飛び回り、平面化した大地の上をもバネのように翔けていく。
細い電線が、邪魔をするどころか取り込まれて。
まるで静かに侵食されているようだ。
手を伸ばしてもその先には何もなかった。
でも、何となく笑いたい気分だった。


私の小さなため息など、空に撒かれれば一たまりもない。
立ち止まることも動くことも大差がないようだ。
自分が些細な存在であることを知ったとき、人は嘆くか先を見るかを選択するだろう。
小さいからこそ何でもできると思えたら、と願う。


バラバラだった雲がいつの間にかまとまっていた。
水はいつものように同心円を描きながら、誰を期待することなく広がる。
その波紋に手をかざそうとして諦める。
いつもの日常。
応援団が演舞をしていた。
大きな声と太鼓の音。
天気が崩れそうだと思った。
息を吸い込むと、少し湿っぽい。


待ち合わせ時間に遅れていることを思い出す。
上を見上げるのをやめて、慌てて走り始めた。
傘を忘れたことを後悔したら、頬にポツリと冷たいものが落ちてきた。
さっき見た雲がちぎれたんだろう。
息が詰まりそうなのは、現実のせいかもしれなかったし、現実じゃないもののせいかもしれなかった。
2003年11月11日(火)  眠る
日が暮れるまで、雨が降っていることに気がつかなかった。
微妙な腹痛とけだるい眠気に負けて一日を過ごす。
眠いと言ってはベッドに潜り、時間の流れすら忘れて惰眠を貪り。
なんと贅沢な時間の過ごし方だろう。
学生の特権だと、誰かは笑うんだろうか。


夕食のカレーライスにとろけるチーズを入れてみた。
ロイズのチョコレートや雪見だいふく、ベリーのヨーグルト。
好きなものばかりもそもそと食べて、太るわよと母が言う。
お気に入りのぬいぐるみを抱きしめてまた眠ってしまおう。
世間の喧騒を忘れ、こんな風に緩やかな時間を得て。
自分に何ができるのかを未だに探している。
静かすぎる一日。


温度のない水の上で漂うように、身体が沈み込んでいく感覚。
重たくなってくる瞼は、早くも夢の第一部を上映しようとする。
近頃あまり非日常的ではない、日常外の世界。
境界線が少しずつ霞み、ぼやけた視界が周りを掴みきれなくなる。
髪も服も景色も、電気がついていたことさえ忘れていた。
吸い込まれていくのは、意識だったろうか、身体だったろうか。
降り注いだのは、雨でもなく太陽でもなかった。


心を寄せて歌う場所。
暖かい、一瞬の幻。
過去に感じた微かな重みを反芻し、手を伸ばす。
何にも、触れられなかった。
だから先へ進もうと思った。
何度目の決心だったろう。


見えもしない現実を、求め続けていいと思えるほどには愚かになれなかった。
眠る、眠る、眠る。
時にはこんな時間があってもいいのだと。
ふと、時間も世界も全てを忘れてしまいたくなる。
だけどそうすることを望んでいないと知っている。
だって、そうでなければ、眠りを必要とするはずもなかっただろうから。
泣きたくなることだって、なかっただろうから。


ぬるい雨に打たれているようだ、と思った。
ズブリズブリと手足を奪われ、潜っていく。
意識を失う瞬間を、未だに知らない。


小さなベッドに潜り込み、昼も夜も忘れて眠る。
どんな生き方でもいいのだと、かつて誰かに言った言葉が今さらになって戻ってくる。
私は何を望んでいるのだろう。
ただひたすらに自由な夢の中、何故だか寡黙な自分がそこにいた。
筋のない道を行くことを、いつの間にか覚悟している表情だった。
そのために今は眠っていようと、いつものように、言い訳を片手に抱きしめて。


