Spilt Pieces |
2003年10月30日(木) カマキリ |
昨日、大学の駐車場から構内へ向かう途中の道でカマキリを見た。 掌に何匹でも乗ってしまいそうな、小さな緑色。 久々に見かけたそいつは、腕を振り回すこともなくただそこにじっとしていた。 その道には車止めがしてあるから、通るのは歩行者と自転車くらいなものだ。 だが、それでも道の真ん中で身じろぎ一つしない様子を見ていると、踏まれるのではないかと心配になってきた。 同じ道でミミズを見つけるといつも悲鳴を上げそうになるくせに。 命に対する価値づけはよくないと思いつつ、それでも生理的な好き嫌いはどうしようもない。 手でつついて、勢いのついた鋭さで引っかかれるのは勘弁。 かといって足を下ろしたら潰してしまう。 誰かに見られていないことを確認してから、カマキリから僅かに離れた辺りで足をパタパタ踏み鳴らした。 反応なし。本能に欠けているんだろうか。 もう一度、今度はもっと近くで足を動かした後、まあ多分本当に踏まれそうになったらさすがに逃げるだろうと勝手な推測を立てる。 本来の目的を思い出し道を急いだ。 元々深い意味などないけれど、それにしてもとりあえず行動がやたら半端だなと反省して。 すぐに、カマキリを見かけたことなど忘れてしまった。 今日、同じ道を歩いた。 道のどの辺りを歩くかなど特に決めているつもりはないのだが、どうやら私はある程度同じルートを辿っているらしい。 前日足を止めたのとほぼ同じところで立ち止まる。 また同じカマキリがいる、と思った。 緑色で、サイズも変わらない。 「どうしてまだこんなところに?」と心の中で声をかけようとして、ふと気づく。 昨日との相違点が、一つ。 誰かに踏まれて、頭がなくなっていた。 一旦止まった足が、またいつの間にか動き始めていた。 直視したくなかった。 誰のせいでもないと分かっていても。 忘れっぽい私は、その後講義に出て友人とお喋りをして、夕暮れが空を染め始める頃まで心の片隅にさえカマキリの姿は浮かんでこなかった。 多分、それが多数派なのだろうと自分を慰める。 思い出した理由。 帰りの同じ道、今度は緑色のカマキリがいたののすぐ近くに、同じくらいの大きさの茶色のカマキリがじっとしていたから。 もう一度、足をパタパタさせてみた。 昨日とは違い、微かに足を動かしたのが見えた。 誰が見ていることも気にせずに、気がついたら草むらの方へとカマキリと追いやることに夢中になっていた。 人工の大地じゃ、死んでも死にきれないだろう? 偽善的で、自己満足な感情。 それがどうしてこんなにも自分を動かしているのかよく分からなかった。 蜘蛛の糸を連想したわけでもなく。 クルブシくらいまでのコンクリート段差、彼にとっては多分壁。 いつの間にかしゃがみこんで観察していた。 小学生じゃあるまいし、と思うのに、どうしても気になる。 カマキリがよじ登り始めて草むらに到達するのを見届けると、なぜだかほっとした気分になって家路を急いだ。 干からびたミミズが何匹か丸まって死んでいた。 同情の気持ちは湧いてこない。 そんな自分は、何だかとても偏っている気がするのだけれど。 いつの頃かは忘れたが、昔読んだ英語の教科書に載っていた話。 ある南の方の島に海亀を見に行った観光客がいて、ガイドはたとえ何があってもそれは自然のままだから決して手を出すなと忠告をした。 生まれたばかりの小亀たちは、海へ向かう道が安全なのかどうかを知らない。 最初に一匹が外に出て、そこへ上空から目を見張らせていた鳥が急降下を始める。 よちよち歩いている亀の未来は火を見るよりも明らか。 耐えられなくなった観光客が、出て行って鳥を追い払った。 すると、他の亀たちは外を安全だと信じ這い出してきて、結局そこを狙われてほとんど死んでしまう。 詳細はいまいち覚えていないが、多分あらすじはこんな感じだったと思う。 自然は自然のままにしておけ、とはよく言われること。 だけど何が自然なのか分からない場合はどうなんだろう。 