Spilt Pieces |
2003年09月23日(火) 秋雨 |
つい数日前まで誇らしげに咲いていた夏という季節が、急に萎んだ。 靴下を履かずにはいられない気温、衣替えをしたくなる。 足をさすりながら眠る夜、この前見かけた抱き枕をやっぱり買っておけばよかったなんて、小さな後悔をする。 でもきっと私のことだ、そう言いながらどうせ買わないだろう。 夏は、その季節に酔いやすくなる。 暑さと汗を言い訳にして、机の前に座る時間が減る。 本を読む量も減る。 毎日が目まぐるしく過ぎていく気がするのは、多分夏休みのせいだけじゃない。 微かに現実感を失う季節が夏のような。 そして秋の風が吹く頃、初めて現実に戻ってくるのだ。 少なくとも、私にとってはいつもそう。 今までに経験してきた夏休みの宿題も、受験勉強も。 秋は、緩やかな低加速の時期で、その波の中にたゆたっていたくなる。 はっきりと見える現実を直視しながら。 秋の雨は、寂しくなるから好きじゃない。 冬の雨はただ凍えるだけなのに、どうして秋は感情を伴ってしまうのだろう。 やたらと感傷的。 たくさんの経験を重ねてきたのがこの季節だからだろうか、思い出すことが多すぎるというのもある。 できれば、今年は記憶に残らない時間を。 そう願うのは、少しだけマイナス思考かもしれない。 「充実」が、時に鬱陶しい。 以前、私にとって強烈な印象に残る秋があった。 馬鹿らしいと思いながらも、秋というとその年のこと。 その後の秋を、どう過ごしたのかさえ覚えていない。 だからきっと願うのは、「今年も」記憶に残らない時間を。 かつての思い出が風化するのが怖いのか。 いやそれとも実際は、願いそのものが逆かもしれない。 「今年は」記憶に残る時間を。 あの頃のことを忘れてしまうために。 全ての秋が、等しく優しいものであるように、と。 秋の日にシトシト雨が降ると、誰かに電話をかけたくなる。 同時に、一人部屋に篭って本を読みたくもなる。 普段だったら矛盾だと感じられるようなたくさんの感情が、当然のように共存している。 どうしようもなくなったら、たまに泣く。 そうすると、何が変わったわけでもないのに、不思議とバランスが取れる気がする。 秋に対抗するより、秋の流れに身を任せ、ゆるりと過ごす方が自然だから。 感傷に同化すると、もうそれ以上の秋は流れ込んでこない。 午前を回ってから降る霧雨が、一番嫌い。 そして、一番好き。 家の中にいるのが切なくなるから。 外で細かな水滴がつくのを感じると、それを誰かと共有したくなるから。 傘もささずにいつの間にか、前髪がじっとりと濡れているのを感じる瞬間。 ひどい顔だと言って、笑うのが心地よい。 街も、人も眠った時間の、小さな遊び。 常識の中で時が回り始めると、そういうことを忘れてしまう。 例えば、今。 たくさんの歌が心地よい。 多くの声と思いに共感しやすくなるから。 ペンを握って文字を綴るのが楽しい。 誰かに手紙を書きたくなる。 「ありがとう」を言いやすい季節に、人と会いたい。 人恋しくなるのは、だからだろうか。 秋の雨は、寂しくなるから好きじゃない。 だけど本当は、嫌いでもないのだと。 |
2003年09月19日(金) 中心 |
ディーゼル車の規制が始まる。 話によれば、東京と神奈川と埼玉と千葉。 私の住んでいる茨城は規制を行わないらしい。 父が「日本全国同時にやらないと意味がない」とぼやいていた。 茨城は東京のすぐ隣の県だが、性格が大きく異なる。 農業県というだけあってか食べ物も豊富で、大きな自然災害があったとしてもしばらくは生活していけるだろうと思う。 父はサラリーマンで母は専業主婦という我が家だが、夕の食卓に載るおかずを数えると、買ったものが少ない。 夏場学校へ行こうと思って門を開けると、近所の農家の人が置いていってくれた大根やらとうもろこしの袋にけつまずく。 さっき冷蔵庫を開けたら、家庭菜園で採れたトマトが溢れるよう。 延々と続くハス畑、名も知らぬ白い鳥。 金銭的に贅沢な暮らしを送っているわけではないけれど、時折その豊かさに気づいて緊張する。 近所の美容院は、チェーン店ではあるけれど好きな美容師さんがいる。 いつも彼女を指名して、心地よい時間を過ごす。 見栄を張る気もせず、家の近所だと言っては化粧もせずに行く場所。 予約の時間よりほんの少し早めに行って、受付前の待ち席でパラパラと雑誌をめくる。 美容院独特の香り。 昔からどこか落ち着かないけれど、それでも好きだと思う。 ヘアカタログ以外に、ファッション誌や女性週刊誌が置いてある。 ちなみに、毎回開いてしまうのはワイドショー記事ばかりの女性週刊誌。 他のものは自分で買う可能性があるから、折角なら普段読まないものを。 芸能人のゴタゴタを読んでいるときに名前を呼ばれると、意味もなく恥ずかしくなってしまうのはどうしてだろう。 髪を切ってもらっている間、アシスタントさんが気を利かせてかよく新しい雑誌を持ってきてくれる。 やはり年齢を見てだろうか、ファッション誌ばかり3・4冊。 別にわざわざ換えてもらうほど週刊誌を読みたいわけでもないので、何も言わない。 だけど時折そのまま前のお客さんが読んだものがそのまま置かれていることがあって、以前それを読んでいたらいつもの美容師さんに声をかけられた。 「そういうのよく読むの?」 「たまに、あれば開く感じですけど」 広げっぱなしのページには、整然とした部屋が写真つきで載っていた。 都会のどこかお洒落なマンションの写真だったろうか。 「こんな綺麗でかっこいい部屋、素敵よね」 「でも、私は見るだけでいいかなって思います…住むならもっと雑然としていないと」 「あはは。そうね、確かに。あとは…」 「?」 「私、方言すごいのよ」 「そうなんですか?いつも標準語だから分からなかったです」 「接客業だから、必死で頭の中で変換作業中(笑)もうすごいのよ〜。あ、でもね、私本当は方言の方があったかくて好きなの。話してるの聞いている方は汚く感じるかもしれないけど」 スタイルがよくて、顔も綺麗でセンスもある。 高校の頃から担当してもらっている彼女は、もうすぐ30歳を迎えるという。 休みの日はどのように過ごしているかと以前尋ねたら、自分の店を持ちたくて貯金しているから、月に5日くらいしか休みを取らないし取ってもカットの講習会や部屋の掃除やらで終わると言っていた。 「結局私、この仕事好きなのよね。よく、仕事バカって言われるけど」 そう言う彼女の手は薬品のせいかガサガサだったけれど、笑った顔がとても美しい人だと思った、元々の形云々を抜きにしても。 そんな彼女は、きっと雑誌などで輝く女性として紹介されたとしたら素敵に写るだろうと思う。 そして、その気になれば「洗練された部屋」がいつだって似合う人。 先月お台場へ行ったとき、少し気持ちが高揚した。 お洒落なパスタのお店でおいしい食事。 レインボーブリッジがよく見える。 クリスマスにはこういうところ予約でいっぱいなんだろうね、と言いながら缶詰じゃないマッシュルームのたくさん乗るピザを頬ばった。 でも、人工の街は、静かだったけれどどこかがぽっかり開いていた。 たまにはいいねと言って笑う。 あくまでも、「たまには」と。 やたらと生活臭のするこの県は、雨の日には土と太陽の匂いがして、そこら中から大嫌いなミミズが這い出てくる。 黄色信号は「ススメ」で、農道から出てきた軽トラは急に飛び出す割にはスピードを出さない。 畑の真ん中に、やたらと売れるドラ焼き屋がある。 夕方には売切れだ。 休みの日、隣の家では朝から庭ではしゃぐ子どもの声がする。 