窓のそと(Diary by 久野那美)
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相手は誰でもいい。 場所も、どこでもいい。 必然的な理由は何もない。 決められた日の決められた時間に決められた場所へ行って、 決められた相手と闘う。 どっちかが勝って、どっちかが負ける。
そこでは「勝つ」ことだけが目的。
勝つために命を懸ける。 いろんなものを懸ける。 「勝つこと」の前には、あらゆることが後回しになる。 「それ」に纏わる全てのことは、勝つことに向かわなくては いけない。 容赦なく勝者と敗者が決められ、全ての賞賛と名誉は勝者に与えられる。
・・・・ということにしておく。
だから、勝たなくてはいけない
あらゆる人脈や、組織や、政治的志向や、憎悪や愛情や・・・、 そういうのと無関係な場所に<何の理由もなく>作られた架空の「敵と味方」の物語。 全ての「関わり」から切り離されて、 「勝負」だけがある。 「勝負」の外には何もない。
そこには濃厚なドラマがある。 歴史が国と国とを挟んで数世紀に渡って繰り広げる壮大なドラマが、 2時間とか、下手すれば20秒とかに圧縮されて展開される。
そして。どんなに濃厚であっても、どんなに壮絶であっても、 その外には何もない。 全ては「勝負」の内側にだけ存在する。
終了はあらかじめ勝負の中に規定されていて、それが終われば全ては消え失せる。敵も味方も、名誉も、賞賛も。責任も。重圧も。 「勝負」の中だけにある。 だから、その中では、どんなひとも、どこまでも、誰にも気遣うことなく、それを堪能していいのだ。それだけを全てだと思って没入していいのだ。
そして。それしかできないのだ。 終了と同時にあらゆる権利は失われる。 敵や、味方や、名誉や、賞賛や、責任や、重圧と一緒に。 「勝負」の外では誰も何も為す事はできない。 やり直しも言い訳もつじつま合わせもできない。 なかったことにもできない。
・・・・ということにしておく。
そんな手続きを、作ってみたのだと思う。 むかしのひとが。 昔。 世界がいろんな種類の敵と味方にわかれて、とりとめのない、終わりのない戦いを始めるよりずっとずっとずっと以前に。 闘うことの美しさだけを、小さな手続きの中に封印して。
すごい発明だと思う。 素敵な発明だと思う。
だから、そういうことにしておいてほしい。 たとえ、実は外側の世界が、それを利用しようとして鵜の目鷹の目でねらってるのだとしても。たとえ、全ての関わりから切り離された「勝負」なんか、現実にはあり得ないのだとしても。 せめて、その世界を愛してる人の間でくらいは、「そういうことにしておくこと」にしておいてほしい。
「勝負のあと」で、敗者の「側の味方の代表」が、「味方の人たちの集団に」土下座して謝罪したり・・・ たとえばそういうことってやめてほしい。 その素敵な「勝負」の意味を根底から根こそぎ否定する行為じゃないのかと思う。勝負の外側で、政治的に立場を異にする対戦相手の国の国旗を燃やすことと、どれほどの違いがあるだろうか。
きちんと整えられた小さな場所で素敵に輝いているものを、とりとめのない世界にどうして無責任に放とうとするのか?