おやすみなさい。
2003年11月10日(月)  感情移入
家の近所のゴミ捨て場に、数日前から大きな犬のぬいぐるみが置かれているらしい。
らしい、というのは、実際に私が見たわけではないからだ。
さっき帰宅した父が、「雨に濡れてぐちょぐちょになってたよ」と言う。
「ゴミ収集車では回収できないみたいね、袋に入っていないから」と母が返す。
それまでおかえりを言うのも忘れてぼんやり夕刊を読んでいたのだが、ふと気になって目をそちらへ向けた。
「ずっとそのままなの?」
「そうだなあ…野ざらしになってる」
「洗ったら綺麗になりそう?」
「そりゃ多少は。でもお前、まさか拾ってくるなんて言うなよ」
「分かってるけど。気になるじゃない」
会話はそこで途切れてしまったが、その続きは毎回同じだから大体予想がつく。
小さい頃から変わってないな、という言葉だろう。
対象が何であっても感情移入をしてしまう私は、その度に駄々をこねた。
「今までずっと家のために働いてくれたのに、どうして捨てるの?」
家電製品一つを廃棄するのにもいちいち文句をつけるような子ども。
きっと両親は扱いにくかったに違いない。
「お前みたいなことを言っていたら、何も捨てられなくなるよ」


人間がその手で生み出した人工物が、自分と同じように命や意思や感情を持っていると考えるのは、非現実だろう。
頭では理解できるのに、いつだって心が頷いてくれない。
よく物持ちがいいと言われるけれど、それは新しいものが嫌いなわけじゃなくて単に捨てられないだけ。
「自分がもしもこの物だったなら」
自分でも時折呆れてしまうけれど。
別に、ライナスの毛布のように特定のものに依存しているのではない。
色んなものに対して思い入れが強すぎるのかもしれない。


考えることを怠りたくないとよく思う。
勿論、考えてばかりで動けなくなるようでは本末転倒だが、苦しいからといって考えないことによって安定を得るのはできれば避けたいと。
しかし、考えれば考えるほど、必要なはずの非情ささえ失ってしまう。
考えれば考えるほど、他人を憎めなくなる。
だから、何かを批判したり誰かを罵倒するときには大抵自分の感情を忘れるようにしてしまう。
こうなると、責任放棄をしているかのようでもある。
そしていつも、吐き出したばかりの言葉に後悔する。
時には、言いながら。リアルタイムに。


人が非情になれるのは、相手の顔を忘れたときだと思う。
そして人が自滅していくのは、相手の顔を見すぎたときだとも思う。
机上の理論では誰も救えないし、数字の操作だけなら人を殺すも生かすも簡単だ。
だが、全ての人にとって都合のいい社会など、願ったところで所詮は理想論。
涙一つ一つを考えていたなら何もできないし、結局は大切なものを失う結果にもなりかねない。
バランスのとり方がひどく難しい。
これをうまくできる人のことを、頭がいいと言うのかもしれない。
感情移入をする人がいい人なわけでもなければ、できない人が悪い人なわけでもない。


「政治家って、色んな意味で心が強くないとやっていけないよね」
両親と会話しながら、ふと気がつくとこんな台詞を呟いていた。
全部の人にとっての幸せなんて実現できるわけがない。
妥協点の探し方が一番上手な人間が求められているんだろうか。
切り捨てられた人々の憎しみを、受け止められるほどの強い人。
一時的な利益に心揺さぶられることなく、きちんと未来を見据えられる強い人。


野ざらしの犬のぬいぐるみのことが心から離れないまま、新聞を見続けた。
今回の選挙で当選した人の顔写真を見ていたけれど、誰がそんな強さを持っているのかなんて分からなかった。
ああ、もう、書きたいことがうまくまとまらない。
2003年11月06日(木)  菊
夕暮れの食卓に、見慣れぬものが載っていた。
ピンク色の、細長くて小さなものの塊。
しんなりとしているので元の形はよく分からない。
「これ、ひょっとして菊の花?」
「うん、そう。よく分かったね」
「直感。というか他が思いつかないし」


母が、今日遊びに行った家の人にもらってきたのだという。
私はこれまでに黄色い菊しか食べたことがない。
それはやはり母も同じで、味はと尋ねたところ、相手の人は黄色いものよりクセがなくておいしいのよと答えてくれたらしい。
早速家に帰って花弁だけを外し、たっぷりのお湯で茹でて。
独特の匂いが苦手な私は、これでもかというくらいに鰹節をかけた。
「身体の中から菊の花に囲まれているみたい。変な感じ」
こう感想を言うと、母は「でもそんなにきつくはないでしょ」と笑う。
個人的には、隣にあったほうれん草のお浸しの方が好きなのだが。
冷蔵庫を開けると、ビニール袋一杯の、ほんのり色づいた菊の花。
どうやら明日もまた食卓に上がるらしい。
匂いを食べているかのような錯覚に陥る、口の中の花束。