人見知りする私は、今も上手に声をかけるタイミングをつかめずに戸惑う。 近所のおばちゃんの話す茨城弁は未だにちっとも分からない。 だけどこの県は、この県だけで風景が成立している。 ディーゼル車の規制が始まるらしい。 話によれば、東京と神奈川と埼玉と千葉。 私の住んでいる茨城は規制を行わないとのこと。 きっと、茨城や栃木といった規制を行わない周辺の県にひどい排気ガスが集中するだろう、と父が言っていた。 4つの都県は自分らの土地さえよければ他がどうなってもいいんだろうか。 それとも、この県が変わろうとしなかったのがいけないんだろうか。 だけどもしここが規制を行ったとしたら、違反車が他へ移るだけのことだ。 「日本全国同時にやらないと意味がない」という言葉の意味を考えた。 そうだな、じゃあ結局悪いのは国か。 でも、どうして明らかに結果が予想できるのに、茨城は規制を行おうとしなかったのだろう。 政治家の利権問題だろうと考えながら、選挙のときに見た「昔ながら」の瓦葺の家の数を思い浮かべた。 変わるために、独裁者が必要だとは思わない。 時間はかかるかもしれなくても、そんなものに頼りたくないから。 雑誌「モーニング」で連載中の「キマイラ」という漫画がおもしろいと思う。 正確に言うと、あのテーマに対して作者がどういう結論を出すのかに興味があるのだが。 自分の変わらぬ利益を欲するばかりで先を見ないのであれば、結局は全てはマイナスへの強制的な移行を余儀なくされるだけだ。 ゆるやかな時間など、何もせずに続くとは思えない。 日本の中心は、東京でもなければ京都でも大阪でもないと思う。 人が生きる場所全てが中心であっていい。 だからって、あまりに分断された「地方分権」は協力精神がないかのようで。 ヒトリヨガリな意味ではない「住みやすいところ」が、もっと増えればいいのに。 文句を言うばかりで具体的に動く方法を考えられない自分も情けないけれど。 「キマイラ」の登場人物たちは、たとえ間違っているかもしれなくても、少なくとも目先のことに捉われることなく未来を真剣に考えている気がする。 変わらないためには、変わっていかないといけない。 |
2003年09月18日(木) ニッキ |
※注 今日の日記は普段の日記と書き方がかなり異なります。 メモライズ日記が現在更新できない状態というのもあり。 毒舌というか適当というか…管理人の本性がばれてしまうので、知りたくない方はブラウザのバックでお戻り下さい。 梅雨が八月に終わるような変な夏。 大学はそんな異常気象にもお構いなしのようで、カレンダー通りに冷房を入れる。 元々大教室限定という意味のない冷房は、一週間も前にきちんと切れてくれたらしい。 両親の教育がよかったおかげか、私はやたらと新陳代謝がいい。 周りが涼しい顔をしているときに一人で汗だくなんて、まったくもって嫌になる。 数十年後に笑ってやるぞと、わけの分からない対抗心で自分を慰めつつ。 あーもう要するにこの不安定で蒸し暑い天気に苛々するわけで。 厭味ったらしい日記の書き出しは、今部屋の温度計が32℃を示しているからに違いなく。 九月も下旬になろうかというのに、どうしてこう暑いんだろう。 一夏に冷房をつけた回数が両手で収まるような我が家では(しかも一回に一時間・夜。デンコちゃんにご褒美もらえそう)、「暑い」ということは日常的だ。 でも、やはり九月という言葉には期待してしまう。 当初の予定では、涼しい部屋で快適な時間を過ごしているはずだった。 このまま暑くあってくれるなら、十月の花火大会では是非とも浴衣を着たいところだ。 セミの声と鈴虫の声が混じって聞こえる。 六時過ぎ、外は既に真っ暗だ。 もうそろそろ紅葉も始まるだろう。 梨の季節も終わりねと、昨晩母が呟いた。 というわけで何だか頭の中がまとまらず。 今日思ったことをチラホラと箇条書き。 ・権利を行使するかしないかは本人の勝手だけど、それをしないことで第三者の悪意ある人が他人の分の権利まで利用して私腹を肥やすかもしれないと思うと、権利を行使することは権利といいながらもやっぱり義務なんじゃないか。 何となく、運転中にモヤモヤと。 ・常識常識と言われているけれど、何をもって常識というかなんて分からない。 頭のいい人が決めた勝手な法則を強制するのは勘弁してくれ、と思うことがないとも言い切れない。 最低限の常識は、必要だと思うけど。 本音を言うと、常識常識うるさい大人に限って常識なかったりするのはなぜだ?ということで。 机の上でばっかり考えていると、現実が見えなくなるんじゃないかと思う。 他者っていうのは生身の人間なんだし。 ・考えなしでいい言葉を発する人、考えなしでひどい言葉を発する人、考えていい言葉を発する人、考えたけどひどい言葉を発してしまう人。 一番切ないのは最後の人だろうなと思う。 考えたという時点で何も考えない人よりは真剣だと思うのに、選択を間違えたというその結果によって一番罵倒されるだろうから。 考えなくてもいい言葉を発せる人っていいなと思うしそれまでの努力の成果だったりするのかもしれないけど。 過程って大切にされないなあと思う。 ちなみに、考えてわざとひどい言葉を発する人は論外。 その人そのものを否定したりはしないが、私はできれば関わりたくない。 ・イメージなんてものは、結局のところ自己判断できないんじゃないか。 「相手はこう思ってる」と考えること自体イメージなんだから、どこにも根拠がない。 それに依存したり苦しんだりするのはアホらしいなあと近頃よく思う。 いい面も悪い面も含めて一人の人間だ。 ・郵便局の雰囲気が大好き。 ずっと入り浸っていたい感じ。 色んな人がいて、局員さん優しい人ばかりで。 単純にうちの近所の郵便局がいいだけかな。 局員さん個人個人の性格知ってるわけじゃないからよく分からないけど、せっかく優しい気分になれる空間なのだから、いちいち裏を読むのは止めておこう。 思わず無駄に切手を買ってしまった。 パソコンの前に向かう機会が多くなると、無性に手書きの文字が恋しくなる。 …と、これを書いているのがパソコンだというのが既に矛盾しているような気がしなくもない。 ・愛車の古いカセットデッキをMDに変えたいと思う、でもお金がない。 MDウォークマンから繋いで再生する端末をもらったので、それを試してみた。 感動!…しかし車の中って暑くなるから毎回MDウォークマンを持って帰らないといけない。 面倒くさいというよりはむしろ、うっかり車内に置き去りにして後で落ち込む自分の姿が想像できるからちょっと嫌かもしれない。 ・周りの友人の中でも、知る人ぞ知るという感じの私の好み。 ゴリラやサルのぬいぐるみがたまらなく好き。 物を買うときに借金は嫌、キャッシュだ!と普段から豪語している私ではあるけれど、もし目の前に大きくて無愛想な表情をしたゴリラのぬいぐるみがあったら、その場でカード作ってでも買いそうな気がする。 ちなみに、親しい友人に言わせるとどうやら人の好みもそうらしい。 ベッカムよりカーンがかっこいいと言ったら変な顔で見られたし。 でもカーンは浮気したという話なのでがっかり。 それにしても、一般的に言われる「美形」ってどうも苦手…。 自分が薄い顔なせいか、やたらと濃い顔に惹かれる今日この頃。 あくまでもビジュアル面だけど。 そういえば濃い性格の人も好きだ(男女問わず)。 これ箇条書きというよりむしろ殴り書きに近い気が。 最初と最後の内容激しく違うし。 ちなみに、ここまで書いて現在部屋の気温は変わらず32℃。 しかも今携帯にイタズラメール来た。 むー。 件名入らないくらいの古さなので、毎回開いてしまう。 別に私はかわいい女の子との出会いなんかいらないんだけど。 メールアドレス変更すると連絡が大変だからできればしたくないし。 それで切れてしまう縁もあるわけで、人の選択をしなくちゃいけないと思うとゲンナリ。 ※明日は多分普通の日記に戻ってます。 読んでしまった方、管理人の愚痴というか独り言に付き合って下さってありがとうございました。 本性はこんな感じです(知人が読むとそのまますぎて多分つまらないかと)。 そういえば日記でこういう書き方したの初めて。 ところで、今日カバラ数秘術という占いをやってみました(占い名のところにリンクあり)。 遊びに行ったサイトの管理人さんがやっていて、お勧めしていたので挑戦。 私の結果は ◆長所 温和、家庭的愛情、誠実、親切、献身、持久力、外柔内剛、美的センス ◆短所 強情、頑固、怠惰、わがまま、独占欲、嫉妬、好色、感覚的、ぜいたく ◆備考 親切でやさしく、寛大な性格だ。 とのこと。 短所ばっかりやたらと当たっていてちょっと笑いました(嬉しくない)。 |