2004年08月20日(金) |
こまだいとまこまい。 |
13時ちょうどにはじまった夏の高校野球準々決勝をテレビで見ていた。 駒大苫小牧 対 横浜。 北海道と神奈川。 マイナー校と人気プロ選手を排出している名門校。
名門校の試合では、マスコミの情報はどうしても名門校の方に偏るので、ついつい「話題の<あの>チームが勝つか?負けるか?」 という報道になりがちだ。 今回も、横浜が、若手のホープ松坂選手の出身校であることもあって、それを効果的に利用して感動を盛り上げようとする意図がみえていたような気がする。いつものことなので、あまり気にしないで見ていたのだけれど・・。
今回も、例に漏れず、定番の台詞が吐かれた。 「横浜高校にはすばらしい先輩がいます。彼らは今、オリンピックで世界を相手に戦っています!」
それはそうなんだけど、それはたしかにそうなんだけど・・・う〜ん、これが名門校って奴、伝統ってやつですな・・・と思って見ていたら、 ちゃんと次の台詞があったのだった。
「駒大苫小牧にも、すばらしい先輩たちがいました。先輩たちの流した涙の上に、今、彼らがいます。」
よくききとれなかったのえにうろおぼえだけれど、そんな感じの台詞。 ちょっといいなと思った。
マイナーチームにはマイナーチームの歴史があり、そこからしか得られなかった現在があるのだ。たとえ伝統の前にあっけなく崩れて去ろうとも・・。 そのアナウンサー、場が持たなくなると、「勝負は下駄を履くまでわかりまえんっ!」ばっかりくりかえしてて、他に言うことないのんか? と思っていたのだけれど、その台詞でちゃらにしてあげようと思ってしまった。
しかし。 予想に反して、こまだいとまこまい、 この、呪文のような名のチームは強かった。
ときに豪快な、そして全てにおいて隙のない落ち着いたプレーで、 最初から最後まで主導権を手放さなかった。
こまだいとまこまい。 こまだいとまこまい。
横浜も名門の意地を見せ、両チーム大奮闘のとても感じのいい試合だったけれど、結局差は最後まで縮まらず、こまだいとまこまいの勝利に終わった。 それは北海道の高校にとって、実に76年ぶりの準決勝の快挙だった。
ドラマチックかつ記録的なすごい試合を見てしまった・・・。 縁もゆかりもなかったはずのチームなのだけど、 たぷたぷと満ちてくる充実感を感じた。 勝手に感じていた。
***** 試合の後、すぐ、家を出て大阪へ向かった。 実は「この試合の後で大阪で」という待ち合わせをしていたのだ。 24時制は非力なので、時計の代わりにテレビで試合を見ていたのだった。 待ち合わせの相手は今日、件の試合を見るために甲子園へやってきた北海道出身の知人。
大阪駅で落ち合って、そのままたこやきとお好み焼きを食べに天神橋へ。
「彼女、大阪はじめてなの。」「ほっかいどうから来たの。」「甲子園に応援に来たの。」という台詞は魔術的な効果があり、たこやきは増量され、ビールには枝豆が添えられ、メニューにない「トマトスペシャル」なる料理を作ってもらった。
今日彼女とお好み焼きを食べに行ったことで、 私の充実感はさらに倍増された。 なんだかわからなけれど、ものすごい得をしたような気持ちがしている。 何の充実感が倍増したのかは難しいところだ。
彼女と会って過ごしたことなのか? それとも 遠い、見知らぬチームの勝利をたまたまテレビで見届けたことなのか? 書いてみたらわかるかな、と思ってのだけれど、やっぱりよくわからない。
こまだいとまこまい。
なんにせよ。 この呪文はこの先しばらく頭から離れないような気がしている。
2004年08月15日(日) |
遠くのひとと出会う場所 |
1年くらい前。友人がウェブサイトを閉鎖した。 そのひと自身のいろんな個人的な理由があったのだと思うし、 それについての説明は公開されていたし、私はそれに共感したけれど なんとなく、ちょっと、けっこう、ものすごく、ショックだった。
もとはといえば、インターネットを通じて知り合った。 その後、人や組織を通じて間接的に出会う不思議なご縁があって、 さらに直接会って話す機会を得て、そして4年がすぎた。
4年の間に、私はそのひとやそのひとのサイトの掲示板を通じていろんなひとと出会ったり話をしたりした。いろんなことを考えた。 私にとって、それはとても生産的な経験だった。
私のそのひとに対する印象は、最初にサイトを見たときから驚くほど変わっていない。関わり方がデジタルなものからだんだんとアナログなものに変わっていく過程で、確信を深めることはあっても違和感を感じることはなかった。
出会い系サイトでのトラブルがめずらしくないこのご時世で、あまりに不用心だと思った。だけど、公式に発表している文章とファイルの作り方や構成から伺えるひととなりに興味を持って接触することが非生産的なことであるならば、一度舞台を見ただけの役者と共同作業をすることだって非生産的なことになるじゃないかと思った。 後者がそうであっては困るので、前者も肯定することにしたのだ。