人間が草原や山を切り開き、人工の道を作ったことは不自然かもしれないけれど、 人間が生きていくために何かを作っていくことはある意味自然な欲求で自然な行動だともいえるだろうから。 カマキリ一匹草むらに追いやったところで、道に出てきたい理由があるのであれば、結局はまた同じ場所に留まるのかもしれない。 だから、自己満足だと思う。偽善だと。 それに、今日話した友人のことを思うと、自分は綺麗事ばかり言って満足しているような気がする。 彼女は実験心理学の専攻で、ラットの頭を開き脳に薬品を入れているのだという。 一瞬顔をしかめてしまったが、気を取り直して「でも、殺さなくて済むだけいいよね」とコメントすると、「いや、後で脳のスライスを作らないといけないから解剖するんだよ」という返事。 彼女ばかりではなく、世の中にはそういう実験を行っている人がたくさんいるのだろう。 多くの人は楽しんでやっているわけではないだろうから、その結果の恩恵に知らず知らずあやかっているであろう私に文句を言う筋合いはない。 だけど、と思った私は、その言葉を発するまでにまだまだ知識も時間も必要だと感じて黙り込んでしまった。 知らないのに、「だけど」なんて言えない。 大分話が逸れてしまったが。 それでも敢えて思う。だけど、と。 思うばかりでまだ口には出せない。 でも、だからこそ、何かを救いたいとか何かをしたいと思ったときには、たとえ綺麗事でも、言い訳を考えない方が多分健全。 自分の理由なき欲求だとして終わらせてしまうのが一番だろう。 |
2003年10月29日(水) 雨 |
突然雨音が強くなると、思わず目を閉じたくなる。 どこか遠くの出来事のようで、実際はすぐそこで繰り広げられる世界。 パシャパシャと、地面にぶつかって弾ける音。 水溜りの中に風景が出来る前に、波紋がかき消していく。 鳥が濡れた羽根を乾かそうと、低い位置を飛び回る。 顔の水を拭いながら、自転車を漕いでいたかつての私。 ワイパーが動き、それと反比例するかのようにブレーキを踏む頻度が上がる現在。 そして何より、空と大地の演奏に耳を澄ませば、飲み込まれゆくという状態に、微かな恐怖と恍惚が生じるのだ。 想像は、膨らんでいく。 それともこれは、妄想と呼ぶべきか。 聞こえるレベルにない音色が、静かに流れるような日。 時折、思い出したように傘を開く。 地面のあちらこちらに花咲く水溜りは、空から落ちてくる小さな雨粒だけを映す鏡だ。 自分の足を、翳してみる。 だけど疲れてやめた瞬間、すぐに波紋が全ての風景を消してしまう。 腕を、手を、顔を。 それでもきっと、同じこと。 無駄な抵抗は最初からしないことにしよう。 ポツリ、ポツリと、ゆるゆる続く雨をただ見ていた。 ふと、演奏会のボリュームが上がった。 他に何も音がしない。 風と雨が、窓に吹きつける。 どうすれば言語化できるのかなど到底分からないし、それに意味を感じない。 だから、何も考えずに思ったままを書くことに留まる。いつだって。 流れない音楽が地面と空気を揺らして響き始めたとき、外にいる私は傘を持っていなかった。 駐車場から玄関までの数メートル。 冷たい水が、いつもより少しだけ高い体温の掌にぶつかる。 ジュウと悲鳴を上げることもない。 広がって、その一部がポタリと地面に落ちた。 あくまでも、いつものように自然に。水滴らしく。 そのまま雨に打たれていようかと思った。 でも、今の私は、数年前と違って冷静に頭が働くから。 一時の感傷にだけ浸っているのはもう性に合わない。 玄関のドアに手をかけた。 キイと、周りの音を消すかのような金属の色。 小さい頃、バケツにたっぷり水を入れて振り回す遊びが流行った。 遠心力という言葉は当時知らなかったけれど、零れない水の不思議に皆が夢中になっていた。 時折不器用な子が失敗をして、頭から水を被ってしまう。 私もその一人だった。 冷たい水、上から下までびっちょりになった身体が、そこまで嫌じゃなかった。 空は、気まぐれにもっと大きなバケツをひっくり返す。 その水を浴びたところで時間など戻ってこない。 でも、何でだろう。 雨は悲しくなるから嫌いだと思うくせに、ふと濡れるがままにしていたくなる。 傘を持つ日、その隙間から手を伸ばす。 そんなところ、かっこ悪いと思うから誰にも見せたくはないけれど。 そう、何をしても誇らしげだった当時の私はもういないけれど。 それでもやっぱり、辺りを気にしつつも手を伸ばす自分はまだここにいるから。 カラッポになったバケツは、いつまた満たされるのだろう。 濡れなかった腕で身体抱きしめて、今日も勝った気分で門をくぐった。 |