2003年09月17日(水) 音 |
私は普段、感情を剥き出しにしたような曲ばかり好んで聴いている。 落ち込んでいるときに明るい曲で無理に励まそうとするのが苦手だ。 ネガティブな雰囲気に浸って、最後には「これじゃいけない」と立ち直るのがいつものパターン。 だけど、心に沁みてくる音というのは、時と場合によって随分異なる。 どれがいい、という具体的なイメージがあるわけでもない。 そういうときは、仕方なく持っているMDを片っ端から再生することになる。 あれも違う、これも違う、とクルクル変更。 もし同じ部屋に誰かいたら、苛々して電源を落としたくなるに違いない。 昨日は結局30枚近く交換して、数年聴いていないような曲に落ち着いた。 その間に手紙を3通ほど書き上げてしまったので、我ながら随分と長い間悩んでいたらしい。 優しさって何だろう、と思う。 分かっていることと実行することの間にはひどく溝がある。 例えば私は気を遣われることに窮屈を感じるが、他人には思わず平気かと尋ねてしまう。 相手を思いやるというよりは、自己満足のような。 心配になったときも、一瞬考えて口を噤むことを選択できる大人になりたい。 こういった優しさは、音にも自然と表れるんだろうか。 本当に気分が滅入ってしまっているときは、押しつけがましい応援の歌など鬱陶しいだけだ。 昨日選んだのは、明るい曲でも暗い曲でもなかった。 ただ静かで穏やかな声が、微かに切なさを含んだ恋愛を描いている。 今の自分に当てはまるかどうかなんて関係なくて、何となく心に流れ込んだ。 透明すぎるものに出会うと、少し息が苦しい。 感情さえ見えないような純粋さは、知らぬ間に時折誰かを追い詰めてしまうから。 ほんの僅か濁りの混じっているような音は、ほとんど透明に近い割に不思議と心地よかった。 思わずリピートボタンを押す。 かつての恩師、留学中の友人、農業体験で出会ったちょっと年上の友人。 気がついたら穏やかな手紙を綴っていた。 切手を選ぶのも楽しい。 伝えたい言葉を詰めながら、封をする。 カラオケに行くとき、女性ボーカルの曲を歌うのが苦手だ。 普段の声の高さとは逆に、低い音しか出ないから。 いつか、優しい表情で優しい音を奏でられる女性になれたら、と思う。 透明に泣く方法など知らない。 でも、泣きたいときくらいある。 だからそういうときは、口の中の氷砂糖みたいに自然な溶け方に身を任せていたい。 優しい音は、ほんの少しネガティブな私を引っ張り出して、たくさんのポジティブな私に力をくれる。 激しさはない、共感もない、ただ水に抱かれているような。 「ヒーリング」と題された音と気が合わないことが多い。 何が癒しであるかなんて、きっと人によって随分違う。 |
2003年09月16日(火) 壊す |
母が出がけにチャーハンを作っていってくれた。 週に一度のパッチワーク教室。 せっかく行くのだからもっとゆとりをもって行けばいいと思うのに、いつも慌しく出発する。 「窓の鍵閉めていく?」 「洗濯物そのままでもいいかな?」 確かにぼーっとしているけれど、もうそんなに子どもじゃない、と思う。 気のない返事ばかり投げ返す私に、母はもどかしそうな表情をする。 「行ってきまーす」 勢いよく玄関を開けて出て行く母を見ていると、まるで自分の方が老いているような気さえしてしまう。 少し気合いを入れるかと、軽く着替えてテレビをつけた。 「いいとも」を見ながら、先ほど母がリビングに置いていってくれたチャーハンのラップを取る。 仄かに温かい。 何度自分で挑戦しても、やはりおいしいと思うのは母があり合わせのおかずで作るチャーハンのような気がする。 まだまだ、ちっとも追いつかない。 冷蔵庫の中からアイスコーヒーの紙パックを出して注いだけれど、あまりチャーハンには合わないと思った。 久本雅美は綺麗な人だと思う。 やはり生き生きしている人はいいな。 実際に会って話したことがあるわけじゃないから、あくまでもイメージだけど。 粗相のない格好をして画面に登場する顔形のいい女性は、好きになれないことが多い。 まだ持って生まれた以上の綺麗さを得るほどには自分を持っていないからかもしれない、なんて、自分のことを棚に上げてチャンネルを回し始めた。 やたらと表現の大袈裟な通信販売の番組を意味もなく見る。 「…どこが安いんだ?」 思わず口に出しそうになった言葉を、辛うじて心の中だけで留めた。 ケーブルテレビの契約をしているので、見られる番組は多い。 音楽クリップばかりをずっと流している番組をよく見るが、チャンネルを回したときはたまたま浜崎あゆみをやっていた。 前は苦手だったのだけど、最近好きになった。 英語だらけの番組では、赤ちゃんの成長について取り扱っていた。 そういえば、今朝友人から来たメールに、小学校の同級生が既に結婚して子持ちだということが書かれていた。 当時すごく仲のよかった子だったので、驚いた。 もうすぐ結婚する子もいるという。 人生色々だな、と、変わり映えしない自分の生活にがっかりした。 実際にチャンネルを「回して」いた頃赤ん坊だった私たちの世代は、いつの間にかリモコンが当然の時代に生きていて、子どもを産んでいてもおかしくない年齢を迎えた。 不思議な感じだ。 独り言のような思考回路が、ふと止まる。 50数チャンネル回してNHKにまで辿りつくと、何やら物騒な映像。 爆発音と、ガラスの飛び散る映像。 その直後から、ディーゼル車が出すよりもっと濃い、黒い煙が立ち込める。 現場の記者が動揺した口調で中継をして、きっとゆったりとした椅子に座っているだろうアナウンサーが冷静な口調で様子を尋ねている。 名古屋での出来事。 詳しいことはよく分からないけれど、大変な状態ということだけはよく分かった。 消防車の放水で、カメラに水滴がついているらしい。 現場の視界がやたらと伝わってくる。 境界線は、自分の顔が濡れていないことと、生命の危険がないこと。 犯人は、ガソリンを撒いたのだと言っていた。 頭できちんと考えればどれほど危ないことなのか分かるはずだろう。 それさえ吹き飛ぶほどの心理状態に、警察の説得というのはどれほどの意味を持つのだろう、と思った。 必死で説得していただろう警察官を責めたいだなんてまさか思わない。 ただ、テレビの刑事ドラマと現実は違うのだなと思う。 本当に難しい仕事だ、と。 相手の人生と自分の家族の苦しみを、たかが給料三か月分と天秤にかけようという時点で、何かが歪んでいる。 だけど。 それくらいの歪みなら、今の時代誰にだって生じさせてしまう可能性があるのではないか。 