初めてジャスミン茶を飲んだときのこと。
そういえば、ウンザリした顔をして気合いだけで飲み干した気がする。
それが今では、コンビニで思わず手に取ってしまうように。
人の好みって変わるものだなと、自分の変遷を思っただけでもおかしな気分。
いつか寿司や刺身を食べられるようになるかもしれない。
菊も、好んで食べる日が来るんだろうか。
…梅干だけは、無理な自信があるけれど。


話が逸れた。
菊といえば、私の中では仏花というイメージが強い。
とは言っても野に咲いている場合には全くもって想像に至らない。
花屋に行くと、だ。
あとは幼少時に見た大輪の見事な菊の品評会。
金賞とか銀賞とか書かれているものと何も書かれていないものを一生懸命比べたが、結局違いが分からずにむくれた気がする。
そのせいか、大きくなって初めて菊を食べたときはとても変な気分になった。
「これ、本当に食べていいの?」
そうやって、しつこく尋ねて困らせて。
目を閉じて口にねじ込んだそれは、鼻孔をくすぐる華々しさとは裏腹にひどく苦い。
それが数日続いたとき、「もう勘弁して」と音を上げてしまった。


視覚的に愛でる目的で人間が改良をしたたくさんの花。
そのうちの一つが食べられると聞いても、やはり不思議な感覚。
それは実際に食べても同じことで、今回も微妙に眉間に皺を寄せてしまった。
決して食用菊を栽培している農家に喧嘩を売りたいわけでもなく。
ただ単に、今現在私の好みに合わないだけのことだ。
家族はいつも、まだ子どもだなと言って笑う。


それにしても、どうして私は菊の花を仏花だと思っているのだろう。
世間一般でそう決められているからか。
自分自身の中では、全くもって実感がないのに。
実感はなくても、お見舞いに菊を持っていくのが非常識だとは知っている。
美しいと思うのに、先入観のせいか、どことなく寂しさを含んでしまう。


「結婚なんてしなくてもいいや」
あるとき、何の気なしにこう言った。
すると、すかさず母が理由を尋ねてきた。
「だって、嫁姑の確執っていうのを見たことがないから、対処法が分からないんだもん」
冗談のつもりで言ったのに、妙に真面目な顔で頷かれて驚いた。
「そうね、世の中にはとても大変な人もいるみたいだから」
ちなみに、母と父方の祖母が喧嘩している姿を私は見たことがない。
母自身揉めたことさえないと言っていたから、それも当然だろう。
母は、こういう会話のときは大抵「おばあちゃんはとてもできた人だったから」と言う。
「お母さんは至らぬ点ばかりだったのに、文句も言わずに好きなようにさせてくれたのよ。賢くて、理解あって」
止めないと、褒め言葉には限りがない。


祖母の仏壇は九州の祖父の家にある。
だが、私の家にも遺影を飾った小さな祭壇のようなものが設けられている。
死を実感したくない私は、あまりお線香をあげない。
しばしば祖母の前に置いてある座布団に寝転がって、「ちょっとばあちゃん聞いてよ」と、だらしない格好で日々のことを報告する。
祖母の前で母と2人阿呆な会話をしているときなどは、「ばあちゃん、変な嫁ですみません」と私が言い、「おばあちゃん、変な孫でごめんなさいね」と母が言う。
あまり、いない気がしない。
むしろ離れて暮らしていた頃よりも今の方がずっと近くにいる気さえして。
時折ふっと、涙が出そうにはなるけれど。


父は、私たちのように話しかけたりはしない。
ただそのかわりに、毎朝起きると必ず蝋燭をつけてお線香をあげる。
長い沈黙の時間、父は一体何を思っているんだろうか。
そして下宿中の弟は、帰ってくるとやはり一番に祖母のところへ行く。
やはり喋らない。
これは単に男女差によるものなんだろうか。
理由は分からない。