2003年10月28日(火) 数 |
友人にDVDを貸したら、それの感想メールが届いた。 いい言葉がたくさんあってとても好きだと。 私自身はぼんやりと見て終わったものだったので、彼女の言葉を読んでもう一度見てみたくなった。 いつも、どんなものからでも学ぶものを探そうとするその姿勢。 彼女の伸びていく様子が容易に想像できるのは、だからなのかもしれない。 その話の主人公は17歳の女の子。 私も友人も今年で22歳になるから、年齢的には少し離れている。 「17歳のその子と私が同じレベルなのには目を瞑ってほしい」という付け足しを読んだら、何だかおかしな気分だった。 「主人公を描いたのは大人でしょ」と返した私には、彼女ほどの純粋さは残っていないのかもしれないと思う。 それに、いつも思うことだけど、年齢と成長速度には何の関係もない。 たかが数字に相手の人間性を期待するのは間違っているし。 もしも自分から全ての数字が取り払われたならどうなるだろう。 そんな、今の時代においてなかなか非現実的な想像をしてみる。 生まれた日も、時間も分からなかったなら。 今と同じくらいの役割期待をしてもらえるのかさえ分からない。 学年がなかったら、見栄を張ることなくもっと多くの人と仲良くなれるのか。 「先輩面」をすることなく、ありのままの自分で。 礼儀やら体裁やらを考えすぎてしまう私には、もっと遠慮がない方がちょうどいいのかもしれない。 先述の友人からの返信が来た。 「風になる」という一言だった。 秩序のない社会など混乱を招くだけ。 だから、誰も文句を言いようのない、歴然とした事実としての数字は必要なんだろう。 フィーリングなどに頼ったら、それが間違っていたときに誰も責任を取れない。 それでも。 年齢の離れた友人がいる。 上にも、下にも。 相手が幼いわけでも、私が大人びているわけでも、相手が大人びているわけでも、私が幼いわけでもないと思う。 単に、気が合う、それだけなのだと。 そういう関係を多く築けていけたら嬉しい。 ラベルに依存してばかりの人と会話するとき、いつだって私の笑いは曖昧になる。 |
2003年10月27日(月) 好 |
最近好きな言葉。 「急がば回れ」 見えなくなった沢山のもの。 何となく、周りにつられて焦ってばかりの日常。 自分の時間を生きている人に惹かれるくせに、それでも筋書き通りの生き方に吸い寄せられたくなってしまう。 何が正しいのかなんて分からないけど。 作られた未来をなぞる必要はどこにもない、とだけは思う。 自分が自分なりに自分の道を探したとき、結局たどり着くのが同じ場所だったならそれはそれでいい。 そのとき、単なる遠回りだと言う人がいたとして、それを笑って受け止めてあげられるような人間になれたなら。 怒りは、言われたくないことを言われるから起きるもの。 最近好きな言葉。 「能ある鷹は爪を隠す」 その言葉のままが好きというわけでもないけれど。 人間的にできている人ほど、自然な笑みをする。 無理なときには無理と言い、虚勢を張らない。 それがとても当然のように行われるから、違和感が少ないのだ。 自分で自分のすごいところを誇示せずにいられないのは幼い。 そういう人を否定はしないが、親しくなりたいとは思わない。 理論など、言葉にしないだけで誰もが持っている。 だからそれを押し付けるのは見ていて不愉快になるのだ。 不愉快、ということは、私にもそういう面があるという証拠かもしれないが。 認められなくても笑っていられて、自分らしい背筋の伸ばし方を知っている人が、本当に賢い人だと私は思っている。 理想は、遠いからこそ求めたくなる。 |