幸い私はそこまで追い詰められた心境を味わったことはないけれど、人間なんて誰もが弱いのだから、ちょっとした弾みで何がどう変わるかなんて予測もつかない。 頭で考えて分からないから、人の心はブラックボックスなのだ。 だからといって、私は自分がそうはなりたくない、と思う。 たとえ他人を傷つけることが悪であるという道徳そのものが人間同士がうまくやっていくための後づけの理論だとしても、それを信じていたくなる。 壊すのは、一瞬。 組み立てるのは大変なこと。 当然のことが分からなくなるばかりか、鬱陶しくなることだってある。 禁止されたことを破りたくなる思春期の青少年の心理は、大人になると抑圧されるだけで、誰もがどこかに持っているのではないか。 壊すのは、一瞬。 組み立てるのは大変なこと。 分かっているのに。 何かを作っていくには、労力もだけど、それ以上の数の我慢がたくさん詰め込まれている。 誰かがその我慢を一つ破れば、それまでの我慢が全部無駄になってしまう。 危うい橋、危うい状態。 昔ジェンガというテーブルゲームが流行したけれど、あれを抜く人の数よりも戻して整えようとする人の数が多いから、たくさんのことが保たれているのではないかと思う。 他者が愚かしいことをするのを見て、冷静な人たちはため息をつく。 そのため息の数だけ、とりあえずは同じことが阻まれる。 だから私も、ニュースを見ながらため息をついた。 ああ違うな、別に「だから」というわけでもなく、単に気づいたら出ていただけだ。 理由なんて後からつけても十分通じてしまう。 危ない、危ない。 NHKだけではなくて、他のテレビ局でもほぼ同じ報道がされていた。 最初ウンザリして見ていたはずなのに、一人だったせいかいつの間にか泣いてしまっていた。 我ながら困ったものだ、結局はこれが結論らしい。 もっと単純に割り切れれば楽なのに。 犯人の心境やら巻き込まれた人・家族の心境やらを考えすぎた。 テレビを見ていると感じることが多くて疲れる。 いつの間にか、最近はバラエティ番組の方が好きになってしまった。 テレビの電源を切る。 母が早く帰ってきてくれればいいのに、と思った。 そうすれば、妙な方向の痛みを覚えることなく、あっけらかんと犯人を罵倒できるのに。 爆発の瞬間、飛び散ったたくさんの紙。 ガラスの破片がもしも自分の頭の上に降ってきたら、などと想像する私は少し発想がおかしいかもしれない。 人間の営みって、絶妙というよりは微妙なバランスの上に成り立っていて。 そのぐらぐらと揺れるものの上にいる自分が揺れない方が不自然だろうと、自分を慰めつつ。 ひらひらと空を舞ったその紙は、多分ほんの数時間前まではとても大切なものだった。 空が高くて、微かに吹く風は少しずつ秋色になってきた。 昼間からどうしてこんなに疲れているんだろう。 心に沁みない、明るいだけの曲を聴きたい。 |
2003年09月15日(月) 歌 |
一昨日の話になるけれど、ライブに行った。 とある女性歌手。 以前近所のレンタルCD店で見かけたミニアルバムを借りたのがきっかけで聴くようになった。 私は、普段好きな曲のリピートが多くてあまり新規発掘をしようとしない。 自分にしては珍しい出会い方をしたものだと思う。 都会は嫌いだ。 たまに行くのならおもしろいが、息が詰まるから長い時間いたくない。 地元にいるよりもたくさんの店があるし、新しい発見も多くある。 それでも、人込みは疲れる。 10年以上横浜に住んでいたので、都会が珍しいわけでもない。 単なる相性の問題かもしれない。 街中で寝ている人を起こしてあげられない、そんな雰囲気。 中学生の頃、友人と一緒に渋谷へ行った。 色んな店があって楽しかったけど、月のお小遣いが1000円ちょっとでは買えるものもほとんどない。 その後引っ越してからは、ほとんど足を向けたことのない街。 最近は全国的な事件も生じるような、危険な場所だという。 スクランブル交差点に驚いてみた。 大きな電光掲示板を見上げた。 キョロキョロする人が珍しい街。 そうすることがまるでタブーだと言わんばかりの。 あちらこちらを見ておもしろがって、空が見えないと文句を言った。 「あ、そういえば」 空が見えないことにすら気づかない。 だから私は都会が嫌い。 田舎は、空が広すぎるくらいに、広い。 苦手な街、都会という名の化粧で誤魔化された人間の営み。 だけど小さな路地には、泥臭いほどの息づかい。 ファーストフード店に入ると、満席だった。 ちょっと離れた定食屋さんは、人も少なく安くておいしい。 「いらっしゃいませ」 金髪に近い茶髪をした、自分よりきっと年下だろう女の子。 いわゆる「今時」の雰囲気を纏っていたけれど、笑顔が素敵だなと思った。 店を出て、友人と二人「可愛い人だったね」なんて、微笑む。 7月頃に申し込んだチケットは、2枚。 人生初ライブだねと言って緊張しながら、友人と二人、夕方の渋谷。 都会の大学に通う彼女は、垢抜けた雰囲気だ。 「東京へ来ると、何だか変な感じがする」 「若い人ばかりだからじゃない?」 ああそうか、どうして気づかなかったのだろう。 確かに不自然だ。 家の近所のスーパーで見かけるような生活感が、欠如。 生き様は数多くあるのだけれど。 悲しみや、喜びや、夢が破れ、叶い、消える、帰る、希望、それらが、雑多。 ほの暗くなりかけた時刻、「すぐに会場に入れます」という特典があったけれど、気にせずゆっくり夕食を取っていた。 最後の頃に入場して、座れるはずの状況で立ちっぱなし。 小さなエレベーターに、人がぎゅうぎゅう。 隣になった人と言葉を交わすわけでもない。 誰が誰でも別に構わないのが少しせつなくなる。 「お飲み物は?」 カウンターの向こうにいる人が、チラリと目を上げて尋ねた。 手馴れた雰囲気、きっとたくさんの人を見てきたんだろう。 「アイスティーで」 返事の代わりに、目元に優しい笑みが浮かぶ。 プラスティックの安そうなコップに並々と注がれたアイスティーを、手の中で回転させる。 氷のカラカラという音と一緒に揺れて、少し涼しげ。 最近体調の優れないことが多くて、鞄の中には私にとってやたらと効きのいいバ○ァリンが入っている。 立ちっぱなしで平気か不安になったけれど、結局は少し足が痛くなっただけで何も問題はなかった。 「ライブ」という言葉に、何となく激しさをイメージしていたからだろうか。 緩やかな優しい雰囲気は、静かすぎるくらいで。 音を・声を辿るだけで時間が流れる。 心地いい。 歌えるということが羨ましい。 声を、大声を張り上げたくなる。 意味もなく、ただ。 たくさんのものが不要なんだと、思い込んでしまいそうだ。 最後の曲が終わり、アンコールも終わり。 やはり特典のようなものがあって、歌い手と2ショットで写真を撮れるらしかった。 だけど何だか静かな余韻を壊したくなかったし、今まで舞台に立っていた人と現実で会うのが恥ずかしかった。 だから、本当にただ歌を聴いただけで帰ってしまった。 終了直後にエレベーターに向かったのは、多分片手で足りるほどの人数。 音が消えて、来たときよりもっと暗くなった空の下を、ポツリポツリ感想を言い合いながら駅まで歩く。 「おもしろかったね」 「写真、勿体なかったかな」 他愛もない会話をするうちに、少しずつ人が増えてくる。 夜の街を、時間を忘れたかのような人たちが歩いて行く。 腕を組むカップル、酔っ払ったサラリーマン、大きな看板に捉われた人たち。 高校の文化祭でやったサンドイッチマンは楽しかったのにな、なんて思い出しながら。 歌を知ってはいるけれど、私はこの日歌っていた人のことを知らない。 何を思っているのか、何を感じているのか。 誰も彼も似たような人間で、きっと彼女は他人より少し感受性が高くて歌がうまいのかもしれない。 いつだって冷めた部分を捨てきれない私は、彼女に共感することもあるけれど、叫びたいほど好きにはならない。 ただ分かるのは、彼女は私が嫌いな都会と街で、たくさんの気持ちを抱えながらも前に向かって生きているということだけだ。 接点は、僅かでそして一方的。 情報も特典も写真もいらない。 生き方があって歌があってそれを聴くだけでいい。 皆それぞれに考えがあって、夢がある。 それを覆い隠してしまう街が嫌い。 成功した人しか表に出られない、仕方がない。 ただ、それを好きか嫌いかは別問題だから。 頑張る人の断片を見られるかもしれないという意味では、都会をいいと思う部分もあるけれど。 住んだことがないから、結局は田舎者の偏見かもしれない。 「経験したことのないものに対して文句を言うのは簡単だけど、全てを経験するわけにはいかない」 言い訳。 無性にカラオケに行きたくなった。 |