その後メールやネットを通しての関係も継続していったけれど、喧嘩になることはあっても違和感を感じることはなかった。 メールがひとを感情的にするとは私はあまり思わない。メールでする喧嘩はライブでもする。メールだから、ネットだから、という風に感じることは、世論がどうであれ、違和感を感じる。
デジタルな情報だけを手掛かりに相手を肯定しようとして失敗する例はいたるところにある。でも、だからといってネットやメールの情報が人間関係を不正確に形成してしまうという風には、私は考えることができない。ひとが発信した情報には必ずそのひとの「何か」を合理的に説明する手掛かりが含まれているはずだ。実際会ってみたときでも、一緒にお酒を飲んだときでも、一緒に暮らしてみたときでも、おんなじこと。どんな接し方をしても、そこからわかることは何かしら、ある。ほんのちょっぴりだけど。そしてとてもたくさんのことだけど。そして、どんな接し方をしたとしても、わかること意外は何もわからない。わかりすぎる(と思う)ことはあんまり生産的なことではないと思う。不十分な愛情と手掛かりを元に相手を「全面肯定する」なんて、たいていはとても不幸なことだ。それはコミュニケーションではなく、自己満足だから。
肯定できるものを肯定すればいいと思うのだ。肯定できないものまで肯定しようとするから裏切られたり失ったりする。その結果、「何も信じられない」というのは甚だしく論理性に欠ける結論だと思う。 情報がデジタルであっても、たとえわずかなものでしかなかったとしても、 それを元に相手を肯定することはできる。それらは、コミュニケーションの可能性を閉ざすものではないと思う。
そのひとがサイトを閉鎖する理由のひとつは、 「ネットでの交流に自分の生活の大半がとられてしまう。」 ということだった。 「大切に関わりたいひととは直接会って話そうと思う。」 と、そのひとは言った。
さっき書いたことと矛盾するように聞こえるかもしれないけど、私はそれをとてもいいことだと思った。 その掲示板は、いろんなひとが初顔合わせをすることのできる、開かれた掲示板だったのだけれど、主催者が、サイトの訪問者との距離を、「そのサイトの訪問者である」というだけの理由から一気に縮めてしまうことに、私はあまりいい印象をもっていなかったから。現実に交わされたもの以上の情報や近しさが複数の人間の間で共有されることは生産的なことだと思えないし、幸せな結果を生まない気がする。それは自己満足に終わる。ような気がする。自己満足のために適切な距離が測れなくなることが人間関係にとってプラスになるとは思えない。 だから、不特定多数の人間が集まる場がいったんそうなってしまったら、 そこは一度解消したほうがいいと思う。遠くにいるひとと、その距離を大切に保ちながら関わっていくための手段として、インターネットやメールはとても高性能だと思っている。だけど、その加減がひとたびうまく働かなくなってしまったら、そこは一転して著しく閉鎖的な場へと変化してしまうから。
・・・・・・・何書いてるかわからなくなってきた。 やっぱり日記は毎日かかないとだめですね・・・・・・・・・
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件のサイトが閉鎖される日のその時間。 私は特にメッセージを書き込むわけでもないくせに、 その場所を見ていた。 最後の瞬間に、何かが起こるかもしれない。 主催者はそう思って同じようにそこを見ていたかもしれない。
でも、そういうことは起こらないかもしれない。 きっと起こらないだろう。だけど。 別の何かが起こるかもしれない。 それは、予想もしなかったつまらないことかもしれない。 あるいは「ほんとうに何も起こらない」という究極の地味なできごとかもしれない。 どっちでもいいのだ。 不満や不安を解消するような奇跡が最後まで起こらないことで、 その場所がどういう場所であったのかがはっきりする。
思いがけないことが起こったり起こらなかったりする。 思ってたことが起こらなかったり起こったりする それが、「遠くのひとと出会う場」で行われるはずのことなのだ。 そして私はそういう場所が大好きなのだ。
私は、そのサイトが、その掲示板が、その場所が大好きだった。 なくなってしまうのは、だから少し悲しかった。 そしてかなり寂しかった。 だけど、もっと悲しいことを避けるために下された英断に こっそりエールを送りたいと思った。 だから、今さらだけど、こんな風にだけど、書いてみた。
いつかまた。 思いがけない形でそこは再開するかもしれない。 あるいは、そう思わせておいて永遠に消えたままかもしれない。 思いがけないことなので、予測することができない。
そういう場所で、これからも私は誰かに出会いたいと思う。 それはとても素敵なことだと思っている。
そういう場所で、出会えた人がいて、とても幸せだと思っている。
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