2003年10月26日(日) 恋 |
HPを作り始めの頃、サークルの後輩にアドレスを教えた。 当時はあまり気にしていなかったのだが、彼のサイトへのアクセスがものすごいので、このHPへ流れてくる人も結構多かった。 当然、オフで知られて困るようなことは当然自粛していたわけで。 最近そういったオフアクセスが少なくなったなと思ったら、いつの間にかリンクが外されていた。 私のサイトが身内向けのものではないと思ったからだろうか。 ともあれ、最近サークルの人がサイトを知っていることを恥ずかしく感じていたので、その気遣いに感謝。 珍しく大分長い前置きを書いてしまったが。 上のような理由で、今まで触れなかったような内容についても書くことにした。 今まで通りの内容の方が多いとは思うけれど。 ちなみに、これを書いているのは29日。 昨日久々に、前好きだった人宛てのメールを書いた。 ほんの数行、理由もなく。 今は何とも思っていないのだが、たまにそういうことをしたくなる。 多分、当時の自分が本気だったからだろう。 それに、友人が以前HP上で「プラトニックな関係は忘れられない」と書いていたが、自分もそうなのかもしれない、と思う。 声を聞くだけで満たされた頃。 欲は、ほんの少しずつ増していったけれど。 「久し振り、元気?」 中途半端で、意味もなく。 今ではもう会うことすら滅多にないが、今も数ヶ月に1度、本当にどうでもいいような連絡の取り方をしてしまう。 「今卒論を書いているよ。テーマは…」 私も私だが、彼も彼。 突然のメールに疑問を抱くことなく返信してくる。 そのまま数時間、他愛もない話が続く。 午前を回って眠くなってしまい、「またね」と書いて終了。 自分から送ったくせに我ながら傍迷惑な奴だ、と思う。 それでも彼は「おう、おやすみ」と送ってくる。 多分、「また」は数ヶ月先だろう。 きっと、次回も変わることなく同じ調子の返信が来る。 当時の私は自分でも呆れるほど子どもで、恋を失った直後は誰でもいいから好きになろうとして周りに散々迷惑をかけた。 恋愛なんて、エゴの塊。 何でもいい、どうでもいい、誰でもいい。 そんなひどい台詞を平気で吐いていた時期。 そして「熱しやすく冷めやすい」を自認していた私自身にとって、説明のつかない感情。 戸惑った。 意味もなく泣いてばかりだった。 その頃の日記などもう捨ててしまったから、詳しいことはよく覚えていないけれど。 「友達になりたい」 口癖だった。 誰よりも傍にいたいと願った人は、いつだって私を対等には見てくれなかったから。 頭を撫でられるのが嫌い、慰められるのが嫌い。 同じ目線で喋りたかったし、愚痴を聞いてもらうばかりじゃなくて聞いてあげたかった。 そう願い続け、彼が私に心を開いて最初にしてくれた相談は「好きな人がいる」というものだったから皮肉だ。 彼は、私が彼を好きだということを知っていた。誰よりも。 ごめんと謝り続けて、それでも相談したい相手を思ったとき、お前が一番に思いついたんだと彼は言った。 きつく受話器を握り締めたまま、落ち込む彼をただひたすらに励ました。 相談してくれてありがとう、という言葉を繰り返しながら。 「私のことなど気にしなくていいよ」 大嘘。 胸が痛くて、泣いてばかりいた。 当時関わっていた芝居でも、ボロボロだった。 初舞台だというのに全く気持ちが入らない。 次の舞台でも、集中しようと思うのにすぐに途切れた。 観に来てほしいと言っても、結局彼は1度も来てくれず仕舞い。 優しい記憶と、痛い記憶。 自分の中でようやく処理ができたのは、何年か経ってからのこと。 情けない、と呟いてばかりだった。 だけど感情というのは不思議なもので、いくら続くと思ってもいつかは風化する。 「友達になりたい」を願ったあの頃の私は多分正解だった。 今も普通に連絡を取り合うことができる。 お互い、昔のことなど忘れたかのような顔をして。 「久し振り、元気?」 きっとまた、同じような会話を繰り返す。 私は大分、幸せだ。 終わることや悲しいことばかりを想定するのは嬉しくないけれど。 でも、またいつか好きな人ができたなら、こういう関係を続けていける終わり方をしたい。 「今、バイト、白衣を着て土の調査やってるんだよ」 無邪気に書いてあるメールを読んでいたら、あの頃の気持ちがほんの少しだけ蘇ってきそうな気がした。 何だかひどく懐かしい、微かに切ない記憶だった。 |