2003年09月11日(木) 絵 |
色んなことが、リアル。 息をするのが、少しだけ怖かった。 気まぐれに行った公園。 年甲斐もなく、友人と二人でシーソーをした。 日焼け止めを塗るのを忘れて、照りつける日差しが少し痛い。 空が高い。 足を投げ出して、ブランコを漕いだ。 何年ぶりだろう。 目の端に、たゆたう水。 日が落ちるのは早くなったものの、太陽はまだ夏。 雲も、まだ夏。 名も知らぬ白い鳥が、翼を広げて飛んでいった。 こんな穏やかな沼。 殺人があったのだと、知ったのはそれから数十分後。 少なくとも、道路上の看板を見るまでは知らなかった。 暑い。 空と自分との距離を実感する。 見上げていたら、何だか泣きたくなった。 いつの間にか立ち漕ぎをしていた。 少しでも近づきたくなったからかもしれない。 飲み物を買いに自販機へ行っていた友人が、いつの間にか戻ってきていた。 「元気だねえ」 無糖の紅茶を苦いと顔をしかめて飲む彼女は、多分私と同じ目線を持ってくれている。 「こんな幼い遊びにも付き合ってくれる人と結婚したい」 そう言ったら、少し笑いながら「そうだね」と。 優しい表情で返事が来て、何だか意味もなくほっとする。 たくさんの現実感を失って、日々がそれこそ立ち往生。 昨日色んな誘いのメールをもらったけれど、理由なく断った。 嫌いとかではなくて。 理由がないだけだから。 まだ、多くの人が集まる場所に行けるほど強くない。 いつの間にか、サバイバルでは決して生きていけないような、悲しい透明さを帯びた生活を繰り返してしまった。 我儘でいさせてくれる人たちが、黙って優しい目線をくれる。 それに甘えているだけなのかもしれないけれど。 澱みなく流れる時の中で、ただ静かに揺られていたい。 間違っているということ、分かっているつもりなのだ。 人間は、そういう生き方ができるようにはできていない。 所詮は今だけの感傷、もしくは夢。 否、夢ですらない。 望んでいない。 人間は、実際に目にしたわけではないけれど、争いを繰り返してきたという。 悲しみの連鎖を断ち切りたいと、誰もが願ってきた。 …本当に? 誰もが、の「誰も」とは、誰のことだろう。 『世界中の誰もが使った…云々』という宣伝文句をよく聞く。 世界とは、どこを指して言っているのだろう。 誇張表現などどこででも耳にするものだけれど。 先進諸国の横暴だなどと発展・非難するつもりもないけれど。 でも、そこには誰が入っているのだろう。 誰のための「世界」だ。 争うことを、憎むことを。 教育されてきた人たちは、きっとそれを当然だと思う。 私は自分の考えを自分で決めているようであるが、実際は生まれ育った文化と環境に大きく左右されている。 もしも、この国に生まれなかったなら。 もしも、誰かを憎まなければ生きていけないような日々を送っているのなら。 悲しみの連鎖を断ち切りたい「誰もが」の中に入れるのか、自信がない。 少なくとも今は、入っているつもりなのだ。 だけどそれでも、自信がない。 だからといって、争いを認めたいわけでもない。 ああ、表現が、もどかしい。 現実に押しつぶされずにいられるようなゆとりを、一体どれほどの人が持っているというのだろう。 私は、幸せだと思う。 小さなプレッシャーや人間関係で悩むことはあっても、それなりに生きているから。 綺麗な、場所だ。 澱みさえ忘れてしまうほどの、虚構と不思議なバランスで保たれて。 命綱をつけることなく底なし沼に落ちた人を助けようとしたなら、愚かだと笑われるだろう。 自分が生きる、とはそういうことで。 白く塗られたキャンバスは、多分爪を立てると下から多くの色を溢れさせる。 私が考える「生き方の模索」は、ひょっとしたら下の色を塗りつぶしたことを忘れて、白いキャンバスの上で絵を描く方法を学ぶにすぎないのだろうか。 分からない。 絵の描き方が分からない。 時間も年齢も立場も必要ない。 求めているのはただ、何が本当の絵の描き方であるかなのだ。 方法などないのだろう。 自分で方向を決めるしかないことも。 だけど、上ばかり見て溜息をつく愚かしい自分に、今いる場所からできることを何か教え込みたい。 白状を一つしろと言われたならば、私は臆病者だということを告白するだろう。 情けない話だが、思ったらすぐさま行動できるほどの思いきりがない。 踏み出すまでに時間がかかること、そして言い訳が多いことを、20年以上もの付き合いとなるとさすがに知っている。 だけど、それでも私は私として、たとえ時間がかかろうとも、考えていくしかないし進んでいくしかない。 「将来どうするの?」 「考え中」 いつもの、答え。 色んなことが、リアル。 息をするのが、すごく怖い。 |
2003年09月10日(水) 着飾る |
西向きの窓にあるカーテンは、いつも閉まったまま。 夕方になると西日が差して暑いから。 あまりにも当たり前の理由で、理由っぽくもない。 眩しい光が目を刺して痛いというのもある。 近所では家の新築が始まっている。 外に出たくないくらいに太陽が騒いでいても、毎日変わることなくカンカンと音が響く。 熱風をかき回すだけの扇風機が、グルグルと首を振る。 PCがノートでよかった、と思いながらエクセルと格闘。 雲の流れていくのが速いのは、きっと空でも風が吹いているからだろう。 さっきからすぐに景色が変わる。 今日は風が強い。 朝からゴミ箱が倒れたり紙が飛び回ったりしているので、ようやく諦めて窓の隙間をほんの少しにした。 それでも、西にかけたカーテンは風が吹くのと同じリズムで襲いかかってくる。 開く瞬間、顔に強い日差しが照りつける。 もしも今鏡があったなら、多分私は窓を完全に閉めたくなるだろう。 太陽は、顔にできた小さなオウトツまでも鮮やかに映し出してしまう。 「二十歳過ぎたらそれは吹き出物だよ」 友人がからかい気味に言った台詞を思い出し、ニキビだと言い張りたい自分に笑う。 一ヶ月近く塗りっぱなしだったペディキュアを落とした。 剥げかけるたびにわざわざ上から塗り直していたから、なかなか取れなかった。 不恰好の小さな爪は、くたびれたように白く息を吐く。 爪切りを出して整えると、何だか少し健康的になった気がする。 もうしばらくはこのままでもいいかな、と思いながら。 多分その「しばらく」は、私の気まぐれにもよるのだろうけれど。 「手には塗らないの?」 「不便だからね」 面倒くさがりで、着飾ることをあまり好んでしようとしない私は、あまり女らしくない。 その割に、サンダルを履かない時期でも足には大抵何か塗っている。 