祖母の祭壇には、いつも新しいお茶と季節の果物、祖父が焼いた花瓶に入ったたくさんの花が供えられている。
朝食がパンのときには、お茶ではなくて紅茶。
母はいつも、「うちで取れたスイカですよ」とか「おはぎ作りました」とか、にこにこ話しかけつつ置いていく。
花も、大抵家で栽培したものだ。
今の時期ならコスモス、夏には向日葵といった風に。
あまり仏に供えるものという考えでは生けていないらしい。
あるときなど束になっているガマの穂まであった。
「おばあちゃんも、季節が分かっていいでしょう?」
屈託なく笑う母を見ていると、ああやはりこの人には勝てないなといつも思う。
きっと時折菊を見かけるのは、仏花だからという理由ではなくて、単に菊が綺麗な季節だからだろうと思う。


日記を書きながら、そういえば今は何があったのだろうと思って階下へ行った。
柿と、林檎と、洋ナシと、色とりどりの菊の花にコスモス、綿花にレンコン。
弟の大学合格通知や、当たるはずのない宝くじまで置いてある。
母が作ったパッチワークのチューリップ、それとなぜか砂時計。
大判の写真の中で微笑む祖母は、太陽の光に照らされた中で撮ったからか、少し眩しそうな表情をしている。
それが柔らかくて好きなのだと祖父が言っていた。
実感したくないと言ってお線香をサボってばかりの薄情な孫だけど、その空間は静かで落ち着いていて好きだと思うよ。
置いてあるものの統一感のなさも含めて、我が家の思いなのだなと。


祖母の前にある菊の花は、夕に食べたピンク色のそれほどには香りを放っていない。
かといって、寂しそうなわけでもない。
小さくてたくさんの色が集まっていて、かつて見たように良し悪しを考える必要もない。
品評会の会場ではないのだ。


母が冷蔵庫から出して見せてくれた菊の花は、触ると生気なくひやりとしていた。
「花びらだけちぎるの?」
「ええ、そうよ」
「味、というか匂いさ、きついよね」
「これはそうでもないじゃない」
「お母さんは?」
「ん?」
「苦いとか思わないの?」
「うーん、実はちょっと思ってる(笑)」


母はいつも、祖母のことを「すごく人間ができた人」と言う。
私はいつも、本を読みながら途中で寝てしまう母だけど、すごいなと思う。
明日またピンク色の菊が茹でられていたら、苦い顔をしない努力をしてみようか。


何となく、菊から感じた諸々のこと。
2003年11月05日(水)  霧
数日前、とても霧の深い日々が続いていた。
数十メートル先を見るのもひどく困難で、ハンドルを握る手が思わず緊張した。
普段ならそこにあるはずの信号が、景色に溶け込んで見えなくなった。
あるのだと分かっているだけに、変な気分。
「なくなってしまった信号機」は、どことなく息苦しさを生じさせる。


山がない。
霧は、今私がここにいるその風景こそが空であり山なのだと囁いた。
見えても、見えなくても、確かなものがあればそれでいいのだと。
普段視覚にばかり頼っているから、納得できない。
突然現れた迷宮に、戸惑ってばかりだった。
だってまだ、ないものをあると信じられるほどには強くなれない。
元々、何が「ある」なのかを分かっていない私ではあるけれど。


最初に訪れた濃霧の日。
日中の太陽は雲を照らし、どこに地面があるのかを教えてくれた。
透明な空間に安堵のため息を漏らす。
空へと上がっていく自分の口から出た白い小さな雲が、また頭上を燻らせるのではないかという錯覚。
思わず手で押さえ込む。
きっと、何の影響もないだろうけれど。


夜、信号が見えなくなった。
近くに行って初めて、くゆる空気の中に浮かぶフィルターがかった光を見つける。
明日は晴れますようにと祈りを込めつつアクセルを緩めて。
信号は、赤だろう。
多分、いつもと同じタイミングで。


