窓のそと(Diary by 久野那美)
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存在する、というのは動詞だ
これまでどこにもなかったものが生れ、あらわれる、瞬間て、ぞくぞくする。今ここにあるものはすべて、かつてその瞬間を経験してきたはずなのだ。
存在する、ということが素敵なのは、あのぞくぞくする瞬間を歴史の内に包えているから。存在するものが魅力的なのは、あの瞬間を内に抱えている間だけなのだ。
存在しているように見えるけど、でも実は人知れず消えてしまっているものがたくさんあるのではないか?そこはには新しくなにかが「存在し」ようとしても、前のやつがいつまでのたちふさいでいて、何も新しく現れることができない。
そういう場所を見るのは悲しい。息苦しい。
「おしまいにすること」について、私はいつも考えてしまうのだけど、 きっちり「おしまいにした」ものの跡には空き地ができる。 そこにはまた新しく別のものが現れることができる。
私が「おしまい」にこだわるのは、「新しく存在しようとする」瞬間が好きだからなのかなと最近思う。それが何であれ、何かが「新しく現われてくる」ときには、そのときにしか起こらないけれどその時には必ず起こるはずの何かがあって、それを見てみたくて見てみたくてしかたがないからなのじゃないかなと。
そう考えたら、自分がちょっとポジティブな人間に思えてきた。
2009年12月04日(金) |
「演劇は戦争に反対します」 |
こんな台詞をしばしば見かける時期があった。 今でも、見ようと思えば見えるのかもしれない。 私が見ようとしなくなっただけで。 初めて目にしたときの気持ちを忘れることができない。
数年前に書いた日記。 当時反戦演劇を企画していた友人に送ったメールの一部でもある。
当時うまく言葉にできなかったし、今でもやっぱりうまくいかない。 言葉にすると軽蔑されるようなことを、私はたぶん言っている。 人として、容認できないようなことを言っているのかもしれない。 こんなことを言っていると友達をなくす。 実際、なくした。痛かった。とても。
時間がたてば考えも変わるかと思ったけれど、変わる気配もないので、 改めて日記に掲載してみようかと、思った。
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イスラムはアメリカ的正義に反対し、 アメリカはテロに反対し、 そして、 演劇は戦争に反対する。
演劇は、何かに賛成したり反対したりしないものだと思っていた。 資格や条件を問わず、暗黙の前提なんかもなく、誰にでも開かれてるものと思っていた。
反論するためには、相手の言葉を学ぶのがマナーだと思う。 議論というのは、お互いが共通の言葉で語ることだから。
反戦というのはアンチである以上、議論だ。 だから、自分の言葉(演劇・音楽)を信じ、誇りを持ち、それを使って、その言葉を持たない相手と議論するべきだという考え方がとても恐い。 「私は日本人であることに誇りを持ち、美しい日本語であなたと議論したい」と、アメリカ人に議論をふっかけるのがおかしいように。 アメリカが、アメリカの文化と思想に誇りを持ち、アメリカの価値観 を信じてアラブを裁いたのと同じように。
イスラムはアメリカ的正義に反対し、 アメリカはテロに反対し、 そして、 演劇は戦争に反対する。
きっとみんな正義なのだ。 自分たちにしかわからない言葉で語られる正義とは何だろう?
私は戦争も反戦も怖い。 軍歌も反戦歌も怖い。 「世界はフセインに反対する」というブッシュさんのスローガンも、 「演劇は戦争に反対する」という演劇人の会のスローガンも怖い。 どこがちがうのかわからない。 なぜ、「わたしは」と言わないんだろう。
* 混乱していてはいけないの? これまでの言葉で説明できなかったことを表現する方法を混乱しながら探していくのでは間に合わないの?ひとつのスローガンのもとに敏速に結論をまとめてひとを集めるための手段として、それは必要なの?
私にはこんなことしか考えられない。 「現実に起きていることをちゃんと見ずに抽象論だけで考えるな。そんな風に作品を書くな。」と言われた。だけど私が命がけで立っている場所、見ているものは誰に断る必要もない、私の現実だ。私の命は私の現実を生きるためにある。
戦争について、何かを感じるひとはたくさん居ると思う。 反戦について、何かを感じる人もたくさんいると思う。 アメリカについて、政治について、文化について、いろんなことを感じる人がいると思う。 それぞれが、自分の実感にもとづいて活動すればいいと思う。
あんなたくさんの表現者がいっせいにおんなじ方向に刺激されるのは、それが「正しい」からなのか?
震災のときも聞いた。「現実」ということば。 「表現者として、現実に、行ってこの目でみなくてはいけないと思った。」 現実という言葉の意味がわからない。 実感するって、自分とその出来事との距離について正確に、目を凝らすことではないの? 現地に赴くこと=実感すること?
「表現者として、この戦争には反対しなくては。」
そうなのか?