指輪は嫌いなのに、ネックレスはいつでもしている。 「ヘッドを服の上には出さないんだね」 意味もなく、ただつけていたい。 そう言ったら、納得できていない顔でとりあえず頷かれた。 結局は自己満足なのだと。 伝わったかどうかはよく分からない。 単純に、表現を変えればよかっただけのような気がしないでもない。 実験をした。 服を変え、髪形を変え、化粧をした。 綺麗になった、と言われた。 お世辞だと分かっていた。 そのうち今まで通りにすると、元に戻ったと言われた。 何だか滑稽だ。 本当は、一度も何も変わっていなかった。 自分はどこか冷めていると思うのは、こういうとき。 流行を嫌いだとは思わない。 他の文化との比較で、日本人は真似することで安心するのだと言われているが、そうとも限らない。 少なくとも、他の文化の真似をして、真似すること自体を変えようとはしていないから。 今の流行じゃないと言って着ている服を恥ずかしがる人とこの前話をしたが、それを似合うと思ったから「そんなことない」と言った。 流行を嫌いだとは思わない。 それを迎合するかどうかは本人が決めればいいと思う。 私はそうする回数が少ない。 単純に、それだけの理由で「変わっている」と言われることもあるのだと思う。 皆が好きだと言うものを後から好きになること。 皆が好きだと言うものを嫌いだと評価すること。 皆が嫌いだと言うものを好きだと評価すること。 どれも間違っていなくて、どれも自分の判断。 結局は、自己満足なのだ。 その手段が時代によって移ろっていくだけのような気さえする。 扇風機の送る生暖かい風に文句を言うことは、今の時代だからこそのもの。 ペディキュアを落とすという行為は、それがない時代にはできないこと。 ラフな格好で椅子に座ることだって、日本に着物しかなかった頃には考えもつかないだろう。 そして今PCの前にいるのも、携帯電話をいじっているのも。 勉強している心理学など、最近百年でできた学問に過ぎない。 考えることやその内容自体が時代に左右されているのかもしれないのだから、それと切り離された自分を模索するのは恐ろしく困難で無謀な挑戦のようにも思う。 だから、できることなら否定をしたくない。 ならば自分が何を探しているのかというと、今生きている自分が今とどうやって折り合いをつけていくか、その方法なのかもしれない。 言葉でも、格好でも、思想でも。 着飾ることは誰もがある程度することで、各々の判断によって委ねられるもの。 ネックレスのヘッドを服の上に出さないのは、出さなくてもいいかと思う自分がいて、それによって自己満足できているからだ。 出すことがいいと思えば出すし、したくなくなれば外す。 ノラリクラリとしている私は、人に言わせれば本音の見えない人間でもあるようだけれど、自分としては深いことなど何もない、ただこれだけの人間なのだと思う。 時折自分自身のことさえも見失う。 でもそれはそれで自分なのかもしれないとも思う。 まだカンカンと音が響いている。 空の表情がまた変わった。 爪は白いままだ。 |
2003年09月09日(火) 今日 |
すすきの穂が夕日に照らされて、それこそ黄金色だと思った。 理由のない痛みが胸を襲ってどうにもならなくて、だから意味もなく用事をサボって散歩した。 何が不満なわけでもない。 だけど、時折慢性的な感情の疼きがやってくる。 息苦しさが瞬時にして消えるのであれば最初から悩みはせず、だからあくまでも気休めの散歩なのだった。 たとえそれが結果として今あるこの感情を悪い方向へ進めてしまうのだとしても。 ただ、その場限りではそれを鎮めることもできる。 ゆるゆるとアクセルを踏みながら、夏と秋の混在した田園風景を進んだ。 誰かと一緒にいることで、誤魔化される部分も多い。 遊ぶことで満たされるはずもないけれど、慰めにはなるから。 近頃の私は他者との関係で悩むことはあまりない。 自分の中での問題や、納得できない部分を持つ自分自身への不満が主となり、その滑稽さと逃れようのなさに微妙な笑みを浮かべたくなるのだ。 誰の力をも借りられない。 自分との闘いと言えば格好はいいかもしれないけれど、実際はそんな易しい感じではないという気がしている。 外へと怒りや悲しみ・不満といった負の感情を向けている分にはいいにつけ悪いにつけ先へと進むこともできるが、内へと向いてしまうと立ち往生してしまう。 闘っているつもりもなく、ただ胸が痛い。 自分を変えられるのは自分だけだと、実感として知っているから苛々する。 他者は影響を与えてはくれるが、変化を生じさせられるのは自分だけだ。 問題になるほどの大きな「風邪」ではないけれど、誰もが抱える程度の鬱々とした気分というのを私も持っている。 だから、時折相手の都合も考えられないほどに誰かの傍にいたくなったりもするし、逆に一人でいたいときもある。 しばしば気まぐれだと言われる。 少し反発しながらも、本心では「なるほど」と思ってしまう。 感情の動く過程を、透明の箱に入れて持ち歩いているわけではないのだ。 いつだって不透明で、しかも鍵のかかった箱の中で起こる動き。 鍵を私は持っているが、いちいち開けてなどいられない。 数多くある人の心の「分からない」は、ひょっとしたらこの鍵の強度に関係しているのかもしれない。 こんな、変な発想。 一人でいるのは、時折マイナス思考に陥ってしまう私にとって必要なことだ。 何を考えることもなく、ただ騒ぐのもいい。 だけど夢から醒めた後のように、祭りが終わった後の現実の静かな響きのように、ぽかりと開いた穴が風を招き入れてしまうのが怖い。 だから、誰かの傍にいた後に必然的に訪れる白さの他に、最初から一人である時間を欲する。 仮に叫んだとしても、泣いたとしても、笑ったとしても、無表情を続けたとしても、誰かに心配をかけることもなく。 他者を信用していないのとはまるで逆で、大切だからこそ礼儀としての線を引くことだってあるのだと思う。 誰もが自分の空間を持っているように。 私は、自分のことなら基本的に秘密を作らない。 聞かれたら大抵何でも答えるし、自分から言うことさえある。 ただ、本心をどれくらい言っているかというとそれはまた別の話だ。 「本当に聞かれたくないことを聞かれないために、敢えて別のことを言う場合もある」と言ったら、後輩に「腹黒い」というなかなかな評価をいただいてしまった。 確かに、例えば誰かの嘘に気づいたとき、真っ向から戦うか気づかぬフリしてすり抜けるかわざと騙されてみるかと冷静に判断している私に、純粋無垢という言葉は似合わない。 だが、こんな腹黒さもあれば人前に立った瞬間真っ赤になって逃げ出してしまう部分もある。 人はとても多様で、自分のことさえ一つの枠に当てはめられない。 それを時折忘れそうになると、誰かの矛盾を責めたくもなり。 見えない「自分だけの空間」を持つ多くの人との付き合い方を、もっともっと学ぶ必要があるらしい。 そんなこんなで一人でいる時間が割と好き(むしろ必要)なのだが、ずっとそれでは心が持たない。 結局はバランスの問題なのだろう。 特に、理屈抜きの話で言えば、食事がそうだ。 今日、以前母と二人で行ったたこ焼き屋へ一人で行った。 店員さんも味も前と変わらない。 一人で十個ものたこ焼きを食べて、満腹にもなった。 前回は、母と数を数えながら半分にして、少し物足りなかった。 でもどうしてか(単純な理由だとは思うけれど)、嬉しさが何倍も違う気がした。 要するに、今回は心が満たされなかった。 不思議なものだ。 何だか日記がものすごい支離滅裂になっている気がするが、単に今日思ったことを思い出しながら順に書いていったらこうなった。 人の心の中ってわけが分からない、なんて、自分の書いたものを読み返しながらちょっと溜息をついた。 しかも何だかやたらマイナス思考が混じっているような。 一段落ごとに内容が違うと思えばまだ何とかなるんだろうか。 まあ、全部ひっくるめて今日という日だったということで。 |