2003年10月24日(金) 雲 |
雲の上に乗れないと気づいたのは、一体いつの頃だったろう。 山に登って雲の中にいても、まだもっと上に形としての雲があるのだと信じたくなる。 気がつけば「雲の上」は、甘い夢物語の中にしかない場所になってしまった。 昨日の天気は雨が降ったり止んだり、地平線の向こうまで雲が続いているかのよう。 地球全体が覆われているような、錯覚とも言い切れない空間に浮かぶ。 どこまで行っても追いつけるはずなどないのに、限りや終わりというものが確かにあるのだと実感する。 柵で囲われた、小さな球体の上に自分がいるのだと思った。 いやむしろ、天動説さえ信じられるような気がした。 呼吸の仕方を忘れてしまいそうな、雲と空。 切れ目から見える空の蒼さに、時折泣きたくなる。 自分の感受性が枯れてはいないのだと、辛うじて確認をする。 広い世界だと思っていた。 雲に乗ってどこまで飛んだとしても途切れないのだと。 でもきっと、どこかに終わりはあるのだろうということを、大きくなるにつれて本能的に知ってしまった。 この狭い日本から出たことさえない私ではあるけれど、何となく。 世の中を見ていると、ほんの些細なたくさんのことがうまくいっていない。 小さな積み重ねと、矛盾の欠片があちらこちらに。 誰もが重力に逆らう方法を探そうとしているのではないか、なんて思う。 突拍子もない発想だとは思うけれど。 単体で口に入れると決して甘くも何ともないオブラートのように、味気ない膜に包まれた空間の中で、ぼんやりとうまくいくための方法を模索する。 きっと軽く縺れ目を解いてみたら、真実なんてほんの少し。 そもそもどこに何があるのかさえ、私には分かっていないのだ。 ましてや真実の在り処など。 だから、全体が限られたものだと分かっていても、それよりももっと小さな枠の中にいることを安心だと定義してしまうのだろうか。 雲に乗れたとしても、たどり着ける場所には限りがある。 きっと、乗れないことを本当に実感した頃、失望はそう色濃いものではなかった。 濃い霧が延々と続いていくかのような、手を伸ばしても絡むことさえしない糸。 白くて、味気ない、憧れとはほど遠い、空気があるだけ。 肌にじとっと張り付くその湿気は、雨の日のそれを髣髴とさせる。 雲は、遠くから見ていたから雲だった。 だから近づかないのが私にとって一番なのだと知った。 それでも、離れて生きていくことなどは未だにできないのだけれど。 雲の中を運転しているようだ、と思った。 高くない海抜、いつもはただ見上げるだけの空間。 大地全体が包囲されているかのような、雲だらけの日。 今もまだ心のどこかでは、雲に乗って歩き回れると信じているから不思議で。 手を伸ばしても届かないから、手を伸ばしたくなるんだろうか。 限りがあると、分かっていても。 |
2003年10月23日(木) 崩 |
いつも学校へと向かう道に、葬祭式場がある。 その前にはなかなか変わらない信号があって、いつも足止めをくらう。 見たくなくても、喪服を着た人々がぞろぞろと出てくるのが目に入る。 花輪の数と、泣く人の数が、日によって違う。 亡くなった人が違うのだからそれは当然なのだろうが。 ただの通行人の私には、雰囲気だけが静かに流れてくる。 雨の日などは、特に。 高校に上がってすぐの頃、中学校で離任式があるというので出かけた。 私は中学校が嫌いだった。 でも、部活でお世話になった先生に会いたくて、隠れるように体育館の後ろの方から式を見ることにした。 どうして卒業してすぐに転勤になってしまったのだろうと、軽く不満を抱えつつ、唯一中学校へ足を運ぶ理由になりえた先生の最後の挨拶を聞く。 