次の日、また朝から霧が世界を覆っていた。
何となく、もしもこのまま続いたらどうしようかと不安になった。
ファンタジーでも読みすぎたのか、やや馬鹿げた発想。
地面から雲が生えているのだと信じそうになる。
早く太陽の光が降り注ぐよう、願いながら朝が過ぎてゆくのを待つ。
昼まで寝ていたら分からないことなのだろうけれど。
こんな不安も、三文のうちに入るのだろうか。


霧が晴れ、余韻が微かに燻る山を眺めた。
いつの間にか、風景の中に山があることを自然だと思うようになった自分がいるのだと気づく。
引っ越してきたときは大分田舎へ来てしまったと嘆いたくせに、今では明かりが点々としている景色の方が私を正常に機能させるようになってしまった。
「まだ若いのに、都会に出たいとは思わないの?」
「たまにでいいんだ」
ここにいると、そのままゆるりと過ごしたくなってしまうから危険だと、友人がやや焦燥に駆られた表情で言った。
根性なしの私は、基本的には田舎がいいのだと答える。
「老後にはいい街だと思うけど」
「そうかもね」
時が流れていくことを、僅かなやり取りで感じてしまうのが嫌だった。
嫌だと思う時点で、まだ私はこの地に適応できていないのかもしれないけれど。


ゆるいカーブ、車のブレーキランプが波のようにつき始めた。
まだ見えない信号機は、多分赤を示しているのだろう。
最近できたばかりのその信号機は、カーブの向こうにあるからいつだって見えず、そして少しばかり計算が苦手らしくて変なタイミングで赤に変わる。
いつかはマニュアル操作の車を買おうと思っていたのに、3年もオートマだと左足の使い方を思い出せない。
名ばかりの免許、ひょっとしたら一生オートマしか乗らないかもしれない。
そんなどうでもいいようなことを思いつつ、私も右の足をアクセルからブレーキへと移動させる。
やはり、赤だった。


通りすがりに左側を見ると、一人暮らしをしていた頃よく行ったいつものスーパー。
店の入り口には小さなプレハブらしき建物があって、そこにはたこ焼きを売るお兄さんがいる。
以前友人と2人で寄ったときその人の感じがとてもよかったのを思い出し、信号待ちをしている間にウィンカーを出してしまった。
そこまで腹が減っていたわけではなく、あくまでも何となく。
帰宅途中ということもあり、母と一緒に分けて食べるのもいいかと思った。
「いらっしゃいませ」
注文する場所に立つと、私が何も言う前に優しい声が聞こえてきた。
6個入りのたこ焼きを一つ、と注文する。
「今お包みしてしまってもいいですか?」
前友人と一緒に行ったときの人ではなかったけれど、人懐こい笑顔は似ていると思った。
「はい、お願いします」
他に買い物をするわけでもないので、そのまま包んで下さいと言う。
「マヨネーズはどうしますか?」
「あ、かけて下さい。海苔も」
「お箸は何膳入れますか?」
「家に帰って食べるのでいらないです」
「ありがとうございます。少々お待ち下さいね」


「お待たせしました」
彼は、少し申し訳なさそうに値段を言う。
きっと、どんな客が来ても同じような柔らかい雰囲気で話しているのだろう。
小さなトレーにお金を載せて、白いビニール袋に入れられたたこ焼きのパックを受け取った。
「熱いので気をつけて食べて下さいね。ありがとうございました」
ありがとうと言いたいのは、むしろ私の方だった。
多分、見知らぬその店員さんがどんな態度を取ったとしても、そのとき私はたこ焼きを買ったろうけれど。


家に帰りつく前に一つくらい味見をしよう。
でも、彼が言った通りにできたてのたこ焼きは、家までの30分の距離の間には結局食べらなかった。
あと三つ角を曲がれば家だという交差点で、偶然にも母の車に出会う。
同時に到着し、母は私が持っているビニール袋を指差してそれは何かと尋ねた。
「一緒に食べよう」
そう言って、台所の引き出しから爪楊枝を取り出す。
少しだけ冷めてしまったたこ焼きを食べながら、母はいつものように楽しそうに笑って、「これじゃお夕飯作る気しなくなっちゃうわね」と言った。