2003年09月08日(月) 単純な |
どれだけ言葉を重ねても満たされない。 多分、そこに実感が欠けているからだろう。 欲しいのは、もっともらしいロジックでもなければ優しい慰めでもない。 うまく表現できないけれど、喩えるなら、ぬくもりのようなもの。 もしくは、ぬくもりの記憶でもいい。 何もないところには立っていられないという、ただそれだけのこと。 例えばの話。 自分が一人ではないのだと、仮に幾千もの理由が背中を後押ししても、きっと私は蟻が堤防を崩すのと同じように、小さな穴を掘る。 「疑う余地はある」と言って。 我ながら、変なところにばかり頭が働く。 だから、数多くの理由などいらない。 ひょっとしたら、たった一つの理由さえもいらない。 だけど、もしも実感させてくれる手が一つあれば、それを頼りに眠るだろう。 ありもしない真実を探すのならば、せめて言葉を用いずに学びたい。 元々存在していた多くの言葉の組み合わせ方を覚えたところで、何が分かるかといえば多分「何も分からない」ということ。 誰かの言葉に反論できるほどの強さは持っていないけれど、言葉だけに騙されないほどの弱さなら持っている。 騙されてしまった方が楽なはずだけど。 そんな弱さなら、捨てなくてもいいかなと誤魔化してみたり。 自分と他人には違いがある。 違いがあることに、時折戸惑う。 あの人にできることが・その人が持っているものが、自分にはできない・持っていないと、嘆きたい日があるのも事実。 自分が必死で我慢していることを平然と行う人を見ると、何だかそれまでを否定されているような気がする。 自分が我慢し切れなかったことを当然のように耐えている人を見ると、何だかそれまでを悔いたくなる。 人と出会うたび、何かを学ぶたび、考え苦しみ、いつも何も分からない。 確固たる自分を得ていない弱さゆえかもしれない。 ゆらりゆらりと揺れてばかり。 だけど、悲しいからこそ分かる自分の立っている場所。 欲しいもの。 私は、美しい絵を描くことができない。 私は、上手に歌を歌うことができない。 私は、綺麗な言葉を綴ることができない。 「できない」と思うからできないのだと、色んなところで学んできた。 きっとこれからも何度も聞く言葉だろうと思う。 でも、無限の可能性を信じ続けることよりも、私には、できないことを認めてからできることを探す方が性に合う。 欲しいのは優しい言葉ではなく、自分を当てはめてくれる論理でもない。 定義は安心する。 それを探す人を否定する気もなければ、必要ないとも思わない。 だけど、それは自分のしたいことではないのだと思う。 「言葉は必要ない」 それは、あくまでも私が求めている実感。 ツールとしての言葉は必要だけど、ないかもしれない真実を求めたいのなら言葉に頼るべきじゃない、と。 私は、私の記憶しか持っていない。 だから誰かの記憶など、感情など、推測すれども分かりはしない。 でも、それが自分の記憶に固執するべき理由となるかは断言できず。 たくさんあるピースの一つでもいい。 小さな目から見た小さな世界を好きだと思うから。 欲しいのは、理屈じゃないたくさんのこと。 現実主義だと言われたり、非現実主義だと言われたりする。 どれもこれも本当ではなく、どれもこれも嘘ではない。 だって、そんなに単純に生きられたらもっと楽だもの。 だって、そんなに複雑に生きていたらもっと苦しいもの。 …矛盾しているんだろうか。 求めているのは、本当に単純な、優しい実感。 |
2003年09月07日(日) 色々 |
「あなたの言葉は、痛いくらいに核心をつくことがある」 数日前、友人に言われた。 相手の言葉の外にある感情に気づいたとき、幼い私は時折それを指摘してしまう。 傷つけることがあるのだろうと、分かっていた。 でも、言わずにいられないときもあって、そんなとき私は自分の感情ばかりを優先させる嫌な人間だと思う。 発さず誤解されるよりは、発して誤解される方がマシだと思っているからかもしれない。 それがあまり賢い選択ではないことも、分かっているつもり。 あくまでもいつも、「つもり」なのだけど。 「でも、私のためを思って言ってくれているって分かるから、平気」 フォローされた。 だけど、本人も分かっていて、そして苦しんでいるようなことを、敢えて直視させるのは優しくない。 それが有効となりうる場合があるのは自分の経験でも知っているけれど、その限りでもない。 「逃げる」ことが悪いことだとは思わない。 時に後ろに向かって走ることで前が見えることだってある。 逃げようとする人の腕を掴むことが果たして相手のためになるのかは、それこそケースバイケース。 私はまだ、その見極めができない。 何度人を傷つけただろう。 自分にだって、見たくない現実くらいあるはずなのに。 沈黙は、時に優しい嘘となる。 流れるように笑っていられたらいい。 私の周りにいる人たちは、無意識的にかもしれないけれど、そういう優しさを持っている人が多い。 心が痛くなるような指摘は一切しない。 私が話し出すまでは何も聞かない。 話し出したら何時間でも聞いてくれる。 恵まれていると思うのに、どうしてかその分本音を言えない。 自分でも分からない感情が押し寄せてきて、ただひたすら泣いてしまうような夜も。 頼られるのは嬉しいのに、私自身は誰にも連絡を取る気がしない。 心地よすぎて壊したくなくて、嫌な自分を見せたくなくなるのかもしれない。 「支えてくれる人がいることを知った」 先述とは別の友人が、実感のこもった雰囲気でそう言ったときのことをよく覚えている。 「よかったね」 返事をした私は、まだ彼女の位置にまで達せられない。 『頼ることは恥ずかしいことじゃない』人にはそう言える。 だけど自分に言うのは難しい。 自分の辛さばかりを殊更にアピールしてくる人が苦手だ。 こちらの状況も心境も無視して、ただ鬱々とした言葉を送りつけられると嫌になる。 でも、「支えてくれる人がいることを知った」と言った彼女の辛い言葉を聞くことは平気だから不思議なもので。 私は器用でもなければできた人間でもないので、全ての人に優しくすることはできない。 大切だと思った人のためなら、夜中でも駆けつけたいと思うのに、そうでもない人の場合はちょっとした愚痴を聞くのも疲れる。 完璧な人間なんかじゃいられない。 「頼まれごとを断りきれない」 そう言ったら、友人に笑われた。 「断ればいいじゃない」 簡単なことなんだろうな。 |
2003年09月06日(土) 手紙 |
