初日 最新 目次 MAIL


95050
seu
MAIL

My追加

2005年09月27日(火)
人生とは何か

この間、仕事帰りにファミレスで一人夕食を食いながら、食後にコーヒー頼みつつ本を読んだ。たまにこういう時間の使い方をする。

『人生をプロジェクトマネジメントしよう』というビジネス書だ。参考になる部分もありならない部分もあるが、そのなかの単元に「生と死の価値を知る」というものがあった。全体の中ではわずかな部分だが以下に見出しをあげる。

 ◎生と死の価値を知る
  ○生きる意味を見出す
   ・「愛する人を幸福にしたい」
   ・人の幸福を目指しながら、自らが成長しよう
  ○「死」から「生」を考える
   ・死は突然訪れるものである
   ・いつ別れても悔いを残さないように、人と接してみよう
   ・「自分の命は明日までかもしれない」と考えて行動してみよう
   ・死があるからこそ、生きていることに価値があると考えよう

僕は「生」というものへの興味が、なぜかつきまとって離れない。命とは何か。こんなことを科学や哲学の立場からいろいろとこねくりまわしていじっている。

物理の面からいえば、人体は元素から構成されていて、遺伝子は伝え残していくという性質を持っている。社会的に見れば、人は、親から生まれ、育てられ、人間社会の中で生活してゆく。
遺伝子の立場で言えば、子孫を残せばもう人生の目的は達した、生きた意味はあったといえるだろう。しかし、生まれてすぐに死んでしまった子どもには、どんな生きる意味があったのだろう。なぜ子どもは死んでしまったのだろう。私は考えた。ファミレスで考えた。

その結果、仮に出た答えが、「深い穴」。いのちの波というものが、何億年も続いている。うねりながら。物質の運動が影響を及ぼしあって複雑な流れをつくっている。沈む動きもあれば押し上げる動きもある。岩にあたれば砕けるし、穴に落ちれば吸い込まれる。こういった穴が、リアルに存在するのではないか。不条理でも、そこにあってしまったもの。

さて、こういう条件の場に放り出されたわれわれは、どうすればいいのか。僕が考え、思ったのは、やはり、「幸せになろう」、ということだった。不条理は身を潜めている。それでも、その居る場所から、幸せを望み、はなつこと。自分を光らせること。幸せなら、それに意味があろうがなかろうが、関係ない。何をもって幸せとするか。それがこれからの人の課題だ。人を幸福にすることが、自分を幸福にすることに繋がる。その思想がポピュラーになれば。(本書でも触れられていますが、一方が100%の満足を主張するのではなく、お互いの満足度の総和が最大限になる解を探る、というWin-Winの視点がヒントではなかろうか。)いつ死んでも悔いがないように、死と生に目覚めていたい。どんな遺伝子も究極的にいつかは無となるのやもしれぬ。それでも自分が受けとったコレ、この生を良いものにしたいと考える。それが自分の得だから。



2005年09月26日(月)

こんな夢を見た。
で始まる漱石の「夢十夜」は好き。特に最初の白い花の話はうつくしい。

だからというわけじゃないが、今朝見た夢が印象的だったので書きとめておく。

私は小学校高学年くらいの男の子で、祖父は死んでいる。(実際の祖父ももう亡くなっているが)。山の中の広めの池が水が干上がりかけている。その池は代々守ってきたもので、水がなくなるのは縁起が良くない。祖父の供養の為にも水を足さなくてはいけない。私は干上がりかけて現われた池の底のに下りて足跡をつけたりしてたしなめられる。私は水をくんでくるように言われ山に向かう。やっぱりおまえだけじゃ不安だから従兄弟と兄をつけてやると後ろのほうで父が言う声がするが、私は信用されず頼りにされてないことが気に障り悔しくてならない。追いついてくる前に走り出す。山の渓流に沿って上流に向かえば水を汲めるところがあると聞いていたが、夢の中の私は一目散に山道を走り、それは川の下流に向かっている(夢の中の私も、夢を見ている私もそのときは気付かない)。走りに走っていると、妙な街に出る。黄土色のフィルターレンズをかけたように空気が染まって見える。標識を読むと、地区の名は西の音と書いて「にしね」という。古い蔵の前に男の子と女の子が唐突にいて私は驚く。男と子と女の子は何か話していなくなってしまった。私は少し歩いて、川を見おろす(もう川は河口近くでゆるやかで広い流れになっている。川べりは古いレンガばりになっていて、幅は20メートルくらい、水面から壁の上までは4・5メートルくらいある)。私は下流に向かって走ってきたのだと気付き、(なぜか)川を泳いで上流へと戻ろうとする。川の壁面には風変わりな彩色がされていたり、不気味な絵が描かれている。その街の建物もそんな感じだった。川の中には藻がただよっているらしく私は腰のあたりにそれが絡みつくのを嫌いながらも上をめざす。途中で女物の等身大の人形が流れに引っかかっている。私はその手をとってなぜか子細に見た。人形の手だった。次第に川は山の中に入り、沢の音がして水も透明になり、流れも早くなりだした。私はそこで川からあがったのだろう、意識が薄くなるところに従兄弟や兄が「こっちに来てたのか」と探しに向かってくるのを感じる。私は気がつくと実家の二階の部屋に寝ている。父も心配して横にいる。祖父もいる。夢の中の私は不思議に思わない。−このあたりで夢を見ている私は、これは夢だな、なんて思って目が覚めかけている。祖父はいつの間にか消えたりしていて、あれ、祖父って死んだ設定じゃなかったっけ、なんて思ってもう夢のストーリーには戻れなかった。−それにしても、あの西音という街は不思議だった。