どういう順番で先生たちが壇上に立ったのかは覚えていない。 ただ、忘れもしないのは、養護学級の担任をしていた先生が話をしていたときのことだった。 その先生は、いつも髪の毛がぷかぷか浮いていて、生徒たちはいつもカツラだと言っては噂にしていた。 優しい人で、私は怒っているのを見たことがない。 自分の服装や格好には無頓着だったのだろう。 ただそれでも穏やかに笑うのがとても似合う人だったから、性格的な悪口を言う人は誰もいなかった。 離任式、壇上で話し始めた彼の言葉は、やはり心地よい優しさを漂わせていた。 突然、大きな音が鳴った。 体育館の後ろの壁に寄りかかるようにしていた卒業生の位置からは、何が起きたのかが全く分からない。 しかし前の方がざわついているし、今この瞬間まで話をしていたはずの先生の姿もない。 さざ波のように、何が起きたのかが伝わってくる。 「先生が倒れたらしい」 分かったのは、それだけ。 しばらくすると、救急車のサイレンが近づいてきた。 他の先生たちは騒ぎ始める生徒たちを制するのに奔走していた。 後ろの方の卒業生はやたらと静かで、その空気に飲み込まれそうだった。 夜、家の電話が鳴った。 使わなくなったはずの中学校の頃の連絡網。 倒れた養護学級の先生は、病院に運ばれてそのまま息を引き取ったという。 俄には信じられないような出来事。 だって、つい数時間前まで、立って、喋っていたのに。 最後、何を話していたのかさえ覚えていない。 新しい地で頑張りますというようなことだったんだろうか。 その先生と話したことはあまりなかったけれど、私は好きだった。 授業が上手なわけでもないし、騒ぐ生徒を抑えるだけの気の強さもなかった。 いつも穏やかに笑っている、ちょっと髪の毛の浮いた優しい人。 他の先生たちとそんなに仲良くないのも知っていた。 だけどきっと先生たちは追悼の言葉など偉そうに言うんだろうなと思っていたら、やはりそうで、「生徒たちに見守られて亡くなったのだから、本当にあの先生らしい」というようなことを言った。 お葬式の場所は、現在いつも通る道にある葬祭式場。 後にも先にも、そこへ入ったのはそれ一回きり。 制服姿の中学生と、高校生と、先生たちと、家族の人と。 会場はごった返していて、遠くに見える、花に囲まれた遺影に手を合わせるくらいしかできなかった。 そのとき初めて、奥さんと子どもがいることを知った。 ぼんやりとした記憶、暗くて広い空間。 高校に入学して一年くらい経って、中学校のときのクラスメイトが亡くなった。 一緒のクラスだったという記憶があるだけで、話したことさえない男の子。 交通事故だったという。 親しくなかった私が知ったのは葬式が終わってからだった。 行けなかった。 風の噂では、焼かれたのは先生と同じあの式場だったという。 大学に入って、何となく避けていた式場前を毎日のように通る。 行ったお葬式、行けなかったお葬式。 記憶があるかないかではなく、ただ、何となく嫌な場所だと思った。 自分にとっては「特別」なのに、連日同じことが繰り返されるから。 誰かの死が、小さいもののように思えてしまう。 毎日毎日、誰かが泣いている。 でも、その誰かが私ではないから、今日も通り過ぎるだけなのだと。 その葬祭式場がある日、工事用の幕で覆われた。 改装工事でも行うのかと思っていたら、幕の後ろは気づくと粉々のコンクリートで埋め尽くされてしまった。 いくつの涙を吸い込んだのか、そんなことにはお構いなしに、残骸化していく。 怖い場所だ、と思っていた。 悲しい場所だ、と思っていた。 でも、そんなのは周りが決めたことであって、建物はただのコンクリートだった。 ガラガラという音が、聞こえないのに響いてくる。 つい最近まで入り口で車の整理をしていたおじさんもいなくなった。 工事用のトラックが走る。 次はどこが悲しみを吸い込む場所になるのだろう。 信号待ちをしながら、崩れていくあの空間を見つめていた。 |
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