この前行った長野で仲良くなった人から、手紙をもらった。 その人は昔保母さんをしていて、今は一年間のボランティア活動をしている。 農作業をしている写真なども同封されていて、「今度私が住む村にも遊びに来てね」と書いてあった。 はい、ぜひと書いた返事は、まだ鞄の中に入ったまま。 手紙を書くのは割と早い方なのだが、ポストへ行くのをつい忘れてしまう。 「私の顔も忘れないで下さいね」と写真を同封したものの、送らないのでは話にならない。 書くだけで満足してしまうのは、相変わらずの悪い癖。 悲しいことに、手紙は、相手に届かなければ意味を持たないらしい。 って、当たり前か。 筆不精というよりむしろ出し不精の私が、文通をしている相手がいる。 届かなかった手紙が部屋に溜まっている。 結局、一年も相手の元へ手紙が届かなかった。 こんな私とよく気長に続けてくれたものだと思うと、頭が上がらない。 最近は、文通をしている人というのをあまり聞かない。 たまにいても、見ず知らずの人とやっている人というのは珍しいらしい。 ほとんどメールになってしまったからだろうか。 それとも、見ず知らずの人、というのが怖い時代だからだろうか。 メールと違って、住所から本名まで、個人情報が筒抜けなのが文通だから。 彼女と文通を始めたのは、高校三年のときだった。 とあるところで募集の掲示を出していた彼女に私が手紙を書いたのが最初だった。 電話をしたことも、メールをしたことも、写真を交換したこともある。 だけど、会ったことがなかった。 会う・会わないくらい、この際たいした問題じゃないような気がした。 彼女は気が長い。 そして寛容だと思う。 何度も途切れる私の手紙に対して文句を言うことが一度もなかった。 一年ぶりに手紙を書いても、すぐに返事をくれるような人。 会わないことが自然だった分、会うことが決まったときは何だか怖かった。 会った瞬間全てが終わってしまったらどうしようと思った。 口で話すより文で話す方が変なことを言わずにすむ。 それに、会ったことはないものの、周りの軽い付き合いの人なんかよりずっと私のことを知っている。 変な感じだ。 本当に、それ以外表現の仕様がなかった。 色んな緊張を抱えつつ、あっという間に来た今日という日。 実際に会ってみると、身構えていた自分が馬鹿に思えた。 彼女は、久々に会った友人を迎えるような表情で私を見た。 他に一人彼女の友人がいたこともあって気を遣ってくれてはいたけれど、自然な感じだった。 おかげで私は、「人見知りする」と何度も宣言しておいたくせに、案外そうでもなく、たくさん話せた。 あっという間の二時間。 霞ヶ浦の近くを少しだけ案内して、駅へ。 「また会えるといいですね」 何よりも嬉しい言葉だ、と思った。 笑顔が素敵な、かわいい人。 ほんと、また会えたらいいなと思う。 |
2003年09月05日(金) 道路 |
通学路の途中で、よく動物の死骸を見る。 前へとばかり進んでいくタイヤが、彼らの死を汚しそうになる。 本当は、地面へ還れない時点で、そして通過していってしまう時点で、既に汚しているのだろうけれど。 道は、どこかへ続いている。 だから私は、急いでいるとき以外に迷うことが好きだ。 そして、わざとというわけでもなく、実際よく迷う。 迷っても戻らないし、路肩に寄って地図を見ることも滅多にないから、隣に乗っている友人はよく不安がる。 誰も通らないような暗い道も、田んぼのあぜ道も。 いつもとは違う風景が見えるからおもしろい。 だけど、道が続いているとはどういうことなんだろう。 人間だけが住んでいるわけではないのに、人間のための道が縦横無尽に張り巡らされている。 轢かれてしまった動物を見て、「危ないなら出てきちゃ駄目だよ」と、独り言。 動物たちが使っていた道を横切っているのは、多分私たち。 自分勝手ならぬ人間勝手な理屈だ。 血が接着剤となって、ふわふわした毛が地面に残っていた。 思わずハンドルを切る。 車を降りて埋めてやろうとしない自分は、ひどい口だけ人間。 分かっていても、直視できない。 避けるので精一杯。 車を運転し始めてから、一体何匹の死骸を見ただろう。 小さい頃、栃木の祖父母の家にいついた猫がいた。 家、といっても、台所と縁台の下をウロウロするだけで。 食事の最中、足が下までつかない椅子に座って、足元を猫が歩くのを大騒ぎしながら見ていた。 ある年、その猫は子どもを生んだ。 小さくてふわふわで、次も遊ぼうねと言って自宅へ帰った。 でも、「次」は来なかった。 家の前の道路でトラックに轢かれて死んだのだと聞いた。 運転手はそのままどこかへ行ってしまったのだと。 それ以来、元々いついていた親猫もどこかへ行ってしまったらしい。 私は幸運にも、自分の運転する前を動物が横切ったことがない。 だから出会うのは、どれも誰かが轢いてしまった後の状態だ。 気づくのが遅くてどうしても避けきれないとき、タイヤが不思議な感触を訴える。 何回転すれば、それを忘れられるのだろう。 そんなの、分からない。 そして時折、避ける様子さえなく、上を通っていく車がいる。 人間は、仲間が死ぬと土に埋める。 動物は、自然のままに還っていた。 昔から両者は、死に対する形が違っていた。 それと同じことだと思えばいいのか。 ただ少なくとも分かるのは、大抵の道は既に自然への帰り道ではなくなってしまった。 コンクリートで固められた世界で、どこに標を見つけられるのだろう。 道は続いている。 知らない道を行くのは楽しい。 だけど、ふと思い出す。 完全に分断されてしまったもの。 誰が悪いでもなく、人間の生き方が変わってしまった。 その中で生きている自分。 誰に文句を言えるわけでもない。 高らかと単純にそういう言葉を放てるのは、理想論しか言えなくなったときだと、思っている。 |
2003年09月04日(木) 場所 |
私はそんなに頭のいい方ではないから。 だから、自分が立っているのではない場所のことまでは分からないんだ。 かつてそこにいたことがあったとしても。 記憶の許容量とは関係なしに、感情の探査機能が衰えてしまうのかもしれない。 大切な人以外、分かってあげられない。 後ろから手を伸ばされても、全速力で逃げてしまうのがオチだ。 大切な人ならば、分かろうという努力をしたくなる。 だけど誰でもにそんなことしていたら、私が前に進めなくなってしまう。 全ての人と歩調を合わせられるほど、できた人間じゃない。 そして自分に素直すぎるんだろうと思う。 嫌なことを嫌だと言ってしまう。 このことを責める人ではなく、このことでほっとしてくれる人の傍にいたい。 そう思うのは、私の我儘なんだろうか。 どれほど弱くても、ボロボロでも、尊敬できる部分がある人なら大切だと思うよ。 別に、完璧なんか求めちゃいない。 自分だって、欠点だらけなのだから。 街中ですれ違う人も含めれば、一体生涯で何人の人に会うのだろう。 その中に尊敬できる部分を持つ人は星の数ほどいるだろうけれど、出会ってお互いに必要とできる人など本当に僅か。 一人じゃ生きられない。 でも、全員とは生きられない。 ごく当然のようで、だけどなかなか分からないことのような気もする。 誰かの一番になりたい、って思っていた時期があった。 でも、私の中に一番なんていない。 大切かそうではないかの二分類。 関係性こそ違えども、大切な人は皆大切。 変な感じだ。 本当は今でも「一番」を求めている自分も捨てきれないんだから。 別の時期に出会ったなら、大切にできただろう人もたくさんいた。 だけど実際はそうならなかった。 難しい、って思った。 誰にとっても同じことなのかもしれないけれど。 弱い人を切り捨てる人が大嫌いだったけど、弱いばかりの人と共に歩きたくないと思うのは私も同じなんだと気づいた。 「認めたくない」って思わなくなったから書けた。 自分勝手なのかな。 そうだと責められたとしても、これが現時点における自分なんだ。 傷の舐め合いも、足の引っ張り合いも、馴れ合いも、嫌。 ただ、仮に弱くてもいい、一緒に上を目指せる人の傍にいたい。 かつて自分が悩んでいた場所にいる人が、私の足を掴んで離してくれないなら、たとえ気持ちが分かっても力になってあげられない。 やっぱり、難しい。 何だか唸ってばかりのような。 |
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