その日の夜も、やっぱり霧は深かったけれど。
何となく、気にならなくて苛々もしなかった。
肝心なのは、物理的な霧ばかりではなかったんだろうか。
そのうちまた、何かお土産を買って家に帰ろう。
できれば、優しく笑う店員さんのいる店で。
2003年11月04日(火)  風景
芝の上に、ふわりと舞い落ちる薄い桃色。
柔らかい絨毯のようだ、と思った。
だけど、別にその上に座りたいというわけでもなく。
その柔らかさは、触れないからこそ分かるもの。
そんなことを考えながら、秋の風吹く街を歩く。
花の名前は、知らなかった。


母が、大学付近でイチョウの木が生えているところを教えてほしい、と言った。
何故かと問うと、ギンナンの実を拾いたいのだという。
どこにでもあるでしょう、と私が答える。
ご近所だと恥ずかしいじゃない、との返事が戻ってくる。
じゃあそのうち一緒に行こうかと話がまとまり、母は幸せそうに笑った。
「顔は似ているけど、私とお母さんって似てないよね」
言葉を聞いているのかいないのか、一瞬不思議な顔をして、母はやっぱり楽しそうに笑っていた。


凛とした空気の中にいると、背筋を伸ばしたくなる。
まるで風景に負けるのが悔しいと言わんばかりに。
悴んだ指を暖めるのも、吐いた息が僅かに白く空へと昇っていくのも、多分私は好きなのだろうと思う。
冷たく自己主張をする柔らかな耳たぶに触れながら、冬が来るねと言うと風がカタカタ音を立てて笑った。
冬が来るねともう一度呟くと、今度は何の返事も聞こえなかった。
誰が何をどう言おうとも、季節が移ろいゆくことには変わりがない。
きっと、少なくとも今は。


地平線が見えそうだと思った。
どこまでも続く田園の中に、明かりは探しても一つか二つしかなくて。
バイト中、ひたすらに黙りこくったまま外を見ている私に気を遣った友人が、「疲れたでしょう」と声をかけてくれたけれど。
「ごめん、空見てぼんやりしてたよ」そう答えると、笑って「仕事もしなさいよ」と。
月が、目を閉じたまま穏やかな表情を浮かべて佇んでいた。
地上には、夜が確かに降り注いでいる。
まだ夕方のはずなのに、と、聞こえぬように独り言を紡ぐ。
本当に、地平線が見えそうだと思った。
何もないその風景が、全てを表現しているような夜だった。
人も、空も、大地も、社会も、喜びも悲しみも何もかもを含んで。


熟れた柿の実。
渋柿なのか、細い枝が重たそうに沢山の秋の子たちをぶら下げている。
信号待ちの車の中、一つ二つ三つと数えているうちに眠くなった。
しなるその柔らかい腕は、子どもたちがポタリと落ちていくのを見届けて、きっと次の年も同じことを繰り返していくのだろう。
いつの間にか、実の数ではなくて年月を数えようとしていた。
ぱっと青色の光が燈り、そこにて数え歌は終了。
橙色のノッペリとした形が沢山、声を揃えてさようならと言う。
また通ったとしても、同じ数え方はもうできないだろうから。


静かだ、と思った。
人々が営む町は、多くの喧騒を含みつつ、しかしそれをも許容範囲として、風に揺れる水面のようにやはり音も立てずに流れていくのだと。
変えていくこととは何だろう。
自然に身をゆだねてしまいたいと願えば願うほどに、どんな変化も差異なく感じられてしまうのだから不思議だ。
だけど、自然に対して不自然でありたい私は。
現状に不満足だとばかりも言えないくせに、それでも確かな何かが他にあるのだと信じたくなってしまう。


同じところにあり続ける水は、色ばかりは透明なままでも、いつか知らぬ間に毒を孕んで濁り果ててしまう。
山水の水はいつもそこにあるかのようで、刻一刻と流れゆき、ゆえに同じ場所に同じものを求めるのは不可となる。
一瞬の安穏に身を寄せ続けたならば、流れるからこその清らかさを忘れてしまうから。
秋の風景は、今年も同じように穏やかな顔つきで訪れる。
来年の秋はどんな様子で佇んでいるのだろう。
今とは別の場所から同じ風景を見られたならば、きっととても幸せだ。
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