反戦演劇ってなんだ? 真摯に自分の実感に基づいて作品を作った結果がたまたま世論の支持を得られることだってあるだろう。でも、本来作家がひとりで背負うべき責任を 誰からも指摘されずにすまされる異常な状況を警戒しても警戒しすぎることはない。
私は、自分が作品を見て感じるべきことを社会や作り手に決められるのは嫌だ。そういうことのために演劇を見に行くのは嫌だ。
*
作品はひとを動かすことがある、と思っている。 だから、表現者はあきらめず、無力感を感じず、信念を持って作品を作り続けなくてはならない、という考え方にはおおいに共感する。
ひとつの表現が戦争を止めることはあり得ると思う。
悲しいことなのかすばらしいことなのかわからないけど、ひとつの作品が止めることができるのは、未来の戦争ではないかと思っている。極論すれば、すべての芸術家が「目の前の」できごとに対してのみ動くのであれば、その最も期待されるべき効用から遠ざかっていってしまうのではないかと・・・。
ひとつの作品は「期せずして」遠くの大きなものに働きかけることができる。目的を持ったものは、その目的に対しては有効だけれど、つまり即戦力があるけれど、芸術に期待されるものって即戦力だろうか? 目的を持たずに生まれてきたものだけが働きかけることのできるものがあるような気がしている。
世の中をふたつの価値観にわけて、「どっちが正しい?」という考え方が好きじゃないので、私が選べない方法を選択し、活動している人を批判する気持は全くないし、実際、その選択をしたひとの中には私が心から尊敬しているひともいれば、素晴らしいと思える作品を作っているひとが大勢いる。 できることならばそういうひとと同じところに立ちたいと思う。 だけど、自分自身の感情と責任感と意識に出来る限り正確に目を凝らしてみて、でてくる答は「反戦のために今すぐ立ち上がり、同じ表現手段を持つ仲間と連体し、なにかを表現することでそれをくいとめなくては」ということのど真ん中にはないような気がする。
いろんなことを考える。 世界中でデモ活動を行っているあんなにたくさんのひとたちの活動が何にも影響を与えないことなんてあり得るだろうか?あれはものすごいことなんじゃなかろうか? 人間は、まだまだ生き物として正しいし、 やるときはちゃんとやるんだ、すてたもんじゃないんだ。
しばらく、いろんなことを考えていようと思う。 うこれは非難されるべき態度かもしれない。ならば非難されようと思う。
非生産的な態度はたくさんのものを損なうだろう。 自分の存在の意味がわからなくなるだろう。
だけど、ものをつくるということは、目の前にあるものの向こうに何があるのか、ひとつでもたくさんたくさん見つけだして考えて、考えて、考えて・・・っすることだったんじゃないだろうかとも思うので。
私のいちばん古いオリンピックの記憶は、「モスクワ五輪」です。
でも、これは、いくつかの点で不正確な表現です。 ひとつには、当時まだ私には「オリンピック」という概念がいまいちよくわかっていなかったので、厳密に言うとそれがオリンピックの記憶であると分類できるようになったのはそれから何年もたってからだということです。(リアルタイムでわくわくしたわけではない) そしてもうひとつは、この大会を私はテレビで実際に見ることができなかったということです。
ですから、開会式からほとんどテレビにかじりついてみていた「サンフランシスコ五輪」が、実際はオリンピック(テレビ)(観戦)デビューなのですが、それでも、「モスクワ五輪」が子供のころの私に残した印象はそれを上回るものです。将来年をとって、痴呆が進んで、いろいろな記憶がなくなっていったとしても、オリンピックに関しては、最後まで残っているのは「モスクワ五輪」の記憶だと思います。
見ることのできなかった大会のいったいなにを覚えているのかというと、 くまです。ちいさいくま。
ミーシャと名乗るちいさいくまがある日突然(と私には思えた)テレビに再三登場するようになりました。彼女はアニメの主人公になるでもなく、チョコレートや洗剤を宣伝するでもなく、そういうことをしているほかのちいさいくまたちとはなんだか「別格」な感じで、そこにいました。彼女が画面に登場すると、少し緊張して、どきどきしました。
ある日ふと気づくと、そのちいさいくまはいなくなっていました。 そして、そのことの理由を説明してくれるひとは誰もいませんでした。 実際のところ、ちいさいくまはバックにおおきな使命を抱えており、ほんとうの問題はその使命のほうなのであり、そちらが消えてしまったことはおそらく多くのメディアや人々の噂の中で説明がなされたのだと思います。私自身、両親が話しているのを聞いたりして知っていたのかもしれません。
でも、それは当時の私にはあまり縁のない、すごく遠い世界の話でした。毎日見ているちいさいくまの話ではありませんでした。
くまの素性を知らなかった私は、ある日忽然と姿を消したくまのことを誰も何も語らないことが不思議でした。そのうちだれかが説明してくれるのだろう、と思っているうちに、何年もの時間がたち、そのうちそのくまがほんとうにいたのかどうかさえ、よくわからなくなってしまいました。
誰に何を聞けば何がわかるのか、わかりませんでした。 ただ、私はそのときはじめて、 「世の中にはある日突然、ふつうにいなくなってしまうものがあるのだ」ということを知りました。「ちいさいくまは、そのくまを見ている人が考えたこともないような「くま以外の」事情である日突然ふつうにいなくなったりするのです。
なにかがある日ふと消えてしまうとき。 そのこと自体はたいして話題になることもないまま、普通になにかが消えてしまった時、私はいつもこのちいさなくまのことを思い出します。
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